2008年 07月 05日
奇跡のシンフォニー
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テレンス・ハワードさんに会いに行って参りましたv
『ブレイブワン』でビビッときて以来、再会を楽しみにしてたのデス。
これ以前に『ハンティング・パーティ』の公開もあったのだけど、映画の評判があまりにアレなので、パスしちゃったんですよね。でも、この映画を観て、やっぱ、テレンス・ハワード、イイ! と再認識したので、『…パーティ』の方はDVDになったら、ちぇきってみようと思いました。
テレンス・ハワードって、『クラッシュ』や『レイ』で観た時は、ハンサムだなーとは思ったけど、特にビビッときた覚えもなかったのですが、『ブレイブワン』は役柄がよかったんでしょう。かれの魅力がとっても引き立ってました。
そんな意味では、この映画のテレンスさんも、そんなに出番の多い役ではなかったんだけど、とても魅力的かつかれに似合った役で、大いに満足しました。
『ブレイブ…』では刑事さんでしたが、今回は児童福祉士です。こういう、責任ある大人の役を演じると、光る役者さんであるのだなぁ、と思います。
孤児院の子どもたちが幸せになれるよう手助けをする、それがかれの仕事。その仕事に対して、かれのスタンスは押し付けがましくもなく、投げやりでもなく、真摯で温かいけれど、相手を尊重する距離感を失わないのです。
自身も子どもを亡くした経験がある、なんてことが、ほのめかされていたりもするのだけれど、劇中詳しく語られることはありません。でも、かれの子どもに対する思いはきちんと伝わってきます。
冷静に仕事をこなしていたはずのかれが、11年前に子どもを「捨てた」くせに、にわかに子どもを捜しだした母親に、憤りを隠せないシーンは胸に迫ります。
お話は、おとぎ話ですね。
両親から捨てられ、孤児院で育ったフレディ・ハイモアくんには、天賦の音楽の才能があった。かれはいつも、音楽さえやっていれば、絶対に両親に会える! と信じて疑わず、孤児院を抜け出すのであった。
実を言うと、観るまで、嫌な話だったらどうしよう、と戦々恐々としておりました。
だって、出会ったその日に、ロマンチックな雰囲気に呑まれて、避妊もせずにセックスになだれこんで、子どもができたら、育てられないからって、ポイと捨てて顧みない親の話なんか、不愉快であるに決まってる。
このふたりの場合は、男の方は子どもが生まれたことすら知らず、女の方は子どもが生きていることを知らなかったわけですが、だからって、知らなかったんだから自分は悪くない、と正当化なんかされた日には、やっぱり不愉快であるにちがいないです。
でも、実際は、(敢えて言わせてもらえば)この無責任なバカップルは、なぜか思いのほか好感度が高く、少しも嫌な気持ちにさせられることなく最後まで観ることができたのでした。
男の方はジョナサン・リース=マイヤーズ、女の方はケリー・ラッセルです。
ジョナサン・リース=マイヤーズって、なんだか禍々しいような雰囲気をもった役者さんだと思っていました。ミステリアスな美貌ゆえに、どことなく「この世ならぬ」印象を受ける。ピーター・ジャクソンがLotRのエルフ役で声をかけなかったのが不思議なくらい(もっとも、エルフにしてはちょっと小柄すぎるかもしれないですが)。
もちろん、そんな雰囲気を醸し出せる役者さんなんか、そうはいませんから、そういう意味では大変貴重な存在で、そのことがかれの欠点になるだなんて全く思いませんけれども、でも、それゆえに、存在自体がどこかリアリティに欠けるところがあって、演じられる役の幅を狭くしているなぁ、とは思っていたのです。
ところが、もしかしたら『ベッカムに恋して』あたりがターニング・ポイントになったのでしょうか、『マッチ・ポイント』や『MI:3』あたりから、身体つきも若干がっしりしてきて、血の通った生身の男を感じさせるようになってきたのです。白木庵的には、いまの方が好みだ(笑)。
しかも、この役に説得力を与えるのがかれの歌。ほんとに、うまいです。キャリアのどっかにミュージシャンとしての活動があるのかと思って調べてみたのですが、わかんなかったです。だれかご存知の方、教えてください。
