2015年 02月 17日
エクソダス:神と王
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★ネタバレ注意★
リドリー・スコット監督のアメリカ映画です。
モーゼの「出エジプト記」がモチーフの話ですので、無条件に神様は絶対! という話だったら困るなぁ、というのが一番の懸念でした。あと、リドスコ監督は、2012年の『プロメテウス』も翌年の『悪の法則』もなんだか微妙な印象だったので、それも懸念材料だったかも。
だけど映画冒頭、ラムセスとモーゼに率いられたエジプト軍がヒッタイトの大軍と激突するシーンを観たとき、それらの懸念が二つながらに見事に払拭された思いがしました。リドスコ監督はご存知の通り、大きなシーンを撮るのがすばらしくうまい。広大な戦場で戦う大勢の人々を描いて、どうせほんとに人間が演じているのは手前の数人だけで、奥は全部CGだよね、なんて余計なことを全く感じさせない緊張感のある画面の中で、誰がなぜ何をどうしてその結果どうなったかがストレスなく伝わってくる手綱さばき。この華麗な演出は娯楽作品に対する期待を否応なく盛り上げてくれます。
考えてみればこの映画のサブタイトルは"GODS AND KINGS"、神様が複数形になっているということは、この映画のスタンスが原理主義的に旧約聖書を描写することにはないことへのわかりやすい意思表明でもあるわけで、描写の力からくる期待と、監督のスタンスに対する表明から、観客はこれを純然たる「史劇」として観ていいものだと安堵を得たのです。
神のことを語ろうとするモーゼに、苛立ったラムセスが「どの神の話だ?」と吐き捨てる台詞が印象的だったのだけど、この"Which God?" という台詞は原理主義者のハートを凍り付かせたに違いない。
とは言え全体を観終わると、完全に懸念が払拭されたわけでもなかったなぁ、という思いが残りました。史劇にしたがために伝えそこなった部分と、史劇というには描写に合理性を欠く部分が混在していて、どっちつかずになってしまった印象なのです。なによりも、スペクタクルな映像に対する喜びはあっても、ドラマから得られる感興が思いのほか薄かった。これだけ力のこもった映画を見せられて、特に胸に迫ってくるものがなかったというのは何らや虚しい。
中でも一番伝わってこなかったのは他ならぬモーゼの信仰心です。この映画を観る限りにおいては、モーゼの信仰の正体、モーゼと神との関係がさっぱりわからない。モーゼと神との関係なんて、そんなの自明の理じゃん、説明するまでもないじゃん! という前提なのかもしれないけれど、劇映画として提供するなら、「説明するまでもない」じゃ困ると思うの。
モーゼの信仰がわからないから、ヘブライの人々に対するかれの感情もまたわかりません。エジプトの王族の一員として成長し、ヘブライ人が奴隷として酷使されていても、(酷使の程度が目に余る場合は問題視しても酷使されているその事自体には)微塵も疑問を抱かずにきた男が、追放されたさきで得た幸福な結婚生活をかなぐり捨ててまでエジプトに戻った動機がわからないし、ヘブライの人々を"my people"と呼ぶに至る心の軌跡がわからない。
モーゼのヘブライ人たる自覚については、せっかくヘブライ人の長老ヌンとしてベン・キングズレーという人材を得たのだから、もっとかれに役割を与えればよかったのに、と残念な気持ちがします。あの名優の名演でもってモーゼを説得なり懐柔なり洗脳なりしていれば、さしものモーゼとて覚醒なり共鳴なり納得なりしたんじゃないかと思うのだけど。ちょっとキングスレーの使い方は勿体なかった感があります。
神とモーゼの描写については疑問を感じてしまいましたが、一方、モーゼとラムセスの関係描写は悪くなかった。というより、ラムセスを演じたジョエル・エドガートンが全くもって悪くなかった。あのね、実を言うとね、予告編を観た時はラムセスにエドガートンという配役がちょっと不満だったのですよ。だって一方のモーゼがクリスチャン・ベイルでしょ。聖書の人々の中でも一二を争う有名人物モーゼを演じるに全くもって不足のない美貌と演技力を具備し、肉体的強靭さも醸し出すカリスマ性も文句なしのベイル相手に、エドガートンじゃあ物足りないと思ってしまったの。なんかもっとこう、華があったりアクが強かったりする人が他にいたんじゃないの、とか思ってしまって。ごめんね、エドガートン、そんなことなかった、ラムセスはあなたで大正解だった。
