2015年 10月 13日
★ネタバレ注意★

アンドリュー・ニコル監督のアメリカ映画です。
主演はイーサン・ホーク。
戦場はアフガニスタン。神なき土地で闘う米空軍兵士の任地はしかしラスベガス。かつてF-16戦闘機のパイロットとして戦ったトミー・イーガン少佐(イーサン・ホーク)は、ラスベガスの空軍基地内にあるエアコンの効いたオペレーション・ルームで、ドローンを遠隔操作して、3000メートルの上空からヘルファイアミサイルを撃ち込み、ピンポイントでテロリストを爆殺するのが仕事。
どんな激烈な掃討作戦であれ、任務が終われば家族の下に帰り、ビールを飲み、バーベキューを楽しみ、子らと遊び、妻を抱ける生活。命の危険があるのは任務中ではなく、基地に「通勤」する途上の渋滞したハイウェイでの事故。巷では、エアフォースならぬチェアフォースと揶揄され、立ち寄ったコンビニではパイロットスーツがジョークのネタにされる。
楽な任務のはずなのに、トミーは日々、精神を浸食されていくのだった。
という物語は、ゲーム感覚で小気味よく敵を撃ち殺す痛快アクションなどでは全くなく、『ディア・ハンター』から連綿と続く、戦争で傷つき、心を病んでいく兵士と、その兵士の家族の物語です。
キャストは、トミーの直接の上官であるジャック・ジョーンズ中佐にブルース・グリーンウッド、トミーのチームメイトとして、ジマー(ジェイク・アベル)、クリスティー(ダイラン・ケニン)、ソーレス(ゾーイ・クラヴィッツ)、トミーの妻モリーにジャニュアリー・ジョーンズという布陣。
この映画のキモは、なぜひとは直接体験ではない戦場体験であっても斯くも傷ついてしまうのか、ということかもしれない。
瞬時の油断が命取りになる凍てつくロシアの平原や、むっとする湿気に覆われた見通しのきかないヴェトナムのジャングルや、わずかな隙をついて侵入してくる砂粒に悩まされ続ける灼熱のアフガニスタンに身をおいて、そこで兵士が壊れていくのはわかる。トラウマは恐怖に起因する。いつ殺されるかも知れない恐怖、誰から殺されるかも知れない恐怖、どんな形で死が襲ってくるかわからない恐怖、24時間そんな恐怖に曝されて心が休まる暇もないとすれば、壊れない方がおかしい。
そうした戦場で、非戦闘員への虐殺が起きるのは、恐怖に追い詰められた結果の過剰防衛であるように思える。殺される恐怖が先、だから殺す。
一方、昨今の戦争は、極力兵員の損耗を軽減させようとする傾向にある。遠隔操作爆撃、ロボットテクノロジー、そしてドローン。あたかもテレビゲームをプレイするように、兵士は戦場に行かず、安全で快適な空間でモニタ画面を見ながら敵を殺傷する。そこには自らが殺される恐怖は存在しないし、殺した敵についても、悲鳴は届かず血や焼け焦げた肉の臭いがするわけでもない。殺傷はデータとなる。
GOOD KILL。それがこの映画の原題でもある。
尚且つ、一日の「戦闘」を終えた戦闘員は、毎日決まった時間に家族のもとに帰ることができる。まさに職住接近。勤務時の緊張は、家庭のぬくもりでリセットされる。表面的に見れば、トラウマが生じる要因などあり得なく思える。理念として抽象化された営みは、実際にキャッシュに触れもせずデータをやり取りする金融市場の仕事と大差ない、はず。
だがしかし、モニタ画面を見ながら戦闘行為を行う戦闘員は、確実に傷ついてしまう。消耗してしまう。壊れていく。チェアフォースの戦闘もまた過酷なのだ。それは良心との闘いになる。信念との闘いになる。地上からは存在すら認識できない高みから、あたかも神の手を振るうがごとく、生かされるのは誰かを選び、生かされざるは殺す。殺すその基準も、実際に戦場に身を置く兵士が肌で感じ、納得できる類のものでは全くない。
やつらはテロリストだ。テロリストを殺さなければ、アメリカの同朋が殺されるのだ。911を忘れるな。そう言われれば反論することなどできるわけもないけれど、しかしそれは理念に過ぎない。
そして更に、そこは何とか乗り越えたとしても、かれらの仕事には、どうしてもコラテラルダメージが付きまとう。こんなやり方では、民間人を巻き添えにしないなんて不可能に近い。ならば、よし、それはしょうがない。大義の前の小さな犠牲だ。それでもだけど、年端もいかない子どもたちが爆撃に巻き込まれて命を落とす。それをしも小さな犠牲と見過ごすことが許されるのか。子どもだから殺せない? そんなものは欺瞞だ。今年保護したその子どもは、翌年には銃を持ってテロリストとして立つ。今殺すか、来年殺すか、些細な違いだ。テロリストは殺せ。テロリストの殺し、それはGOOD KILLだ。
何を信じたらいい? 正義はどこにある?
