2011年 03月 02日
ヒア アフター
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★ネタバレ注意★
クリント・イーストウッド監督が、『インビクタス』に続き、マット・デイモン主演で撮った映画です。製作総指揮にスティーヴン・スピルバーグ。
【マリー・ルレ(セシル・ドゥ・フランス)】パリ在住のジャーナリスト。バカンスで訪れた東南アジアで津波の被害にあい、臨死を体験する中で、あるビジョンを得る。被災体験がトラウマとなり、ビジョンに憑りつかれたようになってしまい、テレビ司会者の仕事を失うと同時に、同番組のプロデューサーである恋人にも去られる。
【ジョージ(マット・デイモン)】サンフランシスコ在住の工場労働者。かつて、死者の意志を伝えることのできる霊能力者として華々しく活躍したが、自分の能力に疲れ果て、ひっそりと暮らしていた。しかし、かれの能力を惜しむ(あるいは利用しようとする)人間は後を絶たず、それから逃げ出すために、サンフランシスコでの生活を棄て旅に出る。
【マーカス&ジェイソン(フランキー&ジョージ・マクラレン)】ロンドン在住のふたごの兄弟。薬物中毒の母親を幼い兄弟で支えながら暮らしていたが、ある日突然の交通事故で兄のジェイソンが死亡してしまう。残されたマーカスは、なんとかしてジェイソンと話がしたいと、様々な霊能力者を訪ね歩くのだが。
という三人の物語が、巧妙な脚本に導かれ、ひとつに収束していく物語です。
「スピリチュアル・ヒューマン・ドラマ」という言われ方をしているようですが、いわゆる「スピリチュアルもの」であるかどうかは、観るひとによって意見が別れそうだと思いました。というのも、イーストウッド監督自身がスピリチュアル的なものを本気で信じているのか、単にモチーフとして使ったのか、どちらともとれる撮り方をしているからです。
それって、イーストウッド監督作品としては珍しいかも? 『インビクタス』は言うに及ばす、『チェンジリング』にしろ『グラン・トリノ』にしろ、監督の主張は常にどっしりと一本筋が通っていて、解釈の別れようがない、という印象があるのですが、この映画に関しては、観るひとの解釈にゆだねる部分、あるいは、本音を言わずブラックボックスの中に隠してしまった部分が大きいみたい。
そうは言っても一目瞭然なのは、この映画が究極描き出したものは、霊的世界云々ではなく、別離によって傷ついた人間が新たな出会いにより再生していく物語である、ということです。そればっかりは否定のしようがない。
だったら、これほどまでに複雑で恣意的で人工的なストーリーにせず、マーカス少年の物語にフォーカスすれば、言わんとしたことを語るには事足りたような気がするし、そっちの方がずっと所謂感動も大きかった(観客の紅涙を絞ることができた)のじゃないかな、とも思うわけですが、うーん、マーカス少年の物語だけを語ってしまえば、イーストウッドじゃなくてケン・ローチの映画になるね。それはそれで観てみたいけど。
この映画の映像的見所が、冒頭の津波のシーンにあることはまちがいありません。それはそれは物凄い迫力の、しかも恐ろしいほどに美しいシーンです。人々がバカンスを楽しむのどかな浜辺に、いきなり小山のような波が押し寄せてくるいっそシュールな風景。予兆も警告も何もなく、突然牙をむく自然。その強大な力、対する人間の営みのひ弱さ。とにかく戦慄するほどの凄まじい映像である上に、津波に巻き込まれたひとが、どのように被害を受けるのか、単に溺れるのでもなく、流されるというのでもなく、様々な障害が予期せぬ形で待ち受ける恐怖、そうしたことが迫真のリアリティで描かれているのです。とにかく物凄いパワーを持った映像です。
イーストウッド監督は、後に描かれるロンドンの地下鉄テロのシーンと共に、「今まで描いたことのないシーンに挑戦してみたかった」という意図でこのシーンを撮ったそうですが、いやぁ、もう、その飽くなきチャレンジ精神には、脱帽どころか、頭の皮はいで差し出したいくらい(いりません)。
それともうひとつ、特筆しておきたいのがやはり、マット・デイモンの静謐な演技だと思う。デイモンの演技が物凄くよかった。ボーン・シリーズや『グリーン・ゾーン』のような作品のアクションスターとしての華やかな演技ではなく、押さえた静かな演技ながら、霊能力という特殊能力を持ってしまったがために、人々の悲しみをダイレクトに感得してしまう男の苦悩と孤独を、実に繊細に演じていたと思うのです。
ですが。
上記の二つの「見所」を、映画の仕掛けとしては、わたしは二つとも否定したいと思います。
どういうことかというと、第一の見所「津波」から導きだされた「臨死体験」というものと、第二の見所、デイモンのすばらしい演技が描きだした「霊能力」というものを、どちらについても肯定できないのです。
