2008年 05月 01日
つぐない
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宣伝用のチラシなどには、「小説家を夢見る多感な13歳の少女が、無垢なるゆえに犯した一つの過ち」と紹介してあったので、最初に強烈に思ったことは、これは決して「無垢な」「過ち」なんぞじゃなく、完全に自覚的に他人を陥れるためにやった、極めて悪質で弁解の余地のない「偽証」じゃないか、ということです。
だってそうでしょう、ヒロインのブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、7歳ではなく13歳です。自分の行為の意味も、その行為が引き起こす結果も、十分わかっていたはずです。しかも、途中で何度も思いとどまるきっかけはあったはずなのに、そうしなかった。あくまで、その嘘を通したかったら、どんどん声を大きくした。そうして、ひとりの青年ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)と、青年の恋人である自分の姉セシーリア(キーラ・ナイトレイ)の人生を破壊した。全ては自分の自尊心のために。「子どものしたことだから」と赦す気には到底なれません。
でも、この話は「だからこそ」なのですね。「無垢」だの「過ち」だの言ってるうちは、贖罪の重さがわからない。犯した罪がこれほどまでに重くなければ、ブライオニーだって、なにも一生かけて罪をつぐなわねば、と思いつめることはなかったはずです。
ひとは、犯してしまった罪から、どうしたら赦されることができるのか? 被害を蒙ったひとが「赦す」と言ってくれたら赦されたことになるのか? だったら被害者がそれを言ってあげられない限り、犯してしまった罪から逃れることは決してできないのではないか? あるいは、いくら赦すと言ってくれても、自分が自分を赦すことができない限り、決してひとは赦されることはないのではないか?
その問いかけは、ブライオニーの人生そのものだったと思います。そしてブライオニー自身は、「赦す」という言葉はもらえませんでした。それはなにも、ロビーとセシーリアがブライオニーを憎み続けたからではなく、二人にはそれを言ってあげるチャンスがなかったからですが、それでも、ブライオニーが赦されることがなかったという事実は消えません。なんとも切なく、むごいことです。
この映画は、とてもチャーミングな導入部から始まります。
小説家志望の13歳のブライオニーが、タイプライターで自作の戯曲を執筆中。単調なタイプライター音が、書き上げたブライオニーが、はずむ足取りで母親を捜しに行くにつれ、次第にリズムを刻みだし、「ブライオニー」という楽曲に変化する。
ここが、もう、これだけですごくワクワクする出色のオープニング。
両家のお嬢さんは、どんなに急いでいても決してドタバタ走ったりしないんだなぁ、という感慨にもうたれます(笑)。
実はこの話は、それ自体がブライオニーが書いた小説の再現である、ということがラストで明かされるのですが、そういうラストが用意されていなくても、ブライオニーの視点で描かれるドラマや、ブライオニーが書くことが好きな少女である、ということからして、この話がどういう性質のものであるかは容易に想像がつくことです。
なので、ブライオニーが実際に体験したシーンは極めてリアルでありながら、彼女のイマジネーションによるシーンは、ファンタスティックであったり、メロドラマ調であったり、時間軸がねじまがっていたり、有り得ないことが起こっていたり、現実感を欠くのです。それは、映画に不思議な奥行きと魅力を与えてはいますが、決して混乱を招くような演出ではないと思う。
だけどそれでも、途中でちょっと、とまどいを感じる演出があります。
二度ほど挿入されるブライオニーとセシーリア視点の入れ替わりと重複のシーンです。ブライオニーの目にはこういう風に見えたのだけれど、実際その場にいたセシーリアは実はこうだったんだよ、という「説明」のシーンです。
しかし、物語の成り立ちを考えるなら、その「説明」すらもブライオニーのイマジネーションによるものであるはずですから(彼女には「実際にはなにがあったのか」を知る術はありません)、屋上屋、という感じがしないでもなかったのですが……。
こう言ってあげることがブライオニーの救いになるとも思えませんが、観ていてひとつ感じたのは、ロビーという青年は、たとえあんな事件なんかなくて、望みのままに医学校に幸福な進学を果たしていたとしても、戦争が勃発すれば、徴兵ではなく志願兵として、戦場に赴いたんじゃないかと思わせる、女性(母親や恋人)にとっては厄介なキャラクターだということです。そしてセシーリアは、ロビーが出征してしまったら、たとえ家族との確執が生じていなくても、看護の仕事を志願したんじゃなかったか、とも思うのです。
