2012年 03月 22日
おとなのけんか
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★ネタバレ注意★
ロマン・ポランスキー監督の最新作。
ヤスミナ・レザの舞台劇をもとに、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリーの4人の演技巧者が華麗なる共演で魅了してくれるコメディです。かなり笑えます。劇場のノリも上々でした。
ニューヨーク、ブルックリン。ペネロペ(ジョディ・フォスター)とマイケル(ジョン・C・ライリー)のロングストリート夫妻と、ナンシー(ケイト・ウィンスレット)とアラン(クリストフ・ヴァルツ)のカウアン夫妻は、共にそこそこに裕福で教養もあり、子どもの教育に関しても、モンスターでもネグレクトでもない良識の範囲内の親。そんな両家の11歳の男の子同士が他愛ない喧嘩をして、カウアン家の子がロングストリート家の子に歯を折る怪我をさせてしまう。謝罪のためロングストリート家を訪れたカウアン夫妻。初めのうちこそ友好的に和解の話が進んでいたのだが、次第に本音が顔を出し、事態は「おとなのけんか」の様相を呈してしまう。
物語は最初から最後までロングストリート家の居間で展開され、登場人物も上記の4人だけ。贅沢なコントといった感じですが、4人のキャラクター造形が面白く、その4人を演じるメンツがコレですもの、とても見応えのある演技合戦が繰り広げられます。特にクリストフ・ヴァルツの嫌味な存在感ときたら、お好きな方にはたまらないものが(笑)。
ジョディ・フォスターのペネロペは、「ジェーン・フォンダ」とあてこすられるような「正義のひと」。自分の正当性を信じて疑わず、頭がいいだけに、ガチガチに理論武装して相手を言葉でやりこめ、「意識の低いひと」を軽蔑し、優越感を抱いているタイプ。
ジョン・C・ライリーのマイケルは、「羊亭主」と揶揄されるような凡庸で穏やかなタイプだけれど、他人の気持ちにとことん鈍感。自分が貶められても笑って見過ごせる部分もあるけど、自分の言動で他人が傷付いても、決してその痛みを理解しない男。
クリストフ・ヴァルツのアランは、典型的「アメリカの弁護士」。自分の仕事が弱者を食い物にして不当な利益を得るものであり、それが世間から何と思われているかも重々承知の上で、完全に居直って、悪評込みでの自分の優位性を楽しんでいる露悪的な男。
ケイト・ウィンスレットのナンシーは、極力波風を立てたくないひとで、無理矢理自分を押さえつけて場の平和を優先させるキレイゴトに終始しがちなために、逆に一旦爆発してしまうと、だれよりも非社会的な言動に陥ってしまう。一見、夫の非人間ぶりにひたすら耐えている妻のように見えるけれど、実はアランとナンシーの価値観や利害は完全に一致していて、ふたりは一種の共犯関係にあります。
一方は礼儀正しく謝罪し、一方は大らかにそれを受け入れる、という体裁をとりながらも、内心では、片や「たかが子どものけんかに大袈裟な」と思っており、片や「本来この程度で赦せるものじゃないんだけど」と思っているわけで、お互いが当然感じているわだかまりを「ないもの」として表面を取り繕っての会談なので、アルコールでも入って本音が出てきてしまえば荒れるのもむべなるかな。このドラマのおかしみというのも、次第に本音が露呈していくその過程にあるのだけれど、それだけだとテレビのコントと変わりがない。このドラマがこのドラマとして優れているのはやはり、上述した4人のキャラクター描写によるものだと思う。
特にクリストフ・ヴァルツの描写は華々しい。嫌味なくらい自信満々で、他人を見下しているアランの自信の拠りどころというのは、かれの仕事(とその仕事が齎す富)にほかならず、それから引き離されるととことん空っぽになってしまう、というあたりが、常に手放さない携帯と、常に携帯に向かってのみコミュニケートすることにより実際にその場にいる人々(特に妻)に多大なストレスを与え続ける、という描写、さらには、そのライフラインである携帯を奪い取られると人が変わったように意気消沈してしまう、といった描写で、ことさら面白おかしく印象的に提示されています。
それに比べればぐっと地味ながら、わたしにはジョン・C・ライリーのキャラの奥深さが面白かったです。奥深さというか、それは鈍感さではあるんですが、もちろんそれは愚鈍さではなく、単なる鈍感とも違う奥深い鈍感さなんです(笑)。
