2015年 05月 23日
真夜中のゆりかご
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★ネタバレ注意★
スサンネ・ビア監督のデンマーク映画です。
上映館が全国で6館しかない。面白いのに。
■未来を生きる君たちへ
■マイ・ブラザー
刑事のアンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は、妻アナ(マリア・ボネヴィー)との間に男の子を授かったばかり。可愛い赤ん坊と美しい妻。日々の暮らしは幸せに包まれていた。そんなある日、通報を受けて駆けつけた低所得者用アパートの一室では、かつて逮捕したことのあるドラッグディーラーのトリスタン(ニコライ・リー・コス)が恋人のサネ(リッケ・マイ・アナスン)を虐待していた。サネはトリスタンの子を産んでいたが、トリスタンは認知せず、育児放棄された乳児は糞尿にまみれたまま放置されていた。ほぼ同じ月齢の子どもを持つアンドレアスには他人事とは思えなかったが、法律の壁に阻まれ保護することもできず、それ以来その子の安否が気遣われてならないのだった。
という物語は、まず主演のニコライ・コスター=ワルドーが良いです。映画冒頭の幸せな若い父親を演じる場面では、その整った容貌は目の優しさが印象的なふんわり甘いマスクに思われるのに、問題が発生し、追い詰められていくにつれ、実はこのひとの顔は線の細い柔和な造りなんかじゃなく、北欧特有の鑿で削いだようなラングレン顔であることが際立ってくる。最初の印象は雰囲気からくるブラフだったんです。うまいぞ、ニコライ。
かれのみならず、この映画、上記主要人物4人が全員とても良いです。
まず、薬に溺れ女を殴り実子をネグレクトし、保身のためには嘘を厭わず他人に罪をなすりつけ逃げてばかりの最低野郎を演じたニコライ・リー・コスがまた、震えがくるほど最低野郎でほんとにいい、のだけれども、やぁだ、このひとって、『天使と悪魔』のセクシーな暗殺者を演ったひとじゃないの。イメージが違いすぎるじゃないの。
そして女性陣。
妻のアナを演じたマリア・ボネヴィーは大変美しい。幸せであってしかるべき暮らしでありながら、わずかな齟齬から次第に壊れていく女、その灰の塊が風化していくかの如き微妙な壊れ加減を、息をつめるような繊細さで演じきってすばらしいです。
更に、もうひとりの母親であるサネは、悪い男とわかっていながらトリスタンから離れることができず、その結果、自分も息子も傷つけてしまった、弱く愚かでどうしようもない女ですが、そんな悲しい女を演じてリッケ・マイ・アナスンは大変説得力があります。腐臭が漂うような荒れた部屋で、ラリッたり泣いたりわめいたりしているというのに、匂い立つような色香を感じさせるのも凄い。しかもこのひとって、演技経験のないモデル出身のひとなんですってよ。
スサンネ・ビア監督はアップを多用する演出で、こうした役者たちの目の表情を執拗に捉え、それぞれの役者たちの心理状態を絶妙の距離感で抉り出すことに成功していました。
この映画は、異なる境遇の二組の男女の間に生まれたふたりの赤ん坊を対比させることによって、貧富の差とか麻薬とかDVとか虐待児童の保護を巡る問題とか、あれやこれやの社会矛盾を描き出した社会派の作品、と考えるのがわかりやすいですが、それ以上にやはりこれは、葛藤の渦中に投げ込まれた人々の心の軌跡を描くヒューマンドラマであり、更に言えば、ピリピリと皮膚を刺すような不安と闇とどんでん返しが交錯する上質のミステリでもあります。要は、人々が投げ込まれた葛藤について、なぜ事態がそのように推移したのかを描くに際し、心憎いばかりに巧みな計算が施された絶妙のタイミングで畳みかけていく描写が、常に観客を次への興味へと引っ張って離さないミステリとして成立しているということです。
とは言えしかし、ただそれだけであるのなら、様々な可能性の中から敢えて「このような葛藤」を持ち込むこともなかったと思うので、物語の造りがこのようであったのは、他にも何か、語りたいテーマがあったんだろうなと考えてみるのもオツなものであります。
たとえば、善意の暴走とかね。
