2009年 06月 11日
ミッション・トゥ・マーズ
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シニーズ探訪の六。
2000年、ブライアン・デ・パルマ監督作品。
メールで、あまり世評は芳しくない映画だと伺って、ネットの評判をチェックしてみたのですが、確かになんだか散々の言われようでした。
どうして? わたしは嫌いじゃありませんけど、この映画。
2020年、人類初の有人火星飛行を成功させたNASAは、ドン・チードルを隊長とする先遣調査隊を送り込んだ。しかし調査隊4名は、何らかの事故に巻き込まれ、消息を絶ってしまう。そこで、ティム・ロビンス、ゲイリー・シニーズ、コニー・ニールセン、ジェリー・オコンネルの4名からなる二次調査隊が、救援に赴くこととなった。
というのが主な流れです。
この映画の何がいいって、それはそれは誠実に作ってあることです。
奇をてらったり、手をぬいたり、ご都合主義に流れたり、ジャンルや観客を見下したりせず、ひとつひとつコツコツと丹念に作った仕事ぶりがとてもいいです。
たとえば宇宙船や、調査基地等の描写にしても、撮影当時のNASAの技術で実際に到達できるレベルからはみださないよう、機能もデザインも実にきまじめに設定されています。なので、ギーガーのデザインなんかと比べるまでもなく、メカ好き男子の心をくすぐるようなかっこよさや、アメージングで独創的なところは全くなく、ビジュアルという点からのみ言えば、地味で鈍重な残念な仕上がりと言うしかないのですが、どうしてそのように地味で鈍重なデザインであるのかを考えるとき、その地味さや鈍重さがとても愛しいものに感じられてくるのです。
決して器用ではない作り手が、宇宙探査というもののリアリティを、精一杯誠実に描き出そうとしている姿勢は、ほんとに好感がもてます。いっそノスタルジックというか、できた瞬間すでに古典というか。だってなにしろテーマが火星なんですもん。やっぱ、火星は、ノスタルジーだろ!
ビジュアル作りに於ける誠実さを如実に体現しているのが、探査船マーズ・リカバリー号の描写と、火星そのものの描写です。
火星飛行を行う船であるマーズ・リカバリー号の描写は、極力CGに頼らず、セットと模型を駆使した映像になっているのですが、CGに頼らずに無重力や、逆に、無重力空間に発生させる人造重力を描写するために、スタッフもキャストも並ならぬ苦労をしているなぁ、というのが映像からも伝わってきます(っていうか、そんなものが伝わってきちゃマズイのかもしれないけど(笑))。
火星そのものの描写を言えば、(わたしはデ・パルマ監督は波長があわなくて苦手なのですが、それでも)やっぱデ・パルマ監督の映像作りはさすがだなぁ、と思わせる仕掛けになっています。
まず最初に地球上でのシーンで、共に火星を目指していた妻を亡くしたトラウマから立ち直れず、火星ミッションのクルーからはずされてしまったシニーズが、失意を胸に、火星に見立てた砂場にクッキリと足跡を残すと、その足跡がズームされて、ドン・チードルが調査中の火星の映像に繋がる、というシーンなのですが、ミクロのシーンから徐々にカメラがひいていき、やがて広大な異世界の情景に繋がる、という困難なカメラ操作が実に見事に決まっています。
で、この、広大な異世界である火星の撮影ですが、わたしは割と安易に、アリゾナかどっかの砂漠で撮って、あとで赤く色づけしたんだろうなぁ、ぐらいに思ってたのですが、ノンノン、映画作りをなめちゃいけない。
火星にみたてたロケ場所は、実はバンクーバー郊外の砂棄て場だったそうで、ブルドーザーで均し、コンクリで固め、火星のように見える砂や砂利をしきつめた、ほんの10平方メートル程度の狭い土地を、撮影の力で、200キロの彼方まで広がりがある赤い大地に見せてしまったのだそうです。
