2011年 01月 03日
Ricky リッキー
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★ネタバレ注意★

あけましておめでとうございます。
今年もステキな映画をたくさん観られますように☆
そして、今年もこのブログに訪れてくださったら、とっても嬉しいです。
さてところで、あなたはフランソワ・オゾン監督の映画を観て退屈したことがありますか? わたしはありません。一度もありません。観る映画観る映画、みんな仕掛けがちがうのに、みんなちがってみんないい。ほんとに面白い才能をお持ちでいらっさる。絶対に目が離せない監督さんです。この映画も一筋縄ではいかない映画であります。
シングルマザーのカティは、7歳のリザを育てながら、工場で働く労働者。仕事は退屈で生活は苦しく、少々お疲れ気味のご様子。そんな彼女の職場に、セクシーなスペインからの出稼ぎ労働者パコが現れた。出会ったその日にメイクラブ、すぐに同棲を始めたふたりの間には、速攻で男の赤ちゃん、リッキーが誕生。しかし新しい「家族」の関係は、母親の愛情を男と赤ん坊に奪われたリザの複雑な思いを筆頭に、期待したほど男が頼りにならず新たなしわ寄せに疲れた母親や、家庭に縛り付けられたかのような閉塞感を感じる男の心情がすれ違い、何が不満なのか泣き喚いてばかりいる赤ん坊が発するストレスとあいまって、なにやらぎくしゃくしたものに。そんなある日、リッキーの背中に痣を見つけたカティは、パコの虐待を疑い、疑われたパコは怒って家を出てしまう。
という触りの部分を語れば、これって、アキ・カウリスマキ? カウリスマキの敗者シリーズ? と思ってしまうところですが、いやいや、それはフランソワ・オゾン。社会派リアリズムに見せかけて、とんでもない仕掛けが用意されていたのでした。
なんと、リッキーの背中から、小さな翼が生えてきたのであった!
普通、翼の生えた愛くるしい赤ん坊と言えば、だれがどう考えたってエンジェルです。キューピットです。メルヘンです。ファンタジーです。ところが、オゾン監督描くところのリッキーの翼は手羽です(汗)。
ええ、もう、力いっぱい、手羽。見るからに食肉です。だれにも否定できません。特殊メイクがヘタクソでそうなってしまったんじゃなくて、監督としても正々堂々手羽肉として描写しています。その証拠として、作中、鶏の丸焼きを食べるシーンが駄目押しのように二度も出てきます。しかも、「リズ、腿のとこ切ってあげようか?」「ううん、手羽が食べたいの」「ほぉら、手羽だよ、おいしいかい?」「うん、おいしい☆」なんて会話で、手羽食う人々の姿を強調してみたりもしております。だからさ、これは、手羽なんだよ、まじで。
そしてリッキーは、この手羽肉を駆使して(っていうか、さすがに羽が生えてくると手羽肉には見えなくなりますが、それにしたって、純白の羽ではなく、髪の毛の色とオソロの茶色い羽です。天使とかなんとか言うより、どう見ても「野鳥」です)、まだ歩けもしないうちからパタパタよろよろと空を飛ぶ! カティは赤ん坊があちこちぶつかって怪我なんかしないように、ヘルメットを買ってきたり、家具にスポンジを貼り付けたりと神経をすり減らします。実に厄介な赤ん坊です。
事は当然マスコミに漏れ、騒ぎを聞きつけて帰ってきたパコの、養育費の足しになるからという提案のもとにインタビューを受けることにしたカティ。しかし、インタビュー当日、セッティングされたカメラの前から、リッキーはパタパタと飛び去ってしまう! リッキーを失って悲嘆にくれるカティ。心を痛めるパコ。ようやくパコの存在を受け入れ、寄り添う姿勢を見せるリザ。かくて、幼子の喪失に直面するファミリーは、新たな絆を結びなおすことになるのだった。
どうです、感動的でしょう?
