2010年 04月 19日
シャッター アイランド
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観たひと全員が言っているので、とりあえずわたしも言っておこう。
この映画は、宣伝の仕方がまちがっている。
全ての“謎”が解けるまでこの島を出る事はできないとか、手や目の動きを逐一のがすなとか、結末は決してだれにも言わないでくださいとか、余計なお世話。第一この映画に「錯視」は全く関係ない。
デニス・ルヘイン原作、マーティン・スコセッシ監督の、ごく真っ当な心理サスペンスです。サスペンスというよりむしろ、心理ドラマというべき。
謎云々に関しては、殊更観客をひっかけようとする意図など全くなく、極めて素直でフェアな作り。誠実にちりばめられたヒントを確実に拾っていけば、結末は映画冒頭から普通に予測できるので、普通に鑑賞していれば、トリックの奇抜さに度肝をぬかれる、というようなことではなく、ドラマの重さに胸をうたれる、という鑑賞後感が抱けたはずなのに、ヘタな宣伝にだまされて、これがオチだとするとちっともサプライズではないから、さらになにかもうひとつ、観客の予想もつかない驚天動地のオチがあるのでは、などと構えているうちに、場内は明るくなってしまう。わたしの余韻を返して。
これ、シックス・センスのときにも思ったよなぁ。
あの映画も、冒頭でブルース・ウィリスが撃たれたときに、物語のカラクリはわかってしまいましたが、それがわかるのにはなにも、FBIプロファイラーのような洞察力などいらない、配給会社が垂れ流した予告編を見ればよい。映画本編では中盤以降まで慎重に隠されていたヒントが、バンバン流れていた予告編……(鬱)。
物語は、1954年、ボストン沖合いのシャッター・アイランドにある精神病の犯罪者を収容するアッシュクリフ病院で、ひとりの女性患者が失踪したことから、連邦保安官のテディ・ダニエルズ(レオナルド・ディカプリオ)が捜査に訪れる、というもの。
テディは、バディを組む捜査官であるチャック・オール(マーク・ラファロ)と、島上陸直前に初めて船上で会うのだけれど、捜査でバディを組む連邦捜査官が、任務地を目前にした場所で初顔合わせをするなんてことは有り得ないので、この映画は全て、ディカプリオの妄想ですよ、というイントロダクションから始まる。
だから観客は、「捜査」を行うディカプリオにつきあいつつ、かれが観ているものがどんな「妄想」なのかを検証するというスタンスで観るのが正しく、この映画には検証するためのヒントやメッセージが、極めてフェアな演出で提示されているのです。
火事で焼け死んだはずのテディの妻が、かれのイメージの中では腹から血を流し、あまつさえびしょ濡れの姿で現れることから、「火事」の真相はテディの話とはちがう、ということが(早い段階で)わかる、といった類のことが、ここで言ってる「フェアな演出」ということです。
そして、そういう「謎」とやらの中核をなす部分を、明瞭な形で比較的早期に提示するということは、スコセッシ監督の興味が謎解きなんかにはない、ということを表明しているのだと思う。
そうではなくて、ここで観るべきなのは、テディを見舞った悲劇と、悲劇に対処しきれずにかれ(の心)がとった対応と、その悲しさと切なさであって、本来ならわれわれはテディに感情移入して、かれの畏れや葛藤や自己嫌悪や罪の意識を共有すべきところ。
女性患者失踪の描写のトンデモ具合もヒントなら、患者失踪に対するそれぞれの立場にいる人々のそれぞれなりの反応もヒントだし、なにより、隠したい謎があるなら敢えて呼ばれるはずのない連邦保安官が呼ばれたということそのものが、なによりヒントであるわけで、だから、スコセッシ監督は何も隠していないし、観客と勝負する気などさらさらないのがわかるのです。
むしろストレートな物語を格調高い演出でじっくりと見せてくれる手腕はさすがスコセッシ、とそこにこそ驚嘆したいし、ディカプリオは主人公の苦悩を演じていい芝居しているなぁ、とか、ミシェル・ウィリアムズの相変わらずの薄倖ぶりはほんとにはまるなぁ、とか、 ベン・キングズレーにエミリー・モーティマーにマックス・フォン・シドーにパトリシア・クラークソンにジャッキー・アール・ヘイリー……とは、これまたいい役者さんを揃えたよなぁ、さすが大きなプロジェクトだなぁ、と舌なめずりして堪能したいところ。
そして、未だ過渡期にあった精神医学が、医学の美名の下に行ってきた非道に戦慄すべきところ。ディカプリオのラストの台詞の余韻をかみしめるべきところ。
by shirakian
| 2010-04-19 21:00
| 映画さ行