アンドレアスが心優しい善良な男であり、妻を愛し子を愛し、自分にできる精一杯の力で家族を守ってきたひとであることについては異論の余地もありません。かれはよき夫であり、よき父親であった。
だけど残念なことに、このひとってば、決定的に、鈍感なのよ、どうしようもなく。
たとえば新聞の家庭欄的嫁姑戦争に置き換えてみるとわかりやすい。
善意の夫が妻と相談もせずに夫実家との同居を決めてしまう、とかいうありがちなシチュエーションです。夫にとって、姑は自分の実母ですから気心が知れた信頼できるひとであるに決まっています。妻にしたって、たまの盆暮れ正月に姑と会う際には、いつもニコニコと楽しそうにしているのだから姑が嫌いであるわけがない。自分が好きなふたりの女性が一緒に住めば、不慣れな妻はベテランの姑に育児を手伝ってもらえるし、寂しい姑は可愛い孫のそばにいられるし、まさにウィンウィンのプランじゃん! というわけです。
この「優しい」夫の目には、昨日まで赤の他人だった全く親しくもなければ共通の話題もない年長の女性に、そのひとが夫の母親であるというただそれだけの理由で、精一杯気を遣い、なおかつ極力その気遣いを見せないようにふるまっている妻の気の張りなんて、全く見えてもいないのです。盆暮れ正月に顔を合わせるのだって肩がこるというのに、そんな緊張状態で、不慣れな育児をこなしつつ、一つ屋根の下で暮らさなければならないとしたら、心休まる時なぞあるまいに、ホームで伸び伸びくつろく夫には、ヘタすりゃ壊れてしまいかねない妻の心がわからない。
もう一度言うけれど、この夫には何の悪気もないのです。ただ他人の表情を観察するとか、他人の立場に立って考えるとか、他人の気持ちを思いやるとか、要するにまっとうな人間関係を築いていく上での想像力や共感能力が絶望的に欠落していただけ。ほんとにかれは善人なんです、悪人じゃないんです。だけど悲劇の原因を問うならば、戦犯が誰かは火を見るよりも明らかだ。
という視点を胸にかれの行動を振り返れば、まず、妻との最初のシーンからあり得ないことがわかるのです。かれが最初に妻の待つ家に帰宅するシーンでは、妻は子ども部屋の飾りつけに余念がありません。しかし既にしてこのシーンから、なかなかに不穏で奇妙な空気が漂っています。なぜなら、黙々と壁を飾り付けている妻の足元で、子どもは延々と泣き喚いているからです。そんなわが子の声などまるで聞こえていないかのような涼しい顔で、帰宅した夫にふんわりとほほ笑みかける妻、そして、妻が子供を放置していたという事実に気づくことすらなく、ニコニコ笑いながら子どもをあやし始める夫。
自然に子どもをあやすことのできるアンドレアスがいかにイクメンであるかを描写するための演出、であるにしてはこのシーンはアンバランスで危うい。アナはどこかおかしい。もちろん監督がそのように意図し、ファーストインパクトですぐに観客が気づいてしまうそのことに、ただアンドレアスだけが気がつかない。
そうして見れば、兆候はいくらでもあった。赤ん坊が夜泣きするとき、すぐに飛び起きる夫と比べて妻の動きが妙に鈍いのも気になるし、息子の異変に気付いた夫が救急に電話するよう促した際になぜか動こうとしないのもそうなら、その後絶対に警察に通報するなとヒステリーを起こすとあってはもう決定的。要するに「そういうこと」でしょうに。監督はかなりあからさまにアナはヤバイよとメッセージを散りばめていき、観客もまた確かにアナはヤバイよね、と不安な気持ちでそれを掬い上げていくのに、アンドレアスだけが微塵も気づいていないのです。
それはまた一方で、子供をネグレクトする母親であれば、そんな子供がいなくなっても嘆くことはないと高を括ってしまうのも根は同じことです。どんなに悪い母親でも、サネはサネなりに子どもを愛していた、大事に思っていた、なんて夢にも思わない。
だって自分は間違っちゃいないから。サネの子どもを攫ったのは、子どもを亡くして悲しんでいる妻に、同じ年頃の赤ん坊を抱かせてやれば、悲しみも癒えるだろうと思ったから。サネの下から子どもを連れ去ったのは、あんな親に虐待されて育つより、清潔で暖かいより豊かな暮らしを与えてやった方が、子どもにとって幸せだから。まさにウィンウィンのプランじゃん!