『アメリカン・スナイパー』でも語られたテーマだけれど、この映画ではもっとそれが先鋭化されている印象がある。
まあ、この映画は、まったくもってイーサン・ホークだよね。ホークしか考えられないよね。もうほんとに、この種の苦悩を描くに、ホークほどぴったりの役者さんはいないと思うんだ。
一方、ホークの部下ソーレスを演じたゾーイ・クラヴィッツの描かれ方には、かなり物足りなさを感じました。彼女のパートだけ妙にステレオタイプな描写に終始した印象。ソーレスは自ら志願してドローンパイロットの仕事についたはずなのに、その仕事に対する覚悟や理解がまるでないのね。まるで正義厨の高校生のごとき反応。ストレートすぎるショックの受け方、嫌悪の表し方、体制への批判、そして「女」を前面に押し出した軍人とは思えない上官への馴れ馴れしさ。これじゃ、お嬢ちゃんとバカにされてもしかたない。
とは言えしかし、小柄だけど綺麗な女優さんですよね。特にアフターファイヴの飲みに出かけるためにドレスアップするシーンはほんとに綺麗でしたね。それなのに、同僚たちは、トミーもジマーもクリスティーもまるで無反応とはどういうこったい。ドレスアップしたショウを見て息をのむリースとフィンチぐらいのリアクションはしてほしかったところ。思えばあのふたりもウブね。
というわけでゾーイ・クラヴィッツは綺麗だったんですが、わたくしご贔屓のジャニュアリー・ジョーンズがなんかイマイチだったのが大変残念な印象。ジョーンズ演じるモリーはトミーの奥さんで、もとダンサー。日々欝々と荒み、物理的な距離はないのに心理的には家庭を顧みなくなってしまうトミーに苛立ちを募らせていくハウスワイフ。今まで観たどの役でもバービー人形みたいに綺麗なひとだと思ってたのに、やぼったい太眉のせいで別人に見えた。うーむ、化粧って大事だなぁ。
あと、イーサン・ホークの上官を演じたブルース・グリーンウッドが相変わらずとてもステキでした。自分の仕事が茶番に思えてしかたのないトミーが、(実際に戦闘機を操縦するわけでもないのに)どうして我々はパイロットスーツを着るんですか? と尋ねるシーンがあるんだけど、それはきみ自明の理だよ、観客がグリーンウッドのパイロットスーツ姿を観たいからに決まってるじゃん。
そう言えばこの方は、アレック・ボールドウィンとほぼ同年齢ですけど(グリーンウッドの方が二歳年上)、細身な体型を保っておいででいらっさる。ボールドウィンなら、着れるパイロットスーツがないと思うんだ。余計なお世話だけどね。
・ドローン・オブ・ウォー@ぴあ映画生活

アンドリュー・ニコル監督のアメリカ映画です。
主演はイーサン・ホーク。
戦場はアフガニスタン。神なき土地で闘う米空軍兵士の任地はしかしラスベガス。かつてF-16戦闘機のパイロットとして戦ったトミー・イーガン少佐(イーサン・ホーク)は、ラスベガスの空軍基地内にあるエアコンの効いたオペレーション・ルームで、ドローンを遠隔操作して、3000メートルの上空からヘルファイアミサイルを撃ち込み、ピンポイントでテロリストを爆殺するのが仕事。
どんな激烈な掃討作戦であれ、任務が終われば家族の下に帰り、ビールを飲み、バーベキューを楽しみ、子らと遊び、妻を抱ける生活。命の危険があるのは任務中ではなく、基地に「通勤」する途上の渋滞したハイウェイでの事故。巷では、エアフォースならぬチェアフォースと揶揄され、立ち寄ったコンビニではパイロットスーツがジョークのネタにされる。
楽な任務のはずなのに、トミーは日々、精神を浸食されていくのだった。