というわけで、まず、ジョナサン・リース=マイヤーズに素直に共感できたのでした。
でも、実のところ、このカップルの好感度を担っていたのはケリー・ラッセルの方です。ジョナサンと出会ったころの彼女って、文字通り透き通るような美貌なのに、11年の歳月を経て再び現れたとき、その顔は一気に老けてやつれています。その瞬間の彼女の顔を見ただけで、ああ、フレディくんを「捨てた」ことは許そう、という気になってしまうです。この11年間、フレディくんを失った彼女がちっとも幸せでなかったことが、その顔を見るだけでわかる。
これって、若いころがライティングとソフトフォーカスの奇跡なのか、11年後が老けメイクの粋を集めた匠の技なのか、ケリー・ラッセルの素顔を知りませんので、どちらかわかりませんけど、とにかく、メイクさん撮影さん、グッジョブ! と思いました。台詞の一つ、感情表現の一つもなくても、これだけのインパクトを与えられるのですから。
許せる気持ちが先に立つので、フレディくんが実は死産ではなかったことを知って、必死にかれを捜すケリー・ラッセルの姿にも、素直に感情移入できるのです。彼女がフレディくんの名前すら知らなくて愕然とするシーンなんて、見ているこっちが胸が痛かったです。
ところが不思議なことに、あれれ、これは一体? と思うポイントって、意外なほど、フレディくんのパートに集中しているんですよね。もちろん、かれが悪いんじゃなくて、お話の作りがそうなっているのだけれど。
そもそも、この子、どういう子なの? わたしにはちょぉっと、薄気味悪く感じられたのですが(汗)。両親は自分を捨てたわけじゃない、絶対再会できる! と信じたい気持ちはよくわかるけど、あまりに揺ぎ無く確信を持ったその姿には、「狂信」という言葉が浮かびます。かれは「天才」なので、凡人にはわからない何かを感得するからこその、その信念になるのだろうけれど、やっぱりそれって気味が悪い。孤児院の仲間たちが、かれを「フリーク」といって苛めたくなる気持ちの方が、素直に理解できてしまう。子どもたちは、かれの確信が理解できないし、理解できないなりに、羨ましくてたまらないのです。できるものなら、自分だってそんな確信を抱いていたいけど、そんなの無理に決まってるんだから。
だいたい、フレディくん(っていうか、役名はエヴァンですね)、だれに対しても、あまり気遣いとか優しさとか、感じさせないのです。
そりゃ、物語の主人公は全部優しいいい子でなければならない、なんて言う気はないけど、でもこれはおとぎ話なんだから、エヴァンくんがそういう子であっても、いいんじゃないかと思うのですが。
孤児院で仲良しだった太った少年に対しても、かれに音楽への扉を開けてくれた黒人の少年に対しても、かれをジュリアードへ送り込んでくれた教会の人々に対しても、エヴァンくんからの温かい気持ちが一切描写されていないのです。そこが、かれの「狂信」とあいまって、やっぱり、この子って、わからない、薄気味悪い、と思ってしまう。
唯一、テレンス・ハワードに対しては、ああ、そのタイミングでお礼が言えるなんて、きみっていい子だねv と思わせるシーンがあったので、たぶん、エヴァンくんが薄気味悪い子だったんじゃなくて、ほんとはエヴァンくんは、ちゃんと感謝も共感もできる優しい子なのに、その辺の描写をすっ飛ばしたせいで、観客にそう感じさせてしまったんでしょうけれども。
あと、絶対的にそうだろうなぁ、と思うのが、フレディ・ハイモアって、歌えない子なんでしょうねぇ。
だってね、一度も訓練を受けたことのない子どもが、天賦の才能だけで音楽的パフォーマンスを披露する、と言えば、やっぱ歌が一番わかりやすくて、無理がないと思うのです。そりゃもちろん、歌だってちゃんと歌うにはちゃんとした訓練をしなきゃならないけれど、でも、楽器を弾いたり、ましてや楽譜を書いたりすることに比べたら、歌には「自然の発露」という部分があります。
ギターぐらいはまだいいけれど、作曲だパイプオルガンだジュリアードだ、っていう話になると、どうも無駄に回りくどい感じで、ストレートに「音楽の持つパワー」というコンセプトに繋がらないのです。
フレディくんが歌えないのなら、どうして歌える子役を使わなかったのかな。やっぱ、「フレディ・ハイモア主演で、ハートフルなやつを一本」、という企画がさきにありきだったのかな。
