2014年 05月 24日
チョコレートドーナツ
|
★ネタバレ注意★
トラヴィス・ファイン監督のアメリカ映画。
アラン・カミングの歌唱に、久しぶりに泣きました。
カミング、チャーミングだ。
そう言えば最近、チャーミングなカミング観たなぁと思ってトリアタマを揺さぶってみたのですが、コレか? いやまさかちがう、あ、わかった、コッチだ! と得心がいきました。ビジュアルはアレですが、チャーミングであるには違いない。
1970年代アメリカ。ゲイの権利獲得にはまだまだ遠い時代。
ルディ・ドナテロ(アラン・カミング)はドラァグクイーン。いつかは自分の声で歌うことを夢見ながら、口パクのショーダンサーとして働いていた。そんなルディを見初めたのが検事局に勤めるポール・フラガー(ギャレット・ディラハント)。
出会ったその日にカーセックス、渡された電話番号に翌日ドラァグクイーンが電話をかければ、怖気づいた堅気の男は電話になんか出やしない。そんなありふれた出会い。普通だったら二人の関係はそれまでのはずだった。
だけど、自分のためなら戦うことをあきらめてしまうルディでも、守るべきものがいれば話は別。ポールと意気投合したちょうどその同じ日に、ルディは同じアパートで暮らすダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会ってしまう。ドラッグ中毒の母親にネグレクトされて育ったマルコだったが、ついにその母親が逮捕され、行き場をなくしてしまっていたのだ。かくてマルコを保護するために、ポールをも巻き込んで、裁判で親権を争うルディの戦いが始まった。
マルコのことがほっておけなくなってしまった気立ての優しいルディ。根底に含羞やあきらめを秘めたかれの「優しさ」の描写っていうのはもう絶妙で、かれがマルコのことを気にかけるについては、何の説明もいらない。それまで名前も知らなかったダウン症の少年を、誰に頼まれたわけでもないのに、何の得があるわけでもないのに、ましてやマルコ本人が縋り付いたわけでもないのに、わざわざ世話を買ってでるなんて不自然だ、とは誰も思わない。だってルディはそういう人なんだもの。観ていてそれがわかるもの。
たとえばそれはこういうシーン。
マルコを保護してしまった朝、少年を養護施設に入れることが忍びなかったルディは、法律関係の仕事をしているポールにアドバイスを貰おうと電話をかける。ところが先述した通り、ルディとの関係に怖気づいてしまったポールは電話に出ようとせず、秘書に阻まれて話すことすらできない。そんな苛立たしい電話の最中に、通りすがりの知人に小銭をせがまれ暴言を投げつけられてルディの頭は沸騰中。だけど、ズカズカと大股で電話ボックスを離れる時、ルディはマルコに手を差し伸べて、しっかりそれを握ることを忘れない。忘れないというより、その行為はかれにとってあまりにも普通で当たり前で考えるまでもないことだった。ルディがどういう人間であるかは、そんな描写があれは十分。
だからこのドラマで特筆すべきは、むしろポールに関する描写なのだと思う。
ルディと出会った時、ポールはまだクローゼットの中にいました。頑張って手にいれた堅気の仕事は、特に世間体が重要で、ポールは自分がゲイであることをカミングアウトすることなどできるわけもなかった。事実、結果としてそのことが公になってしまった時、かれは職場を解雇されてしまったわけですから、かれの用心深さは怯懦でも被害妄想でもない。何よりかれが離婚経験者であるという一点をとってみても(妻にはカミングアウトしたのか、それとも最後まで偽っていたのかはわからないけれど)、かれがもう十分に傷ついてきた人であることがわかる。仮にポールがルディとマルコのことを見て見ぬふりをしたところで異とするにはあたらないのです。
だから問題は、それなのになぜかれは敢えて茨の道に踏み出したのか、ということ。
答えはとてもシンプルです。なぜならかれはルディを愛してしまったから。
