2012年 03月 29日
マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙
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★ネタバレ注意★

メリル・ストリープに2011年のアカデミー賞主演女優賞をもたらした映画です。
正直、はぁ、またストリープかぁ、ほかにも凄い仕事したひとはいるだろうにねぇ、と思ってしまったのですが、こうして作品を観てしまえば、こりゃしょうがないねぇ、獲るわなぁ、と納得してしまいました。
だって、こんな凡庸な脚本と平板な演出の作品を、演技(とメイク・アップ)の力だけで見応えのある映画にしてしまったんだもの。名優の名演の前には、どんな凝った演出も映像テクニックも虚しいと言わざるを得ません。
どこにでもある小さなスーパーで、おぼつかない様子で牛乳を買う老女。家に帰り、小さなキッチンで、差し向かいでささやかな朝食を摂る仲むつまじげな老夫婦。牛乳価格の高騰を嘆く妻。それは大変だな、うちにも下宿人でも置くかな、といたずらっぽく答える夫。
陽だまりのような人生の一齣と見せかけて、実は老女こそ、未だに秘書やSPに守られたVIPの暮らしを続ける元英国首相マーガレット・サッチャー(メリル・ストリープ)であり、夫のデニス(ジム・ブロードベント)はすでに何年も前に他界していることが知らされる。映画は、実に秀逸で魅力的なオープニングで始まります。
それにもかかわらず、この映画が作品としてはあまり評価できない印象があるのは、せっかくマーガレット・サッチャーという素材を用いているにもかかわらず、サッチャーそのひとを描くことから逃げているからだと思います。
この映画で描かれているのは、卓越した才能と不屈の精神を持った女性が、男社会と果敢に闘い、家庭とキャリアとの間で葛藤し、結局はキャリアを選んで家庭を犠牲にしたにもかかわらず、晩年はアルツハイマーを発症し、手元に残されたのは家族(娘と亡くなった夫の幻覚)だけだった、というある種普遍化が可能なテーマです。なにもサッチャーに拘る必要はない。事実、夫を演じているのが同じジム・ブロードベントであるという関係から、ジョディ・デンチの『アイリス』(2001年、リチャード・エアー監督)を思わせる側面もある。(ちなみにブロードベントはこの映画でアカデミー助演男優賞を受賞☆)。
一生茶碗を洗って終わるのはいやなの、と専業主婦(&家業の手伝い)だった母親の生き様を否定し、政界に入ったはずのマーガレットが、結局その生涯の最後に、満ち足りた表情で茶碗を洗っているシーンで終わるという(浅薄な)皮肉。キッチンで茶碗を洗うことが、闘い続けた「女」にとっての「解放」であった、という決めつけ。評価が下がるのは、その浅さにもどかしいものを感じてしまうからだと思う。
サッチャーはサッチャーです。いまだ評価が定まっていない現代のひとであるということは差し引いても、彼女が一時代を築いた傑物であることにまちがいはない。そんな女性を主人公に据えて、そのひとの業績を一切描かないという姿勢は、フェアではないと思う以上に、描くだけの力量がなかったのだろうなぁ、という感想を持ってしまいます。
英国保守党の北アイルランド政策担当者で、アイルランド民族解放軍の爆弾テロによって爆死したエアリー・ニーブ(ニコラス・ファレル)、サッチャーの理解者であり後ろ盾であり盟友であったこのひとが、彼女に告げる台詞があります。
If you want to change the country, lead it.
