2011年 03月 19日
君を想って海をゆく
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★ネタバレ注意★
フィリップ・リオレ監督によるフランス映画です。
本国では、公開5週で100万人の動員を記録し、第35回セザール賞では、作品賞・監督賞・主演男優賞・助演女優賞・新人男優賞・撮影賞・脚本賞・編集賞・作曲賞・音響賞の10部門にノミネートされたそうです(残念ながら受賞はナシ。この年は“UN PROPHETE”という大物とぶつかってしまったらしく、受賞はほとんどこの映画にとられてる模様。そんな映画がなぜか本邦未公開(哀))。
2008年12月、イラク国籍のクルド難民ビラル(フィラ・エヴェルディ)は、恋人に会いたい一心で、イラクから4000キロの距離を歩いて、海峡の街、フランスのカレに辿りついた。恋人は家族と共にロンドンに移住していたが、イギリスは難民を受け入れていない。ビラルは密航を試み、ドーバー海峡を越えようとするが失敗に終わる。かくなる上は、海峡を泳いで渡るしかないと思いつめた17歳の少年は、市民プールで見かけた指導員のシモン(ヴァンサン・ランドン)にコーチしてくれるよう頼み込む。軽い気持ちで引き受けたシモンだったが、すぐにビラルの動機を察知し、かれがイギリスに不法入国を試みようとしていることを知る。しかし気づいたときにはビラルに深く感情的にコミットしてしまっており、そのときからシモンの激しい葛藤が始まった。
というストーリー。リオレ監督は、難民に対する支援者が当局に摘発され、処罰されるフランスの現状に怒りを表明し、ドイツ占領下の歴史と比較したりしたため、移民担当大臣が不快感を示し、監督もまた反論の書簡を新聞紙上に公表するなど、社会問題にまで発展したそうです。
つまりは、多分に政治的メッセージのある映画である、ということです。
密航するために海峡を越えるフェリーに積み込むトラックの荷台に潜む難民たちに対し、人間の呼気に含まれる二酸化炭素を検出することによって密航者の有無を判断する当局、その当局の検査に対抗し、頭からビニル袋を被って呼気が外に出ないようにする難民たち。失敗すれば呼吸困難になって死にます。主人公のビラルも、イラクからフランスまで徒歩で旅する途中、トルコで掴まり、頭にビニル袋を被せられたまま放置されたという恐怖の体験から、ビニル袋を被って息をひそめていることに耐えることができませんでした。
こうした描写を見ると、どうしたって、東西冷戦の最中、東ドイツから西へ逃れようとした(そして多くが殺されてしまった)人々のことを思い出さざるを得ません。いまとなっては、なんのための通行規制だったのか、なんのための犠牲だったのか、と虚しく痛ましく思わざるをえないわけで、だったら海峡を渡ろうとする人々の悲劇もまた、もしかしたらいかようにも「政治的解決」が可能な、「不要な悲劇」にも思われる。
だけど、一方で、無策に全ての難民を受け入れてしまったら、国家は立ち行かなくなるでしょう。この映画は明確に難民の視点に立って描かれていますが、国家当局の、たとえば国の現状や将来について真剣に心を痛め、睡眠を削っても頑張っている良心的官僚、といったようなひとを主人公に据えたら、また違ったドラマが見えてきたはずです。
密航に手を貸す、という一点についても、心からビラルの身を案じ、かれによかれと動いたシモンのような人物の仕事として捉えるか、巨大な利権のために動く蛇頭のような組織の仕事として捉えるかによって、全く違った容が見えるでしょう。
少なくとも、規制がいいとか悪いとか、それは「わたしには」答えがわかりません。
