2015年 10月 30日
アクトレス~女たちの舞台~
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★ネタバレ注意★
オリヴィエ・アサイヤス監督作品。
クレジットされている国はフランス、ドイツ、スイスですが、言語は主に英語(時々フランス語)。ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツという三世代の演技派女優がそれぞれ妍を競う、大変見応えのある映画でした。
女優のマリア・エンダース(ジュリエット・ビノシュ)は、劇作家ヴィルヘルム・メルヒオールの代理として授賞式に出席するためチューリッヒに向かう途中、当の作家の訃報を受け取る。マリアは20年前、18歳でメルヒオールの舞台『マローヤのヘビ』に大抜擢されたおかげで今日の地位を得たのだ。急遽哀悼式となった授賞式後のパーティで、マリアは新進気鋭の演出家クラウス(ラース・アイディンガー)から、『マローヤのヘビ』のリメイク作品への出演依頼を受けるのだが。
というお話。
かつて『マローヤのヘビ』でマリアが演じたのは、シグリッドという名の娘。雇用先の女社長ヘレナを翻弄し、ついには自殺に至らしめた小悪魔的な女性です。その役がはまり役であり、シグリッドこそ自分自身にほかならないと自認するマリアは、再び『マローヤのヘビ』に出演するなら、その後のシグリッドを描いた続編でなければならないと考えていたのですが、受け取ったオファーは続編ではなく再演、その中で演じるのはシグリッドではなく彼女に振り回され破滅に至る女社長ヘレナの役。かつて自分の引き立て役としか思っていなかった惨めな中年女の役を演じろと言われたわけです。
しかも、そのリメイク版でシグリッドを演じる若いハリウッド女優ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ)は、本業よりむしろ芸能ゴシップで名を成した感のあるお騒がせ女優、出演作にしてもばかばかしいSF作品でのリアリティのない役。
マリアとしては当然、ざけんじゃねぇ、という気分ですからオファーに乗る気はなかったのですが、傍らでささやくヘビがいた。マネージャーのヴァレンティン(クリステン・スチュワート)です。
ヴァレンティンは大変有能な女性で、マリアのスケジュールを完璧に管理しているのみならず、私生活においても頼りになる相談役、世話役、遊び相手、キャリアについても適切な助言をしてくれる上に、仕事が決まれば読み合わせの相手役すら務めてくれる逸材。マリアはヴァレンティンに依存しているといってよく、ヴァレンティンがいなければ全く立ち行かない状況です。
そんなマリアとヴァレンティンの関係性は、家族より親密な間柄でありながら、契約に基づいた雇用関係である、という点が意味深い。ちょうどイギリスの上流階級の婦人と"コンパニオン"(主婦の話し相手、メイドより格上)のような関係。本来、家族を上回るほどの親密さであるのなら、当然その両者の関係は対等なものでなければならないはずなのに、マリアとヴァレンティンはあくまで雇い主と使用人の関係です。そこにどんなに尊敬や憧憬の情があっても、逆に信頼や愛情があっても、ふたりの関係は決して対等ではない。ヴァレンティンには意見を言うことは許されていても拒否権はないのです。そんな関係性は常に、密かに憎しみが醸成される甕となり得る。
ヴァレンティンはマリアに対し、今回のオファーを受けるよう積極的に勧めてきます。曰く、ジョアンは決して軽薄なゴシップ女優などではなく、きちんと基礎のできた演技のできる有望な若手であること、彼女の出演作は一見荒唐無稽なSFに見えるかもしれないが、その物語の中には普遍的な真理が含まれていること、今回演じるヘレナという役は、決して惨めな負け犬などではなくシグリットにはない人間的な温かみを持ったキャラクターであること、年齢を重ね年をとるという自然の摂理は何ら否定すべきものではないこと、などなどなど、ヘレナを受け入れることができず、時に理不尽なほどヒステリックになることもあるマリアに対し、ヴァレンティンは折につけ繰り返し忍耐強く説得を続けていくのです。
その結果、オファーを受け入れたマリアは、ヴァレンティンとふたり、メルヒオールが残した山荘に籠り、役作りをすることになる。その山荘の所在地がシルスマリア。映画の原題となっている土地で、物語の大半がこの美しいスイスのリゾート地で展開していきます。
劇中劇のタイトルである「マローヤのヘビ」というのは、この地で見られる自然現象を指します。イタリアの湖で生じた雲がスイスのマローヤ峠に流れ込んでくる様があたかも太いヘビのようであることからそう呼ばれている由。映画では、リアルタイムにこの"ヘビ"の姿を捉えると共に、100年前に撮影されたモノクロのフィルムに映し込まれた"ヘビ"の姿も映し出されていきます。