ラムセスは神を自認するエジプトの王となった人だけど、ほんとはそんなに強い人ではなかったのね。王に生まれついてしまっただけの、凡庸で小心な一人の男に過ぎなかった。そして、もしかしたら善良ですらあったかもしれないかれの個性は、エジプトの王座なんて狂気じみたものに座るのには、むしろ邪魔にしかならないものだった。むしろモーゼの方が、奴隷の出自を持つ遺棄されて偽りの経歴の中秘密に育てられた男の方が、すんなりとあの椅子に馴染んだのかもしれない。
そんなラムセスは妻を愛する夫であり、子煩悩な父親として描写されています。かれがまだ幼い赤ん坊の息子に語り掛ける言葉は印象的です。
おまえはほんとにぐっすり眠るね、愛されていることを知っているからだね。わたしは一度もそんな風に眠れたことなどないのだがなぁ。
華やかな英雄なんかじゃない、軍人としても為政者としても平凡な男、だからこそモーゼに反発し、対抗心を燃やし、諦めることができなかった。もっと早いタイミングでヘブライの人々を解放していれば、あそこまでヘブライの神に徹底的に痛めつけられることもなかっただろうに。わが子を失わずとも済んだだろうに。ラムセスにはそれができなかった。哀れでもあり滑稽でもある。だけどそんな為政者を頭上に抱くエジプトの民は悲劇だ。ましてやその男が神を自認するとあれば。
あとキャストで面白かったのは、ラムセスの父王セティを演じたジョン・タトゥーロと、モーゼの後継者であるヨシュアを演じたアーロン・ポールです。タトゥーロについては、あのタトゥーロに「エジプトの王様」を演じさせたキャスティングにまずビックリだったんだけど、そのあまりにも意外な組み合わせが見事にマッチしていたので二度ビックリでした。キャスティングディレクター、凄い。セティ王がなかなか聡明で公平な名君として描かれていたのもよかったです。
アーロン・ポールは『ブレイキング・バッド』のジェシー・ピンクマンですね。ジェシーはシーズン1で消えるはずのキャラクターだったのに、アーロン・ポールがあまりにもよかったので結局最後まで続投どころか、シーズンを追うごとに重要度が増していった、あのドラマ世界随一の「成長キャラ」で、ジェシーがそんなキャラになったのもひとえにポールの功績なんだけど、この映画でも何だかかれから目が離せなかったです。特にかれのエピソードがあったわけでも印象的な台詞があったわけでもないんだけど、いるだけで不思議な存在感がある感じ。この役者さん、これからもっと役者としての凄味を増していくかもしれない。楽しみですね。
ところで、出エジプト記と言えば気になるのが40万人と言われるヘブライ人を受け入れざるを得なくなったカナンの人々の不幸です。ヘブライ人たちからすれば神様が約束してくれたんだもん、と悪びれる気もないところですが、そんな連中が40万人も押しかけてきたらそりゃたまったもんじゃない。誰もが感じるその疑問については、映画でも目配りされていて、モーゼの口から「今度は、我々こそが侵略者だ」という台詞を言わせています。だけどその台詞って、史劇の中で歴史上の人物が口にした言葉というよりは、とても現代的な価値観に基づく発言に聞こえる。色々とデリケートな問題が満載の地域ですし、そこは仕方ないとも言えるけれども。
最後に、エジプトを追われ、ミディアン地方で出会った女性ツィポラ(マリア・バルベルデ)と結婚したモーゼが、初夜の場で述べた「結婚の誓い」が心に残りました。
ツィポラ: Who makes you happy?
モーゼ : You do.
ツィポラ: Whats the most important thing in your life?
モーゼ : You are.
ツィポラ: Where would you rather to be?
モーゼ : Nowhere.
ツィポラ: When will you leave me?
モーゼ : Never.
