2009年 03月 05日
チェンジリング
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行方不明になった我が子を救うため、死に物狂いで闘う母親(と全く存在感のない父親)の物語、アゲイン(笑)。
警察が自分たちの捜査ミスを隠蔽するために、当事者の母親を嘘つき呼ばわりした挙句、頭がおかしいことにして精神病院に「エスコート」したところ、この母親というのが他でもないアンジェリーナ・ジョリー姐さんだったので、おとなしく泣き寝入りなんかしてくれるわけがなく、事態は警察本部長や市長の失脚につながる大不祥事に発展! というのが基本的な流れです。
つまり、(20~30年代のLA)警察の腐敗の実態、というのが重要なモチーフになっているわけですが、最近ただでさえ少ない脳の容量の大半が、私生活を犠牲にしても犯罪捜査に真剣に取り組むNYPDの人々のハードワーカーぶりに占められているので、最初はなかなか入り込みにくかったです(笑)。やだ、警察のワルグチ言わないでよ、と、チョト思った(笑)。
とにかく腹の底から不思議に思うのは、いくら自分のミスをごまかすために頭に血が上ってたからって、必死になって自分の子どもを捜している母親に別の子どもを押し付けて、それで母親が納得すると本気で思ってやがったのか、ということです。国家権力がどれほど強大であろうが、人間が弱くて保身に走りがちな生き物であろうが、子どもを助けたい一心の母親に、まさかそんなことが通用するはず、ないでしょうに。
ミスを糊塗しようとした警部(ジェフリー・ドノヴァン)は、長年いばり放題の立場にいたので、だんだん感覚が麻痺していったのでしょうね。よもや自分の意見を聞き入れようとしない相手がいようとは思いもしない。自分の理屈が当たり前に通用しない場があるとは思いもしない。聴聞会のシーンで、かれが当然と主張した台詞に聴衆がどっと笑ったとき、かれは本当に心の底から、なんで自分が笑われたのかわからなかった、という演出がありましたが、あれは本当に出色のシーンでありました。
長年同じことを繰り返していると、人間麻痺してしまうものだというのは、精神病院の医師やスタッフたちの描写を観ても明らかです。実は正気であるとわかっている「患者」たちを、ただ単に黙らせる目的でのみ、精神的屈辱のみならず肉体的苦痛まで平気で与えることができるようになってしまう。それでも最初はそうした行為は行為者にとって「不快」な行為であったはずなのです。やってはいけないとわかっている行為なんだから。それなのに、繰り返すうちに当たり前のルーティーンワークになっていく。いや、それ以上に、その行為を成し得る「力」を持った自分に対して、患者が反抗的な態度を見せたら、それは当然自分が持っているはずの権威や権利や存在理由を脅かすことであり、それに対する苛立ちを感じるようにすらなってしまう。
個人が繰り返すということと同時に、「まわりがみんなやっている」という環境の下では、このような麻痺はいとも容易に起こり得るものになってしまう。
イーストウッド監督は常に、鈍重な組織と「覚醒した自我」の対立、という図式を描いてきたひとですが、こうした描写にも、それは顕著に現れているのだと思います。
そしてまた、こうした無感覚は、次々と20人もの少年を殺した連続殺人犯の心のありようと何ら変わりがないです。自分(だけ)は違うと思っていても、所詮そこは紙一重の差異しかないんじゃないか。
警察の横暴の描写があまりにも秀逸で、それに晒されたジョリーがあまりにもはかなげな存在であるので、メインの流れはこちらだと錯覚しそうになるのですが、本当の主眼はそこじゃないのだと思います。
警察がヘマしようが邪魔しようが、連続殺人犯の犯行であろうがあるまいが、母親にとっては子どもがいなくなった、今この瞬間にも自分の助けを求めているかもしれない、というただひとつの事実しかないのです。警察の腐敗とか、そんなことはどうでもいい。マスコミも社会運動も聴聞会も裁判も、ほんとは知ったこっちゃない。ただ子どもを救い出せればいい、子どもが帰って来ればいい。
だから、ジョリーの闘いは、警察が過ちを認めても、殺人犯が死刑になっても終わらないのです。なぜなら子どもは生きているかもしれないから。いや、生きているにちがいないから。
そのことをジョリーはhopeと表現するのだけれど、彼女が語るhopeという言葉はとても痛いです。
ひとは、惨めさを認めることはできるけれど、hopelessであることを認めるには勇気がいる、というのは『レボリューショナリー・ロード』にあった台詞です。なぜなら、hopeはある意味、保留することへの言い訳でもあるから。もはやここに希望はない、と認識することは、否が応でも次のステップへ踏み出すことを要求します。そのステップが良いものであろうが悪いものであろうが上をめざすものであろうが下へと堕ちていくだけのものであろうが、とにかく動くことを要求するのです。だけど、希望を持っている間は、その動きを回避することができる。回避する正当な理由がある。
もちろん、イーストウッドの映画です。アンジェリーナ・ジョリーの主演です。ここで語られた希望という言葉には、もっと前向きな強いメッセージが込められているのでしょう。彼女ならこの言葉の欺瞞にひっかかることなく、希望を持ちながらも敢えて、次のステップへ踏み出すことを成し得るのだと思います。そうすることによって初めて、hoepという言葉は、本来持っている美しい輝きを放つのだと思います。
重いテーマの辛い話ですが、イーストウッド監督は、そこに優れた娯楽性を織り込むことを怠りません。
まず、警察の横暴ぶりを観客が胃の痛みを感じるところまで、こってりたっぷりしっかりと描き、それに対するにあまりにか弱いヒロインの孤立無援の状況を認識させた上で、次々と頼もしい助っ人が登場してカタルシスへと流れ込んでいく一連の描写の小気味よいこと!