……大いに胡散臭いけれども。
そもそも。リッキーという翼の生えた赤ん坊は、実際に存在するのか、何かのメタファーなのか、だれかの(恐らくカティの)幻覚なのか。物語がカティの幻覚(or妄想)だとしたら、話の起点はどこで終点はどこなのか? 「存在しない」のはリッキーだけなのか、パコはどうか、もっと言っちゃえばリザですら、どうなのか? 疑おうとしたら、どこまでも疑うことが可能な、深読み上等! の作りになっているのです。
それは、あーたが疑り深いだけでしょう、と思われるやもしれませんが、いえいえ、わたくしなんぞ根は単純、そんな単純頭の観客ですら疑いたくなるような仕掛けが、オゾン監督がこの映画で用いた、一種独特の「省略」の効果です。
なんかね、時間の飛ばし方が、まるで尋常じゃないです。物語の緩急のつけ方に、とんでもない企みを感じます。こんなテンポで描写していたら、マサラ単位の大映画になっちゃうよ? と観客がハラハラした心の隙をつくように、いきなりハッとするような大跳躍が敢行され、おおお、そこに落すか、と手に汗握るような展開が多数、時間の飛ばし方に均衡性がなく、かわりにあるのが効率性意外性必然性です。見事というしかないのであります。
この省略の妙技は、ドラマに最適のテンポをもたらすと同時に、観客に油断させて「嘘」を持ち込む隙を作ることが可能で、観客はあとになって、あそこであの跳躍が行われた意味は? とひとたび考えだしてしまうともう、ソワソワと落ち着かなくなってしまうのです。このソワソワ感は、たまらなく楽しい。ゾクゾク感と言ってもいいです。まさに映画を観る醍醐味でありましょう。
というわけで、この映画は、心温まるファンタジーだと思って観てもよし、不幸な女性の疲れきった心が見せた悲しい夢だと思うもよし、その中間のどこで折り合いをつけることも可能な、まさに観るひとの心を映す鏡であるかのような映画ですが、ひとつだけ確かなことは、それでもなお、この映画は、「家族」を賛美し、その絆を描いた物語であり、家族を持つことの幸福と、その幸福を手にいれるための資格としての責任を描いた映画であろう、ということです。
ハートウォーミングであることはまちがいない。美しくて官能的でおまけに笑える要素すらある映画でもあります。ただひとつ残念なことは、当分手羽先が食べられなくなることでしょうか(汗)。

あけましておめでとうございます。
今年もステキな映画をたくさん観られますように☆
そして、今年もこのブログに訪れてくださったら、とっても嬉しいです。
さてところで、あなたはフランソワ・オゾン監督の映画を観て退屈したことがありますか? わたしはありません。一度もありません。観る映画観る映画、みんな仕掛けがちがうのに、みんなちがってみんないい。ほんとに面白い才能をお持ちでいらっさる。絶対に目が離せない監督さんです。この映画も一筋縄ではいかない映画であります。
シングルマザーのカティは、7歳のリザを育てながら、工場で働く労働者。仕事は退屈で生活は苦しく、少々お疲れ気味のご様子。そんな彼女の職場に、セクシーなスペインからの出稼ぎ労働者パコが現れた。出会ったその日にメイクラブ、すぐに同棲を始めたふたりの間には、速攻で男の赤ちゃん、リッキーが誕生。しかし新しい「家族」の関係は、母親の愛情を男と赤ん坊に奪われたリザの複雑な思いを筆頭に、期待したほど男が頼りにならず新たなしわ寄せに疲れた母親や、家庭に縛り付けられたかのような閉塞感を感じる男の心情がすれ違い、何が不満なのか泣き喚いてばかりいる赤ん坊が発するストレスとあいまって、なにやらぎくしゃくしたものに。そんなある日、リッキーの背中に痣を見つけたカティは、パコの虐待を疑い、疑われたパコは怒って家を出てしまう。
という触りの部分を語れば、これって、アキ・カウリスマキ? カウリスマキの敗者シリーズ? と思ってしまうところですが、いやいや、それはフランソワ・オゾン。社会派リアリズムに見せかけて、とんでもない仕掛けが用意されていたのでした。
なんと、リッキーの背中から、小さな翼が生えてきたのであった!