と言ってしまえば陳腐だよねぇ。
けれど、事はそう簡単なものじゃない。
一体これをどう言って説明したらいいのだろう。
ポールがルディを愛した、ということが「特別」なのは、かれがリスクを冒したからだろうか? クローゼットに隠れていれば仕事をなくすことなどなかった。周りから白眼視されることなどなかった。ましてや面罵されることなどさらさらなかった。だけどポールは安全地帯から抜け出して、世間の矢面に立った。多くの人を失望させた。傷つけた。それ以上に自身がボロボロになった。
でもかれはルディを失望させなかった。
大事なのはそのこと。
なぜそれが大事なのか? ポールにとってそれが大事なことだから。それが一番大事なことだから。それが「一番」大事なことであるのなら、そのほかのことは二義的なことにすぎないから。
敢えて言えば、マルコですらポールにとっては二義的なことだったのだと思う、少なくとも最初のうちは。もちろん、ほんの一年かそこらのこととは言え、一緒に生活を共にするうちにポールだってルディに負けないくらい、マルコのほんとの親になった。そのことに間違いはないけれど、でも最初にかれが一歩踏み出したのは、兎にも角にもルディのためだった。ルディのためにできること。それができることであるなら、かれはしなければならなかった。しないという選択肢などあろうはずもなかった。そんなレベルで人を愛した。出会いは陳腐で安っぽいのに、人を愛するのにそんなこと関係ない。愛してしまった。気づいてしまった。代わりはない。条件はない。損得も見栄も優劣もない。
自己愛を超えた愛は、もはや自己犠牲ではない。
なぜならそれは犠牲ではないから。
ポールは決して英雄なんかじゃなく、恐らくとても平凡な人であるのだと思う。それどころか強い人ですらないのだと思う。そんな人が顔を上げて、足を踏ん張って、胸を張って、声をあげた。かれにそれをなさしめたもの、それがほかならぬ「愛」だった。ポールがルディを愛したという陳腐な話が、そう簡単なものじゃないというのはそういうこと。
モア・スペシフィックに。
映画が終わって劇場のホールに出ると、同じ映画を観終わった二人づれの女性の会話が耳に入りました。「あの女装の人、もっと綺麗だとよかったのにねぇ」「ちょっと気持ち悪かったよねぇ」
え? と思って思わず立ち止まってしまった。気持ち悪かった? ルディが?
うーむ、確かに、女装をするならクリーンシェイブは最低条件、ルディの外観はそれすらクリアしちゃいなかったし、だっさい下着をつけてるし、ヘアスタイルは致命的だし、そもそもアラン・カミング、若くすらない。たまたま耳に入っただけのどこの誰とも知らない人の会話を「世間の声」とまでは思わないけど、そう思う人だっているということだ。たぶん少なからぬ数の人が。
だけど、そんなルディにポールが惚れた。ゴージャスな外観の、社会的に信用のある仕事を持った、女性にもてる、上司に嘱望されていた、そんな男がルディに惚れた。もちろんふたりは相思相愛ではあるけれど、恋愛関係の比重を言えば、追いかける立場なのはポールの方。かれが同居をもちかけてルディがそれを受けるシーンの瑞々しさ、甘酸っぱさ。
圧倒的にルディはチャーミングだ。
ルディとポールのマルコとの関係性において、親権をかけて裁判で戦うシーンはもちろん圧巻だったけれど、それよりもっと胸に迫るのは、マルコを医師に診察してもらうシーンだったんじゃないかな。
ネグレクトされてたマルコはジャンクフードばっかり食べてて食生活はめちゃめちゃ。健康な子供でもこれじゃ身体を壊すけど、ましてやマルコはダウン症。一緒に暮らすにあたり精密検査をしてもらうと、あちらも悪いこちらも悪い。ルディはため息をつく。「それで、先生、悪くないところってないんですか?」医師は居住まいを正し、なんとも言えない表情でルディとポールを見やる。
いいですか、ダウン症は治るということはありません。この子は成長しないんです。一番大変なことは、この子がずっとこのままだってことですよ?
