2011年 04月 26日
ザ・ライト -エクソシストの真実-
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★ネタバレ注意★
“ライト”ってカタカナで書かれたら、”right”なのか”light”なのかわからないよね、と思ってたら、”rite”なのでした。宗教上の儀式のことだそうなので、つまりは悪魔払いの儀式のことなのね。アンソニー・ホプキンスが迫力満点でエクソシストを演じる映画です。震災の影響で公開が延期されてしまってヤキモキしたんですが、無事に公開されてよかった(なんでこの映画が公開延期の対象になったのかしら????)。
この話は、実話に「インスパイア」された物語だそうです。
アメリカ人のマイケル・コヴァック(コリン・オドナヒュー)は、実家から逃げ出すために神学校へ進学した青年で、もとより信仰心は薄かった。卒業を前に、司祭になるつもりはないことを恩師のマシュー神父(トビー・ジョーンズ)に告げると、だったら奨学金返せと脅されて、恩師の言いつけ通りバチカンでエクソシスト養成講座を受けるはめに(本人もちょびっとローマ観光がしたかった)。
そしてその講座でも、オマエここに何しに来たんだ、と言ってやりたくなるほど猜疑心を隠さないマイケルにイラッときた講座担当のザビエル神父(キアラン・ハインズ)が、実地で修行して来い、とばかり、在野で異端な悪魔払いを行っているルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)のもとに送り込む。ルーカス神父の下でマイケルが体験した戦慄の体験とは? というお話。
インスパイアですからどの辺までが実話なのかはわかりませんが、少なくともバチカンにエクソシスト養成講座があって、今でも大勢のひとが悪魔払いの勉強をしている、というあたりは実話だと思われます。それだけ悪魔払いが求められているということですね。怖いですね。
そしてまた、後にエクソシストの道を歩むことになったというマイケル神父自身の、信仰告白のお話でもあったろうかと思います。信仰心が薄かったかれが、理屈では説明のつかない体験をしたことにより、本当の信仰にめざめ、迷えるひとびとのために奉仕する道を選ぶ、という流れです。
さきに言ってしまえば、わたしはキリスト教徒ではないですし、悪魔も悪魔憑きも、リアルなものとは思えません。悪魔憑きと言われているひとの大半は、病院でしかるべき治療を受けさせてあげるべきひとたちだと思っています。
結局は、「一方だけを信じることはできない」ということですよね。神の存在を信じるからこそ悪魔の存在も信じざるを得ない。悪魔の存在を信じている以上、(意識しているにせよいないにせよ)神の存在も信じているということになる。
神を信じないわたしももちろん、暴力や災厄や悪そのものに晒されることがないとは言えませんが、そうなったとしてもたぶん、それは悪魔とは別の力の結果だろうな、と思うのみです。
悪魔のことを思うといつも釈然としないのだけど、悪魔と対等に闘わなきゃいけない神様って、なんなんでしょね? だって神様って「全知全能」なんでしょ? なんで悪魔なんかにてこずるの? 神様が「滅びるべき」と思う存在なら、そもそも存在できないはずでしょ? だったら悪魔も神様が存在させているのでしょ? なんのために? 「神の御心」は、基本的にわたしには意味をなさないです。
それで思い出すのが、『ポネット』というフランス映画ですが、この映画は母親を交通事故で失った4歳の少女の物語なんだけど、4歳の少女にとって(というか、生きとし生ける全ての者にとって)、ある日いきなり母親が死んでしまって二度と戻って来ないということは、有り得ざる理不尽以外の何者でもないはずなのに、少女のまわりの大人たちは、なぜ神様がそういうことをなさったのか、ということを言葉を尽くして説明しようとする。神様の意図や、その正しさを説明しようとすればするほど、4歳の少女が、でもなぜママは帰って来ないの、と一言尋ねるだけで、あっけなく理論は破綻してしまい、どれだけ言葉を重ねたところで、真実なんか現れてはこない。映画の意図が奈辺にあったのかは知りませんが、部外者としては、語れば語るほど虚偽になっていく、難儀な宗教だなぁ、と思わざるを得なかったです。
で、エクソシストですが。
アンソニー・ホプキンス演じる手練のエクソシスト、ルーカス神父は、バチカンが「異端」というだけあって、かなり型破りなスタイルで悪魔払いを行っている模様。儀式の最中に携帯に電話がかかてきたら迷わず出ちゃうし、依頼者を幻惑させるための小道具(怪しげなカエルとか)をいつも鞄に入れて持ち歩いているし。
けれど、堅固な信仰とあまたの経験に支えられたかれは、堂々と悪魔と渡りあい、頼もしい限りに見えます。このひとならきっと助けてくれる!
しかしそんな神父も、依頼者を助けられないことがある。実父にレイプされ妊娠してしまった16歳の少女に憑りついた悪魔を祓おうとして果たせず、少女は苦しみぬいた果てに命を落としてしまう。落胆し、自信をなくし、信仰心すら揺らいでしまった神父の心の隙間につけこんだ喪黒福造 悪魔は、ルーカス神父自身を次なるターゲットとして憑りついてしまったのだった!