という物語は、ゲーム感覚で小気味よく敵を撃ち殺す痛快アクションなどでは全くなく、『ディア・ハンター』から連綿と続く、戦争で傷つき、心を病んでいく兵士と、その兵士の家族の物語です。
キャストは、トミーの直接の上官であるジャック・ジョーンズ中佐にブルース・グリーンウッド、トミーのチームメイトとして、ジマー(ジェイク・アベル)、クリスティー(ダイラン・ケニン)、ソーレス(ゾーイ・クラヴィッツ)、トミーの妻モリーにジャニュアリー・ジョーンズという布陣。
この映画のキモは、なぜひとは直接体験ではない戦場体験であっても斯くも傷ついてしまうのか、ということかもしれない。
瞬時の油断が命取りになる凍てつくロシアの平原や、むっとする湿気に覆われた見通しのきかないヴェトナムのジャングルや、わずかな隙をついて侵入してくる砂粒に悩まされ続ける灼熱のアフガニスタンに身をおいて、そこで兵士が壊れていくのはわかる。トラウマは恐怖に起因する。いつ殺されるかも知れない恐怖、誰から殺されるかも知れない恐怖、どんな形で死が襲ってくるかわからない恐怖、24時間そんな恐怖に曝されて心が休まる暇もないとすれば、壊れない方がおかしい。
そうした戦場で、非戦闘員への虐殺が起きるのは、恐怖に追い詰められた結果の過剰防衛であるように思える。殺される恐怖が先、だから殺す。
一方、昨今の戦争は、極力兵員の損耗を軽減させようとする傾向にある。遠隔操作爆撃、ロボットテクノロジー、そしてドローン。あたかもテレビゲームをプレイするように、兵士は戦場に行かず、安全で快適な空間でモニタ画面を見ながら敵を殺傷する。そこには自らが殺される恐怖は存在しないし、殺した敵についても、悲鳴は届かず血や焼け焦げた肉の臭いがするわけでもない。殺傷はデータとなる。
GOOD KILL。それがこの映画の原題でもある。
尚且つ、一日の「戦闘」を終えた戦闘員は、毎日決まった時間に家族のもとに帰ることができる。まさに職住接近。勤務時の緊張は、家庭のぬくもりでリセットされる。表面的に見れば、トラウマが生じる要因などあり得なく思える。理念として抽象化された営みは、実際にキャッシュに触れもせずデータをやり取りする金融市場の仕事と大差ない、はず。
だがしかし、モニタ画面を見ながら戦闘行為を行う戦闘員は、確実に傷ついてしまう。消耗してしまう。壊れていく。チェアフォースの戦闘もまた過酷なのだ。それは良心との闘いになる。信念との闘いになる。地上からは存在すら認識できない高みから、あたかも神の手を振るうがごとく、生かされるのは誰かを選び、生かされざるは殺す。殺すその基準も、実際に戦場に身を置く兵士が肌で感じ、納得できる類のものでは全くない。
やつらはテロリストだ。テロリストを殺さなければ、アメリカの同朋が殺されるのだ。911を忘れるな。そう言われれば反論することなどできるわけもないけれど、しかしそれは理念に過ぎない。
そして更に、そこは何とか乗り越えたとしても、かれらの仕事には、どうしてもコラテラルダメージが付きまとう。こんなやり方では、民間人を巻き添えにしないなんて不可能に近い。ならば、よし、それはしょうがない。大義の前の小さな犠牲だ。それでもだけど、年端もいかない子どもたちが爆撃に巻き込まれて命を落とす。それをしも小さな犠牲と見過ごすことが許されるのか。子どもだから殺せない? そんなものは欺瞞だ。今年保護したその子どもは、翌年には銃を持ってテロリストとして立つ。今殺すか、来年殺すか、些細な違いだ。テロリストは殺せ。テロリストの殺し、それはGOOD KILLだ。
何を信じたらいい? 正義はどこにある?