人物の足下に落ちる赤い影もまた、単に後付で色づけすればいい、というようなものではなく、レフ板の代わりに銅版を使うことによって影そのものに色づけしたのだそうです。妥協を許さぬ創意工夫。真摯な姿勢が誠実な画面になってスクリーンに現れているのです。
とは言ってもやはり粗の多い映画ではあります。
最悪なのは、ノスタルジーでは済まされないセンスの古さ。あまりに使い古されたモチーフ、陳腐なアイディア、ひねりのなさすぎる描写。公開当時ですら、観客は何をいまさら、50年代でもあるまいし、と思ったにちがいないです(や、わたしも公開当時の観客のひとりではあったのだけど、どういうわけか、っていうか、救いようのないトリアタマのせいで、その辺のことは全く覚えてなくて(汗))。
デ・パルマ監督は、おそらくSFとはあまり接点のないひとなんじゃないかな、と思うのですが、SF的なものに対するスタンスが、あまりにナイーブであるような印象を受けます。
たとえば、シニーズが火星人の宇宙船に「招待」されたということについても、製作者は本気でそれを、新たなフロンティアに向けての人類の大いなる旅立ちである、という捕らえ方をして疑っていないように思えるのですが、ちょっとでもSF的考え方に慣れている観客であれば、地球人が火星人の間接的子孫であるというのはいいとして、それにしたところで結局はDNAレベルの子孫にすぎないわけだから、それを「招待」するという意味は何だったのか、と考えてしまうと思うのです。
もしかしたらそれは、被検体として呼び寄せたのかもしれないし、あるいは一種のトロフィーとして捕獲したのかもしれない。
そんなこと、わかんないじゃないですか、相手は異種生命体なんだから。
まあ、だけど、この映画の場合、そういう作り手のナイーブさは、却って魅力になっているような気もします。
主演のシニーズの持ち味のせいかもしれません。
かれなら素直にフロンティアを信じていそうだし、素直にフロンティアを信じるシニーズは、ほんとうに新たな地平を目撃し、切り開く最初の人類になってくれそうです。
何万マイルも旅をして、ラスト10フィートで引き返したくない、と少年のように青臭い主張をするシーンも、とても説得力があるのです。
この映画のシニーズ、髪型のせいかしら、目が大きく見えてなんだかすごくかわいいんですもん(笑)。実力はあるのにはにかみやさんで、常にちょっと伏目がちなのもいい。宇宙服も似合うし、宇宙船にいるときのTシャツ姿もカッコイイです。
敢えて言えば、ティム・ロビンスとコニー・ニールセンのいちゃいちゃシーンが多すぎたのは、大きな欠点であると思う。夫婦愛の美しさを描きたかったのか、とも思うのですが、ロビンス&ニールセン組のねちっこい描写は、本来もっとしっかり描くべきはずだった、シニーズと亡妻マギーとの描写の邪魔にしかなっていません。
公私混同にしか見えないロビンス&ニールセン組のいちゃこらぶりを描く暇があったら、ドン・チードルの一年に及ぶ単独火星サバイバルの過程を描いた方が、ドラマとしては絶対に面白くなったはずなのに、と残念です。
特に、火星人が残した音声情報から二重螺旋の映像を導き出すに到った発見のシーンなどは、リアルタイムの体験として描いていれば、それだけで感動的なシーンになったはずなのになぁ、と思うのですが。
“サスペンスのデ・パルマ”としては、死んだと思われていたチードルが、ところがどっこい生きていた! という驚かしのシーンを撮りたかったのだと思われます。確かに、背後からぬっと現れるレゲエ・チードルのシーンは、このデ・パルマ色が希薄な映画の中で、唯一デ・パルマやなぁ、という絵だったんだけど、そんなところでサスペンスしなくても、デ・パルマ(>_<)! と思ってしまったのはわたしだけじゃないと思うの。