ジョン・マルコヴィッチの牧師さんとか、なにしろクセモノのマルコヴィッチだし、警察の描き方があそこまで極端なわけだし、こちらもなにか落とし穴があるに違いない、信用しちゃだめだ、と警戒しながら見ていたら、最後までほんとに頼もしい後ろ盾になってくれたし(笑)。
敏腕弁護士の登場シーンは思わずクー(>_<)! っとなるかっこよさだったし、腐敗だらけの警察の中で「良い警官」を演じたマイケル・ケリーの存在は一服の清涼剤になったし、少年が偽者だと臆せず証言してくれた歯医者や担任教師の存在は頼もしかった。
こういう救いがあるからこそ、物語の本質を見失うことなく最後まで見通すことができるのだと思います。監督はそこんとこ、よぉっくわかってらっさるのだなぁ。
しかし、これだけの大作の中で、なにが一番不気味だったかって、それはまちがいなく連続殺人犯よりも警察組織よりも、ジョリーの息子を名乗ってはばからなかったあの子どもだったと思うのだけど……。あの子だけは、わたしの理解を超えた存在でしたよ。もしかして、あれはほんとに「取り替え子」だったのかもしれない(笑)。
警察が自分たちの捜査ミスを隠蔽するために、当事者の母親を嘘つき呼ばわりした挙句、頭がおかしいことにして精神病院に「エスコート」したところ、この母親というのが他でもないアンジェリーナ・ジョリー姐さんだったので、おとなしく泣き寝入りなんかしてくれるわけがなく、事態は警察本部長や市長の失脚につながる大不祥事に発展! というのが基本的な流れです。
つまり、(20~30年代のLA)警察の腐敗の実態、というのが重要なモチーフになっているわけですが、最近ただでさえ少ない脳の容量の大半が、私生活を犠牲にしても犯罪捜査に真剣に取り組むNYPDの人々のハードワーカーぶりに占められているので、最初はなかなか入り込みにくかったです(笑)。やだ、警察のワルグチ言わないでよ、と、チョト思った(笑)。
とにかく腹の底から不思議に思うのは、いくら自分のミスをごまかすために頭に血が上ってたからって、必死になって自分の子どもを捜している母親に別の子どもを押し付けて、それで母親が納得すると本気で思ってやがったのか、ということです。国家権力がどれほど強大であろうが、人間が弱くて保身に走りがちな生き物であろうが、子どもを助けたい一心の母親に、まさかそんなことが通用するはず、ないでしょうに。
ミスを糊塗しようとした警部(ジェフリー・ドノヴァン)は、長年いばり放題の立場にいたので、だんだん感覚が麻痺していったのでしょうね。よもや自分の意見を聞き入れようとしない相手がいようとは思いもしない。自分の理屈が当たり前に通用しない場があるとは思いもしない。聴聞会のシーンで、かれが当然と主張した台詞に聴衆がどっと笑ったとき、かれは本当に心の底から、なんで自分が笑われたのかわからなかった、という演出がありましたが、あれは本当に出色のシーンでありました。
長年同じことを繰り返していると、人間麻痺してしまうものだというのは、精神病院の医師やスタッフたちの描写を観ても明らかです。実は正気であるとわかっている「患者」たちを、ただ単に黙らせる目的でのみ、精神的屈辱のみならず肉体的苦痛まで平気で与えることができるようになってしまう。それでも最初はそうした行為は行為者にとって「不快」な行為であったはずなのです。やってはいけないとわかっている行為なんだから。それなのに、繰り返すうちに当たり前のルーティーンワークになっていく。いや、それ以上に、その行為を成し得る「力」を持った自分に対して、患者が反抗的な態度を見せたら、それは当然自分が持っているはずの権威や権利や存在理由を脅かすことであり、それに対する苛立ちを感じるようにすらなってしまう。
個人が繰り返すということと同時に、「まわりがみんなやっている」という環境の下では、このような麻痺はいとも容易に起こり得るものになってしまう。