ふたり以上の人間がいて、そこに感情的対立が生じた場合、一方が怒ったり傷付いたりしたとしたら、その理由の正当性云々はともかく、もう一方が怒らせたり傷つけたりしたこと自体はまちがいないはずなのに、ある種の人間は、相手がどれだけ怒って(or傷付いて)いようと、そのことによって「自分は悪くない」という確信が揺らぐことはなく、自分が悪くない以上、相手がどうして怒って(or傷付いて)いるのか、全く理解できない、というより理解する必要を感じないらしい。ライリーのマイケルにはそういうところがある。「だって、おれは悪くないだろ? なんで『そんなことで』怒るんだ?」
ライリーのマイケルは成功したビジネスマンではあるんですが、その職種は金物屋さんです。そのことを知ったヴァルツのアランは、ここぞとばかり楽しげにあてこすりにかかるのですが、もちろん金物屋であって悪いことなどひとつもないことを知っているマイケルは、全く動じるところがありません。
自分の母親が使っている薬が、アランが訴訟でもみ消そうとしている副作用の強すぎる薬であることを知っても、怒りの矛先はアランには向かない。逆に、母親にその薬は危ないと説明してくれ、と会話中の受話器を渡す始末。そこでアランも悪びれたりせずに楽しげに応じてしまうのが一つの笑い所でもあるのですが、ここで面白いのは、マイケルの鈍感とアランの厚顔がうまく作用して「男同士の絆」めいたものが芽生えかけてしまう展開です。これはもう、手放しでおかしい。
そんなマイケルの逆鱗に触れるのは、ハムスターの一件です。げっ歯類が苦手なマイケルは娘の飼っているハムスターが嫌で棄ててしまう。そのことを聞き咎めたウィンスレットのナンシーは、最初のうちこそぐっと嫌悪感を呑み込んで聞き流そうとするのだけれど、時間が長引き、アルコールなども入ってくると、どうしてもそれが赦せなくなり、マイケルの所業が残酷だとなじってしまう。そうするとマイケルの方でも、ナンシーへの怒りを露にしてしまうのです。
金物屋であることを揶揄されても、「自分は悪くない」ことに確信のあるマイケルは微塵も動揺しないけれど、ハムスターの一件については、それがハムスターにとっても飼い主である娘にとっても残酷な仕打ちであることは(表面的には認めないけれど深層心理では)理解しているし、本来ひとから残酷だと罵られることなどしたことがない「温厚で好人物」な自分がそんな残酷な所業に出たことに対する(深層心理的)嫌悪感はあるし、しかも自分がそんなことをしてしまった動機というのがげっ歯類(のような小さな他愛の無い生き物)に対する嫌悪(というより恐怖)であることを認めなければならないのが男としてのプライドに甚く抵触してしまったしで、さすがに笑っては流せなかったのです。
マイケルのようなひとの行為やリアクションは概ね、「悪気がない」ということで好意的に評価されがちなのだけれど、「自分は悪くない」基準の鈍感さは、ただでさえ、ロードローラーみたいにまわりの人々の繊細な感情を容赦なく轢き潰していってしまうものである上に、妻であるフォスターのペネロペは、「自分が正しい」のひとです。「自分は悪くない」の夫と「自分が正しい」の妻の関係は、水面下では常に一触即発。
最終的には派手にいがみあうことになる4人の「おとな」ですが、実際に暴力が振るわれるのは、ついに切れたペネロペがぽかぽかと夫に殴りかかるというシーンだけです。ほかの3人は直接的に相手に手をあげることはない。もちろん小柄なジョディ・フォスターが大柄なライリーに暴力で敵うわけもなく、軽く往なされているだけなので、絵としては面白おかしく笑う場面になっているのだけれど、それが暴力であることには変わりがなく、しかも唯一の暴力描写であるという点も見逃せないのです。それはつまりダルフールの虐殺についての本を執筆中の、「作家」のペネロペは、暴力に対してだれよりも意識が高いと自負しているはずなのに、その彼女が4人の中で唯一直接的な暴力をふるう人間でもある という皮肉なおかしさです。
そして皮肉と言えば、その最たるものは、その頃一方、当事者である子どもたちの方ではとっくに仲直りして、今までと変わらず一緒に遊んでおりましたとさ、というオチであることは言うまでもありません。そして、棄てられたハムスターも、凍え死んだり飢え死んだりカラスや犬の餌食になることもなく、元気に公園でくつろいておりましたとさ、というオチ。ハムスター、よかったね(笑)。