その結果かれが知らなければならなかったことは、母親にとってわが子は絶対無二の存在であること、取り換えなんぞきくはずもないこと、それはどんな母親にとっても変わりがないこと、わが子を愛する気持ちに貴賤などないこと、いや何よりもそれ以上に、それほど愛しいわが子であっても、必ずしも上手に愛することができるとは限らないこと、女は自動的に母親になれるわけではないこと、事はそんな単純なものではないこと。
衝撃でしたか、アンドレアス?
それだけのことを学ぶのに、代償はあまりにも大きかったね。
ラスト、わが子を取り戻したサネが、共依存の関係にあったトリスタンから離れることができた結果、きちんとその子を育てられるようになり、子どもがまっとうに育っていることが示唆されて終わるのは重畳ですが、一点どうしてもそれはやっぱり違うんじゃないかと思うポイントがありました。トリスタンと暮らしていた時のサネの子育てに関する描写です。
あんな男がそばにいてしょっちゅう暴力ばっかり振るわれていたら、そりゃまともな子育てなんかできるわけがなかろうけれども、汚物まみれにする、というのはどう考えても「ない」と思ってしまうのです。オムツすら換えてやらない、というのはやはり、誰がどう見てもネグレクトなわけで、「最悪な環境ではあったけれど、それでもあの子を愛していた」という基調となる主張とは相いれない。むしろ、部屋はごみ溜めのようだったけれど、赤ん坊だけは小ざっぱりとした身なりをしていた、というのでなければ。尤も、ウンチまみれの姿を見たからこそアンドレアスが暴走したわけではあるのだけれど。
・真夜中のゆりかご@ぴあ映画生活
スサンネ・ビア監督のデンマーク映画です。
上映館が全国で6館しかない。面白いのに。
■未来を生きる君たちへ
■マイ・ブラザー
刑事のアンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は、妻アナ(マリア・ボネヴィー)との間に男の子を授かったばかり。可愛い赤ん坊と美しい妻。日々の暮らしは幸せに包まれていた。そんなある日、通報を受けて駆けつけた低所得者用アパートの一室では、かつて逮捕したことのあるドラッグディーラーのトリスタン(ニコライ・リー・コス)が恋人のサネ(リッケ・マイ・アナスン)を虐待していた。サネはトリスタンの子を産んでいたが、トリスタンは認知せず、育児放棄された乳児は糞尿にまみれたまま放置されていた。ほぼ同じ月齢の子どもを持つアンドレアスには他人事とは思えなかったが、法律の壁に阻まれ保護することもできず、それ以来その子の安否が気遣われてならないのだった。
という物語は、まず主演のニコライ・コスター=ワルドーが良いです。映画冒頭の幸せな若い父親を演じる場面では、その整った容貌は目の優しさが印象的なふんわり甘いマスクに思われるのに、問題が発生し、追い詰められていくにつれ、実はこのひとの顔は線の細い柔和な造りなんかじゃなく、北欧特有の鑿で削いだようなラングレン顔であることが際立ってくる。最初の印象は雰囲気からくるブラフだったんです。うまいぞ、ニコライ。
かれのみならず、この映画、上記主要人物4人が全員とても良いです。
まず、薬に溺れ女を殴り実子をネグレクトし、保身のためには嘘を厭わず他人に罪をなすりつけ逃げてばかりの最低野郎を演じたニコライ・リー・コスがまた、震えがくるほど最低野郎でほんとにいい、のだけれども、やぁだ、このひとって、『天使と悪魔』のセクシーな暗殺者を演ったひとじゃないの。イメージが違いすぎるじゃないの。
そして女性陣。
妻のアナを演じたマリア・ボネヴィーは大変美しい。幸せであってしかるべき暮らしでありながら、わずかな齟齬から次第に壊れていく女、その灰の塊が風化していくかの如き微妙な壊れ加減を、息をつめるような繊細さで演じきってすばらしいです。
