2014年 08月 20日
八日目の蝉
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★ネタバレ注意★
2011年、成島出監督作品。
角田光代の同名ベストセラー小説が原作。
『マレフィセント』を観て、この映画との類似性がどうにも気になってしまったので、今さらですが。
既婚者である秋山丈博(田中哲司)と不倫関係にあった野々宮希和子(永作博美)は、秋山との間にできた子供を堕胎したため、子供を産めない身体になってしまった。一方、秋山の妻・恵津子(森口瑤子)は、秋山の言質に反して離婚することもなく妊娠し、可愛い女の子を出産する。思い詰めた希和子は、秋山夫妻の赤ん坊、恵理菜を誘拐してしまう。希和子によって薫という偽りの名を与えられ、4歳になるまで育てられた恵理菜(井上真央)は、無事に両親のもとに戻されはしたが、親子関係はぎくしゃくしてうまくいかず、心を閉ざしたまま成長する。そんなある日、21歳となった恵理菜のもとに、ルポライターを名乗る安藤千草(小池栄子)が現れ、その強引なアプローチに押し切られる形でいつしかふたりは交流を持つようになる。一方恵理菜は、育ての母の行状をなぞるかのように、妻子ある男・岸田(劇団ひとり)の子供を身ごもり、子を宿した母として、かつて封印した記憶と向き合うために、千草と共に希和子と過ごした過去を辿る旅に出る。
物語の中心となっているのは明らかに秋山恵理菜です。物心もつかない赤ん坊の時に、誘拐という酷い体験をし、その後の家族関係の崩壊や自己喪失から深く傷ついてしまった少女が、自らの妊娠を経て、解放されていく心の軌跡を描くことが主眼となっています。しかしストーリーの流れは、野々宮希和子が懲役6年の有罪判決を受ける裁判のシーンから始まり、希和子の行跡を中心に進んでいきます。従って観客は自ずと希和子目線でこの物語を体験していくことになります。
なさぬ仲の子でありながら、心の底から誠心誠意恵理菜を愛した希和子。いつかは別れなければならないことは知りながら、それでも今その瞬間、必死に恵理菜に寄り添った希和子。誘拐という犯罪を犯し警察から逃げるために、わけあり女性の駆け込み寺的新興宗教施設(エンジェルホーム)に身を寄せた際の、「何も要りません、ただこの子と生きていきたいんです、私にはこの子が全てです、助けてください」という、身を絞るような懇願。いよいよついに逮捕されるとなったその時に、思わず警官に言ってしまった「この子、まだご飯を食べていないんです。よろしくお願いします」という、母親ならではの言葉。
切なさが、怒涛のように押し寄せてきます。血なんかつながっていなくったって親子の愛情に変わりはない。愛しいと思い、幸あれと願い、ひもじくないよう寂しくないよう暖かくいられるようひたすら心を砕く母の思いに嘘偽りはなく、そんな「母親」を演じる永作博美の童顔で華奢ではかなげな容姿を見れば、いじらしくてひたむきで健気に感じられてしまう。
だけど、と思うのですね。
この映画に関しては、子を思う母親の真情に感動しました泣きました、という感想で終わらせるわけにはいきません。ドラマからストレートに受けるエモーショナルな反応と、一旦足をとめて物語について考えた時に得られる感触が、かなり乖離している。そしてこの乖離をこそ、監督は狙っていたように思われるのです。そうでなければ、ラストシーンの処理がああはならない。希和子の愛情を思い出した恵理菜と、恵理菜(というより薫)を待ち続けた希和子の心が通じ合い、ひしと抱き合って喜びの涙にくれる大団円だって、展開としてはあり得た。でも敢えてそうはしなかった。だってそこには、恵理菜の実母である恵津子の存在があるから。
そもそも一番悪いのは、恵津子という妻がいながら希和子に手を出した秋山丈博なわけで、この男、誠意をもって希和子に向き合う気なんかカケラもないくせに甘言を弄して希和子に甘い期待を抱かせ、希和子が妊娠すれば子供の命や母体の健康、ましてや希和子の気持ちなぞ露ほども気にせず、堕胎をせまる。人当たりがよく一見優しげで、言葉がうまく表面的な気遣いを示すのに巧み。だけどその実、徹頭徹尾自分のことしか考えられず、面倒事からは逃げてばかりいる。こんなやつ、切り取ってマンボウに食わせてしまえ、と思いますが、だからと言って希和子が100%被害者かと言えば、それは違います。この物語で被害者を名乗っていいのは恵理菜だけです。