経年につれて絶え間なく変化していく人間という存在。それに対して絶対的に変わらぬものの象徴としてのヘビ。
このヘビの棲む地で、マリアはヴァレンティン相手に『マローヤのヘビ』の台詞合わせをする。そこでヘレナがシグリッドに投げつける台詞は、そのままマリアからヴァレンティンへの批判となり、シグリッドからヘレナに向けられた台詞は直接マリアの自尊心を傷つけ、シグリットの心情を語る台詞はヴァレンティンの胸中を代弁するものとなり、ただの台詞合わせのはずが、マリアとヴァレンティンによる丁々発止の闘いとなる。
その闘いの中で、マリアは何度ももうやめる、やっていられない、と弱音を吐くのですが、先述した通り、それをヴァレンティンは許さない。あなたはこの役をやるべきだ、と繰り返し諄々と諭してくる。ヴァレンティンの言葉自体は大変不器用な乏しい語彙の集積に過ぎないのに、いちいちが核心をついたもので、マリアはそれを完全に否定することができない。そうしてマリアをもう後戻りできないポイントまで追い込んだ瞬間、ヴァレンティンは忽然とマリアの前から姿を消してしまいます。
その唐突さは、ただ単に、別れの挨拶もなく夜寝ている間に、などといったものではなく、今そこにいたのに次の瞬間振り返るともういなくなっている、という現実感の乏しい突然の消失です。実際には、今までさんざんマリアの我儘に振り回され続けてきたヴァレンティンの堪忍袋の緒が、その瞬間ブチッと切れた、という描写だったとは思うのですが、いやいや、それにしてはあの消え方は示唆的に過ぎる。
それゆえ観客は否応なしにヴァレンティンの存在と消失が暗示するものについて思いを馳せることになります。普通なら、心理的に大変追い込まれているポイントで心の支えにしていた人間に去られてしまったら、マリアはそこで潰れてしまうだろうと予測されるところですが、実際はそうはならなかった。ヴァレンティンが消え去った後、マリアはどこかふっきれた態度で、粛々と新たなアシスタントを雇い入れ淡々と日々の業務をこなし着々とヘレナを演じる準備を整えていく。
だったらヴァレンティンとは何だったのか?
結果として、ヘレナを演じることはマリアにとってある種の通過儀礼だったことがわかります。それは決して「老い」を受け入れ、諦観し、一線を退くということではなく、それをきっかけにして別の階梯に上るための儀式であったかのような印象です。であれば、ヴァレンティンが触媒としての役割を果たしたことは疑いようがなく、更に言えば巫女や審神者といった存在であったのかもしれないとも思われます。
ジュリエット・ビノシュとクリステン・スチュワート、ふたりの女優の火花を散らす鬩ぎあいの凄まじい緊張感に比べれば、クロエ・グレース・モレッツのラインはやはり若干弱かった印象があります。ジョアンという奔放でインモラルで小悪魔的なキャラクターを他ならぬクロエ・グレース・モレッツが演じた、という驚きはあっても、ジョアンというキャラクター自体は、決して予測の範囲を出ることのない「作られたキャラクター」だったように感じます。
マリアやヴァレンティンに比べてジョアンの存在が小さかった以上に、出てくる男性たちがみな、更にもっとずっと矮小化されていたのも印象的です。あたかも遠眼鏡をさかさまに覗いたかのように、かれらの存在はとてもとても小さいのです。
『マローヤのヘビ』の初演時、18歳のマリアに手をだしたベテラン俳優は、存在をとことん貶められ、ヴァレンティンの恋人のフォトグラファーもジョアンの恋人の既婚者のアーティストも、何ら着目されることのない互換可能な部品のひとつに過ぎず、全ての物語の起点となったヴィルヘルム・メルヒオールにいたっては、スクリーンに姿を現すことすらありません。
『マローヤのヘビ』を再演しようとしている演出家のクラウスは、新進気鋭という触れ込みながら、以下のようなシーンと共に提示される。
『マローヤのヘビ』上演に先駆けた記者会見の席で、記者たちに囲まれたジョアンが質問に答えているシーンです。「クラウスの舞台に出ることになったの」などと投げやりに応えるジョアンに、記者が意地悪く「クラウスって誰です?」と尋ねる。「クラウスはクラウスよ」と苛立つジョアンを、「クラウス・クラウスさん?」と更に記者たちがからかう。すると、「知らないの? 調べればいいでしょ、それがあなたたちの仕事でしょ!?」とキレるジョアン。
これはもちろんジョアンのキャラクターを描写するためのシークエンスではあるのだけれど、それと同時にクラウスという「才能ある演出家」の存在を極限まで矮小化するシーンでもある。
こうして世界は極限まで縮み、そこに女優の自我のみが立ち上ってくる。
女優の自我は白い太いヘビのように、悠久の時を超えてシルスマリアの地を流れ進む。そこにあるのは、諦観とは真逆の解放感です。
・アクトレス~女たちの舞台~@ぴあ映画生活
オリヴィエ・アサイヤス監督作品。