ただ言えるのは、このドラマでも、単に政府の政策を批判しているだけではなく、あくまで、ひとがひとと出会い、心を通わせ、相手の身を思い、なんとかしてあげたいと尽力し、相手に感謝し、触れ合っていく物語として、丹念に描かれているということです。あたかも浸透圧が作用するかのごとく、ビラルの、そしてシモンの心の波立ちが、静かに密かに少しずつ、観客の心に染み入ってくる。決して「泣かせます演出」はされていないのですが、気がついたときには、染み通ってきた「想い」に、胸の奥がしくしくと痛むのです。
セザール賞の新人男優賞にノミネートされたフィラ・エヴェルディの演技がいいです。
ビラルは、国を出るまでも、出てからも、(恐らく)大変な体験を重ねてきたはずなのに、全くすれていません。他人を落しいれようとか、他人から奪おうとか、他人を騙そうとか、思わない。常に慎みや礼儀正しさを忘れず、与えられた親切に対して感謝の気持ちを忘れない。そんなビラルだから、シモンも本気でなんとかしてやりたいと思うようになったのです。
なにかと言えば「サンキュー」を繰り返すビラルに、そんなに礼ばっかり言わなくていいと閉口するシモンでしたが、共に過ごす時間を重ねたある日、「メルシ」と言うビラルに、「お、フランス語じゃないか」と目尻を下げるシモン。ふたりの心の交流が、静かな小さなエピソードを積み上げることによって、淡々と綴られていくのがとてもいいのです。
これは、本筋とはあまり関係がないのですが、とても印象に残ったシーンがありました。
フェリーに乗ろうと港にやって来たビラルが、初めての場所で乗り場もわからず、たったひとりで心細くてウロウロしているところ、懐かしい感じの言葉を喋っている集団を見つけて、ほっとして話しかける(道を尋ねる)のだけど、そのとき、集団の中のひとりが、「おれたち、アフガニスタン人だぜ、きみの言葉はわからないよ、英語で話しな!」と笑いながら答えるのです。
ビラルはクルド人ですが、イラク国籍、イラクはアラビア語とクルド語が公用語だけど、クルド人のビラルが喋ってたのはやっぱ、クルド語ですよね? で、アフガニスタンのお兄さんたちが喋ってたのは、アフガニスタンの公用語であるパシュトー語か、あるいはダリー語? いずれにしてもペルシャ語系の言葉には違いない。クルド語もペルシャ語系だから、音の響きは懐かしく感じたのかもしれない。でも、いざ話しかけてしまうと、言葉としては通じないレベルの差異があった。
きみの言葉はわからない、と言われたときの、はしごをはずされたようなビラルの気持ちを思うと、なんか胸がしーんとしてしまいますが、民族とか人種とか言語とか国籍とか国境とか、そしてコミュニケーションとか、そうしたものについて、なんとなく考えてしまう面白い描写であったよなぁ、と思いました。こんな小さな挿話で観客にそれを喚起させる手腕はうまいなぁ、と。
そう言えば、ビラルとシモンも英語でコミュニケートするのですね。クルド人の難民がどこで身につけたのだろう、と思うほど、(ほかのクルド難民たちと比較すると)しっかりした英語を操るビラルと、カタコトよりはマシだけど、さしてうまくもない英語を操るシモン。どちらも母国語でない言語で交流するふたり、というのがまた、様々なことを示唆しているようにも思われます。
そして、せっかく善意と誠意が出会ったのに、起こってしまった悲劇。
あまりの痛ましさに呆然となりますが、でも仮に、ビラルの海峡横断が成功していたとしても、ビラルが恋人のミナと添い遂げられた確率は、恐らくほどんどなかったでしょう。ミナはミナで、絶対的父権社会に縛られていたわけで、しかもミナに強制された結婚には、父親の(ひいては一家全員の)将来がかかっていたわけですから、ミナが婚約を破棄し、ビラルと一緒になれたとは到底思えない。それなのに、ビラルを失ったミナは、たぶん一生、「自分のせいで」ビラルは命を落としたと、自分を責め続けることになるのでしょう。
ミナに会いたいと思うビラルの心情に、一点の曇りもないだけに、ほんとうに痛ましくてなりません。天国があればいいのにね。全てのひとに、もう一度やりなおすチャンスがあればいいのにね。