そしてモーゼの「決して」という誓いを聞いたツィポラは、晴れやかに微笑んで"Proceed!(続けていいわよ!)" と「お預け」を解除するのです。
いいでしょ、これ。これからセックスしようとする青少年はとりあえずこの台詞を交わすのがいいんじゃないかしら、と思ったですよ。一時の性欲に負けて一個の独立した人格である相手を単なる性欲解消の道具として扱うような愚を犯さずに済むし、性欲解消の道具にされて傷つくような愚を犯さずに済むんじゃないかな。
そして更にこの誓いの言葉は、艱難辛苦を乗り越えた後、再会を果たした夫婦が、今度は立場を入れ替えて繰り返すという演出がなされています。モーゼは心から幸せそうだし、ツィポラは待った甲斐があったというものだ。この後カナンに至るまで40年も流離い続ける運命にあろうと、結局モーゼ自身はカナンの地に入ることが叶わなかったとしても、現世で愛し愛されて、この上何を望むだろう。
・エクソダス:神と王@ぴあ映画生活
リドリー・スコット監督のアメリカ映画です。
モーゼの「出エジプト記」がモチーフの話ですので、無条件に神様は絶対! という話だったら困るなぁ、というのが一番の懸念でした。あと、リドスコ監督は、2012年の『プロメテウス』も翌年の『悪の法則』もなんだか微妙な印象だったので、それも懸念材料だったかも。
だけど映画冒頭、ラムセスとモーゼに率いられたエジプト軍がヒッタイトの大軍と激突するシーンを観たとき、それらの懸念が二つながらに見事に払拭された思いがしました。リドスコ監督はご存知の通り、大きなシーンを撮るのがすばらしくうまい。広大な戦場で戦う大勢の人々を描いて、どうせほんとに人間が演じているのは手前の数人だけで、奥は全部CGだよね、なんて余計なことを全く感じさせない緊張感のある画面の中で、誰がなぜ何をどうしてその結果どうなったかがストレスなく伝わってくる手綱さばき。この華麗な演出は娯楽作品に対する期待を否応なく盛り上げてくれます。
考えてみればこの映画のサブタイトルは"GODS AND KINGS"、神様が複数形になっているということは、この映画のスタンスが原理主義的に旧約聖書を描写することにはないことへのわかりやすい意思表明でもあるわけで、描写の力からくる期待と、監督のスタンスに対する表明から、観客はこれを純然たる「史劇」として観ていいものだと安堵を得たのです。
神のことを語ろうとするモーゼに、苛立ったラムセスが「どの神の話だ?」と吐き捨てる台詞が印象的だったのだけど、この"Which God?" という台詞は原理主義者のハートを凍り付かせたに違いない。
とは言え全体を観終わると、完全に懸念が払拭されたわけでもなかったなぁ、という思いが残りました。史劇にしたがために伝えそこなった部分と、史劇というには描写に合理性を欠く部分が混在していて、どっちつかずになってしまった印象なのです。なによりも、スペクタクルな映像に対する喜びはあっても、ドラマから得られる感興が思いのほか薄かった。これだけ力のこもった映画を見せられて、特に胸に迫ってくるものがなかったというのは何らや虚しい。
中でも一番伝わってこなかったのは他ならぬモーゼの信仰心です。この映画を観る限りにおいては、モーゼの信仰の正体、モーゼと神との関係がさっぱりわからない。モーゼと神との関係なんて、そんなの自明の理じゃん、説明するまでもないじゃん! という前提なのかもしれないけれど、劇映画として提供するなら、「説明するまでもない」じゃ困ると思うの。
モーゼの信仰がわからないから、ヘブライの人々に対するかれの感情もまたわかりません。エジプトの王族の一員として成長し、ヘブライ人が奴隷として酷使されていても、(酷使の程度が目に余る場合は問題視しても酷使されているその事自体には)微塵も疑問を抱かずにきた男が、追放されたさきで得た幸福な結婚生活をかなぐり捨ててまでエジプトに戻った動機がわからないし、ヘブライの人々を"my people"と呼ぶに至る心の軌跡がわからない。
モーゼのヘブライ人たる自覚については、せっかくヘブライ人の長老ヌンとしてベン・キングズレーという人材を得たのだから、もっとかれに役割を与えればよかったのに、と残念な気持ちがします。あの名優の名演でもってモーゼを説得なり懐柔なり洗脳なりしていれば、さしものモーゼとて覚醒なり共鳴なり納得なりしたんじゃないかと思うのだけど。ちょっとキングスレーの使い方は勿体なかった感があります。
神とモーゼの描写については疑問を感じてしまいましたが、一方、モーゼとラムセスの関係描写は悪くなかった。というより、ラムセスを演じたジョエル・エドガートンが全くもって悪くなかった。あのね、実を言うとね、予告編を観た時はラムセスにエドガートンという配役がちょっと不満だったのですよ。だって一方のモーゼがクリスチャン・ベイルでしょ。聖書の人々の中でも一二を争う有名人物モーゼを演じるに全くもって不足のない美貌と演技力を具備し、肉体的強靭さも醸し出すカリスマ性も文句なしのベイル相手に、エドガートンじゃあ物足りないと思ってしまったの。なんかもっとこう、華があったりアクが強かったりする人が他にいたんじゃないの、とか思ってしまって。ごめんね、エドガートン、そんなことなかった、ラムセスはあなたで大正解だった。