2000年、ブライアン・デ・パルマ監督作品。
メールで、あまり世評は芳しくない映画だと伺って、ネットの評判をチェックしてみたのですが、確かになんだか散々の言われようでした。
どうして? わたしは嫌いじゃありませんけど、この映画。
2020年、人類初の有人火星飛行を成功させたNASAは、ドン・チードルを隊長とする先遣調査隊を送り込んだ。しかし調査隊4名は、何らかの事故に巻き込まれ、消息を絶ってしまう。そこで、ティム・ロビンス、ゲイリー・シニーズ、コニー・ニールセン、ジェリー・オコンネルの4名からなる二次調査隊が、救援に赴くこととなった。
というのが主な流れです。
この映画の何がいいって、それはそれは誠実に作ってあることです。
奇をてらったり、手をぬいたり、ご都合主義に流れたり、ジャンルや観客を見下したりせず、ひとつひとつコツコツと丹念に作った仕事ぶりがとてもいいです。
たとえば宇宙船や、調査基地等の描写にしても、撮影当時のNASAの技術で実際に到達できるレベルからはみださないよう、機能もデザインも実にきまじめに設定されています。なので、ギーガーのデザインなんかと比べるまでもなく、メカ好き男子の心をくすぐるようなかっこよさや、アメージングで独創的なところは全くなく、ビジュアルという点からのみ言えば、地味で鈍重な残念な仕上がりと言うしかないのですが、どうしてそのように地味で鈍重なデザインであるのかを考えるとき、その地味さや鈍重さがとても愛しいものに感じられてくるのです。
決して器用ではない作り手が、宇宙探査というもののリアリティを、精一杯誠実に描き出そうとしている姿勢は、ほんとに好感がもてます。いっそノスタルジックというか、できた瞬間すでに古典というか。だってなにしろテーマが火星なんですもん。やっぱ、火星は、ノスタルジーだろ!
ビジュアル作りに於ける誠実さを如実に体現しているのが、探査船マーズ・リカバリー号の描写と、火星そのものの描写です。
火星飛行を行う船であるマーズ・リカバリー号の描写は、極力CGに頼らず、セットと模型を駆使した映像になっているのですが、CGに頼らずに無重力や、逆に、無重力空間に発生させる人造重力を描写するために、スタッフもキャストも並ならぬ苦労をしているなぁ、というのが映像からも伝わってきます(っていうか、そんなものが伝わってきちゃマズイのかもしれないけど(笑))。
火星そのものの描写を言えば、(わたしはデ・パルマ監督は波長があわなくて苦手なのですが、それでも)やっぱデ・パルマ監督の映像作りはさすがだなぁ、と思わせる仕掛けになっています。
まず最初に地球上でのシーンで、共に火星を目指していた妻を亡くしたトラウマから立ち直れず、火星ミッションのクルーからはずされてしまったシニーズが、失意を胸に、火星に見立てた砂場にクッキリと足跡を残すと、その足跡がズームされて、ドン・チードルが調査中の火星の映像に繋がる、というシーンなのですが、ミクロのシーンから徐々にカメラがひいていき、やがて広大な異世界の情景に繋がる、という困難なカメラ操作が実に見事に決まっています。
で、この、広大な異世界である火星の撮影ですが、わたしは割と安易に、アリゾナかどっかの砂漠で撮って、あとで赤く色づけしたんだろうなぁ、ぐらいに思ってたのですが、ノンノン、映画作りをなめちゃいけない。
火星にみたてたロケ場所は、実はバンクーバー郊外の砂棄て場だったそうで、ブルドーザーで均し、コンクリで固め、火星のように見える砂や砂利をしきつめた、ほんの10平方メートル程度の狭い土地を、撮影の力で、200キロの彼方まで広がりがある赤い大地に見せてしまったのだそうです。
