2013年 09月 07日
マジック・マイク
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★ネタバレ注意★
チャニング・テイタム、マシュー・マコノヒー、アレックス・ペティファー、マット・ボマー、に、ストリッパーの役演じさせようと思ったの、だれ!? 神!?
スティーヴン・ソダーバーグ監督作品。
フロリダ州タンパ。三十路に手が届くマイク(チャニング・テイタム)の夢は、自身がデザインしたインテリアの店を持つこと。そのための資金を得るため、日雇い労働などの傍ら、男性ストリップクラブ「エクスクイジット」でストリップ・ダンサーとして働いていた。資金を得るための一時的な仕事とは言え、ガタイがよくてダンスがうまくて女にもてるマイクは、明らかにこの世界に適性があり、ダンサーの仕事は嫌いじゃない。それどころか、経営者のダラス(マシュー・マコノヒー)からは、単なるダンサーとしてではなく、クラブ経営の右腕として見込まれてもいた。いずれダラスがマイアミに進出したら、共同経営者に、という話まであるのだ。人生は上々だ。
そんなマイクがひょんなきっかけで拾ったのが19歳のアダム(アレックス・ペティファー)。アメフト奨学生としてせっかく入れた大学も、くだらない喧嘩沙汰を起こしてあっさりと退学になり、職も学歴も目標も自分の家すらなく姉のブルック(コディ・ホーン)に寄生するその日暮らし。ところが、その美貌を見込んでマイクがステージに立たせてみたところ、アダムはダンサーとしての意外な才能を発揮して、見る見るうちにトップダンサーにのし上がっていった。
この話は、チャニング・テイタムの実体験が下敷きになっているんだって、っていうか、テイタムって役者さんになる前はダンサーをしていたんだって。それも納得、テイタムのダンスシーンがほんとにステキ。あの巨大にしてあくまでしなやかで軽やかな動き。ストリップ云々がなくても、ドラマ的展開云々がなくても、そのまんまダンスを楽しんでいたくなります。優れたパフォーマンスは見る者を幸せにする。娯楽のない世界なんかどれだけ味気ないことだろう。
だけど、どうしたことだろう。この映画はなんだかちょっと物悲しい。
まずひとつには、舞台が同じフロリダでも、マイアミではなくタンパである、ということかもしれない。タンパはもちろん十分大きな都市だけど、それでも一番の都会、ではない。そして、タンパのストリップと言えば世界的に有名な立派な観光資源ではあるのだけれど、それでもやっぱりそこで踊るということは、ラスベガスだのブロードウェイだのといった街の舞台とは違う。これはたぶん、わざと。やりようによっては不滅の不夜城を描き出すことだって容易なロケーションでありながら、演出上わざと、場末感や侘しさを漂わせて見せてる。マイアミでなきゃだめなんだ。タンパなんかじゃだめなんだ。
夢はいつだって手の届かないちょっとだけ先にある。
そしてたぶん、ダンサーという虚業。劇中マイクは、アダムの姉に「30歳のストリッパー」と嘲笑われてしまう。いつまでそんな仕事ができると思っているの? いい加減まともな仕事に就くべきなんじゃないの? 弟をそんな環境に引き込まないで。きまじめなブルックには、マイクの暮らしが浮ついて見える。それはもちろん、環境や才能に恵まれ死ぬほど努力したすばらしい人々の中には、マルセル・マルソーとか森下洋子とか、高齢になっても尚パフォーマーとして輝き続けることのできる(できた)ひともいるけれど、だけど評価されるのが美しい身体やシワのない肌といったことだけであるのなら、どんなにすばらしいパフォーマーでも年をとったら終り。飽きられたら終り。
楽しい時間はずっとは続かない。いつかは夢から醒めなきゃならない。
映画は、すばらしいパフォーマンスを描き出す一方で、そんなものはダメだと切り捨ててしまう。虚業はダメだと突き放す手段として、虚業にかかわる人々をもまた、一種のロクデナシとして描出して見せる。すばらしいカリスマと、(30歳どころか)40歳を越えても尚ステージで観客を魅了することのできる経営者のダラスは、美貌と才能とガッツに恵まれ努力することを怠らず、しかも人を魅了するチャームを持っているのだから、如何ようにでも魅力的な人物として描けたはずなのに(事実、マシュー・マコノヒーのステージパフォーマンスはまさに水を得た魚の風情。キラッキラと輝いて見えます)、このダラスという男、利用できると見た間はマイクをたらしこんでいたくせに、後釜のアダムが現れると、あっさりカットしてはばからない。ショービスの世界ではある意味類型的な人物造形だけど、それじゃいかにも味気ない。そして、一見朴訥な好青年に見えたアダムもまた、時間の経過と共に、思慮が浅く責任感に乏しく若さゆえの残酷さばかりが際立つ人物造形が影を落としていく。どいつもこいつも人間としてダメなやつばかり。これは一体どうしたこと?