希和子は、秋山が既婚者であることは承知の上でつきあっていた不倫女です。だって愛してしまったんですもんで通るなら、ケダモノと何ら変わりがない。人間だったら理性というものがあるでしょう。子供を堕すハメになったのだって、不倫関係でありながら快楽を優先して避妊を怠ったせいだし、その堕胎にしたところで、殴られ蹴られ無理矢理強制されたわけではなく自分の意思で決めたことです。生まれてくる子供のことより愛人との「将来」を優先させたかったからです。巻き込まれた悲劇じゃない。自業自得としか言いようがない。そして更に言えば、恵理菜を誘拐したことについても、誘拐してしまったその瞬間は、あるいは魔が差したのかもしれないけれど、誘拐してすぐに自首する選択もあったはずなのに、4年もの間何も知らない幼子を連れまわし、母親ごっこをしたことについては、ほんとに弁解のしようがない。ただ、希和子の口から自己弁護や言い訳の台詞が吐かれなかったことだけは、この物語の救いではありますが。
ひとひとりの人生を狂わせておきながら、誰よりも愛情を持って育てたなどと希和子が本気で信じていたとしたら、これ以上の傲慢はないです。希和子は裁判で、「子育ての機会を与えてもらったことを感謝します」という信じられないようなコメントを残し、謝罪の気持ちなんか少しも示さなかった。否、自責の念はあったのです。申し訳ないすまなかったと思ってはいた。ただしそれはあくまで恵理菜に対するものであって、恵津子に詫びる気持ちなんか、雀の羽ほどもなかった。
恵津子という女性は、確かにかなりプライドの高いひとであったと思う。
おそらく何不自由ない家庭で育ち、スクールカーストから転がり落ちることもなく、婚期を逸することなく相応な男性と結婚し、若くして家も持てた。決めたことをやりぬく聡明さや意志の強さを持ったひとで、目的に到達するためなら努力も惜しまなかった。それだけに、挫折には弱かった。完璧なはずの結婚生活に、夫の浮気という思い描いていたのとは違う破綻が生じた時、恵津子のプライドは耐えられなかった。こんなのおかしい、何かのまちがい、わたしの身にこんなことが起こるなんて理不尽だ。こんなはずじゃなかったのに! だから希和子に対する執拗な嫌がらせをしたりしてしまった。無視することなど到底できなかった。そんな時の妊娠は、恵津子にはこの上ない福音に感じられたにちがいないと思うのです。これで勝った! と。
だけど本来、純粋に新しい命を待望し慈しんでいればいいはずの妊娠が、希和子に対抗する手段になってしまった。だから勝ったはずの妊娠をした後ですら、わざわざ希和子の下を訪れて、子供の産めないおまえなんかガランドウだと下種な嫌味を言わずにはいられなかった。
そもそもその段階からすでに、恵津子と恵理菜の軋轢は始まっていたのかもしれない。ただ単に、物心つくまでの一番大事な時期に引き離されてしまったために、その後もうまくなじむことができずぎくしゃくしてしまった、というだけのことではなく、生まれいずるその前から、恵津子は恵理菜を「自然に」愛する術を見失ってしまっていたのかもしれない。
思えば切ないことです。
親だもの、子のことは、何の条件もなくただ単純にひたすら愛すればそれで事足りたはずなのに、恵津子は恵理菜をうまく愛している自信がもてず、愛されている確信が抱けなかった。不安と焦燥によって、恵津子は願ってしまった、愛されたいと願ってしまった。
愛することは本来、幸せなことのはずなのに、愛されたいと願ってしまうと、愛したことが劫罰になる。果たしてそれは何に対する罰なのか。
親としての揺るぎない自信を持てない恵津子は常に、恵理菜が本当に愛しているのは自分ではなく希和子ではないかという疑惑に付きまとわれてしまうのですが、そんな恵津子に対し、よりによって恵理菜は妻子ある男の子供を妊娠したと告げるのです。
希和子がしたのと同じことを、わが子が繰り返した。
