2009年 11月 29日
イングロリアス・バスターズ
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これは、めちゃめちゃ面白いです。もしかして傑作かもしれないです。
152分があっと言う間だし、観終ってすぐに、もう一度観たくてたまらなくなりました。
第二次世界大戦末期のフランス。
が舞台の映画ですが、なぜか決して「戦争映画」ではないです。戦場のシーンは全くない(戦闘シーンは若干あります)。かろうじて戦場シーンが出てくるのは、劇中劇として作られたナチスのプロパガンダフィルムの中だけ。
そして、戦時が舞台でありながら「戦争」映画ではないこの映画は、史実をもとにしながら史劇でもありません。『ワルキューレ』は史実の忠実な再現が出色だったし、『ディファイアンス』のようなエンタメに傾斜した映画ですら、やはりできるだけ史実に添って撮られていたのとは対照的に、この映画で起きるイベントはあくまでフィクションです。だから、実際にはこうはならなかった「歴史」が展開される。
なので、ジャンルは? と訊かれたら、「タランティーノ」と答えるしかない映画です。その意味で、とても新しい映画だとも言えるけれど、タランティーノ監督が映画全編に亘ってちりばめた、先行作品へのオマージュの数々によって、とても懐かしい映画にもなっています。だからやっぱり、ジャンルは「タランティーノ」。
物語は、ユダヤ・ハンターと恐れられたナチスのハンス・ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)により家族を皆殺しにされたユダヤ人少女、ショシャナ(メラニー・ロラン)の復讐劇に、ブラッド・ピット率いる“ユダヤ系アメリカ人による連合軍の極秘部隊”(通称バスターズ)の「ナチ狩り」のエピソードがからんで進行していきます。
この、ランダ大佐のキャラクターがもんのすごくイイです。
ユダヤ・ハンターと忌み嫌われるほどに、大勢のユダヤ人を抹殺してきたナチの中のナチ、みたいな男なんですが、決して生まれついてのサディストでもなければ、ゲッペルスみたいに病的にヒトラーに傾倒してるわけでもない。ただ単に、与えられた任務をこなす事において、とてつもなく有能であり、おのれの有能さを自覚し、誇りに思っている、というだけの人物なのです。
こうしたランダのキャラクターは、語学に堪能であることもあわせて、アドルフ・“スペシャリスト”・アイヒマンを彷彿とさせます(アイヒマンはヘブライ語に長けていた)。
アイヒマンっていうひとは、たとえば、港に荷揚げされた120万トンの小麦を、三日以内に保冷倉庫に全て運び入れる、という仕事を、緻密な計算の上に成り立つ合理的な計画をもとに確実な実行力をもってやり遂げてみせる、実に優秀な「官僚」なわけですが、かれがやったその仕事は、小麦の輸送ではなく、いかに多くのユダヤ人を、強制収容所に送り込めるか、という仕事だったのでした。
かれにとって、その「仕事」はあくまで「命じられた仕事」であり、完璧にやってのけたことに対する自負の念こそあれど、残虐な行為に対するためらいがなく、反省がなく、自責の念がないのです。これは、全く、ランダ大佐も同じ。
この映画では、ブラッド・ピット率いる「バスターズ」が、ナチスへの見せしめとしての残虐性を大いに発揮してくれますが(そしてその描写がいかにもタランティーノなわけですが)、ナチの兵士をバットで叩き殺すような、あまりに生々しいかれらの残虐性は、一見ナチスよりもっとタチが悪いような印象すら受けます。しかし、バスターズの行為には、根底に怒りがあり、(歪んだ形であるにせよ)正義の自覚がありました。
その「熱」がない分、ランダ(やアイヒマン)の官僚的残虐さは、よっぽど始末に負えないのです。
ランダ大佐を語る大事なキーワードになるのが、「語学堪能」ということです。
劇中出てきただけでも、大佐は、ドイツ語のほかに、フランス語と英語とイタリア語を流暢に操ってみせました。英語のネイティブスピーカーであるアメリカ人ブラピを前に、英語の発音や表現に必要以上にこだわってみせる姿などは、「語学おたく」と言ってもいいほど。実際かれは、この粘着質な向上心でもって、多数の外国語を身につけてきたのでしょう。
このことは単に、何人でもかに人でも英語でしゃべるハリウッド式を排した原語主義、というに留まらず、様々な意味合いをはらみ、劇的な効果をあげているのです。
第一に、この映画もまた、タランティーノのほかの作品同様、基本的には会話劇です。全五章に分かれた構成のうち、それぞれの章で、異なる組み合わせのキャラクターが、椅子にすわって、意味深で思わせぶりな会話をつむいでいく仕組み。意外なことに、アクションよりも、この「座って喋っているシーン」がずーっと多い、というより、大半が、「座って喋っているシーン」によって占められているわけです。