結局、ルディとポールは「ずっとこのまま」でいるマルコを見守り続けることはできなかった。ルディとポールがマルコの親としてふさわしくないと考えた「良識ある人々」がよってたかってマルコをふたりから引き離し、その結果、最悪の結末を迎えてしまった。だけど、医師がそう告げたその時、ふたりは「それでも」見守っていくことを決意したということに変わりはない。
自己愛を超えた愛は、もはや自己犠牲ではない。
なぜならそれは犠牲ではないから。
・チョコレートドーナツ@ぴあ映画生活
トラヴィス・ファイン監督のアメリカ映画。
アラン・カミングの歌唱に、久しぶりに泣きました。
カミング、チャーミングだ。
そう言えば最近、チャーミングなカミング観たなぁと思ってトリアタマを揺さぶってみたのですが、コレか? いやまさかちがう、あ、わかった、コッチだ! と得心がいきました。ビジュアルはアレですが、チャーミングであるには違いない。
1970年代アメリカ。ゲイの権利獲得にはまだまだ遠い時代。
ルディ・ドナテロ(アラン・カミング)はドラァグクイーン。いつかは自分の声で歌うことを夢見ながら、口パクのショーダンサーとして働いていた。そんなルディを見初めたのが検事局に勤めるポール・フラガー(ギャレット・ディラハント)。
出会ったその日にカーセックス、渡された電話番号に翌日ドラァグクイーンが電話をかければ、怖気づいた堅気の男は電話になんか出やしない。そんなありふれた出会い。普通だったら二人の関係はそれまでのはずだった。
だけど、自分のためなら戦うことをあきらめてしまうルディでも、守るべきものがいれば話は別。ポールと意気投合したちょうどその同じ日に、ルディは同じアパートで暮らすダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会ってしまう。ドラッグ中毒の母親にネグレクトされて育ったマルコだったが、ついにその母親が逮捕され、行き場をなくしてしまっていたのだ。かくてマルコを保護するために、ポールをも巻き込んで、裁判で親権を争うルディの戦いが始まった。
マルコのことがほっておけなくなってしまった気立ての優しいルディ。根底に含羞やあきらめを秘めたかれの「優しさ」の描写っていうのはもう絶妙で、かれがマルコのことを気にかけるについては、何の説明もいらない。それまで名前も知らなかったダウン症の少年を、誰に頼まれたわけでもないのに、何の得があるわけでもないのに、ましてやマルコ本人が縋り付いたわけでもないのに、わざわざ世話を買ってでるなんて不自然だ、とは誰も思わない。だってルディはそういう人なんだもの。観ていてそれがわかるもの。
たとえばそれはこういうシーン。
マルコを保護してしまった朝、少年を養護施設に入れることが忍びなかったルディは、法律関係の仕事をしているポールにアドバイスを貰おうと電話をかける。ところが先述した通り、ルディとの関係に怖気づいてしまったポールは電話に出ようとせず、秘書に阻まれて話すことすらできない。そんな苛立たしい電話の最中に、通りすがりの知人に小銭をせがまれ暴言を投げつけられてルディの頭は沸騰中。だけど、ズカズカと大股で電話ボックスを離れる時、ルディはマルコに手を差し伸べて、しっかりそれを握ることを忘れない。忘れないというより、その行為はかれにとってあまりにも普通で当たり前で考えるまでもないことだった。ルディがどういう人間であるかは、そんな描写があれは十分。
だからこのドラマで特筆すべきは、むしろポールに関する描写なのだと思う。
ルディと出会った時、ポールはまだクローゼットの中にいました。頑張って手にいれた堅気の仕事は、特に世間体が重要で、ポールは自分がゲイであることをカミングアウトすることなどできるわけもなかった。事実、結果としてそのことが公になってしまった時、かれは職場を解雇されてしまったわけですから、かれの用心深さは怯懦でも被害妄想でもない。何よりかれが離婚経験者であるという一点をとってみても(妻にはカミングアウトしたのか、それとも最後まで偽っていたのかはわからないけれど)、かれがもう十分に傷ついてきた人であることがわかる。仮にポールがルディとマルコのことを見て見ぬふりをしたところで異とするにはあたらないのです。
だから問題は、それなのになぜかれは敢えて茨の道に踏み出したのか、ということ。
答えはとてもシンプルです。なぜならかれはルディを愛してしまったから。
と言ってしまえば陳腐だよねぇ。
けれど、事はそう簡単なものじゃない。
一体これをどう言って説明したらいいのだろう。