『ブレイブワン』でビビッときて以来、再会を楽しみにしてたのデス。
これ以前に『ハンティング・パーティ』の公開もあったのだけど、映画の評判があまりにアレなので、パスしちゃったんですよね。でも、この映画を観て、やっぱ、テレンス・ハワード、イイ! と再認識したので、『…パーティ』の方はDVDになったら、ちぇきってみようと思いました。
テレンス・ハワードって、『クラッシュ』や『レイ』で観た時は、ハンサムだなーとは思ったけど、特にビビッときた覚えもなかったのですが、『ブレイブワン』は役柄がよかったんでしょう。かれの魅力がとっても引き立ってました。
そんな意味では、この映画のテレンスさんも、そんなに出番の多い役ではなかったんだけど、とても魅力的かつかれに似合った役で、大いに満足しました。
『ブレイブ…』では刑事さんでしたが、今回は児童福祉士です。こういう、責任ある大人の役を演じると、光る役者さんであるのだなぁ、と思います。
孤児院の子どもたちが幸せになれるよう手助けをする、それがかれの仕事。その仕事に対して、かれのスタンスは押し付けがましくもなく、投げやりでもなく、真摯で温かいけれど、相手を尊重する距離感を失わないのです。
自身も子どもを亡くした経験がある、なんてことが、ほのめかされていたりもするのだけれど、劇中詳しく語られることはありません。でも、かれの子どもに対する思いはきちんと伝わってきます。
冷静に仕事をこなしていたはずのかれが、11年前に子どもを「捨てた」くせに、にわかに子どもを捜しだした母親に、憤りを隠せないシーンは胸に迫ります。
お話は、おとぎ話ですね。
両親から捨てられ、孤児院で育ったフレディ・ハイモアくんには、天賦の音楽の才能があった。かれはいつも、音楽さえやっていれば、絶対に両親に会える! と信じて疑わず、孤児院を抜け出すのであった。
実を言うと、観るまで、嫌な話だったらどうしよう、と戦々恐々としておりました。
だって、出会ったその日に、ロマンチックな雰囲気に呑まれて、避妊もせずにセックスになだれこんで、子どもができたら、育てられないからって、ポイと捨てて顧みない親の話なんか、不愉快であるに決まってる。
このふたりの場合は、男の方は子どもが生まれたことすら知らず、女の方は子どもが生きていることを知らなかったわけですが、だからって、知らなかったんだから自分は悪くない、と正当化なんかされた日には、やっぱり不愉快であるにちがいないです。
でも、実際は、(敢えて言わせてもらえば)この無責任なバカップルは、なぜか思いのほか好感度が高く、少しも嫌な気持ちにさせられることなく最後まで観ることができたのでした。
男の方はジョナサン・リース=マイヤーズ、女の方はケリー・ラッセルです。
ジョナサン・リース=マイヤーズって、なんだか禍々しいような雰囲気をもった役者さんだと思っていました。ミステリアスな美貌ゆえに、どことなく「この世ならぬ」印象を受ける。ピーター・ジャクソンがLotRのエルフ役で声をかけなかったのが不思議なくらい(もっとも、エルフにしてはちょっと小柄すぎるかもしれないですが)。
もちろん、そんな雰囲気を醸し出せる役者さんなんか、そうはいませんから、そういう意味では大変貴重な存在で、そのことがかれの欠点になるだなんて全く思いませんけれども、でも、それゆえに、存在自体がどこかリアリティに欠けるところがあって、演じられる役の幅を狭くしているなぁ、とは思っていたのです。
ところが、もしかしたら『ベッカムに恋して』あたりがターニング・ポイントになったのでしょうか、『マッチ・ポイント』や『MI:3』あたりから、身体つきも若干がっしりしてきて、血の通った生身の男を感じさせるようになってきたのです。白木庵的には、いまの方が好みだ(笑)。
しかも、この役に説得力を与えるのがかれの歌。ほんとに、うまいです。キャリアのどっかにミュージシャンとしての活動があるのかと思って調べてみたのですが、わかんなかったです。だれかご存知の方、教えてください。
というわけで、まず、ジョナサン・リース=マイヤーズに素直に共感できたのでした。