・おとなのけんか@ぴあ映画生活
ロマン・ポランスキー監督の最新作。
ヤスミナ・レザの舞台劇をもとに、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリーの4人の演技巧者が華麗なる共演で魅了してくれるコメディです。かなり笑えます。劇場のノリも上々でした。
ニューヨーク、ブルックリン。ペネロペ(ジョディ・フォスター)とマイケル(ジョン・C・ライリー)のロングストリート夫妻と、ナンシー(ケイト・ウィンスレット)とアラン(クリストフ・ヴァルツ)のカウアン夫妻は、共にそこそこに裕福で教養もあり、子どもの教育に関しても、モンスターでもネグレクトでもない良識の範囲内の親。そんな両家の11歳の男の子同士が他愛ない喧嘩をして、カウアン家の子がロングストリート家の子に歯を折る怪我をさせてしまう。謝罪のためロングストリート家を訪れたカウアン夫妻。初めのうちこそ友好的に和解の話が進んでいたのだが、次第に本音が顔を出し、事態は「おとなのけんか」の様相を呈してしまう。
物語は最初から最後までロングストリート家の居間で展開され、登場人物も上記の4人だけ。贅沢なコントといった感じですが、4人のキャラクター造形が面白く、その4人を演じるメンツがコレですもの、とても見応えのある演技合戦が繰り広げられます。特にクリストフ・ヴァルツの嫌味な存在感ときたら、お好きな方にはたまらないものが(笑)。
ジョディ・フォスターのペネロペは、「ジェーン・フォンダ」とあてこすられるような「正義のひと」。自分の正当性を信じて疑わず、頭がいいだけに、ガチガチに理論武装して相手を言葉でやりこめ、「意識の低いひと」を軽蔑し、優越感を抱いているタイプ。
ジョン・C・ライリーのマイケルは、「羊亭主」と揶揄されるような凡庸で穏やかなタイプだけれど、他人の気持ちにとことん鈍感。自分が貶められても笑って見過ごせる部分もあるけど、自分の言動で他人が傷付いても、決してその痛みを理解しない男。
クリストフ・ヴァルツのアランは、典型的「アメリカの弁護士」。自分の仕事が弱者を食い物にして不当な利益を得るものであり、それが世間から何と思われているかも重々承知の上で、完全に居直って、悪評込みでの自分の優位性を楽しんでいる露悪的な男。
ケイト・ウィンスレットのナンシーは、極力波風を立てたくないひとで、無理矢理自分を押さえつけて場の平和を優先させるキレイゴトに終始しがちなために、逆に一旦爆発してしまうと、だれよりも非社会的な言動に陥ってしまう。一見、夫の非人間ぶりにひたすら耐えている妻のように見えるけれど、実はアランとナンシーの価値観や利害は完全に一致していて、ふたりは一種の共犯関係にあります。
一方は礼儀正しく謝罪し、一方は大らかにそれを受け入れる、という体裁をとりながらも、内心では、片や「たかが子どものけんかに大袈裟な」と思っており、片や「本来この程度で赦せるものじゃないんだけど」と思っているわけで、お互いが当然感じているわだかまりを「ないもの」として表面を取り繕っての会談なので、アルコールでも入って本音が出てきてしまえば荒れるのもむべなるかな。このドラマのおかしみというのも、次第に本音が露呈していくその過程にあるのだけれど、それだけだとテレビのコントと変わりがない。このドラマがこのドラマとして優れているのはやはり、上述した4人のキャラクター描写によるものだと思う。
特にクリストフ・ヴァルツの描写は華々しい。嫌味なくらい自信満々で、他人を見下しているアランの自信の拠りどころというのは、かれの仕事(とその仕事が齎す富)にほかならず、それから引き離されるととことん空っぽになってしまう、というあたりが、常に手放さない携帯と、常に携帯に向かってのみコミュニケートすることにより実際にその場にいる人々(特に妻)に多大なストレスを与え続ける、という描写、さらには、そのライフラインである携帯を奪い取られると人が変わったように意気消沈してしまう、といった描写で、ことさら面白おかしく印象的に提示されています。
それに比べればぐっと地味ながら、わたしにはジョン・C・ライリーのキャラの奥深さが面白かったです。奥深さというか、それは鈍感さではあるんですが、もちろんそれは愚鈍さではなく、単なる鈍感とも違う奥深い鈍感さなんです(笑)。