イーストウッド監督は常に、鈍重な組織と「覚醒した自我」の対立、という図式を描いてきたひとですが、こうした描写にも、それは顕著に現れているのだと思います。
そしてまた、こうした無感覚は、次々と20人もの少年を殺した連続殺人犯の心のありようと何ら変わりがないです。自分(だけ)は違うと思っていても、所詮そこは紙一重の差異しかないんじゃないか。
警察の横暴の描写があまりにも秀逸で、それに晒されたジョリーがあまりにもはかなげな存在であるので、メインの流れはこちらだと錯覚しそうになるのですが、本当の主眼はそこじゃないのだと思います。
警察がヘマしようが邪魔しようが、連続殺人犯の犯行であろうがあるまいが、母親にとっては子どもがいなくなった、今この瞬間にも自分の助けを求めているかもしれない、というただひとつの事実しかないのです。警察の腐敗とか、そんなことはどうでもいい。マスコミも社会運動も聴聞会も裁判も、ほんとは知ったこっちゃない。ただ子どもを救い出せればいい、子どもが帰って来ればいい。
だから、ジョリーの闘いは、警察が過ちを認めても、殺人犯が死刑になっても終わらないのです。なぜなら子どもは生きているかもしれないから。いや、生きているにちがいないから。
そのことをジョリーはhopeと表現するのだけれど、彼女が語るhopeという言葉はとても痛いです。
ひとは、惨めさを認めることはできるけれど、hopelessであることを認めるには勇気がいる、というのは『レボリューショナリー・ロード』にあった台詞です。なぜなら、hopeはある意味、保留することへの言い訳でもあるから。もはやここに希望はない、と認識することは、否が応でも次のステップへ踏み出すことを要求します。そのステップが良いものであろうが悪いものであろうが上をめざすものであろうが下へと堕ちていくだけのものであろうが、とにかく動くことを要求するのです。だけど、希望を持っている間は、その動きを回避することができる。回避する正当な理由がある。
もちろん、イーストウッドの映画です。アンジェリーナ・ジョリーの主演です。ここで語られた希望という言葉には、もっと前向きな強いメッセージが込められているのでしょう。彼女ならこの言葉の欺瞞にひっかかることなく、希望を持ちながらも敢えて、次のステップへ踏み出すことを成し得るのだと思います。そうすることによって初めて、hoepという言葉は、本来持っている美しい輝きを放つのだと思います。
重いテーマの辛い話ですが、イーストウッド監督は、そこに優れた娯楽性を織り込むことを怠りません。
まず、警察の横暴ぶりを観客が胃の痛みを感じるところまで、こってりたっぷりしっかりと描き、それに対するにあまりにか弱いヒロインの孤立無援の状況を認識させた上で、次々と頼もしい助っ人が登場してカタルシスへと流れ込んでいく一連の描写の小気味よいこと!
ジョン・マルコヴィッチの牧師さんとか、なにしろクセモノのマルコヴィッチだし、警察の描き方があそこまで極端なわけだし、こちらもなにか落とし穴があるに違いない、信用しちゃだめだ、と警戒しながら見ていたら、最後までほんとに頼もしい後ろ盾になってくれたし(笑)。
敏腕弁護士の登場シーンは思わずクー(>_<)! っとなるかっこよさだったし、腐敗だらけの警察の中で「良い警官」を演じたマイケル・ケリーの存在は一服の清涼剤になったし、少年が偽者だと臆せず証言してくれた歯医者や担任教師の存在は頼もしかった。
こういう救いがあるからこそ、物語の本質を見失うことなく最後まで見通すことができるのだと思います。監督はそこんとこ、よぉっくわかってらっさるのだなぁ。
しかし、これだけの大作の中で、なにが一番不気味だったかって、それはまちがいなく連続殺人犯よりも警察組織よりも、ジョリーの息子を名乗ってはばからなかったあの子どもだったと思うのだけど……。あの子だけは、わたしの理解を超えた存在でしたよ。もしかして、あれはほんとに「取り替え子」だったのかもしれない(笑)。
by shirakian
| 2009-03-05 21:33
| 映画た行