英国のありようを嘆くサッチャーに向かって、「国を変えたいのなら、自らがそれを率いなさい」と言うのです。これ以上の至言はない。運動家として活動することは確かに何もしないよりは尊いことであろうと思いますが、批判するのは容易いことです。本当に改革を望むのなら、自らこの国を率いるにしくはない。だけど、そんな大仕事、大抵のひとはわかっていても尻込みする。できるわけないと思う。それを受けて立ったのがサッチャーなんです。業績の評価はとりあえず置くとして、不利な条件(労働者階級という出自、なによりも女性であったこと)にもかかわらず、果敢に闘ってついに英国を変えることをなし得たことは、到底小さなことではなく、語るべきがあるとしたら、まさにそのこと以外にありえないと思う。「家庭とキャリアとの間で苦悩した女性の家族に対する思い」なんてものに矮小化されてしまったのでは興ざめです。
サッチャーの映画で観客が観たいのは、まさに彼女の「業績」なんです。マーガレットのような出自の女性が、いかにして大臣ポストを得るまでになったのか。さらには一国を率いる立場にまで到ったのか。どうやって反発を押しのけていったのか。どうやって味方を増やしていったのか。彼女の足をひっぱった人々はどのような勢力だったのか、遣り口だったのか、それに対して彼女はいかにして闘ったのか。彼女を支援した人々は、彼女のどこに共感して彼女のために(あるいは彼女と共に)闘うことを決意したのか。
サッチャリズムを描いた映画は、たとえば『This is England』などたくさんありますから、一方のサッチャーはどういうひとだったのか、なにを思ってどのように動いたのか、そうしたことをこそ語ってほしかったと思うのは、何もないものねだりの見当違いの感想ではないと思う。
劇中、サッチャーの「名台詞」がいくつも散見しますが、そうした興味深い含蓄に富んだ台詞の陰で、実際に彼女がなにをしてきたのか、ということが全く描かれていないので、台詞自体はテレビのバラエティショー向けのキャプションのように重みがないのです。
たとえば、診療してもらった医師に対して、サッチャーが「考えが行動になり、行動が習慣になり、習慣が人格を形成する」という父親(イアン・グレン)の持論を引用するシーンがあります。台詞自体はとても印象的なのですが、実際に彼女のどのような行動がどのような習慣になったのかについては、映画では何の描写もありません。彼女がどのような考えを持っていたかはある程度提示されているし、彼女の人格がどのようなものであったかについてもある程度の描写はあるのですが、本来ドラマが生じるはずの行動と習慣については何も描かれていないのです。これではあまりにも物足りない。
かりに、作り手が本当にまさにそのテーマをこそ語りたかったのなら、実在の人物のカリスマや知名度やイメージに頼らずに、オリジナルのキャラクターで勝負するべきだったと思います。語る価値があるほどの魅力や普遍性のあるキャラクターを生み出すことは並大抵のことではないです。それを怠って既存のイメージによりかかっている本作は、やはり怠惰な印象を受けます。
であるにもかかわらず、それでもやはり、メリル・ストリープの演技は圧倒的なんだもの、敵わないよねぇ。
・マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙@ぴあ映画生活

メリル・ストリープに2011年のアカデミー賞主演女優賞をもたらした映画です。
正直、はぁ、またストリープかぁ、ほかにも凄い仕事したひとはいるだろうにねぇ、と思ってしまったのですが、こうして作品を観てしまえば、こりゃしょうがないねぇ、獲るわなぁ、と納得してしまいました。
だって、こんな凡庸な脚本と平板な演出の作品を、演技(とメイク・アップ)の力だけで見応えのある映画にしてしまったんだもの。名優の名演の前には、どんな凝った演出も映像テクニックも虚しいと言わざるを得ません。
どこにでもある小さなスーパーで、おぼつかない様子で牛乳を買う老女。家に帰り、小さなキッチンで、差し向かいでささやかな朝食を摂る仲むつまじげな老夫婦。牛乳価格の高騰を嘆く妻。それは大変だな、うちにも下宿人でも置くかな、といたずらっぽく答える夫。
陽だまりのような人生の一齣と見せかけて、実は老女こそ、未だに秘書やSPに守られたVIPの暮らしを続ける元英国首相マーガレット・サッチャー(メリル・ストリープ)であり、夫のデニス(ジム・ブロードベント)はすでに何年も前に他界していることが知らされる。映画は、実に秀逸で魅力的なオープニングで始まります。
それにもかかわらず、この映画が作品としてはあまり評価できない印象があるのは、せっかくマーガレット・サッチャーという素材を用いているにもかかわらず、サッチャーそのひとを描くことから逃げているからだと思います。
この映画で描かれているのは、卓越した才能と不屈の精神を持った女性が、男社会と果敢に闘い、家庭とキャリアとの間で葛藤し、結局はキャリアを選んで家庭を犠牲にしたにもかかわらず、晩年はアルツハイマーを発症し、手元に残されたのは家族(娘と亡くなった夫の幻覚)だけだった、というある種普遍化が可能なテーマです。なにもサッチャーに拘る必要はない。事実、夫を演じているのが同じジム・ブロードベントであるという関係から、ジョディ・デンチの『アイリス』(2001年、リチャード・エアー監督)を思わせる側面もある。(ちなみにブロードベントはこの映画でアカデミー助演男優賞を受賞☆)。
一生茶碗を洗って終わるのはいやなの、と専業主婦(&家業の手伝い)だった母親の生き様を否定し、政界に入ったはずのマーガレットが、結局その生涯の最後に、満ち足りた表情で茶碗を洗っているシーンで終わるという(浅薄な)皮肉。キッチンで茶碗を洗うことが、闘い続けた「女」にとっての「解放」であった、という決めつけ。評価が下がるのは、その浅さにもどかしいものを感じてしまうからだと思う。
サッチャーはサッチャーです。いまだ評価が定まっていない現代のひとであるということは差し引いても、彼女が一時代を築いた傑物であることにまちがいはない。そんな女性を主人公に据えて、そのひとの業績を一切描かないという姿勢は、フェアではないと思う以上に、描くだけの力量がなかったのだろうなぁ、という感想を持ってしまいます。
英国保守党の北アイルランド政策担当者で、アイルランド民族解放軍の爆弾テロによって爆死したエアリー・ニーブ(ニコラス・ファレル)、サッチャーの理解者であり後ろ盾であり盟友であったこのひとが、彼女に告げる台詞があります。
If you want to change the country, lead it.