というわけで、ホプキンスの悪魔に憑りつかれた演技がもう、迫力満点! ちょっとヘルボーイみたいなメイクして、うがー、あぎゃーと暴れまわり、神父見習いのマイケルの耳に毒を吹き込む。まさにホプキンスの独壇場。映画の全てが完全に消し飛んでしまうほどの一人舞台です。マイケル、頑張れ! 完全に食われてどうする(>_<)!
えーと、マイケルを演じたコリン・オドナヒューは、わたしには初めましての役者さんでしたが、CSI:NYのドン・フラック刑事ことエディ・ケーヒル氏に印象が似ているので、最初から親しみを感じてしまいました。いかにも自信なさげなところと、無駄に頑固なところと、我を張る割にはやっぱり自信なさげなところが、とっても役柄にマッチしていてよいと思いました。
かれが、信じていなかったはずの悪魔にガンガン苛め抜かれて、どうしても悪魔を信じざるをえなくなり、そこで初めて、悪魔を信じる自分は神をも信じているのである、という根本基本に気づいて、真の信仰に目覚める、という流れは素直にわかりやすく、信仰に目覚める瞬間の描写が、ギリギリまで耐えぬいた果てにようやく必殺技を繰り出すスーパーヒーローみたいでカタルシスを感じますです。
あと、マイケルの父親を演じたルトガー・ハウアー、せっかく楽しみに観たのに、出番が少なすぎてガッカリでした。……しかし、マイケルの電話に出たとき、かれがほんとうに地獄にいたのだとしたら、一体なんでまたかれは、そんなところに行かなきゃならなかったのだろう。なにかやらしかたんだろうか。それとも、なにもやらなくても、運が悪いと行かされちゃうのかしら。なんかとっても理不尽。(でも、ハウアーだったら、もしかしたら行くのかなぁ、とちょっぴり思ってしまったことはナイショ)。
そして、ヒロイン的役割で、マイケルと行動を共にするジャーナリストを演じたアリシー・ブラガは、無難な印象です。もしかしたら、彼女が書いた記事というのは実在するのかな。だったら、それをこそ読んでみたいものだな、とも思いました。
それにしても五寸釘。呑み込むのも吐き出すのも、さぞや難儀であったろう……(汗)。
ほんとうは、悪魔というのは、統合失調症などの病により、心身の不調に苦しむひとたちの症状を擬人化したものではなく、16歳の実の娘をレイプして孕ませる類の人間のことを言うのだろうと思うのですが、神様はそのような存在から無力な少女を守ることには、あまり熱心でおられない模様。
“ライト”ってカタカナで書かれたら、”right”なのか”light”なのかわからないよね、と思ってたら、”rite”なのでした。宗教上の儀式のことだそうなので、つまりは悪魔払いの儀式のことなのね。アンソニー・ホプキンスが迫力満点でエクソシストを演じる映画です。震災の影響で公開が延期されてしまってヤキモキしたんですが、無事に公開されてよかった(なんでこの映画が公開延期の対象になったのかしら????)。
この話は、実話に「インスパイア」された物語だそうです。
アメリカ人のマイケル・コヴァック(コリン・オドナヒュー)は、実家から逃げ出すために神学校へ進学した青年で、もとより信仰心は薄かった。卒業を前に、司祭になるつもりはないことを恩師のマシュー神父(トビー・ジョーンズ)に告げると、だったら奨学金返せと脅されて、恩師の言いつけ通りバチカンでエクソシスト養成講座を受けるはめに(本人もちょびっとローマ観光がしたかった)。
そしてその講座でも、オマエここに何しに来たんだ、と言ってやりたくなるほど猜疑心を隠さないマイケルにイラッときた講座担当のザビエル神父(キアラン・ハインズ)が、実地で修行して来い、とばかり、在野で異端な悪魔払いを行っているルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)のもとに送り込む。ルーカス神父の下でマイケルが体験した戦慄の体験とは? というお話。
インスパイアですからどの辺までが実話なのかはわかりませんが、少なくともバチカンにエクソシスト養成講座があって、今でも大勢のひとが悪魔払いの勉強をしている、というあたりは実話だと思われます。それだけ悪魔払いが求められているということですね。怖いですね。
そしてまた、後にエクソシストの道を歩むことになったというマイケル神父自身の、信仰告白のお話でもあったろうかと思います。信仰心が薄かったかれが、理屈では説明のつかない体験をしたことにより、本当の信仰にめざめ、迷えるひとびとのために奉仕する道を選ぶ、という流れです。
さきに言ってしまえば、わたしはキリスト教徒ではないですし、悪魔も悪魔憑きも、リアルなものとは思えません。悪魔憑きと言われているひとの大半は、病院でしかるべき治療を受けさせてあげるべきひとたちだと思っています。
結局は、「一方だけを信じることはできない」ということですよね。神の存在を信じるからこそ悪魔の存在も信じざるを得ない。悪魔の存在を信じている以上、(意識しているにせよいないにせよ)神の存在も信じているということになる。