フィリップ・リオレ監督によるフランス映画です。
本国では、公開5週で100万人の動員を記録し、第35回セザール賞では、作品賞・監督賞・主演男優賞・助演女優賞・新人男優賞・撮影賞・脚本賞・編集賞・作曲賞・音響賞の10部門にノミネートされたそうです(残念ながら受賞はナシ。この年は“UN PROPHETE”という大物とぶつかってしまったらしく、受賞はほとんどこの映画にとられてる模様。そんな映画がなぜか本邦未公開(哀))。
2008年12月、イラク国籍のクルド難民ビラル(フィラ・エヴェルディ)は、恋人に会いたい一心で、イラクから4000キロの距離を歩いて、海峡の街、フランスのカレに辿りついた。恋人は家族と共にロンドンに移住していたが、イギリスは難民を受け入れていない。ビラルは密航を試み、ドーバー海峡を越えようとするが失敗に終わる。かくなる上は、海峡を泳いで渡るしかないと思いつめた17歳の少年は、市民プールで見かけた指導員のシモン(ヴァンサン・ランドン)にコーチしてくれるよう頼み込む。軽い気持ちで引き受けたシモンだったが、すぐにビラルの動機を察知し、かれがイギリスに不法入国を試みようとしていることを知る。しかし気づいたときにはビラルに深く感情的にコミットしてしまっており、そのときからシモンの激しい葛藤が始まった。
というストーリー。リオレ監督は、難民に対する支援者が当局に摘発され、処罰されるフランスの現状に怒りを表明し、ドイツ占領下の歴史と比較したりしたため、移民担当大臣が不快感を示し、監督もまた反論の書簡を新聞紙上に公表するなど、社会問題にまで発展したそうです。
つまりは、多分に政治的メッセージのある映画である、ということです。
密航するために海峡を越えるフェリーに積み込むトラックの荷台に潜む難民たちに対し、人間の呼気に含まれる二酸化炭素を検出することによって密航者の有無を判断する当局、その当局の検査に対抗し、頭からビニル袋を被って呼気が外に出ないようにする難民たち。失敗すれば呼吸困難になって死にます。主人公のビラルも、イラクからフランスまで徒歩で旅する途中、トルコで掴まり、頭にビニル袋を被せられたまま放置されたという恐怖の体験から、ビニル袋を被って息をひそめていることに耐えることができませんでした。
こうした描写を見ると、どうしたって、東西冷戦の最中、東ドイツから西へ逃れようとした(そして多くが殺されてしまった)人々のことを思い出さざるを得ません。いまとなっては、なんのための通行規制だったのか、なんのための犠牲だったのか、と虚しく痛ましく思わざるをえないわけで、だったら海峡を渡ろうとする人々の悲劇もまた、もしかしたらいかようにも「政治的解決」が可能な、「不要な悲劇」にも思われる。
だけど、一方で、無策に全ての難民を受け入れてしまったら、国家は立ち行かなくなるでしょう。この映画は明確に難民の視点に立って描かれていますが、国家当局の、たとえば国の現状や将来について真剣に心を痛め、睡眠を削っても頑張っている良心的官僚、といったようなひとを主人公に据えたら、また違ったドラマが見えてきたはずです。
密航に手を貸す、という一点についても、心からビラルの身を案じ、かれによかれと動いたシモンのような人物の仕事として捉えるか、巨大な利権のために動く蛇頭のような組織の仕事として捉えるかによって、全く違った容が見えるでしょう。
少なくとも、規制がいいとか悪いとか、それは「わたしには」答えがわかりません。
ただ言えるのは、このドラマでも、単に政府の政策を批判しているだけではなく、あくまで、ひとがひとと出会い、心を通わせ、相手の身を思い、なんとかしてあげたいと尽力し、相手に感謝し、触れ合っていく物語として、丹念に描かれているということです。あたかも浸透圧が作用するかのごとく、ビラルの、そしてシモンの心の波立ちが、静かに密かに少しずつ、観客の心に染み入ってくる。決して「泣かせます演出」はされていないのですが、気がついたときには、染み通ってきた「想い」に、胸の奥がしくしくと痛むのです。
