2009年 12月 24日
ジュリー&ジュリア
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アメリカの一般家庭にフランス料理を紹介し、食卓に革命をもたらした料理研究家のジュリア・チャイルドと、そのレシピ本に掲載された全てのメニューを一年に亘って作り続け、ブログに綴ったジュリー・パウエルの物語。50年の時を隔てたふたりの物語が、ほぼ等量で交互に語られていきます。
ジュリアがメリル・ストリープ、ジュリーがエイミー・アダムスです。
それにしても、メリル・ストリープというひとは、なんと物凄い女優さんなのでしょう。ジュリアという人物造形の、魅力的なこと(>_<)!
どなたでしたっけか、フィールズ賞か何かを受賞した方の同窓の方が、試験ではいつもかれは当然のように100点、自分も90点は取れていたので、かれと自分との差は10点分だと思っていたが、それがまちがいであったことを思い知った、かれの100点は自分の90点に10点を足した点数なんかじゃ全然なかった、という主旨のことをおっしゃってて、なるほどなぁ、と思った覚えがあるのですが、メリル・ストリープの演技力っていうのも、単なる100点では済まない100点を越えた100点、と思えば納得ですね。たぶん、だれかがあとちょっと努力したら、もしかしたら届く、とか、そういう境地にあるものじゃないんだと思う。
外交官の夫(スタンリー・トゥッチ)の赴任先であるパリにやってきたジュリアは、かつては職業婦人だったものの、いまは専業主婦。パリに(特にパリの食べ物に)ぞっこんほれ込んでしまい、パリの暮らしを満喫するのだけれど、ただ何もしなくて家にいたのでは、時間をもてあましてしまいます。そこで始めたのが、大好きな食べ物に関する習い事、名門ル・コルドン・ブルーでプロシェフのコースに通うことにするのです。それが彼女のキャリアのスタートでした。
180㎝を越える大柄のジュリアは、独特の喋り方と大仰な身振り、明るくひとなつっこい人柄で、会うひと全てを魅了していきます。特に夫のポールは彼女にメロメロ(笑)。常にしっかりそばに寄り添い、夢にむかって羽ばたく妻を全力で応援してくれるのです。
実際の身長はトゥッチが173㎝、ストリープが168㎝、ということですから、若干ですがストリープの方が低いのですが、映画ではジュリアの巨体(笑)を実に巧みに表現していて、ポールとの「ノミの夫婦」っぷりが微笑ましいです。このカップルに限らず、奥さんの方が大きい組み合わせって、なんか幸せそうに見えていいなぁ、とわたしは思うんですけど。なんていうか、身長とかそういう瑣末なことにこだわらなくていいほど相手のことが大好き、って感じがしませんか?
あまりにもユニークなジュリアのキャラクターは、ヘタをするとコントになりかねないと思うし、実際、この映画の中でも、物まね芸人のひとが、テレビのお料理番組に出演するジュリアを面白おかしく物まねをする、というテレビ番組のカットがあって、ソレがもう、ほんとにいかにもありそうで(っていうか、当然実際に物まね芸人さんの格好のターゲットであったのだろうな、と思うわけですが)、そのくらい立ちまくったキャラクターなんですけれども、ストリープの演技は、その楽しさやおかしみを存分に見せてくれながらも、単に漫画的なコントキャラにはなっていないのが凄いです。
いつも朗らかで楽観的なジュリアにも、そりゃもちろん、曇りの日はあった、人間だもの(でも、雨が降る日はなさそうだ(笑))、不妊症で子どもをあきらめなければならなかったこと、なのに晩婚の妹には赤ん坊ができたこと、妹を心から愛する気持ち、赤ん坊の誕生を心から祝福する気持ちと、自分だけが取り残される寂しさというアンビバレンツな思いにひきさかれたこと、ポールがマッカーシズムに巻き込まれたこと、そのため、ポールの外交官生活の後半は欧州を転々として過ごさなければならなかったこと、8年もの歳月を費やして書き上げた料理本に、なかなか出版のメドが立たなかったこと、山あり谷ありの人生を、だけど決して落ち込むことなく前向きに、ズンズンと大股で歩いてきたのだなぁ、と、ジュリア・チャイルドというひとが、愛しくてたまらなくなるのです。