その実、愛された過去の記憶を封印していたその段階での恵理菜にとって、希和子は決してモデルケースでも愛情の対象でもなく、むしろ吐き気を催すほどに憎い相手であり、愛人との子を堕胎した希和子と同じ轍を踏むことだけはしたくないという思いから出産を決意したに過ぎなかったのですが、恵津子にはそうは思えなかった。恵理菜は希和子と同じ道を選んだ。やっぱりこの子は自分よりあの女のことを愛しているんだ。たまりにたまった積年の疑惑と苦悩が、あの瞬間、噴き出してしまった。だから、恵理菜に妊娠を告げられたシーンで、恵津子はヒステリックなほどに取り乱してしまった。
恵理菜は、そうした母親の苦悩を、最も身近でつぶさに見つめてきたわけです。
だから、一旦生むとは決めたものの、自分が親になれる自信がなかった。陽の光を浴びるように頬に風を感じるようにごく自然にあるがままにそこにある恩恵を受け取ることを当然として、ごく自然にあるがままに愛された記憶がない恵理菜は、自分もまた母のように、どんなに子供を愛していても、その愛情をうまく伝えられない母親になってしまうのではないかと、不安で不安でたまらなかったのです。
しかしそこで恵理菜はかつて薫として暮らした小豆島を訪れた。
そしてそこで自分が如何に愛されていたかを思い出した。希和子のしたことは、人として許されることではなかったけれど、それでも、それでも尚、そこで恵理菜に注いだ愛情は本物だった。恵理菜は確実に愛されていた。幼子だった恵理菜にも、確実に愛された記憶は残る。魂の襞にはりつくようにして残る。だから、人として許されないことをした希和子のことは憎まなければならないと理性は訴えるのに、恵理菜は憎みたくはなかった。本当は島に戻りたかった。でもそんなこと考えたらいけないと思った。だから記憶を封印してしまった。
でも、その封印が解かれた時、恵理菜にはわかった。どうやって子供を愛したらいいか。
だから、未だ生まれてきていないわが子のことが、すでに大好きだと自信を持って言えたのです。
恵津子の苦悩と恵理菜の「気づき」は合わせ鏡のように表裏一体となっています。であればやはり、恵津子もまた解放されてほしいと思う。やがて恵理菜が出産した子供を、恵津子は今度は祖母として、当たり前に愛せたらいいと思う。恵津子と恵理菜と千草と赤ん坊が、寄り添って微笑む絵が描かれたらいいと思う。
2011年、成島出監督作品。
角田光代の同名ベストセラー小説が原作。
『マレフィセント』を観て、この映画との類似性がどうにも気になってしまったので、今さらですが。
既婚者である秋山丈博(田中哲司)と不倫関係にあった野々宮希和子(永作博美)は、秋山との間にできた子供を堕胎したため、子供を産めない身体になってしまった。一方、秋山の妻・恵津子(森口瑤子)は、秋山の言質に反して離婚することもなく妊娠し、可愛い女の子を出産する。思い詰めた希和子は、秋山夫妻の赤ん坊、恵理菜を誘拐してしまう。希和子によって薫という偽りの名を与えられ、4歳になるまで育てられた恵理菜(井上真央)は、無事に両親のもとに戻されはしたが、親子関係はぎくしゃくしてうまくいかず、心を閉ざしたまま成長する。そんなある日、21歳となった恵理菜のもとに、ルポライターを名乗る安藤千草(小池栄子)が現れ、その強引なアプローチに押し切られる形でいつしかふたりは交流を持つようになる。一方恵理菜は、育ての母の行状をなぞるかのように、妻子ある男・岸田(劇団ひとり)の子供を身ごもり、子を宿した母として、かつて封印した記憶と向き合うために、千草と共に希和子と過ごした過去を辿る旅に出る。
物語の中心となっているのは明らかに秋山恵理菜です。物心もつかない赤ん坊の時に、誘拐という酷い体験をし、その後の家族関係の崩壊や自己喪失から深く傷ついてしまった少女が、自らの妊娠を経て、解放されていく心の軌跡を描くことが主眼となっています。しかしストーリーの流れは、野々宮希和子が懲役6年の有罪判決を受ける裁判のシーンから始まり、希和子の行跡を中心に進んでいきます。従って観客は自ずと希和子目線でこの物語を体験していくことになります。