セザール賞の新人男優賞にノミネートされたフィラ・エヴェルディの演技がいいです。
ビラルは、国を出るまでも、出てからも、(恐らく)大変な体験を重ねてきたはずなのに、全くすれていません。他人を落しいれようとか、他人から奪おうとか、他人を騙そうとか、思わない。常に慎みや礼儀正しさを忘れず、与えられた親切に対して感謝の気持ちを忘れない。そんなビラルだから、シモンも本気でなんとかしてやりたいと思うようになったのです。
なにかと言えば「サンキュー」を繰り返すビラルに、そんなに礼ばっかり言わなくていいと閉口するシモンでしたが、共に過ごす時間を重ねたある日、「メルシ」と言うビラルに、「お、フランス語じゃないか」と目尻を下げるシモン。ふたりの心の交流が、静かな小さなエピソードを積み上げることによって、淡々と綴られていくのがとてもいいのです。
これは、本筋とはあまり関係がないのですが、とても印象に残ったシーンがありました。
フェリーに乗ろうと港にやって来たビラルが、初めての場所で乗り場もわからず、たったひとりで心細くてウロウロしているところ、懐かしい感じの言葉を喋っている集団を見つけて、ほっとして話しかける(道を尋ねる)のだけど、そのとき、集団の中のひとりが、「おれたち、アフガニスタン人だぜ、きみの言葉はわからないよ、英語で話しな!」と笑いながら答えるのです。
ビラルはクルド人ですが、イラク国籍、イラクはアラビア語とクルド語が公用語だけど、クルド人のビラルが喋ってたのはやっぱ、クルド語ですよね? で、アフガニスタンのお兄さんたちが喋ってたのは、アフガニスタンの公用語であるパシュトー語か、あるいはダリー語? いずれにしてもペルシャ語系の言葉には違いない。クルド語もペルシャ語系だから、音の響きは懐かしく感じたのかもしれない。でも、いざ話しかけてしまうと、言葉としては通じないレベルの差異があった。
きみの言葉はわからない、と言われたときの、はしごをはずされたようなビラルの気持ちを思うと、なんか胸がしーんとしてしまいますが、民族とか人種とか言語とか国籍とか国境とか、そしてコミュニケーションとか、そうしたものについて、なんとなく考えてしまう面白い描写であったよなぁ、と思いました。こんな小さな挿話で観客にそれを喚起させる手腕はうまいなぁ、と。
そう言えば、ビラルとシモンも英語でコミュニケートするのですね。クルド人の難民がどこで身につけたのだろう、と思うほど、(ほかのクルド難民たちと比較すると)しっかりした英語を操るビラルと、カタコトよりはマシだけど、さしてうまくもない英語を操るシモン。どちらも母国語でない言語で交流するふたり、というのがまた、様々なことを示唆しているようにも思われます。
そして、せっかく善意と誠意が出会ったのに、起こってしまった悲劇。
あまりの痛ましさに呆然となりますが、でも仮に、ビラルの海峡横断が成功していたとしても、ビラルが恋人のミナと添い遂げられた確率は、恐らくほどんどなかったでしょう。ミナはミナで、絶対的父権社会に縛られていたわけで、しかもミナに強制された結婚には、父親の(ひいては一家全員の)将来がかかっていたわけですから、ミナが婚約を破棄し、ビラルと一緒になれたとは到底思えない。それなのに、ビラルを失ったミナは、たぶん一生、「自分のせいで」ビラルは命を落としたと、自分を責め続けることになるのでしょう。
ミナに会いたいと思うビラルの心情に、一点の曇りもないだけに、ほんとうに痛ましくてなりません。天国があればいいのにね。全てのひとに、もう一度やりなおすチャンスがあればいいのにね。
by shirakian
| 2011-03-19 20:14
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