人物の足下に落ちる赤い影もまた、単に後付で色づけすればいい、というようなものではなく、レフ板の代わりに銅版を使うことによって影そのものに色づけしたのだそうです。妥協を許さぬ創意工夫。真摯な姿勢が誠実な画面になってスクリーンに現れているのです。
とは言ってもやはり粗の多い映画ではあります。
最悪なのは、ノスタルジーでは済まされないセンスの古さ。あまりに使い古されたモチーフ、陳腐なアイディア、ひねりのなさすぎる描写。公開当時ですら、観客は何をいまさら、50年代でもあるまいし、と思ったにちがいないです(や、わたしも公開当時の観客のひとりではあったのだけど、どういうわけか、っていうか、救いようのないトリアタマのせいで、その辺のことは全く覚えてなくて(汗))。
デ・パルマ監督は、おそらくSFとはあまり接点のないひとなんじゃないかな、と思うのですが、SF的なものに対するスタンスが、あまりにナイーブであるような印象を受けます。
たとえば、シニーズが火星人の宇宙船に「招待」されたということについても、製作者は本気でそれを、新たなフロンティアに向けての人類の大いなる旅立ちである、という捕らえ方をして疑っていないように思えるのですが、ちょっとでもSF的考え方に慣れている観客であれば、地球人が火星人の間接的子孫であるというのはいいとして、それにしたところで結局はDNAレベルの子孫にすぎないわけだから、それを「招待」するという意味は何だったのか、と考えてしまうと思うのです。
もしかしたらそれは、被検体として呼び寄せたのかもしれないし、あるいは一種のトロフィーとして捕獲したのかもしれない。
そんなこと、わかんないじゃないですか、相手は異種生命体なんだから。
まあ、だけど、この映画の場合、そういう作り手のナイーブさは、却って魅力になっているような気もします。
主演のシニーズの持ち味のせいかもしれません。
かれなら素直にフロンティアを信じていそうだし、素直にフロンティアを信じるシニーズは、ほんとうに新たな地平を目撃し、切り開く最初の人類になってくれそうです。
何万マイルも旅をして、ラスト10フィートで引き返したくない、と少年のように青臭い主張をするシーンも、とても説得力があるのです。
この映画のシニーズ、髪型のせいかしら、目が大きく見えてなんだかすごくかわいいんですもん(笑)。実力はあるのにはにかみやさんで、常にちょっと伏目がちなのもいい。宇宙服も似合うし、宇宙船にいるときのTシャツ姿もカッコイイです。
敢えて言えば、ティム・ロビンスとコニー・ニールセンのいちゃいちゃシーンが多すぎたのは、大きな欠点であると思う。夫婦愛の美しさを描きたかったのか、とも思うのですが、ロビンス&ニールセン組のねちっこい描写は、本来もっとしっかり描くべきはずだった、シニーズと亡妻マギーとの描写の邪魔にしかなっていません。
公私混同にしか見えないロビンス&ニールセン組のいちゃこらぶりを描く暇があったら、ドン・チードルの一年に及ぶ単独火星サバイバルの過程を描いた方が、ドラマとしては絶対に面白くなったはずなのに、と残念です。
特に、火星人が残した音声情報から二重螺旋の映像を導き出すに到った発見のシーンなどは、リアルタイムの体験として描いていれば、それだけで感動的なシーンになったはずなのになぁ、と思うのですが。
“サスペンスのデ・パルマ”としては、死んだと思われていたチードルが、ところがどっこい生きていた! という驚かしのシーンを撮りたかったのだと思われます。確かに、背後からぬっと現れるレゲエ・チードルのシーンは、このデ・パルマ色が希薄な映画の中で、唯一デ・パルマやなぁ、という絵だったんだけど、そんなところでサスペンスしなくても、デ・パルマ(>_<)! と思ってしまったのはわたしだけじゃないと思うの。
by shirakian
| 2009-06-11 21:59
| 映画ま行