『アメリカン・スナイパー』でも語られたテーマだけれど、この映画ではもっとそれが先鋭化されている印象がある。
まあ、この映画は、まったくもってイーサン・ホークだよね。ホークしか考えられないよね。もうほんとに、この種の苦悩を描くに、ホークほどぴったりの役者さんはいないと思うんだ。
一方、ホークの部下ソーレスを演じたゾーイ・クラヴィッツの描かれ方には、かなり物足りなさを感じました。彼女のパートだけ妙にステレオタイプな描写に終始した印象。ソーレスは自ら志願してドローンパイロットの仕事についたはずなのに、その仕事に対する覚悟や理解がまるでないのね。まるで正義厨の高校生のごとき反応。ストレートすぎるショックの受け方、嫌悪の表し方、体制への批判、そして「女」を前面に押し出した軍人とは思えない上官への馴れ馴れしさ。これじゃ、お嬢ちゃんとバカにされてもしかたない。
とは言えしかし、小柄だけど綺麗な女優さんですよね。特にアフターファイヴの飲みに出かけるためにドレスアップするシーンはほんとに綺麗でしたね。それなのに、同僚たちは、トミーもジマーもクリスティーもまるで無反応とはどういうこったい。ドレスアップしたショウを見て息をのむリースとフィンチぐらいのリアクションはしてほしかったところ。思えばあのふたりもウブね。
というわけでゾーイ・クラヴィッツは綺麗だったんですが、わたくしご贔屓のジャニュアリー・ジョーンズがなんかイマイチだったのが大変残念な印象。ジョーンズ演じるモリーはトミーの奥さんで、もとダンサー。日々欝々と荒み、物理的な距離はないのに心理的には家庭を顧みなくなってしまうトミーに苛立ちを募らせていくハウスワイフ。今まで観たどの役でもバービー人形みたいに綺麗なひとだと思ってたのに、やぼったい太眉のせいで別人に見えた。うーむ、化粧って大事だなぁ。
あと、イーサン・ホークの上官を演じたブルース・グリーンウッドが相変わらずとてもステキでした。自分の仕事が茶番に思えてしかたのないトミーが、(実際に戦闘機を操縦するわけでもないのに)どうして我々はパイロットスーツを着るんですか? と尋ねるシーンがあるんだけど、それはきみ自明の理だよ、観客がグリーンウッドのパイロットスーツ姿を観たいからに決まってるじゃん。
そう言えばこの方は、アレック・ボールドウィンとほぼ同年齢ですけど(グリーンウッドの方が二歳年上)、細身な体型を保っておいででいらっさる。ボールドウィンなら、着れるパイロットスーツがないと思うんだ。余計なお世話だけどね。
・ドローン・オブ・ウォー@ぴあ映画生活
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by shirakian
| 2015-10-13 18:25
| 映画た行