2008年 01月 16日
4分間のピアニスト
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殺人罪で収監されている狂暴な少女ジェニー、その刑務所に60年間勤務している老ピアニスト、クリューガー。およそ違うにも程がある二人を結びつけたたった一つのものは、ピアノだった――――。
ドイツ映画です。
そして単に、音楽によって結びついた子弟の物語というのみならず、ドイツ近代史の暗黒面をバックボーンにした、重層的な映画になっています。
なので、物語にはふたつのラインがあります。
一つは天才少女として、幼い頃からコンクールで入賞をほしいままにしてきながらも、養父のいいなりに演奏を続けることに疑問をもった途端、その養父にレイプされ、家を飛び出し、つまらない男に掴まり、そのつまらない男の殺人の罪を肩代わりして殺人犯となり、しかもその男の子を身籠もったものの流産し、世界の全てを拒否し、絶望し、荒れまくり、何の光明も見いだし得なくなってしまった「悲運の天才」ジェニーの物語。
このラインは、普通に、ごく普通に、とても胸が痛いです。
幾つもの痛みが積み重なる痛みです。
天才の孤独、少女(=性的に魅力的な存在)であるゆえの悲惨、どん底からはい上がる術をたぐり寄せることのできない(しない)想像力の欠如や絶望の深さ。それなのに涸れることのない音楽への渇望。才能によって引き裂かれつつ、その才能に立脚する事でしか生きていけない天才の悲哀。ここには、子どもを自らの人生達成の手段とする親のエゴという色が濃厚に漂ってもいます。『シャイン』をとても思い起こさせるものです。
もうひとつのラインは、戦争、ナチス、思想弾圧、拷問、処刑……。あの時代を生きたほとんど全てのドイツ人の上に覆い被さっていたモンスターによって、クリューガーは思いをよせていた少女を食いつぶされてしまう。それから60年。彼女の人生は喪失と後悔と悲しみだけが満たし、ほかの何者も入る余地はありませんでした。
このふたりが、コンサートの入賞を目指して次第に心を通わせていくのですが、「恋人にも言ったことないけど、あなたのこと、好きよ」……ジェニーからの“告白”に、クリューガーは応えることができません。自らを同性愛者と自認し、そのことを決して誇りとは思っていない彼女のひけめが一歩先に踏み出すことはさせません。
そもそも、このふたりの関係は、そんなに優しいものにはなりえない。相手を自分より大事に思う気持ちが愛ならば、このふたりはともに自分のために相手を利用する関係にしか成り得ない。関係性は常に緊張をはらみ、自我の上位性をめぐっての闘いが水面下で繰り広げられているのです。
それが端的に現れるのがほかならぬ音楽そのもの。
「下劣な音楽は認めない」と頑なにクラシック音楽だけを信奉するクリューガーと、むしろフリージャズのような奔放な演奏を好むジェニー。
音楽という一点でしか交わり得ないふたりが、その音楽という一点においてこそ、決して相容れない関係であるという、なんだかものすごい皮肉。
それでは、ラスト、ジェニーの「4分間の演奏」を認めたクリューガーの、あれは敗北だったのか? そんなことはないのです。それを端的に示しているのがジェニーの「お辞儀」です。あれは観客に向けたものじゃなく、クリューガーそのひとだけに向けた彼女からの強烈なメッセージです。
あのラストは秀逸。鳥肌がたつほど秀逸。
ドイツ映画です。
そして単に、音楽によって結びついた子弟の物語というのみならず、ドイツ近代史の暗黒面をバックボーンにした、重層的な映画になっています。
なので、物語にはふたつのラインがあります。
一つは天才少女として、幼い頃からコンクールで入賞をほしいままにしてきながらも、養父のいいなりに演奏を続けることに疑問をもった途端、その養父にレイプされ、家を飛び出し、つまらない男に掴まり、そのつまらない男の殺人の罪を肩代わりして殺人犯となり、しかもその男の子を身籠もったものの流産し、世界の全てを拒否し、絶望し、荒れまくり、何の光明も見いだし得なくなってしまった「悲運の天才」ジェニーの物語。
このラインは、普通に、ごく普通に、とても胸が痛いです。
幾つもの痛みが積み重なる痛みです。
天才の孤独、少女(=性的に魅力的な存在)であるゆえの悲惨、どん底からはい上がる術をたぐり寄せることのできない(しない)想像力の欠如や絶望の深さ。それなのに涸れることのない音楽への渇望。才能によって引き裂かれつつ、その才能に立脚する事でしか生きていけない天才の悲哀。ここには、子どもを自らの人生達成の手段とする親のエゴという色が濃厚に漂ってもいます。『シャイン』をとても思い起こさせるものです。
もうひとつのラインは、戦争、ナチス、思想弾圧、拷問、処刑……。あの時代を生きたほとんど全てのドイツ人の上に覆い被さっていたモンスターによって、クリューガーは思いをよせていた少女を食いつぶされてしまう。それから60年。彼女の人生は喪失と後悔と悲しみだけが満たし、ほかの何者も入る余地はありませんでした。
このふたりが、コンサートの入賞を目指して次第に心を通わせていくのですが、「恋人にも言ったことないけど、あなたのこと、好きよ」……ジェニーからの“告白”に、クリューガーは応えることができません。自らを同性愛者と自認し、そのことを決して誇りとは思っていない彼女のひけめが一歩先に踏み出すことはさせません。
そもそも、このふたりの関係は、そんなに優しいものにはなりえない。相手を自分より大事に思う気持ちが愛ならば、このふたりはともに自分のために相手を利用する関係にしか成り得ない。関係性は常に緊張をはらみ、自我の上位性をめぐっての闘いが水面下で繰り広げられているのです。
それが端的に現れるのがほかならぬ音楽そのもの。
「下劣な音楽は認めない」と頑なにクラシック音楽だけを信奉するクリューガーと、むしろフリージャズのような奔放な演奏を好むジェニー。
音楽という一点でしか交わり得ないふたりが、その音楽という一点においてこそ、決して相容れない関係であるという、なんだかものすごい皮肉。
それでは、ラスト、ジェニーの「4分間の演奏」を認めたクリューガーの、あれは敗北だったのか? そんなことはないのです。それを端的に示しているのがジェニーの「お辞儀」です。あれは観客に向けたものじゃなく、クリューガーそのひとだけに向けた彼女からの強烈なメッセージです。
あのラストは秀逸。鳥肌がたつほど秀逸。
by shirakian
| 2008-01-16 22:50
| 映画や行