2010年 03月 10日
ずっとあなたを愛してる
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今年もアカデミー賞の発表が終わりましたね。
日本ではまだ公開されていない映画が多いのだけど、受賞者のみなさんには、心からお喜び申し上げます。
でも、この映画を観ると、え!? なんでクリスティン・スコット・トーマス、ノミネートすらされてないの!? とびっくりしてしまいそうになるのですが、よく考えてみると、これは2008年公開の映画で、しかもフランス(語)映画なのであった。ゴールデングローブ賞にはノミネートされた模様ですが。
我が子を手にかけ、15年の服役の末に出所した女性の物語、というアウトラインだけは知っていたので(というか、そこに興味の焦点があったわけで)、果たしてこの女性はいかなる理由で我が子を手にかけたのか? と息をつめるように鑑賞したのですが、この映画の主眼はそこにはなく、あくまで、罪を犯した女性の更生と再生の物語であり、彼女を支えた家族愛の物語なのでした。
6歳の息子を殺し、その理由を語ることなく15年間服役し、刑期を終えて出所したジュリエット(クリスティン・スコット・トーマス)を迎えたのは、疎遠になっていた妹のレア(エルザ・ジルベルスタイン)だった。両親は犯罪者となった姉の存在を否定し、初めからいなかった者にしようとしたが、妹だけは、会えない間もずっと姉の存在を心にかけており、出所した姉を、自分の生活の中に暖かく迎え入れる。最初は、頑なだった姉も、妹の真心に触れるうち、次第に心を開いていくのだった。
最初に感じるのは、恐らくジュリエット自身が感じているのと同じ、ヒリヒリするような緊張感です。
親しげに暖かく自分を迎え入れてくれた妹とは、でも、一度限りの面会を除いて15年間会っていないのです。すでに自分の生活を確立している妹にとって、突然この世にふってわいたかのように現れた元犯罪者である姉の存在は、とうてい歓迎できるものではないはず。
それなのに、妹の親身な態度はゆるがない。どこまでが儀礼的なもの、あるいは姉に救いの手をさしのべなかった自分に対する罪悪感からくるのか、どこまでが本当の真心なのか、ジュリエットにも、そして観客にも、掴みようがない。妹もまた、ある種の緊張にさらされていることからも、この「お行儀のいい」関係は長くは続かない、続けられるはずがない、と思ってしまう。
ところが。
次第に妹が、ほんとに心の底から姉を愛しているのだということがわかってくる。
(しごく当然と思える)夫の不安や怒りに直面しようとも、ひとに言えない秘密を抱えこんでしまおうとも、心を開かない姉自身の気難しさに阻まれようとも、妹は姉を受け入れることをやめないのです。
それはもうたぶん、汝の隣人を愛せよと神様がおっしゃったから、とか、それが正しいことだから、とか、そうすべきだから、とか、そういうレベルの話ではなく、肉親だから、としか言いようのない、理屈ではない愛情なのだと思わせるものがあります。そう納得させてしまうエルザ・ジルベルスタインの演技は、地味ながらほんとうに胸に染み入るものがあります。
しかし何と言ってもクリスティン・スコット・トーマスです。
15年かけて償おうとも、自分自身を決して赦すことのできないジュリエットは、単に冷めた、というよりも、死んだような目をしています。生きながらしにて、生きることをやめてしまった者の目。絶望とか、後悔とか、そんな言葉では表現できないほど、彼女の心の闇は深い。
そんなジュリエットに、レアはあくまでジュリエットからの歩み寄りを待ち、決して踏み込もうとはしませんが、たとえば、いかにも鈍感そうな、自らが正義の側に立つことを疑ってもみないような社会復帰カウンセラーは、居間に寝そべって煎餅をかじりながら、アフリカの飢餓って大変なんでしょ? ねぇねぇ、どのくらいひもじかったの? とのたまうような「親密さ」を示してジュリエットの怒りを爆発させてしまいます。
一方でまた、たとえばジュリエットの両親は、彼女が罪を犯したという一点をもって、完全に彼女の存在を葬り去ってしまうほどに、彼女を拒否してしまいますが、それはつまり、犯罪者と自分は、全く相容れない存在である、という強固な認識を持っているからです。
ところが、レア同様、ジュリエットに対し、詮索することなくただ受け入れようとする人物もいるのです。レアの同僚である大学教員のミシェル(ロラン・グレヴィル)です。かつて刑務所で教えていたこともあると語るミシェルは、「自分もまたかれらと紙一重の存在であるように感じる」と告げるのです。
罪を犯す者は、罪を犯すべく生まれついたわけではなく、立場がちがえば、自分だって犯していたかもしれない、犯罪者と自分を隔てるものなど実はなにもなく、居合わせた情況がたまたま犯罪に導いたというだけのことにすぎないのだから。
そんなミシェルに、ジュリエットの方でも徐々に心を開いていき、そんなふたりがとてもお似合いに見えることもあって、ジュリエットの明るい未来を感じさせる救いとなっています。
ジュリエットの両親(と恐らく世間の大部分のひと)とミシェルの、どちらの考え方が「よい」のか「正しい」のか、そんな結論は出るはずもありません。というより、だれの立場に立って考えるかで、答えはちがってくるはずです。
ジュリエットのような動機で子どもを殺した母親に対し、15年という求刑は重すぎるようにも感じられます。それこそ、情状酌量の余地はなかったのか、と思ってしまう。
だけど、 刑法39条の壁に守られて、残酷な手口で複数のひとを殺しても起訴すらされず、また、結果より動機を重んじる慣例から、無理心中という名の家族殺しに対して異様に軽い刑罰しか与えない、法治国家としては歪んだ日本という国で、「心神喪失」と認定された通り魔に愛するひとを殺された被害者家族や、心中の美名の下に殺された幼い子どもたちからすると、いかなる理由があれ、ひとを殺した罪は、きちんと償われてしかるべき、と思うはずです。
ただ、一般論はさておき、ジュリエットの場合、この15年という拘置期間は、彼女自身が望んだものだったのでしょう。罪を問われることなく無罪放免されていたら、却って彼女はやりきれなかったはずです。いっそ自殺していたかもしれない。
そして切ないのは、望んで得た刑罰でありながら、刑期をつとめあげても、ジュリエットが浄罪の感覚を得ることはできなかった、ということです。もとより自分が救われようとして刑期を務めたジュリエットではありませんし、そもそも犯した罪というものは、いかなる手段であれ償うことができるものであるのかもわかりません。
助かる見込みのない6歳の子ども。激しい苦痛に苛まれる残酷な病。素人であれば、「自分にはどうしようもない」と傍観することもできるでしょうが、医師であり、病状が絶望的であることや、苦痛のすさまじさを理解できる立場であったなら、「どうしようもない」からと傍観することが、果たしてできるのか。できてしまえば、それこそが利己的で残酷なことであるようにも思えます。しかし、あるいは、どうにかしてやろうとしたこと(=どうにかしてやれると思ったこと)は、それでもやっぱり赦されない傲慢であったのかもしれない。
結論は出ません。
しかしそれでも、ジュリエットに関しては、赦されてあげてほしいし、幸せになってほしいと思うのです。
by shirakian
| 2010-03-10 21:22
| 映画さ行