なさぬ仲の子でありながら、心の底から誠心誠意恵理菜を愛した希和子。いつかは別れなければならないことは知りながら、それでも今その瞬間、必死に恵理菜に寄り添った希和子。誘拐という犯罪を犯し警察から逃げるために、わけあり女性の駆け込み寺的新興宗教施設(エンジェルホーム)に身を寄せた際の、「何も要りません、ただこの子と生きていきたいんです、私にはこの子が全てです、助けてください」という、身を絞るような懇願。いよいよついに逮捕されるとなったその時に、思わず警官に言ってしまった「この子、まだご飯を食べていないんです。よろしくお願いします」という、母親ならではの言葉。
切なさが、怒涛のように押し寄せてきます。血なんかつながっていなくったって親子の愛情に変わりはない。愛しいと思い、幸あれと願い、ひもじくないよう寂しくないよう暖かくいられるようひたすら心を砕く母の思いに嘘偽りはなく、そんな「母親」を演じる永作博美の童顔で華奢ではかなげな容姿を見れば、いじらしくてひたむきで健気に感じられてしまう。
だけど、と思うのですね。
この映画に関しては、子を思う母親の真情に感動しました泣きました、という感想で終わらせるわけにはいきません。ドラマからストレートに受けるエモーショナルな反応と、一旦足をとめて物語について考えた時に得られる感触が、かなり乖離している。そしてこの乖離をこそ、監督は狙っていたように思われるのです。そうでなければ、ラストシーンの処理がああはならない。希和子の愛情を思い出した恵理菜と、恵理菜(というより薫)を待ち続けた希和子の心が通じ合い、ひしと抱き合って喜びの涙にくれる大団円だって、展開としてはあり得た。でも敢えてそうはしなかった。だってそこには、恵理菜の実母である恵津子の存在があるから。
そもそも一番悪いのは、恵津子という妻がいながら希和子に手を出した秋山丈博なわけで、この男、誠意をもって希和子に向き合う気なんかカケラもないくせに甘言を弄して希和子に甘い期待を抱かせ、希和子が妊娠すれば子供の命や母体の健康、ましてや希和子の気持ちなぞ露ほども気にせず、堕胎をせまる。人当たりがよく一見優しげで、言葉がうまく表面的な気遣いを示すのに巧み。だけどその実、徹頭徹尾自分のことしか考えられず、面倒事からは逃げてばかりいる。こんなやつ、切り取ってマンボウに食わせてしまえ、と思いますが、だからと言って希和子が100%被害者かと言えば、それは違います。この物語で被害者を名乗っていいのは恵理菜だけです。
希和子は、秋山が既婚者であることは承知の上でつきあっていた不倫女です。だって愛してしまったんですもんで通るなら、ケダモノと何ら変わりがない。人間だったら理性というものがあるでしょう。子供を堕すハメになったのだって、不倫関係でありながら快楽を優先して避妊を怠ったせいだし、その堕胎にしたところで、殴られ蹴られ無理矢理強制されたわけではなく自分の意思で決めたことです。生まれてくる子供のことより愛人との「将来」を優先させたかったからです。巻き込まれた悲劇じゃない。自業自得としか言いようがない。そして更に言えば、恵理菜を誘拐したことについても、誘拐してしまったその瞬間は、あるいは魔が差したのかもしれないけれど、誘拐してすぐに自首する選択もあったはずなのに、4年もの間何も知らない幼子を連れまわし、母親ごっこをしたことについては、ほんとに弁解のしようがない。ただ、希和子の口から自己弁護や言い訳の台詞が吐かれなかったことだけは、この物語の救いではありますが。
ひとひとりの人生を狂わせておきながら、誰よりも愛情を持って育てたなどと希和子が本気で信じていたとしたら、これ以上の傲慢はないです。希和子は裁判で、「子育ての機会を与えてもらったことを感謝します」という信じられないようなコメントを残し、謝罪の気持ちなんか少しも示さなかった。否、自責の念はあったのです。申し訳ないすまなかったと思ってはいた。ただしそれはあくまで恵理菜に対するものであって、恵津子に詫びる気持ちなんか、雀の羽ほどもなかった。
恵津子という女性は、確かにかなりプライドの高いひとであったと思う。
おそらく何不自由ない家庭で育ち、スクールカーストから転がり落ちることもなく、婚期を逸することなく相応な男性と結婚し、若くして家も持てた。決めたことをやりぬく聡明さや意志の強さを持ったひとで、目的に到達するためなら努力も惜しまなかった。それだけに、挫折には弱かった。完璧なはずの結婚生活に、夫の浮気という思い描いていたのとは違う破綻が生じた時、恵津子のプライドは耐えられなかった。こんなのおかしい、何かのまちがい、わたしの身にこんなことが起こるなんて理不尽だ。こんなはずじゃなかったのに! だから希和子に対する執拗な嫌がらせをしたりしてしまった。無視することなど到底できなかった。そんな時の妊娠は、恵津子にはこの上ない福音に感じられたにちがいないと思うのです。これで勝った! と。