更に、もうひとりの母親であるサネは、悪い男とわかっていながらトリスタンから離れることができず、その結果、自分も息子も傷つけてしまった、弱く愚かでどうしようもない女ですが、そんな悲しい女を演じてリッケ・マイ・アナスンは大変説得力があります。腐臭が漂うような荒れた部屋で、ラリッたり泣いたりわめいたりしているというのに、匂い立つような色香を感じさせるのも凄い。しかもこのひとって、演技経験のないモデル出身のひとなんですってよ。
スサンネ・ビア監督はアップを多用する演出で、こうした役者たちの目の表情を執拗に捉え、それぞれの役者たちの心理状態を絶妙の距離感で抉り出すことに成功していました。
この映画は、異なる境遇の二組の男女の間に生まれたふたりの赤ん坊を対比させることによって、貧富の差とか麻薬とかDVとか虐待児童の保護を巡る問題とか、あれやこれやの社会矛盾を描き出した社会派の作品、と考えるのがわかりやすいですが、それ以上にやはりこれは、葛藤の渦中に投げ込まれた人々の心の軌跡を描くヒューマンドラマであり、更に言えば、ピリピリと皮膚を刺すような不安と闇とどんでん返しが交錯する上質のミステリでもあります。要は、人々が投げ込まれた葛藤について、なぜ事態がそのように推移したのかを描くに際し、心憎いばかりに巧みな計算が施された絶妙のタイミングで畳みかけていく描写が、常に観客を次への興味へと引っ張って離さないミステリとして成立しているということです。
とは言えしかし、ただそれだけであるのなら、様々な可能性の中から敢えて「このような葛藤」を持ち込むこともなかったと思うので、物語の造りがこのようであったのは、他にも何か、語りたいテーマがあったんだろうなと考えてみるのもオツなものであります。
たとえば、善意の暴走とかね。
アンドレアスが心優しい善良な男であり、妻を愛し子を愛し、自分にできる精一杯の力で家族を守ってきたひとであることについては異論の余地もありません。かれはよき夫であり、よき父親であった。
だけど残念なことに、このひとってば、決定的に、鈍感なのよ、どうしようもなく。
たとえば新聞の家庭欄的嫁姑戦争に置き換えてみるとわかりやすい。
善意の夫が妻と相談もせずに夫実家との同居を決めてしまう、とかいうありがちなシチュエーションです。夫にとって、姑は自分の実母ですから気心が知れた信頼できるひとであるに決まっています。妻にしたって、たまの盆暮れ正月に姑と会う際には、いつもニコニコと楽しそうにしているのだから姑が嫌いであるわけがない。自分が好きなふたりの女性が一緒に住めば、不慣れな妻はベテランの姑に育児を手伝ってもらえるし、寂しい姑は可愛い孫のそばにいられるし、まさにウィンウィンのプランじゃん! というわけです。
この「優しい」夫の目には、昨日まで赤の他人だった全く親しくもなければ共通の話題もない年長の女性に、そのひとが夫の母親であるというただそれだけの理由で、精一杯気を遣い、なおかつ極力その気遣いを見せないようにふるまっている妻の気の張りなんて、全く見えてもいないのです。盆暮れ正月に顔を合わせるのだって肩がこるというのに、そんな緊張状態で、不慣れな育児をこなしつつ、一つ屋根の下で暮らさなければならないとしたら、心休まる時なぞあるまいに、ホームで伸び伸びくつろく夫には、ヘタすりゃ壊れてしまいかねない妻の心がわからない。
もう一度言うけれど、この夫には何の悪気もないのです。ただ他人の表情を観察するとか、他人の立場に立って考えるとか、他人の気持ちを思いやるとか、要するにまっとうな人間関係を築いていく上での想像力や共感能力が絶望的に欠落していただけ。ほんとにかれは善人なんです、悪人じゃないんです。だけど悲劇の原因を問うならば、戦犯が誰かは火を見るよりも明らかだ。
