2009年 10月 31日
きみがぼくを見つけた日
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この映画のタイトル、どうして『時間旅行者の妻(THE TIME TRAVELER'S WIFE)』じゃいけないんでしょうね? いいタイトルだと思うのですが。レイチェル・マクアダムスのラブストーリーはみんな「きみがなんちゃら」になっちゃうのかな? 次のタイトルはもしかして「きみの名は」?
邦題には違和感を感じる、というより、このタイトルじゃ、だれの記憶にも残らないよね、と残念な気持ちになるのですが、映画自体は好きでした。
ヘンリー(エリック・バナ)は自らの意志とは無関係に、否応なしに時間を移動してしまうタイムトラベラー。クレアは6歳のとき、30代のヘンリーと出あい、たまに訪れる年上の男との逢瀬を楽しみに成長した。そして20歳のとき、28歳のヘンリーと「リアルタイム」で再会する。ヘンリーにとっては初対面のクレア(レイチェル・マクアダムス)は、もう長いことヘンリーへの恋心を暖めてきた娘。ふたりが恋に落ちるのは必然で、やがてふたりは結婚する。積年の恋を実らせて結ばれたものの、タイムトラベラーの妻であることは、クレアにとって幸せなことばかりではなかった。
というわけで、ギミックとして時間旅行が使われてはいますが、これはSFではなくあくまでラブストーリーなので、タイムトラベルに関する科学的説明とかパラドックスへの配慮とか、そういうものは全くありません。それが気になってしまうと、たぶんあんまり楽しめないのではないかな。
ただ、純粋にラブストーリーと思ってみれば、これはまた、なんと優しい物語なのだろうと、胸がしめつけられる思いがするのです。
この物語は正統的恋愛譚ですが、基調低音として常に流れているのは、「死」です。
物語の発端となるヘンリーの母の死。それは同時にヘンリーの父にとっては、愛する妻の死でもある。やがて予感されるヘンリー自身の死。ヘンリーとクレアの死んでいく胎児たち。物語の節目節目に存在する、避けようのない運命。
世の中には、死より悪い運命だってあるのかもしれないけれど、死より決定的な別れはありません。死は、この世で考えられる限り最悪の別れであるにちがいないです。
しかしこの映画では、時間を旅行するというギミックを用いることにより、そこに、ほんの小さな「留保」を与えてくれる。
その小さな留保が、この上ない優しさとして結実していると思うのです。
ここで大事なのは、それが常に、小さな留保に過ぎないということです。たとえどれだけ時間軸を自在に行き来しようとも、死そのものを覆すような大きな奇跡は、決して起きることはありません。
巷間、その点に不満を感じている感想が多いな、という印象を受けました。
せっかく時間旅行ができるのだし、主人公は、死を回避すべくもっと努力をすべきなんじゃないか。そしてその努力は報われるべきなんじゃないか。だってなにしろこれは一種のファンタジーなのだから。
確かにそれはそうかも、と思わんでもないです。だれだって主人公には幸せになってほしい。ファンタジーであれば尚更です。
だけど、一方で、それでもやはり、と思うのです。
ネガティブ思考のループはろくなもんではありませんが、かといって根拠のないポジティブシンキングは思い上がりです。あきらめれば夢はそこで終わるのかもしれませんが、願い続けたからって必ずしも夢が叶うというものでもない。ひとにはどうしたって抗いようのない事がある。何がなんでも闘って、克服し、勝利しなければならないと思うのは、アメリカンドリームシンドロームです。叶った夢の背後には、叶わぬ千もの夢がある。あるものをあるがままに受け入れるということは、悪いことでも何でもない。
時間旅行者もまた、さまざまな時間を旅しながらも、順当に減っていく自分の時間を生きているのです。いくら時間を遡ったところで、道の果てにある死を変えることはできない。すでに生じてしまった死を変えることはできない。
そこには、主人公だけが死という運命から逃れられるとするような「傲慢」はないのです。ハリウッド映画にありがちな、自分(および自分の家族)だけ特別であれば無事であれば幸せであればよしとするような、首を傾げざるを得ない姿勢はありません。
死から逃れることはできなくても、死と折り合うことはできる。この映画で提示されているのは、最愛のひとの死と折り合うための、心優しい慰めです。
残された人々は、いなくなった人に向かって、今自分は(あなたがいないのだから、もちろん十全ではないけれども、それでもとりあえず)こんなに幸せでありますと、告げる言葉を持っている。
たとえばヘンリーは、大好きな母親の事故死を回避することはできませんでしたが、大人になり、まだ若い母親と再会し、今自分が幸せであることを、どれだけ自分が母親を愛していたかを、告げることができたのです。
大丈夫だから、幸せだから、愛していました、ありがとう、ごめんなさい、伝えたい言葉を、もう、届かないはずのひとに、届ける術が、少なくともある。
その配慮を、この上なく優しいと思うのです。
それはヘンリーひとりに限りません。ヘンリーを取り巻く全ての人々にみな、その配慮が行き届いているのです。たとえば、ヘンリーの父親のような脇に立つキャラクターですら、妻を失ってアルコールに逃げ込んだ日々の後、ちゃんと立ち直り、ヘンリーを通して得た新しい愛をはぐくむ姿を描いてくれる。
もちろん、ヘンリーを失ったクレアに関しては言うまでもなく。
この優しい映画を支える、エリック・バナとレイチェル・マクアダムスは、ふたりながらにとても適役だと思います。
特に、登場シーンのマクアダムスは素晴らしいの一言です。積年のあこがれに、ついにリアルタイムで出会った感動と喜び。光り輝く泣き笑いの表情は、とてつもなく美しく愛らしい。
エリック・バナの静謐な雰囲気も、映画のトーンにマッチして品格を感じさせます。シリアスな物語にそこはかとないユーモアが漂うのも、バナの手柄だと思います。
今までわたしが見てきたエリック・バナって、ギリシャ神話のヒーローとか残酷なカリスマ国王とか緑色の怪物とか百戦錬磨の古参兵とか、とにかく威厳や力を感じさせる役が多かった印象があるのですが、子どもを安心させることのできる、なんとも柔らかい表情も似合うひとだということは知らなかったです。
もひとつ言えば、「タイムトラベルには衣服を伴えない」というサービス設定(?)のおかげで、全編バナ氏のフルヌード満載、という映画に仕上がっておりますが、バナ氏の均整のとれたスラリとした長身は、大層美しいのであります。
by shirakian
| 2009-10-31 21:47
| 映画か行