普通、翼の生えた愛くるしい赤ん坊と言えば、だれがどう考えたってエンジェルです。キューピットです。メルヘンです。ファンタジーです。ところが、オゾン監督描くところのリッキーの翼は手羽です(汗)。
ええ、もう、力いっぱい、手羽。見るからに食肉です。だれにも否定できません。特殊メイクがヘタクソでそうなってしまったんじゃなくて、監督としても正々堂々手羽肉として描写しています。その証拠として、作中、鶏の丸焼きを食べるシーンが駄目押しのように二度も出てきます。しかも、「リズ、腿のとこ切ってあげようか?」「ううん、手羽が食べたいの」「ほぉら、手羽だよ、おいしいかい?」「うん、おいしい☆」なんて会話で、手羽食う人々の姿を強調してみたりもしております。だからさ、これは、手羽なんだよ、まじで。
そしてリッキーは、この手羽肉を駆使して(っていうか、さすがに羽が生えてくると手羽肉には見えなくなりますが、それにしたって、純白の羽ではなく、髪の毛の色とオソロの茶色い羽です。天使とかなんとか言うより、どう見ても「野鳥」です)、まだ歩けもしないうちからパタパタよろよろと空を飛ぶ! カティは赤ん坊があちこちぶつかって怪我なんかしないように、ヘルメットを買ってきたり、家具にスポンジを貼り付けたりと神経をすり減らします。実に厄介な赤ん坊です。
事は当然マスコミに漏れ、騒ぎを聞きつけて帰ってきたパコの、養育費の足しになるからという提案のもとにインタビューを受けることにしたカティ。しかし、インタビュー当日、セッティングされたカメラの前から、リッキーはパタパタと飛び去ってしまう! リッキーを失って悲嘆にくれるカティ。心を痛めるパコ。ようやくパコの存在を受け入れ、寄り添う姿勢を見せるリザ。かくて、幼子の喪失に直面するファミリーは、新たな絆を結びなおすことになるのだった。
どうです、感動的でしょう?
……大いに胡散臭いけれども。
そもそも。リッキーという翼の生えた赤ん坊は、実際に存在するのか、何かのメタファーなのか、だれかの(恐らくカティの)幻覚なのか。物語がカティの幻覚(or妄想)だとしたら、話の起点はどこで終点はどこなのか? 「存在しない」のはリッキーだけなのか、パコはどうか、もっと言っちゃえばリザですら、どうなのか? 疑おうとしたら、どこまでも疑うことが可能な、深読み上等! の作りになっているのです。
それは、あーたが疑り深いだけでしょう、と思われるやもしれませんが、いえいえ、わたくしなんぞ根は単純、そんな単純頭の観客ですら疑いたくなるような仕掛けが、オゾン監督がこの映画で用いた、一種独特の「省略」の効果です。
なんかね、時間の飛ばし方が、まるで尋常じゃないです。物語の緩急のつけ方に、とんでもない企みを感じます。こんなテンポで描写していたら、マサラ単位の大映画になっちゃうよ? と観客がハラハラした心の隙をつくように、いきなりハッとするような大跳躍が敢行され、おおお、そこに落すか、と手に汗握るような展開が多数、時間の飛ばし方に均衡性がなく、かわりにあるのが効率性意外性必然性です。見事というしかないのであります。
この省略の妙技は、ドラマに最適のテンポをもたらすと同時に、観客に油断させて「嘘」を持ち込む隙を作ることが可能で、観客はあとになって、あそこであの跳躍が行われた意味は? とひとたび考えだしてしまうともう、ソワソワと落ち着かなくなってしまうのです。このソワソワ感は、たまらなく楽しい。ゾクゾク感と言ってもいいです。まさに映画を観る醍醐味でありましょう。
というわけで、この映画は、心温まるファンタジーだと思って観てもよし、不幸な女性の疲れきった心が見せた悲しい夢だと思うもよし、その中間のどこで折り合いをつけることも可能な、まさに観るひとの心を映す鏡であるかのような映画ですが、ひとつだけ確かなことは、それでもなお、この映画は、「家族」を賛美し、その絆を描いた物語であり、家族を持つことの幸福と、その幸福を手にいれるための資格としての責任を描いた映画であろう、ということです。
ハートウォーミングであることはまちがいない。美しくて官能的でおまけに笑える要素すらある映画でもあります。ただひとつ残念なことは、当分手羽先が食べられなくなることでしょうか(汗)。
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[PR]
by shirakian
| 2011-01-03 16:17
| 映画ら行