英国のありようを嘆くサッチャーに向かって、「国を変えたいのなら、自らがそれを率いなさい」と言うのです。これ以上の至言はない。運動家として活動することは確かに何もしないよりは尊いことであろうと思いますが、批判するのは容易いことです。本当に改革を望むのなら、自らこの国を率いるにしくはない。だけど、そんな大仕事、大抵のひとはわかっていても尻込みする。できるわけないと思う。それを受けて立ったのがサッチャーなんです。業績の評価はとりあえず置くとして、不利な条件(労働者階級という出自、なによりも女性であったこと)にもかかわらず、果敢に闘ってついに英国を変えることをなし得たことは、到底小さなことではなく、語るべきがあるとしたら、まさにそのこと以外にありえないと思う。「家庭とキャリアとの間で苦悩した女性の家族に対する思い」なんてものに矮小化されてしまったのでは興ざめです。
サッチャーの映画で観客が観たいのは、まさに彼女の「業績」なんです。マーガレットのような出自の女性が、いかにして大臣ポストを得るまでになったのか。さらには一国を率いる立場にまで到ったのか。どうやって反発を押しのけていったのか。どうやって味方を増やしていったのか。彼女の足をひっぱった人々はどのような勢力だったのか、遣り口だったのか、それに対して彼女はいかにして闘ったのか。彼女を支援した人々は、彼女のどこに共感して彼女のために(あるいは彼女と共に)闘うことを決意したのか。
サッチャリズムを描いた映画は、たとえば『This is England』などたくさんありますから、一方のサッチャーはどういうひとだったのか、なにを思ってどのように動いたのか、そうしたことをこそ語ってほしかったと思うのは、何もないものねだりの見当違いの感想ではないと思う。
劇中、サッチャーの「名台詞」がいくつも散見しますが、そうした興味深い含蓄に富んだ台詞の陰で、実際に彼女がなにをしてきたのか、ということが全く描かれていないので、台詞自体はテレビのバラエティショー向けのキャプションのように重みがないのです。
たとえば、診療してもらった医師に対して、サッチャーが「考えが行動になり、行動が習慣になり、習慣が人格を形成する」という父親(イアン・グレン)の持論を引用するシーンがあります。台詞自体はとても印象的なのですが、実際に彼女のどのような行動がどのような習慣になったのかについては、映画では何の描写もありません。彼女がどのような考えを持っていたかはある程度提示されているし、彼女の人格がどのようなものであったかについてもある程度の描写はあるのですが、本来ドラマが生じるはずの行動と習慣については何も描かれていないのです。これではあまりにも物足りない。
かりに、作り手が本当にまさにそのテーマをこそ語りたかったのなら、実在の人物のカリスマや知名度やイメージに頼らずに、オリジナルのキャラクターで勝負するべきだったと思います。語る価値があるほどの魅力や普遍性のあるキャラクターを生み出すことは並大抵のことではないです。それを怠って既存のイメージによりかかっている本作は、やはり怠惰な印象を受けます。
であるにもかかわらず、それでもやはり、メリル・ストリープの演技は圧倒的なんだもの、敵わないよねぇ。
・マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙@ぴあ映画生活
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by shirakian
| 2012-03-29 19:54
| 映画ま行