だったら、ふたりは結局、同じ運命をたどったのかもしれない。ブライオニーがなにをしようとすまいと、ふたりの運命は変えようがなかったのかもしれない。
だってそうでしょう、ヒロインのブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、7歳ではなく13歳です。自分の行為の意味も、その行為が引き起こす結果も、十分わかっていたはずです。しかも、途中で何度も思いとどまるきっかけはあったはずなのに、そうしなかった。あくまで、その嘘を通したかったら、どんどん声を大きくした。そうして、ひとりの青年ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)と、青年の恋人である自分の姉セシーリア(キーラ・ナイトレイ)の人生を破壊した。全ては自分の自尊心のために。「子どものしたことだから」と赦す気には到底なれません。
でも、この話は「だからこそ」なのですね。「無垢」だの「過ち」だの言ってるうちは、贖罪の重さがわからない。犯した罪がこれほどまでに重くなければ、ブライオニーだって、なにも一生かけて罪をつぐなわねば、と思いつめることはなかったはずです。
ひとは、犯してしまった罪から、どうしたら赦されることができるのか? 被害を蒙ったひとが「赦す」と言ってくれたら赦されたことになるのか? だったら被害者がそれを言ってあげられない限り、犯してしまった罪から逃れることは決してできないのではないか? あるいは、いくら赦すと言ってくれても、自分が自分を赦すことができない限り、決してひとは赦されることはないのではないか?
その問いかけは、ブライオニーの人生そのものだったと思います。そしてブライオニー自身は、「赦す」という言葉はもらえませんでした。それはなにも、ロビーとセシーリアがブライオニーを憎み続けたからではなく、二人にはそれを言ってあげるチャンスがなかったからですが、それでも、ブライオニーが赦されることがなかったという事実は消えません。なんとも切なく、むごいことです。
この映画は、とてもチャーミングな導入部から始まります。
小説家志望の13歳のブライオニーが、タイプライターで自作の戯曲を執筆中。単調なタイプライター音が、書き上げたブライオニーが、はずむ足取りで母親を捜しに行くにつれ、次第にリズムを刻みだし、「ブライオニー」という楽曲に変化する。
ここが、もう、これだけですごくワクワクする出色のオープニング。
両家のお嬢さんは、どんなに急いでいても決してドタバタ走ったりしないんだなぁ、という感慨にもうたれます(笑)。
実はこの話は、それ自体がブライオニーが書いた小説の再現である、ということがラストで明かされるのですが、そういうラストが用意されていなくても、ブライオニーの視点で描かれるドラマや、ブライオニーが書くことが好きな少女である、ということからして、この話がどういう性質のものであるかは容易に想像がつくことです。
なので、ブライオニーが実際に体験したシーンは極めてリアルでありながら、彼女のイマジネーションによるシーンは、ファンタスティックであったり、メロドラマ調であったり、時間軸がねじまがっていたり、有り得ないことが起こっていたり、現実感を欠くのです。それは、映画に不思議な奥行きと魅力を与えてはいますが、決して混乱を招くような演出ではないと思う。
だけどそれでも、途中でちょっと、とまどいを感じる演出があります。
二度ほど挿入されるブライオニーとセシーリア視点の入れ替わりと重複のシーンです。ブライオニーの目にはこういう風に見えたのだけれど、実際その場にいたセシーリアは実はこうだったんだよ、という「説明」のシーンです。
しかし、物語の成り立ちを考えるなら、その「説明」すらもブライオニーのイマジネーションによるものであるはずですから(彼女には「実際にはなにがあったのか」を知る術はありません)、屋上屋、という感じがしないでもなかったのですが……。
こう言ってあげることがブライオニーの救いになるとも思えませんが、観ていてひとつ感じたのは、ロビーという青年は、たとえあんな事件なんかなくて、望みのままに医学校に幸福な進学を果たしていたとしても、戦争が勃発すれば、徴兵ではなく志願兵として、戦場に赴いたんじゃないかと思わせる、女性(母親や恋人)にとっては厄介なキャラクターだということです。そしてセシーリアは、ロビーが出征してしまったら、たとえ家族との確執が生じていなくても、看護の仕事を志願したんじゃなかったか、とも思うのです。
だったら、ふたりは結局、同じ運命をたどったのかもしれない。ブライオニーがなにをしようとすまいと、ふたりの運命は変えようがなかったのかもしれない。
by shirakian
| 2008-05-01 21:59
| 映画た行