だってそれはそうでしょう。この物語がチャニング・テイタム自身の体験を下敷きにしているのだとしたら、かれはそこから抜け出したひとだから。抜け出したひとの視点で描く以上、そこは抜け出して然るべき場として描かれるしかない。
だけどほんとにそれってそうなの? それはそんなに悪いことなの? 地に足をつけて生きていくことだけが正しいの? だったら世界中がアーミッシュの村になってしまえばいいの? もう一度言うけれど、優れたパフォーマンスは見る者を幸せにするんだよ? 娯楽のない世界なんか死ぬほど味気ないと思わない?
マジック・マイクはリアルなマイクに戻り、ダンサーという職を辞め、マイアミに出て行かずタンパに留まることを選び、派手な女性関係を清算して生真面目なブルックとおつきあいを始める。働き者のかれのこと、あこがれていたビジネスだって、いずれは始めることができると思う。だけどそのとき、マイクが思わなきゃいいと思う。
楽しい時間はずっとは続かない。いつかは夢から醒めなきゃならない。
夢はいつだって手の届かないちょっとだけ先にある。
チャニング・テイタム、マシュー・マコノヒー、アレックス・ペティファー、マット・ボマー、に、ストリッパーの役演じさせようと思ったの、だれ!? 神!?
スティーヴン・ソダーバーグ監督作品。
フロリダ州タンパ。三十路に手が届くマイク(チャニング・テイタム)の夢は、自身がデザインしたインテリアの店を持つこと。そのための資金を得るため、日雇い労働などの傍ら、男性ストリップクラブ「エクスクイジット」でストリップ・ダンサーとして働いていた。資金を得るための一時的な仕事とは言え、ガタイがよくてダンスがうまくて女にもてるマイクは、明らかにこの世界に適性があり、ダンサーの仕事は嫌いじゃない。それどころか、経営者のダラス(マシュー・マコノヒー)からは、単なるダンサーとしてではなく、クラブ経営の右腕として見込まれてもいた。いずれダラスがマイアミに進出したら、共同経営者に、という話まであるのだ。人生は上々だ。
そんなマイクがひょんなきっかけで拾ったのが19歳のアダム(アレックス・ペティファー)。アメフト奨学生としてせっかく入れた大学も、くだらない喧嘩沙汰を起こしてあっさりと退学になり、職も学歴も目標も自分の家すらなく姉のブルック(コディ・ホーン)に寄生するその日暮らし。ところが、その美貌を見込んでマイクがステージに立たせてみたところ、アダムはダンサーとしての意外な才能を発揮して、見る見るうちにトップダンサーにのし上がっていった。
この話は、チャニング・テイタムの実体験が下敷きになっているんだって、っていうか、テイタムって役者さんになる前はダンサーをしていたんだって。それも納得、テイタムのダンスシーンがほんとにステキ。あの巨大にしてあくまでしなやかで軽やかな動き。ストリップ云々がなくても、ドラマ的展開云々がなくても、そのまんまダンスを楽しんでいたくなります。優れたパフォーマンスは見る者を幸せにする。娯楽のない世界なんかどれだけ味気ないことだろう。
だけど、どうしたことだろう。この映画はなんだかちょっと物悲しい。
まずひとつには、舞台が同じフロリダでも、マイアミではなくタンパである、ということかもしれない。タンパはもちろん十分大きな都市だけど、それでも一番の都会、ではない。そして、タンパのストリップと言えば世界的に有名な立派な観光資源ではあるのだけれど、それでもやっぱりそこで踊るということは、ラスベガスだのブロードウェイだのといった街の舞台とは違う。これはたぶん、わざと。やりようによっては不滅の不夜城を描き出すことだって容易なロケーションでありながら、演出上わざと、場末感や侘しさを漂わせて見せてる。マイアミでなきゃだめなんだ。タンパなんかじゃだめなんだ。