……つまりわたしは、この映画における「スピリチュアル」なものは、モチーフとして使われているだけで、その存在自体が信じられているものとは思わなかった、ということです。
そもそも、「臨死体験」と「死」は、全くなんの関係もないと思う。
なぜなら「死」という事象の最大の特徴は、それが「不可逆」である、という一点に尽きると思うからです。
一時的な心停止状態から蘇生したひとが、人種・性別・文化的背景の如何にかかわらず類似したビジョンを見ることがある、といういわゆる臨死体験については、見たひとが見たというのなら見たのだろうなぁと、決して否定する気持ちはないのですが、それって謂わば、パリに行こうと成田まで行ったが飛行機には乗らずにそのまま帰ってきた、というのと同じことなんじゃないかと思うのです。
そのひとが成田まで行ったことは全く否定しないし、成田空港はこんなだった、と説明してくれたら、ああそんなだったんだ、と思いもしますが、だからってそのひとが、だからパリはこういうところだ、と言ったとしたら、だってきみ、パリ、行ってないじゃん、とわたしは思うの。
死が「不可逆」だということは、死んでしまったひとは、決してそこから帰ってきはしない、ということです。帰ってきたのだとしたら、それは死んでなどいなかったというです。いや、医学的にはハッキリと死と定義される状態だったわけで、と言うのなら、それはその定義こそがまちがっているのだと思います。
生きている人間は、「絶対に」死について語ることなどできない。
だから、わたしにはマリーの物語はなんだかばからしいものに思われました。
確かにマリーはトラウマを負ってしまうほどの壮絶な体験をしたにはちがいないと思いますが、それは、自身の半身とも言えるジェイソンを失ってしまったマーカスの体験と、等価に語っていいような体験じゃないと思う。
マリーは別に、バカンス先の津波で、かけがえのないものを失くしてしまったわけじゃない。なにしろそこは、彼女の生活基盤ですらなかった。彼女が失ったのは、だれがやっても大してちがいがないことが証明されたたかが仕事であり、次の女が現れればあっさり乗り換えてはばからないような表面的なつきあいの恋人です。そんなもの、マーカスの喪失に比べれば、ものの数じゃない。実際マリーは、キャスターの仕事を干されてもすぐ、書いた本が順調に評価され出版されているし、にやけたプロデューサーの恋人なんて、それこそいっくらでも次がみつかるでしょう、現にこちらも、ジョージとの間にロマンスが示唆されて終わっているし。
マリーの物語が特別に見えたとしたら、ただ、それが起こったきっかけが、あの恐ろしい津波であったから。
そして、ジョージの霊能力についてですが、わたしが思うに、ジョージは決して嘘をついたりひとを騙そうとしたりしたわけではなく、大勢出てきたインチキ霊媒師たちとは一線を画する「本物」だったとは思うのですが、かれが持っていた「特殊能力」は、霊と交信する能力ではなく、依頼者の心中にあるものを読み取る能力だったのだと思う。
だって、ジョージが依頼者に告げる死者の言葉の中には、依頼者が知り得ない情報なんかひとかけらもない。中にはもちろん死後の世界がどのようであるか、という検証のしようのない情報もありましたが、それにしても、依頼者が死後の世界をそのようにイメージしていたのだとしたら、それを読み取って語ることは可能だと思う。
ジョージの能力を、もっとはっきり「スピリチュアルなもの」として描くことはもちろん簡単だったはずなんですが、でも敢てこのようにつっこめる余地を残したところが、イーストウッド監督が問題を観客にゆだねた、あるいは自身の本音をブラックボックスに閉じ込めた、という印象を抱く所以なのです。
ただ、ジョージがほんとうに心優しい人間であることはまちがいのないところで、そしてまた、自分がしていることが死者との交信であるということも、かれ自身は信じていたと思うので、かれがそのことによって疲弊し、傷つき、悲しみ、逃げ出さずにはいられなかったことは、とても人間的だと思うのです。
そして、ジョージのその「能力」が、あきらかにマーカスを救い、かれを再生させる力になったこともまたまちがいなく、そのことは限りなく力強く、美しく、暖かいことであろうと思います。ロンドンとサンフランシスコ、工場で働く青年と最愛の分身を失ったほんの幼い少年、遠く遠く隔たった、何の関係もないはずのふたりが、運命に導かれるように出会うにいたる描写は、丹念に描かれた伏線(ジョージがディケンズのファンであるといった情報が、わざとらしくならず、さりげなく挿入されていることなど)によって、嘘くさくなく、風が流れるように受け入れられるのです。