ポールがルディを愛した、ということが「特別」なのは、かれがリスクを冒したからだろうか? クローゼットに隠れていれば仕事をなくすことなどなかった。周りから白眼視されることなどなかった。ましてや面罵されることなどさらさらなかった。だけどポールは安全地帯から抜け出して、世間の矢面に立った。多くの人を失望させた。傷つけた。それ以上に自身がボロボロになった。
でもかれはルディを失望させなかった。
大事なのはそのこと。
なぜそれが大事なのか? ポールにとってそれが大事なことだから。それが一番大事なことだから。それが「一番」大事なことであるのなら、そのほかのことは二義的なことにすぎないから。
敢えて言えば、マルコですらポールにとっては二義的なことだったのだと思う、少なくとも最初のうちは。もちろん、ほんの一年かそこらのこととは言え、一緒に生活を共にするうちにポールだってルディに負けないくらい、マルコのほんとの親になった。そのことに間違いはないけれど、でも最初にかれが一歩踏み出したのは、兎にも角にもルディのためだった。ルディのためにできること。それができることであるなら、かれはしなければならなかった。しないという選択肢などあろうはずもなかった。そんなレベルで人を愛した。出会いは陳腐で安っぽいのに、人を愛するのにそんなこと関係ない。愛してしまった。気づいてしまった。代わりはない。条件はない。損得も見栄も優劣もない。
自己愛を超えた愛は、もはや自己犠牲ではない。
なぜならそれは犠牲ではないから。
ポールは決して英雄なんかじゃなく、恐らくとても平凡な人であるのだと思う。それどころか強い人ですらないのだと思う。そんな人が顔を上げて、足を踏ん張って、胸を張って、声をあげた。かれにそれをなさしめたもの、それがほかならぬ「愛」だった。ポールがルディを愛したという陳腐な話が、そう簡単なものじゃないというのはそういうこと。
モア・スペシフィックに。
映画が終わって劇場のホールに出ると、同じ映画を観終わった二人づれの女性の会話が耳に入りました。「あの女装の人、もっと綺麗だとよかったのにねぇ」「ちょっと気持ち悪かったよねぇ」
え? と思って思わず立ち止まってしまった。気持ち悪かった? ルディが?
うーむ、確かに、女装をするならクリーンシェイブは最低条件、ルディの外観はそれすらクリアしちゃいなかったし、だっさい下着をつけてるし、ヘアスタイルは致命的だし、そもそもアラン・カミング、若くすらない。たまたま耳に入っただけのどこの誰とも知らない人の会話を「世間の声」とまでは思わないけど、そう思う人だっているということだ。たぶん少なからぬ数の人が。
だけど、そんなルディにポールが惚れた。ゴージャスな外観の、社会的に信用のある仕事を持った、女性にもてる、上司に嘱望されていた、そんな男がルディに惚れた。もちろんふたりは相思相愛ではあるけれど、恋愛関係の比重を言えば、追いかける立場なのはポールの方。かれが同居をもちかけてルディがそれを受けるシーンの瑞々しさ、甘酸っぱさ。
圧倒的にルディはチャーミングだ。
ルディとポールのマルコとの関係性において、親権をかけて裁判で戦うシーンはもちろん圧巻だったけれど、それよりもっと胸に迫るのは、マルコを医師に診察してもらうシーンだったんじゃないかな。
ネグレクトされてたマルコはジャンクフードばっかり食べてて食生活はめちゃめちゃ。健康な子供でもこれじゃ身体を壊すけど、ましてやマルコはダウン症。一緒に暮らすにあたり精密検査をしてもらうと、あちらも悪いこちらも悪い。ルディはため息をつく。「それで、先生、悪くないところってないんですか?」医師は居住まいを正し、なんとも言えない表情でルディとポールを見やる。
いいですか、ダウン症は治るということはありません。この子は成長しないんです。一番大変なことは、この子がずっとこのままだってことですよ?
結局、ルディとポールは「ずっとこのまま」でいるマルコを見守り続けることはできなかった。ルディとポールがマルコの親としてふさわしくないと考えた「良識ある人々」がよってたかってマルコをふたりから引き離し、その結果、最悪の結末を迎えてしまった。だけど、医師がそう告げたその時、ふたりは「それでも」見守っていくことを決意したということに変わりはない。
自己愛を超えた愛は、もはや自己犠牲ではない。
なぜならそれは犠牲ではないから。
・チョコレートドーナツ@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-05-24 18:28
| 映画た行