夢はいつだって手の届かないちょっとだけ先にある。
そしてたぶん、ダンサーという虚業。劇中マイクは、アダムの姉に「30歳のストリッパー」と嘲笑われてしまう。いつまでそんな仕事ができると思っているの? いい加減まともな仕事に就くべきなんじゃないの? 弟をそんな環境に引き込まないで。きまじめなブルックには、マイクの暮らしが浮ついて見える。それはもちろん、環境や才能に恵まれ死ぬほど努力したすばらしい人々の中には、マルセル・マルソーとか森下洋子とか、高齢になっても尚パフォーマーとして輝き続けることのできる(できた)ひともいるけれど、だけど評価されるのが美しい身体やシワのない肌といったことだけであるのなら、どんなにすばらしいパフォーマーでも年をとったら終り。飽きられたら終り。
楽しい時間はずっとは続かない。いつかは夢から醒めなきゃならない。
映画は、すばらしいパフォーマンスを描き出す一方で、そんなものはダメだと切り捨ててしまう。虚業はダメだと突き放す手段として、虚業にかかわる人々をもまた、一種のロクデナシとして描出して見せる。すばらしいカリスマと、(30歳どころか)40歳を越えても尚ステージで観客を魅了することのできる経営者のダラスは、美貌と才能とガッツに恵まれ努力することを怠らず、しかも人を魅了するチャームを持っているのだから、如何ようにでも魅力的な人物として描けたはずなのに(事実、マシュー・マコノヒーのステージパフォーマンスはまさに水を得た魚の風情。キラッキラと輝いて見えます)、このダラスという男、利用できると見た間はマイクをたらしこんでいたくせに、後釜のアダムが現れると、あっさりカットしてはばからない。ショービスの世界ではある意味類型的な人物造形だけど、それじゃいかにも味気ない。そして、一見朴訥な好青年に見えたアダムもまた、時間の経過と共に、思慮が浅く責任感に乏しく若さゆえの残酷さばかりが際立つ人物造形が影を落としていく。どいつもこいつも人間としてダメなやつばかり。これは一体どうしたこと?
だってそれはそうでしょう。この物語がチャニング・テイタム自身の体験を下敷きにしているのだとしたら、かれはそこから抜け出したひとだから。抜け出したひとの視点で描く以上、そこは抜け出して然るべき場として描かれるしかない。
だけどほんとにそれってそうなの? それはそんなに悪いことなの? 地に足をつけて生きていくことだけが正しいの? だったら世界中がアーミッシュの村になってしまえばいいの? もう一度言うけれど、優れたパフォーマンスは見る者を幸せにするんだよ? 娯楽のない世界なんか死ぬほど味気ないと思わない?
マジック・マイクはリアルなマイクに戻り、ダンサーという職を辞め、マイアミに出て行かずタンパに留まることを選び、派手な女性関係を清算して生真面目なブルックとおつきあいを始める。働き者のかれのこと、あこがれていたビジネスだって、いずれは始めることができると思う。だけどそのとき、マイクが思わなきゃいいと思う。
楽しい時間はずっとは続かない。いつかは夢から醒めなきゃならない。
夢はいつだって手の届かないちょっとだけ先にある。
by shirakian
| 2013-09-07 21:21
| 映画ま行