ラムセスは神を自認するエジプトの王となった人だけど、ほんとはそんなに強い人ではなかったのね。王に生まれついてしまっただけの、凡庸で小心な一人の男に過ぎなかった。そして、もしかしたら善良ですらあったかもしれないかれの個性は、エジプトの王座なんて狂気じみたものに座るのには、むしろ邪魔にしかならないものだった。むしろモーゼの方が、奴隷の出自を持つ遺棄されて偽りの経歴の中秘密に育てられた男の方が、すんなりとあの椅子に馴染んだのかもしれない。
そんなラムセスは妻を愛する夫であり、子煩悩な父親として描写されています。かれがまだ幼い赤ん坊の息子に語り掛ける言葉は印象的です。
おまえはほんとにぐっすり眠るね、愛されていることを知っているからだね。わたしは一度もそんな風に眠れたことなどないのだがなぁ。
華やかな英雄なんかじゃない、軍人としても為政者としても平凡な男、だからこそモーゼに反発し、対抗心を燃やし、諦めることができなかった。もっと早いタイミングでヘブライの人々を解放していれば、あそこまでヘブライの神に徹底的に痛めつけられることもなかっただろうに。わが子を失わずとも済んだだろうに。ラムセスにはそれができなかった。哀れでもあり滑稽でもある。だけどそんな為政者を頭上に抱くエジプトの民は悲劇だ。ましてやその男が神を自認するとあれば。
あとキャストで面白かったのは、ラムセスの父王セティを演じたジョン・タトゥーロと、モーゼの後継者であるヨシュアを演じたアーロン・ポールです。タトゥーロについては、あのタトゥーロに「エジプトの王様」を演じさせたキャスティングにまずビックリだったんだけど、そのあまりにも意外な組み合わせが見事にマッチしていたので二度ビックリでした。キャスティングディレクター、凄い。セティ王がなかなか聡明で公平な名君として描かれていたのもよかったです。
アーロン・ポールは『ブレイキング・バッド』のジェシー・ピンクマンですね。ジェシーはシーズン1で消えるはずのキャラクターだったのに、アーロン・ポールがあまりにもよかったので結局最後まで続投どころか、シーズンを追うごとに重要度が増していった、あのドラマ世界随一の「成長キャラ」で、ジェシーがそんなキャラになったのもひとえにポールの功績なんだけど、この映画でも何だかかれから目が離せなかったです。特にかれのエピソードがあったわけでも印象的な台詞があったわけでもないんだけど、いるだけで不思議な存在感がある感じ。この役者さん、これからもっと役者としての凄味を増していくかもしれない。楽しみですね。
ところで、出エジプト記と言えば気になるのが40万人と言われるヘブライ人を受け入れざるを得なくなったカナンの人々の不幸です。ヘブライ人たちからすれば神様が約束してくれたんだもん、と悪びれる気もないところですが、そんな連中が40万人も押しかけてきたらそりゃたまったもんじゃない。誰もが感じるその疑問については、映画でも目配りされていて、モーゼの口から「今度は、我々こそが侵略者だ」という台詞を言わせています。だけどその台詞って、史劇の中で歴史上の人物が口にした言葉というよりは、とても現代的な価値観に基づく発言に聞こえる。色々とデリケートな問題が満載の地域ですし、そこは仕方ないとも言えるけれども。
最後に、エジプトを追われ、ミディアン地方で出会った女性ツィポラ(マリア・バルベルデ)と結婚したモーゼが、初夜の場で述べた「結婚の誓い」が心に残りました。
ツィポラ: Who makes you happy?
モーゼ : You do.
ツィポラ: Whats the most important thing in your life?
モーゼ : You are.
ツィポラ: Where would you rather to be?
モーゼ : Nowhere.
ツィポラ: When will you leave me?
モーゼ : Never.
そしてモーゼの「決して」という誓いを聞いたツィポラは、晴れやかに微笑んで"Proceed!(続けていいわよ!)" と「お預け」を解除するのです。
いいでしょ、これ。これからセックスしようとする青少年はとりあえずこの台詞を交わすのがいいんじゃないかしら、と思ったですよ。一時の性欲に負けて一個の独立した人格である相手を単なる性欲解消の道具として扱うような愚を犯さずに済むし、性欲解消の道具にされて傷つくような愚を犯さずに済むんじゃないかな。
そして更にこの誓いの言葉は、艱難辛苦を乗り越えた後、再会を果たした夫婦が、今度は立場を入れ替えて繰り返すという演出がなされています。モーゼは心から幸せそうだし、ツィポラは待った甲斐があったというものだ。この後カナンに至るまで40年も流離い続ける運命にあろうと、結局モーゼ自身はカナンの地に入ることが叶わなかったとしても、現世で愛し愛されて、この上何を望むだろう。
・エクソダス:神と王@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-02-17 23:10
| 映画あ行