クリント・イーストウッド監督が、『インビクタス』に続き、マット・デイモン主演で撮った映画です。製作総指揮にスティーヴン・スピルバーグ。
【マリー・ルレ(セシル・ドゥ・フランス)】パリ在住のジャーナリスト。バカンスで訪れた東南アジアで津波の被害にあい、臨死を体験する中で、あるビジョンを得る。被災体験がトラウマとなり、ビジョンに憑りつかれたようになってしまい、テレビ司会者の仕事を失うと同時に、同番組のプロデューサーである恋人にも去られる。
【ジョージ(マット・デイモン)】サンフランシスコ在住の工場労働者。かつて、死者の意志を伝えることのできる霊能力者として華々しく活躍したが、自分の能力に疲れ果て、ひっそりと暮らしていた。しかし、かれの能力を惜しむ(あるいは利用しようとする)人間は後を絶たず、それから逃げ出すために、サンフランシスコでの生活を棄て旅に出る。
【マーカス&ジェイソン(フランキー&ジョージ・マクラレン)】ロンドン在住のふたごの兄弟。薬物中毒の母親を幼い兄弟で支えながら暮らしていたが、ある日突然の交通事故で兄のジェイソンが死亡してしまう。残されたマーカスは、なんとかしてジェイソンと話がしたいと、様々な霊能力者を訪ね歩くのだが。
という三人の物語が、巧妙な脚本に導かれ、ひとつに収束していく物語です。
「スピリチュアル・ヒューマン・ドラマ」という言われ方をしているようですが、いわゆる「スピリチュアルもの」であるかどうかは、観るひとによって意見が別れそうだと思いました。というのも、イーストウッド監督自身がスピリチュアル的なものを本気で信じているのか、単にモチーフとして使ったのか、どちらともとれる撮り方をしているからです。
それって、イーストウッド監督作品としては珍しいかも? 『インビクタス』は言うに及ばす、『チェンジリング』にしろ『グラン・トリノ』にしろ、監督の主張は常にどっしりと一本筋が通っていて、解釈の別れようがない、という印象があるのですが、この映画に関しては、観るひとの解釈にゆだねる部分、あるいは、本音を言わずブラックボックスの中に隠してしまった部分が大きいみたい。
そうは言っても一目瞭然なのは、この映画が究極描き出したものは、霊的世界云々ではなく、別離によって傷ついた人間が新たな出会いにより再生していく物語である、ということです。そればっかりは否定のしようがない。
だったら、これほどまでに複雑で恣意的で人工的なストーリーにせず、マーカス少年の物語にフォーカスすれば、言わんとしたことを語るには事足りたような気がするし、そっちの方がずっと所謂感動も大きかった(観客の紅涙を絞ることができた)のじゃないかな、とも思うわけですが、うーん、マーカス少年の物語だけを語ってしまえば、イーストウッドじゃなくてケン・ローチの映画になるね。それはそれで観てみたいけど。
この映画の映像的見所が、冒頭の津波のシーンにあることはまちがいありません。それはそれは物凄い迫力の、しかも恐ろしいほどに美しいシーンです。人々がバカンスを楽しむのどかな浜辺に、いきなり小山のような波が押し寄せてくるいっそシュールな風景。予兆も警告も何もなく、突然牙をむく自然。その強大な力、対する人間の営みのひ弱さ。とにかく戦慄するほどの凄まじい映像である上に、津波に巻き込まれたひとが、どのように被害を受けるのか、単に溺れるのでもなく、流されるというのでもなく、様々な障害が予期せぬ形で待ち受ける恐怖、そうしたことが迫真のリアリティで描かれているのです。とにかく物凄いパワーを持った映像です。
イーストウッド監督は、後に描かれるロンドンの地下鉄テロのシーンと共に、「今まで描いたことのないシーンに挑戦してみたかった」という意図でこのシーンを撮ったそうですが、いやぁ、もう、その飽くなきチャレンジ精神には、脱帽どころか、頭の皮はいで差し出したいくらい(いりません)。
それともうひとつ、特筆しておきたいのがやはり、マット・デイモンの静謐な演技だと思う。デイモンの演技が物凄くよかった。ボーン・シリーズや『グリーン・ゾーン』のような作品のアクションスターとしての華やかな演技ではなく、押さえた静かな演技ながら、霊能力という特殊能力を持ってしまったがために、人々の悲しみをダイレクトに感得してしまう男の苦悩と孤独を、実に繊細に演じていたと思うのです。
ですが。
上記の二つの「見所」を、映画の仕掛けとしては、わたしは二つとも否定したいと思います。
どういうことかというと、第一の見所「津波」から導きだされた「臨死体験」というものと、第二の見所、デイモンのすばらしい演技が描きだした「霊能力」というものを、どちらについても肯定できないのです。
……つまりわたしは、この映画における「スピリチュアル」なものは、モチーフとして使われているだけで、その存在自体が信じられているものとは思わなかった、ということです。