という視点を胸にかれの行動を振り返れば、まず、妻との最初のシーンからあり得ないことがわかるのです。かれが最初に妻の待つ家に帰宅するシーンでは、妻は子ども部屋の飾りつけに余念がありません。しかし既にしてこのシーンから、なかなかに不穏で奇妙な空気が漂っています。なぜなら、黙々と壁を飾り付けている妻の足元で、子どもは延々と泣き喚いているからです。そんなわが子の声などまるで聞こえていないかのような涼しい顔で、帰宅した夫にふんわりとほほ笑みかける妻、そして、妻が子供を放置していたという事実に気づくことすらなく、ニコニコ笑いながら子どもをあやし始める夫。
自然に子どもをあやすことのできるアンドレアスがいかにイクメンであるかを描写するための演出、であるにしてはこのシーンはアンバランスで危うい。アナはどこかおかしい。もちろん監督がそのように意図し、ファーストインパクトですぐに観客が気づいてしまうそのことに、ただアンドレアスだけが気がつかない。
そうして見れば、兆候はいくらでもあった。赤ん坊が夜泣きするとき、すぐに飛び起きる夫と比べて妻の動きが妙に鈍いのも気になるし、息子の異変に気付いた夫が救急に電話するよう促した際になぜか動こうとしないのもそうなら、その後絶対に警察に通報するなとヒステリーを起こすとあってはもう決定的。要するに「そういうこと」でしょうに。監督はかなりあからさまにアナはヤバイよとメッセージを散りばめていき、観客もまた確かにアナはヤバイよね、と不安な気持ちでそれを掬い上げていくのに、アンドレアスだけが微塵も気づいていないのです。
それはまた一方で、子供をネグレクトする母親であれば、そんな子供がいなくなっても嘆くことはないと高を括ってしまうのも根は同じことです。どんなに悪い母親でも、サネはサネなりに子どもを愛していた、大事に思っていた、なんて夢にも思わない。
だって自分は間違っちゃいないから。サネの子どもを攫ったのは、子どもを亡くして悲しんでいる妻に、同じ年頃の赤ん坊を抱かせてやれば、悲しみも癒えるだろうと思ったから。サネの下から子どもを連れ去ったのは、あんな親に虐待されて育つより、清潔で暖かいより豊かな暮らしを与えてやった方が、子どもにとって幸せだから。まさにウィンウィンのプランじゃん!
その結果かれが知らなければならなかったことは、母親にとってわが子は絶対無二の存在であること、取り換えなんぞきくはずもないこと、それはどんな母親にとっても変わりがないこと、わが子を愛する気持ちに貴賤などないこと、いや何よりもそれ以上に、それほど愛しいわが子であっても、必ずしも上手に愛することができるとは限らないこと、女は自動的に母親になれるわけではないこと、事はそんな単純なものではないこと。
衝撃でしたか、アンドレアス?
それだけのことを学ぶのに、代償はあまりにも大きかったね。
ラスト、わが子を取り戻したサネが、共依存の関係にあったトリスタンから離れることができた結果、きちんとその子を育てられるようになり、子どもがまっとうに育っていることが示唆されて終わるのは重畳ですが、一点どうしてもそれはやっぱり違うんじゃないかと思うポイントがありました。トリスタンと暮らしていた時のサネの子育てに関する描写です。
あんな男がそばにいてしょっちゅう暴力ばっかり振るわれていたら、そりゃまともな子育てなんかできるわけがなかろうけれども、汚物まみれにする、というのはどう考えても「ない」と思ってしまうのです。オムツすら換えてやらない、というのはやはり、誰がどう見てもネグレクトなわけで、「最悪な環境ではあったけれど、それでもあの子を愛していた」という基調となる主張とは相いれない。むしろ、部屋はごみ溜めのようだったけれど、赤ん坊だけは小ざっぱりとした身なりをしていた、というのでなければ。尤も、ウンチまみれの姿を見たからこそアンドレアスが暴走したわけではあるのだけれど。
・真夜中のゆりかご@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-05-23 19:45
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