ふたり以上の人間がいて、そこに感情的対立が生じた場合、一方が怒ったり傷付いたりしたとしたら、その理由の正当性云々はともかく、もう一方が怒らせたり傷つけたりしたこと自体はまちがいないはずなのに、ある種の人間は、相手がどれだけ怒って(or傷付いて)いようと、そのことによって「自分は悪くない」という確信が揺らぐことはなく、自分が悪くない以上、相手がどうして怒って(or傷付いて)いるのか、全く理解できない、というより理解する必要を感じないらしい。ライリーのマイケルにはそういうところがある。「だって、おれは悪くないだろ? なんで『そんなことで』怒るんだ?」
ライリーのマイケルは成功したビジネスマンではあるんですが、その職種は金物屋さんです。そのことを知ったヴァルツのアランは、ここぞとばかり楽しげにあてこすりにかかるのですが、もちろん金物屋であって悪いことなどひとつもないことを知っているマイケルは、全く動じるところがありません。
自分の母親が使っている薬が、アランが訴訟でもみ消そうとしている副作用の強すぎる薬であることを知っても、怒りの矛先はアランには向かない。逆に、母親にその薬は危ないと説明してくれ、と会話中の受話器を渡す始末。そこでアランも悪びれたりせずに楽しげに応じてしまうのが一つの笑い所でもあるのですが、ここで面白いのは、マイケルの鈍感とアランの厚顔がうまく作用して「男同士の絆」めいたものが芽生えかけてしまう展開です。これはもう、手放しでおかしい。
そんなマイケルの逆鱗に触れるのは、ハムスターの一件です。げっ歯類が苦手なマイケルは娘の飼っているハムスターが嫌で棄ててしまう。そのことを聞き咎めたウィンスレットのナンシーは、最初のうちこそぐっと嫌悪感を呑み込んで聞き流そうとするのだけれど、時間が長引き、アルコールなども入ってくると、どうしてもそれが赦せなくなり、マイケルの所業が残酷だとなじってしまう。そうするとマイケルの方でも、ナンシーへの怒りを露にしてしまうのです。
金物屋であることを揶揄されても、「自分は悪くない」ことに確信のあるマイケルは微塵も動揺しないけれど、ハムスターの一件については、それがハムスターにとっても飼い主である娘にとっても残酷な仕打ちであることは(表面的には認めないけれど深層心理では)理解しているし、本来ひとから残酷だと罵られることなどしたことがない「温厚で好人物」な自分がそんな残酷な所業に出たことに対する(深層心理的)嫌悪感はあるし、しかも自分がそんなことをしてしまった動機というのがげっ歯類(のような小さな他愛の無い生き物)に対する嫌悪(というより恐怖)であることを認めなければならないのが男としてのプライドに甚く抵触してしまったしで、さすがに笑っては流せなかったのです。
マイケルのようなひとの行為やリアクションは概ね、「悪気がない」ということで好意的に評価されがちなのだけれど、「自分は悪くない」基準の鈍感さは、ただでさえ、ロードローラーみたいにまわりの人々の繊細な感情を容赦なく轢き潰していってしまうものである上に、妻であるフォスターのペネロペは、「自分が正しい」のひとです。「自分は悪くない」の夫と「自分が正しい」の妻の関係は、水面下では常に一触即発。
最終的には派手にいがみあうことになる4人の「おとな」ですが、実際に暴力が振るわれるのは、ついに切れたペネロペがぽかぽかと夫に殴りかかるというシーンだけです。ほかの3人は直接的に相手に手をあげることはない。もちろん小柄なジョディ・フォスターが大柄なライリーに暴力で敵うわけもなく、軽く往なされているだけなので、絵としては面白おかしく笑う場面になっているのだけれど、それが暴力であることには変わりがなく、しかも唯一の暴力描写であるという点も見逃せないのです。それはつまりダルフールの虐殺についての本を執筆中の、「作家」のペネロペは、暴力に対してだれよりも意識が高いと自負しているはずなのに、その彼女が4人の中で唯一直接的な暴力をふるう人間でもある という皮肉なおかしさです。
そして皮肉と言えば、その最たるものは、その頃一方、当事者である子どもたちの方ではとっくに仲直りして、今までと変わらず一緒に遊んでおりましたとさ、というオチであることは言うまでもありません。そして、棄てられたハムスターも、凍え死んだり飢え死んだりカラスや犬の餌食になることもなく、元気に公園でくつろいておりましたとさ、というオチ。ハムスター、よかったね(笑)。
・おとなのけんか@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-03-22 18:36
| 映画あ行