それに比べると、ジュリーのパートははるかに魅力が乏しいと言わざるを得ません。エイミー・アダムスは相変わらずキュートでチャーミングなのですが、ジュリーというキャラクターは凡庸でつまらない。
もともとが強烈な異彩を放つキャラクターであるジュリアに対して、ジュリーというひとは、一日も欠かさずブログを書き続けたことを除けば、ただの平凡な女性なのだから、そもそも等分の分量で並べるのが無理だったんじゃないかなと思います(平凡な女性の平凡な物語、というのはもちろん、それでひとつのドラマになりますが、あくまで全体のバランスや、ジュリアとの対比を考えると、という意味です)。
平凡な女性の平凡な物語である以上、それはやはり、「自分探し」の話になってしまうのですが、申し訳ないけど、その類の話には、こちらとしてはいささか食傷気味なのです。
そして、平凡なだけならともかく、ジュリーという女性は(キュートなアダムスが演じているからかなり緩和されてはいるけれど)、非常に自己中心的なひとだと感じました。
この不況の世の中で、安定した仕事や、理解のある夫や、食事を共にする友人や、常に安否を気にしてくれている母親がいて、おまけに猫まで飼っているというのに、ブログを書くのに忙しいこのわたしが、パイプクリーナーなんか買いに行ってる暇があると思うの!? とヒステリーを起こすに到っては、アイタタタ、と思わざるを得ません。
さすがにこの後反省したジュリーは、「よい人間になる」決意をするのですが、残念なことに、ジュリーの成功は描写されても、よい人間になったジュリーは描かれていないので、彼女の決意がいかほどのものであったのかは、観客にはわかりません。
それにしても、ジュリアがジュリーのブログを不快に思っている「らしい」という、中途半端な情報を挿入した演出意図は一体何だったのでしょうか?
なんかどうも、たかが素人さんのブログにいちいち「不快を表明する」というのは、いままで描かれてきたジュリアのキャラクターにそぐわない感じがして、釈然としないのです。
もし本当にジュリアが「不快を表明」したのであれば、それはジュリーのブログに(ジュリー視点である以上、描かれるはずがない部分で)本質的に不快なものがあったということでしょう。ジュリアの為にも、そこんとこはちゃんと描いておいてほしかったなぁ、と思わんでもないです。
あるいは、フィクションと割り切って、実際に不快を表明したという事実があったとしても、それにはぐっと目をつぶり、ふたりの女性が、50年の歳月を経て、料理というステキな媒体を通して魂を通わせ、人生が重なり合った物語である、ということにした方が、いっそスッキリしたようにも思われます。
結果として、ジュリアはジュリーに好感を抱かなかった、友だちでもなんでもなかった、ということであれば、ジュリーにとってのジュリアは彼女の脳内にだけ生息するイマジナリーフレンドであったということで、つまりはジュリーの自慰にすぎなかった、ということになり、なんだか非常に虚しいです。
ラストシーン。ジュリアを記念した博物館のシーンで終わる演出はとても素晴らしいのですが、ジュリーがジュリアの肖像写真の前に、よりによってバターを置いて立ち去るのを見ると、げげっとなります。
ジュリーの言い分は想像がつきます。だってジュリアはわたしにバターのおいしさをわからせてくれたから。バターのおいしさとはすなわち、フレンチのおいしさ、料理の楽しさ、自分を表現するすばらしさの象徴だから。それでわたしは「ほんとうの自分」をみつけて、自尊心を取り戻すことができたから。たとえジュリアがわたしを拒絶しようと、わたしはジュリアに感謝してるの、わたしの感謝の気持ちをバターという形で表現してみたの。
だけど、しかし、閉館後の館内で、室温で溶けてドロドロになったバターを目にした清掃係の困惑を、ジュリーは決して考えない。ジュリーはそういうひとなんだ、と改めて思ったラストシーンでした。
by shirakian
| 2009-12-24 15:27
| 映画さ行