だけど本来、純粋に新しい命を待望し慈しんでいればいいはずの妊娠が、希和子に対抗する手段になってしまった。だから勝ったはずの妊娠をした後ですら、わざわざ希和子の下を訪れて、子供の産めないおまえなんかガランドウだと下種な嫌味を言わずにはいられなかった。
そもそもその段階からすでに、恵津子と恵理菜の軋轢は始まっていたのかもしれない。ただ単に、物心つくまでの一番大事な時期に引き離されてしまったために、その後もうまくなじむことができずぎくしゃくしてしまった、というだけのことではなく、生まれいずるその前から、恵津子は恵理菜を「自然に」愛する術を見失ってしまっていたのかもしれない。
思えば切ないことです。
親だもの、子のことは、何の条件もなくただ単純にひたすら愛すればそれで事足りたはずなのに、恵津子は恵理菜をうまく愛している自信がもてず、愛されている確信が抱けなかった。不安と焦燥によって、恵津子は願ってしまった、愛されたいと願ってしまった。
愛することは本来、幸せなことのはずなのに、愛されたいと願ってしまうと、愛したことが劫罰になる。果たしてそれは何に対する罰なのか。
親としての揺るぎない自信を持てない恵津子は常に、恵理菜が本当に愛しているのは自分ではなく希和子ではないかという疑惑に付きまとわれてしまうのですが、そんな恵津子に対し、よりによって恵理菜は妻子ある男の子供を妊娠したと告げるのです。
希和子がしたのと同じことを、わが子が繰り返した。
その実、愛された過去の記憶を封印していたその段階での恵理菜にとって、希和子は決してモデルケースでも愛情の対象でもなく、むしろ吐き気を催すほどに憎い相手であり、愛人との子を堕胎した希和子と同じ轍を踏むことだけはしたくないという思いから出産を決意したに過ぎなかったのですが、恵津子にはそうは思えなかった。恵理菜は希和子と同じ道を選んだ。やっぱりこの子は自分よりあの女のことを愛しているんだ。たまりにたまった積年の疑惑と苦悩が、あの瞬間、噴き出してしまった。だから、恵理菜に妊娠を告げられたシーンで、恵津子はヒステリックなほどに取り乱してしまった。
恵理菜は、そうした母親の苦悩を、最も身近でつぶさに見つめてきたわけです。
だから、一旦生むとは決めたものの、自分が親になれる自信がなかった。陽の光を浴びるように頬に風を感じるようにごく自然にあるがままにそこにある恩恵を受け取ることを当然として、ごく自然にあるがままに愛された記憶がない恵理菜は、自分もまた母のように、どんなに子供を愛していても、その愛情をうまく伝えられない母親になってしまうのではないかと、不安で不安でたまらなかったのです。
しかしそこで恵理菜はかつて薫として暮らした小豆島を訪れた。
そしてそこで自分が如何に愛されていたかを思い出した。希和子のしたことは、人として許されることではなかったけれど、それでも、それでも尚、そこで恵理菜に注いだ愛情は本物だった。恵理菜は確実に愛されていた。幼子だった恵理菜にも、確実に愛された記憶は残る。魂の襞にはりつくようにして残る。だから、人として許されないことをした希和子のことは憎まなければならないと理性は訴えるのに、恵理菜は憎みたくはなかった。本当は島に戻りたかった。でもそんなこと考えたらいけないと思った。だから記憶を封印してしまった。
でも、その封印が解かれた時、恵理菜にはわかった。どうやって子供を愛したらいいか。
だから、未だ生まれてきていないわが子のことが、すでに大好きだと自信を持って言えたのです。
恵津子の苦悩と恵理菜の「気づき」は合わせ鏡のように表裏一体となっています。であればやはり、恵津子もまた解放されてほしいと思う。やがて恵理菜が出産した子供を、恵津子は今度は祖母として、当たり前に愛せたらいいと思う。恵津子と恵理菜と千草と赤ん坊が、寄り添って微笑む絵が描かれたらいいと思う。
by shirakian
| 2014-08-20 20:00
| 邦画