ですが、それが全く退屈にも冗長にも感じられないのは、それぞれの会話が、決して悟られてはならない秘密を抱える者とその秘密を抉り出そうとする者との、凄まじく緊迫した対決を織り成しているから。
特に第一章の、堅実なフランス人酪農家とランダ大佐との、ユダヤ人逃亡者(ショシャナとその家族に他なりません)の行方を巡る攻防は、出色。手に汗握るとはまさにこのこと。
このシーンでランダは、実際には流暢にフランス語を操れるにもかかわらず、敢えて言語を英語にスイッチします。なぜならかれは、酪農家がユダヤ人を匿っていることを確信しており、ユダヤ人に悟られることなく会話を続行する必要があったから。
このシーンのキモは、今まで毅然とランダに対峙しているように見えた酪農家が次第にくずれていく描写で、その決定的なターニングポイントとなったのが、言語のスイッチだったのです。それはすなわち、酪農家が自らの母語を奪われる瞬間であり、酪農家の心に、この会話はユダヤ人たちには理解できない、という隙が生じた瞬間でもありました。
あるいは、イタリア人に化けざるを得なくなった「語学音痴」のアメリカ人を前に、ランダ大佐が、アメリカ人など足下にも及ばぬ見事なイタリア語を披露して、徹底的にアメリカ人をなぶるシーンのアイロニー。
こうしたヨーロッパ人種の「多言語性」について、ドイツ人女優を演じたダイアン・クルーガー(自身、母語であるドイツ語のほかに、フランス語と英語が堪能)が、「アメリカ人は英語以外の言葉が喋れるのか」と苦々しくつきはなすシーンがあるのですが、この皮肉もまた、母語が英語であることの上に胡坐をかき、他言語への(ひいては異文化への)理解をないがしろにしているアメリカ人に対する痛烈な皮肉にもなっていて面白いのです。(クルーガー自身、ハリウッドで仕事をしていく上で、そうしたアメリカ人の外国文化・外国人・外国語蔑視の姿勢に、苦労させられた局面がいっぱいあったんじゃないかなぁ、と推測されるのですが)。
なにしろ、アメリカでは、字幕映画というのが、ほとんど観られていないらしい。字幕つきの外国語映画を観たがる連中、イクオル、スノッブで鼻持ちならない連中、という記号すらあるようです。それどころか、吹き替えですら嫌われて、安易にリメイクしてしまうという風潮があります。そういう風土に於いて、このアメリカ人監督による字幕だらけの映画は、字幕に慣れたわれわれ日本人が思う以上に、ある種の違和感や、強烈な印象を持って受け止められたことは想像に難くないです。
まあ、いいや。
わたくし的今回の目玉は、ティル・シュヴァイガーとマイケル・ファスベンダー(≧▽≦)!
シュヴァイガーはドイツ軍人ながら、ナチスに虐待され(?)反旗を翻した男。ファスベンダーは、イギリス人ながらドイツ語に堪能であるため潜入任務を命じられた男。このふたりに加えてもうひとり、「オーストリア系亡命ユダヤ人」という設定で、ドイツ語と英語の通訳をこなしたギデオン・ブルクハルトの三人が、バスターズ側のドイツ語チームです。
(本人は、たぶん、そう言われるのはあんまり好きじゃないと思うけど)典型的ドイツ軍人顔のシュバイガーのニヒルな軍服姿がカッコイイのは言うまでもなく、パンツいっちょからタキシードまで、なんでも着こなす細身のシルエットがセクシーなファスベンダーのエレガントな軍服姿もとっても素敵。ブルクハルトは、声フェチ白木庵の鼓膜をくすぐる美声の持ち主ですが、見た目もとてもイケメンさんです。
この三人が、連合側のスパイであるドイツ女優のダイアン・クルーガーと打ち合わせのため面談するシーンは、わたくし的にはクライマックス(笑)。このシーンだけで152分かけても、少なくともわたしは、怒りません(笑)。
このシーンのキモは、本来ドイツ人であるファスベンダーが、ドイツ語が堪能なイギリス人、という役柄を演じ、なおかつかれのドイツ語の「訛」が敵の不審を呼び起こし、ついにはドイツ人でないことを見破られてしまう、という展開の皮肉さであろうかと思います。些細な習慣の違いは、単に言語を学ぶだけでは、乗り越えられないのでした。
というわけで、とってもとっても面白い映画でしたが、唯一、ちょびっと、物足りないなぁ、と思ってしまったのは、メラニー・ロランサイドの復讐劇と、ブラピたち連合軍側が計画したナチス高官暗殺計画が、互いに全く交わることなく進行してしまった点で、どっかで連繋させることはできなかったのなかなぁ、と思ってしまいました。
だって、ファスベンダーもシュヴァイガーも、ラストの打ち上げ花火の前に撤収してしまうんですもの、かなり寂しいです。
by shirakian
| 2009-11-29 22:10
| 映画あ行