そもそも、「臨死体験」と「死」は、全くなんの関係もないと思う。
なぜなら「死」という事象の最大の特徴は、それが「不可逆」である、という一点に尽きると思うからです。
一時的な心停止状態から蘇生したひとが、人種・性別・文化的背景の如何にかかわらず類似したビジョンを見ることがある、といういわゆる臨死体験については、見たひとが見たというのなら見たのだろうなぁと、決して否定する気持ちはないのですが、それって謂わば、パリに行こうと成田まで行ったが飛行機には乗らずにそのまま帰ってきた、というのと同じことなんじゃないかと思うのです。
そのひとが成田まで行ったことは全く否定しないし、成田空港はこんなだった、と説明してくれたら、ああそんなだったんだ、と思いもしますが、だからってそのひとが、だからパリはこういうところだ、と言ったとしたら、だってきみ、パリ、行ってないじゃん、とわたしは思うの。
死が「不可逆」だということは、死んでしまったひとは、決してそこから帰ってきはしない、ということです。帰ってきたのだとしたら、それは死んでなどいなかったというです。いや、医学的にはハッキリと死と定義される状態だったわけで、と言うのなら、それはその定義こそがまちがっているのだと思います。
生きている人間は、「絶対に」死について語ることなどできない。
だから、わたしにはマリーの物語はなんだかばからしいものに思われました。
確かにマリーはトラウマを負ってしまうほどの壮絶な体験をしたにはちがいないと思いますが、それは、自身の半身とも言えるジェイソンを失ってしまったマーカスの体験と、等価に語っていいような体験じゃないと思う。
マリーは別に、バカンス先の津波で、かけがえのないものを失くしてしまったわけじゃない。なにしろそこは、彼女の生活基盤ですらなかった。彼女が失ったのは、だれがやっても大してちがいがないことが証明されたたかが仕事であり、次の女が現れればあっさり乗り換えてはばからないような表面的なつきあいの恋人です。そんなもの、マーカスの喪失に比べれば、ものの数じゃない。実際マリーは、キャスターの仕事を干されてもすぐ、書いた本が順調に評価され出版されているし、にやけたプロデューサーの恋人なんて、それこそいっくらでも次がみつかるでしょう、現にこちらも、ジョージとの間にロマンスが示唆されて終わっているし。
マリーの物語が特別に見えたとしたら、ただ、それが起こったきっかけが、あの恐ろしい津波であったから。
そして、ジョージの霊能力についてですが、わたしが思うに、ジョージは決して嘘をついたりひとを騙そうとしたりしたわけではなく、大勢出てきたインチキ霊媒師たちとは一線を画する「本物」だったとは思うのですが、かれが持っていた「特殊能力」は、霊と交信する能力ではなく、依頼者の心中にあるものを読み取る能力だったのだと思う。
だって、ジョージが依頼者に告げる死者の言葉の中には、依頼者が知り得ない情報なんかひとかけらもない。中にはもちろん死後の世界がどのようであるか、という検証のしようのない情報もありましたが、それにしても、依頼者が死後の世界をそのようにイメージしていたのだとしたら、それを読み取って語ることは可能だと思う。
ジョージの能力を、もっとはっきり「スピリチュアルなもの」として描くことはもちろん簡単だったはずなんですが、でも敢てこのようにつっこめる余地を残したところが、イーストウッド監督が問題を観客にゆだねた、あるいは自身の本音をブラックボックスに閉じ込めた、という印象を抱く所以なのです。
ただ、ジョージがほんとうに心優しい人間であることはまちがいのないところで、そしてまた、自分がしていることが死者との交信であるということも、かれ自身は信じていたと思うので、かれがそのことによって疲弊し、傷つき、悲しみ、逃げ出さずにはいられなかったことは、とても人間的だと思うのです。
そして、ジョージのその「能力」が、あきらかにマーカスを救い、かれを再生させる力になったこともまたまちがいなく、そのことは限りなく力強く、美しく、暖かいことであろうと思います。ロンドンとサンフランシスコ、工場で働く青年と最愛の分身を失ったほんの幼い少年、遠く遠く隔たった、何の関係もないはずのふたりが、運命に導かれるように出会うにいたる描写は、丹念に描かれた伏線(ジョージがディケンズのファンであるといった情報が、わざとらしくならず、さりげなく挿入されていることなど)によって、嘘くさくなく、風が流れるように受け入れられるのです。
by shirakian
| 2011-03-02 19:21
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