クレジットされている国はフランス、ドイツ、スイスですが、言語は主に英語(時々フランス語)。ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツという三世代の演技派女優がそれぞれ妍を競う、大変見応えのある映画でした。
女優のマリア・エンダース(ジュリエット・ビノシュ)は、劇作家ヴィルヘルム・メルヒオールの代理として授賞式に出席するためチューリッヒに向かう途中、当の作家の訃報を受け取る。マリアは20年前、18歳でメルヒオールの舞台『マローヤのヘビ』に大抜擢されたおかげで今日の地位を得たのだ。急遽哀悼式となった授賞式後のパーティで、マリアは新進気鋭の演出家クラウス(ラース・アイディンガー)から、『マローヤのヘビ』のリメイク作品への出演依頼を受けるのだが。
というお話。
かつて『マローヤのヘビ』でマリアが演じたのは、シグリッドという名の娘。雇用先の女社長ヘレナを翻弄し、ついには自殺に至らしめた小悪魔的な女性です。その役がはまり役であり、シグリッドこそ自分自身にほかならないと自認するマリアは、再び『マローヤのヘビ』に出演するなら、その後のシグリッドを描いた続編でなければならないと考えていたのですが、受け取ったオファーは続編ではなく再演、その中で演じるのはシグリッドではなく彼女に振り回され破滅に至る女社長ヘレナの役。かつて自分の引き立て役としか思っていなかった惨めな中年女の役を演じろと言われたわけです。
しかも、そのリメイク版でシグリッドを演じる若いハリウッド女優ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ)は、本業よりむしろ芸能ゴシップで名を成した感のあるお騒がせ女優、出演作にしてもばかばかしいSF作品でのリアリティのない役。
マリアとしては当然、ざけんじゃねぇ、という気分ですからオファーに乗る気はなかったのですが、傍らでささやくヘビがいた。マネージャーのヴァレンティン(クリステン・スチュワート)です。
ヴァレンティンは大変有能な女性で、マリアのスケジュールを完璧に管理しているのみならず、私生活においても頼りになる相談役、世話役、遊び相手、キャリアについても適切な助言をしてくれる上に、仕事が決まれば読み合わせの相手役すら務めてくれる逸材。マリアはヴァレンティンに依存しているといってよく、ヴァレンティンがいなければ全く立ち行かない状況です。
そんなマリアとヴァレンティンの関係性は、家族より親密な間柄でありながら、契約に基づいた雇用関係である、という点が意味深い。ちょうどイギリスの上流階級の婦人と"コンパニオン"(主婦の話し相手、メイドより格上)のような関係。本来、家族を上回るほどの親密さであるのなら、当然その両者の関係は対等なものでなければならないはずなのに、マリアとヴァレンティンはあくまで雇い主と使用人の関係です。そこにどんなに尊敬や憧憬の情があっても、逆に信頼や愛情があっても、ふたりの関係は決して対等ではない。ヴァレンティンには意見を言うことは許されていても拒否権はないのです。そんな関係性は常に、密かに憎しみが醸成される甕となり得る。
ヴァレンティンはマリアに対し、今回のオファーを受けるよう積極的に勧めてきます。曰く、ジョアンは決して軽薄なゴシップ女優などではなく、きちんと基礎のできた演技のできる有望な若手であること、彼女の出演作は一見荒唐無稽なSFに見えるかもしれないが、その物語の中には普遍的な真理が含まれていること、今回演じるヘレナという役は、決して惨めな負け犬などではなくシグリットにはない人間的な温かみを持ったキャラクターであること、年齢を重ね年をとるという自然の摂理は何ら否定すべきものではないこと、などなどなど、ヘレナを受け入れることができず、時に理不尽なほどヒステリックになることもあるマリアに対し、ヴァレンティンは折につけ繰り返し忍耐強く説得を続けていくのです。
その結果、オファーを受け入れたマリアは、ヴァレンティンとふたり、メルヒオールが残した山荘に籠り、役作りをすることになる。その山荘の所在地がシルスマリア。映画の原題となっている土地で、物語の大半がこの美しいスイスのリゾート地で展開していきます。
劇中劇のタイトルである「マローヤのヘビ」というのは、この地で見られる自然現象を指します。イタリアの湖で生じた雲がスイスのマローヤ峠に流れ込んでくる様があたかも太いヘビのようであることからそう呼ばれている由。映画では、リアルタイムにこの"ヘビ"の姿を捉えると共に、100年前に撮影されたモノクロのフィルムに映し込まれた"ヘビ"の姿も映し出されていきます。
経年につれて絶え間なく変化していく人間という存在。それに対して絶対的に変わらぬものの象徴としてのヘビ。