でも、実のところ、このカップルの好感度を担っていたのはケリー・ラッセルの方です。ジョナサンと出会ったころの彼女って、文字通り透き通るような美貌なのに、11年の歳月を経て再び現れたとき、その顔は一気に老けてやつれています。その瞬間の彼女の顔を見ただけで、ああ、フレディくんを「捨てた」ことは許そう、という気になってしまうです。この11年間、フレディくんを失った彼女がちっとも幸せでなかったことが、その顔を見るだけでわかる。
これって、若いころがライティングとソフトフォーカスの奇跡なのか、11年後が老けメイクの粋を集めた匠の技なのか、ケリー・ラッセルの素顔を知りませんので、どちらかわかりませんけど、とにかく、メイクさん撮影さん、グッジョブ! と思いました。台詞の一つ、感情表現の一つもなくても、これだけのインパクトを与えられるのですから。
許せる気持ちが先に立つので、フレディくんが実は死産ではなかったことを知って、必死にかれを捜すケリー・ラッセルの姿にも、素直に感情移入できるのです。彼女がフレディくんの名前すら知らなくて愕然とするシーンなんて、見ているこっちが胸が痛かったです。
ところが不思議なことに、あれれ、これは一体? と思うポイントって、意外なほど、フレディくんのパートに集中しているんですよね。もちろん、かれが悪いんじゃなくて、お話の作りがそうなっているのだけれど。
そもそも、この子、どういう子なの? わたしにはちょぉっと、薄気味悪く感じられたのですが(汗)。両親は自分を捨てたわけじゃない、絶対再会できる! と信じたい気持ちはよくわかるけど、あまりに揺ぎ無く確信を持ったその姿には、「狂信」という言葉が浮かびます。かれは「天才」なので、凡人にはわからない何かを感得するからこその、その信念になるのだろうけれど、やっぱりそれって気味が悪い。孤児院の仲間たちが、かれを「フリーク」といって苛めたくなる気持ちの方が、素直に理解できてしまう。子どもたちは、かれの確信が理解できないし、理解できないなりに、羨ましくてたまらないのです。できるものなら、自分だってそんな確信を抱いていたいけど、そんなの無理に決まってるんだから。
だいたい、フレディくん(っていうか、役名はエヴァンですね)、だれに対しても、あまり気遣いとか優しさとか、感じさせないのです。
そりゃ、物語の主人公は全部優しいいい子でなければならない、なんて言う気はないけど、でもこれはおとぎ話なんだから、エヴァンくんがそういう子であっても、いいんじゃないかと思うのですが。
孤児院で仲良しだった太った少年に対しても、かれに音楽への扉を開けてくれた黒人の少年に対しても、かれをジュリアードへ送り込んでくれた教会の人々に対しても、エヴァンくんからの温かい気持ちが一切描写されていないのです。そこが、かれの「狂信」とあいまって、やっぱり、この子って、わからない、薄気味悪い、と思ってしまう。
唯一、テレンス・ハワードに対しては、ああ、そのタイミングでお礼が言えるなんて、きみっていい子だねv と思わせるシーンがあったので、たぶん、エヴァンくんが薄気味悪い子だったんじゃなくて、ほんとはエヴァンくんは、ちゃんと感謝も共感もできる優しい子なのに、その辺の描写をすっ飛ばしたせいで、観客にそう感じさせてしまったんでしょうけれども。
あと、絶対的にそうだろうなぁ、と思うのが、フレディ・ハイモアって、歌えない子なんでしょうねぇ。
だってね、一度も訓練を受けたことのない子どもが、天賦の才能だけで音楽的パフォーマンスを披露する、と言えば、やっぱ歌が一番わかりやすくて、無理がないと思うのです。そりゃもちろん、歌だってちゃんと歌うにはちゃんとした訓練をしなきゃならないけれど、でも、楽器を弾いたり、ましてや楽譜を書いたりすることに比べたら、歌には「自然の発露」という部分があります。
ギターぐらいはまだいいけれど、作曲だパイプオルガンだジュリアードだ、っていう話になると、どうも無駄に回りくどい感じで、ストレートに「音楽の持つパワー」というコンセプトに繋がらないのです。
フレディくんが歌えないのなら、どうして歌える子役を使わなかったのかな。やっぱ、「フレディ・ハイモア主演で、ハートフルなやつを一本」、という企画がさきにありきだったのかな。
by shirakian
| 2008-07-05 21:42
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