神を信じないわたしももちろん、暴力や災厄や悪そのものに晒されることがないとは言えませんが、そうなったとしてもたぶん、それは悪魔とは別の力の結果だろうな、と思うのみです。
悪魔のことを思うといつも釈然としないのだけど、悪魔と対等に闘わなきゃいけない神様って、なんなんでしょね? だって神様って「全知全能」なんでしょ? なんで悪魔なんかにてこずるの? 神様が「滅びるべき」と思う存在なら、そもそも存在できないはずでしょ? だったら悪魔も神様が存在させているのでしょ? なんのために? 「神の御心」は、基本的にわたしには意味をなさないです。
それで思い出すのが、『ポネット』というフランス映画ですが、この映画は母親を交通事故で失った4歳の少女の物語なんだけど、4歳の少女にとって(というか、生きとし生ける全ての者にとって)、ある日いきなり母親が死んでしまって二度と戻って来ないということは、有り得ざる理不尽以外の何者でもないはずなのに、少女のまわりの大人たちは、なぜ神様がそういうことをなさったのか、ということを言葉を尽くして説明しようとする。神様の意図や、その正しさを説明しようとすればするほど、4歳の少女が、でもなぜママは帰って来ないの、と一言尋ねるだけで、あっけなく理論は破綻してしまい、どれだけ言葉を重ねたところで、真実なんか現れてはこない。映画の意図が奈辺にあったのかは知りませんが、部外者としては、語れば語るほど虚偽になっていく、難儀な宗教だなぁ、と思わざるを得なかったです。
で、エクソシストですが。
アンソニー・ホプキンス演じる手練のエクソシスト、ルーカス神父は、バチカンが「異端」というだけあって、かなり型破りなスタイルで悪魔払いを行っている模様。儀式の最中に携帯に電話がかかてきたら迷わず出ちゃうし、依頼者を幻惑させるための小道具(怪しげなカエルとか)をいつも鞄に入れて持ち歩いているし。
けれど、堅固な信仰とあまたの経験に支えられたかれは、堂々と悪魔と渡りあい、頼もしい限りに見えます。このひとならきっと助けてくれる!
しかしそんな神父も、依頼者を助けられないことがある。実父にレイプされ妊娠してしまった16歳の少女に憑りついた悪魔を祓おうとして果たせず、少女は苦しみぬいた果てに命を落としてしまう。落胆し、自信をなくし、信仰心すら揺らいでしまった神父の心の隙間につけこんだ
というわけで、ホプキンスの悪魔に憑りつかれた演技がもう、迫力満点! ちょっとヘルボーイみたいなメイクして、うがー、あぎゃーと暴れまわり、神父見習いのマイケルの耳に毒を吹き込む。まさにホプキンスの独壇場。映画の全てが完全に消し飛んでしまうほどの一人舞台です。マイケル、頑張れ! 完全に食われてどうする(>_<)!
えーと、マイケルを演じたコリン・オドナヒューは、わたしには初めましての役者さんでしたが、CSI:NYのドン・フラック刑事ことエディ・ケーヒル氏に印象が似ているので、最初から親しみを感じてしまいました。いかにも自信なさげなところと、無駄に頑固なところと、我を張る割にはやっぱり自信なさげなところが、とっても役柄にマッチしていてよいと思いました。
かれが、信じていなかったはずの悪魔にガンガン苛め抜かれて、どうしても悪魔を信じざるをえなくなり、そこで初めて、悪魔を信じる自分は神をも信じているのである、という根本基本に気づいて、真の信仰に目覚める、という流れは素直にわかりやすく、信仰に目覚める瞬間の描写が、ギリギリまで耐えぬいた果てにようやく必殺技を繰り出すスーパーヒーローみたいでカタルシスを感じますです。
あと、マイケルの父親を演じたルトガー・ハウアー、せっかく楽しみに観たのに、出番が少なすぎてガッカリでした。……しかし、マイケルの電話に出たとき、かれがほんとうに地獄にいたのだとしたら、一体なんでまたかれは、そんなところに行かなきゃならなかったのだろう。なにかやらしかたんだろうか。それとも、なにもやらなくても、運が悪いと行かされちゃうのかしら。なんかとっても理不尽。(でも、ハウアーだったら、もしかしたら行くのかなぁ、とちょっぴり思ってしまったことはナイショ)。
そして、ヒロイン的役割で、マイケルと行動を共にするジャーナリストを演じたアリシー・ブラガは、無難な印象です。もしかしたら、彼女が書いた記事というのは実在するのかな。だったら、それをこそ読んでみたいものだな、とも思いました。
それにしても五寸釘。呑み込むのも吐き出すのも、さぞや難儀であったろう……(汗)。
ほんとうは、悪魔というのは、統合失調症などの病により、心身の不調に苦しむひとたちの症状を擬人化したものではなく、16歳の実の娘をレイプして孕ませる類の人間のことを言うのだろうと思うのですが、神様はそのような存在から無力な少女を守ることには、あまり熱心でおられない模様。
by shirakian
| 2011-04-26 19:25
| 映画さ行