このヘビの棲む地で、マリアはヴァレンティン相手に『マローヤのヘビ』の台詞合わせをする。そこでヘレナがシグリッドに投げつける台詞は、そのままマリアからヴァレンティンへの批判となり、シグリッドからヘレナに向けられた台詞は直接マリアの自尊心を傷つけ、シグリットの心情を語る台詞はヴァレンティンの胸中を代弁するものとなり、ただの台詞合わせのはずが、マリアとヴァレンティンによる丁々発止の闘いとなる。
その闘いの中で、マリアは何度ももうやめる、やっていられない、と弱音を吐くのですが、先述した通り、それをヴァレンティンは許さない。あなたはこの役をやるべきだ、と繰り返し諄々と諭してくる。ヴァレンティンの言葉自体は大変不器用な乏しい語彙の集積に過ぎないのに、いちいちが核心をついたもので、マリアはそれを完全に否定することができない。そうしてマリアをもう後戻りできないポイントまで追い込んだ瞬間、ヴァレンティンは忽然とマリアの前から姿を消してしまいます。
その唐突さは、ただ単に、別れの挨拶もなく夜寝ている間に、などといったものではなく、今そこにいたのに次の瞬間振り返るともういなくなっている、という現実感の乏しい突然の消失です。実際には、今までさんざんマリアの我儘に振り回され続けてきたヴァレンティンの堪忍袋の緒が、その瞬間ブチッと切れた、という描写だったとは思うのですが、いやいや、それにしてはあの消え方は示唆的に過ぎる。
それゆえ観客は否応なしにヴァレンティンの存在と消失が暗示するものについて思いを馳せることになります。普通なら、心理的に大変追い込まれているポイントで心の支えにしていた人間に去られてしまったら、マリアはそこで潰れてしまうだろうと予測されるところですが、実際はそうはならなかった。ヴァレンティンが消え去った後、マリアはどこかふっきれた態度で、粛々と新たなアシスタントを雇い入れ淡々と日々の業務をこなし着々とヘレナを演じる準備を整えていく。
だったらヴァレンティンとは何だったのか?
結果として、ヘレナを演じることはマリアにとってある種の通過儀礼だったことがわかります。それは決して「老い」を受け入れ、諦観し、一線を退くということではなく、それをきっかけにして別の階梯に上るための儀式であったかのような印象です。であれば、ヴァレンティンが触媒としての役割を果たしたことは疑いようがなく、更に言えば巫女や審神者といった存在であったのかもしれないとも思われます。
ジュリエット・ビノシュとクリステン・スチュワート、ふたりの女優の火花を散らす鬩ぎあいの凄まじい緊張感に比べれば、クロエ・グレース・モレッツのラインはやはり若干弱かった印象があります。ジョアンという奔放でインモラルで小悪魔的なキャラクターを他ならぬクロエ・グレース・モレッツが演じた、という驚きはあっても、ジョアンというキャラクター自体は、決して予測の範囲を出ることのない「作られたキャラクター」だったように感じます。
マリアやヴァレンティンに比べてジョアンの存在が小さかった以上に、出てくる男性たちがみな、更にもっとずっと矮小化されていたのも印象的です。あたかも遠眼鏡をさかさまに覗いたかのように、かれらの存在はとてもとても小さいのです。
『マローヤのヘビ』の初演時、18歳のマリアに手をだしたベテラン俳優は、存在をとことん貶められ、ヴァレンティンの恋人のフォトグラファーもジョアンの恋人の既婚者のアーティストも、何ら着目されることのない互換可能な部品のひとつに過ぎず、全ての物語の起点となったヴィルヘルム・メルヒオールにいたっては、スクリーンに姿を現すことすらありません。
『マローヤのヘビ』を再演しようとしている演出家のクラウスは、新進気鋭という触れ込みながら、以下のようなシーンと共に提示される。
『マローヤのヘビ』上演に先駆けた記者会見の席で、記者たちに囲まれたジョアンが質問に答えているシーンです。「クラウスの舞台に出ることになったの」などと投げやりに応えるジョアンに、記者が意地悪く「クラウスって誰です?」と尋ねる。「クラウスはクラウスよ」と苛立つジョアンを、「クラウス・クラウスさん?」と更に記者たちがからかう。すると、「知らないの? 調べればいいでしょ、それがあなたたちの仕事でしょ!?」とキレるジョアン。
これはもちろんジョアンのキャラクターを描写するためのシークエンスではあるのだけれど、それと同時にクラウスという「才能ある演出家」の存在を極限まで矮小化するシーンでもある。
こうして世界は極限まで縮み、そこに女優の自我のみが立ち上ってくる。
女優の自我は白い太いヘビのように、悠久の時を超えてシルスマリアの地を流れ進む。そこにあるのは、諦観とは真逆の解放感です。
・アクトレス~女たちの舞台~@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-10-30 14:09
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