2016年 02月 05日
★ネタバレ注意★
・白鯨との闘い@ぴあ映画生活
ロン・ハワード監督のアメリカ映画です。
原題は"IN THE HEART OF THE SEA"。
メルヴィルの『白鯨』の映画化ではなく、メルヴィルが『白鯨』を執筆する際にインスパイアされた実在の海難事故をもとにした映画です。「白鯨」も出てはくるけどモビー・ディックという名前ではないし、エイハブ船長は出て来ません。
原題の原義は"the heart of the city"というのが「都心」という意味になるのとおんなじで、「海の真ん中で」といったニュアンスなんだと思いますが、だとすると映画の内容から言って、邦題的には「海洋のはらわた」あたりがピッタリくるカンジ。『戦争のはらわた』『死霊のはらわた』と合わせて「はらわた三部作」として売り出……すのはいくらなんでも無理がありますが、ガッツリ「はらわた」呼びしたいぐらい底知れぬ海の迫力が横溢した映画なんであります。
1850年、ハーマン・メルヴィル(ベン・ウィショー)は、次回作の執筆のために30年前に起きた捕鯨船エセックス号の海難事故を取材すべく、最後の生き残りであるトム・ニカーソン(ブレンダン・グリーソン)を訪ねる。1819年、当時14歳だった孤児のニカーソン(トム・ホランド)は、一日も早く自立したいという思いで捕鯨船エセックス号に乗り込んだ。出港地は捕鯨船のメッカ、ナンタケット島。
鯨油で潤い、鯨油だけが富を生むこの島では、捕鯨に関わる人間だけが一級市民とみなされ、農夫その他、土地に縛り付けられて生きている人間は軽蔑の対象となる。ニカーソンが乗り込んだエセックス号の一等航海士オーウェン・チェイス(クリス・ヘムズワース)は経験豊富な優秀な捕鯨船乗りで、今航海では船長に抜擢されるはずだったのに、農夫の父を持つ出自故に、名門捕鯨一家の出であるジョージ・ポラード(ベンジャミン・ウォーカー)に船長の座を奪われてしまう。
ろくな経験もないまま船長という重責を担うことになったポラードは、激しいプレッシャーに悩み、堂々たる体躯の偉丈夫にして仕事に熟達し乗組員たちからの人望も厚いチェイスへの嫉妬や劣等感から、不安定な精神状態。一方のチェイスもまた、本来自分のものだったはずの地位を奪われ、ど素人の船長の不合理な命令に従わなければならない屈辱と、ポラードの姑息なやり口に対する苛立ちを抱え、やはり一触即発の状態。
ふたりが激突せずに済んだのは、ひとえにチェイスの幼馴染にして大親友、頼もしい捕鯨船乗りであるマシュー・ジョイ(キリアン・マーフィー)の冷静にして公平な仲裁があったればこそ。ジョイ、いい仕事しました。
そんなエセックス号の航海の、前半の目玉はなんと言っても捕鯨のシーンです。一言で言うならあまりにも無謀。ほんとにこんなんで産業として成り立っていたのかと開いた口が塞がらないくらい。だいたい、捕鯨船自体が今の感覚からするとあり得ないくらい小さな船で、こんな船で数年にもわたって帰港せずに航海を続けた、というのも驚きなら、いざ鯨を仕留める際には、ほんの小さな手漕ぎのボートで繰り出して、素手で、素手で銛を撃ちこむ。まさに腕力勝負の蛮人の所業。このシーンはちょっと『シーウルフ』のアザラシ猟の描写を彷彿とします。
鯨に打ち込んだ銛から伸びるロープが、鯨に引きずられてグングン沈んでいく、鯨が息絶えるのが先か、ボートが引きこまれるのが先か、そのタイミングをギリギリのところを見計らってロープを調節する手に汗握る瞬間。経験と勘と度胸だけが物を言う世界。
そして仕留めた鯨の処理の仕方。血を見てワッと寄ってくるサメたちを蹴散らせつつ、分厚い鯨の脂肪層をぶつ切りにし、油を搾る。特にマッコウクジラの頭部に潜り込んで脳油を採取する描写は、これぞまさに、あなたの知らない世界。
この解体の場面もそうですが、当時の捕鯨基地であるナンタケット島の雰囲気やビジネスの仕組みなど、未知の情報に触れられる喜びというのは大変大きいのです。ただ惜しむらくは、エセックス号は結局この一頭しか鯨を仕留められなかったので、鯨を解体するシーンも必要最低限しかなくて、実はちょっと物足りなかった。このシーン、匂いがついてたらヤだけど、もうちょっと色んな角度から色んな作業を見たかったよね。
さてそしてエセックス号は、いよいよ白鯨と対決します。戦果が得られず焦っていたエセックス号は、寄港した港でスペイン人の船長に白い鯨の噂を聞くのです。曰く、アラバスターのように真っ白な全長30メートルの怪物、と。
実際に直面した白鯨は、期待したほどまっ白ではなく、ボロボロに傷ついた古傷だらけの巨体。歳月に削られて白化した歴戦の勇士だったのでした。長年群れを守り、外敵と闘い、生き延びてきた、恐らく高齢の鯨。
最初の捕鯨シーンを見て実はとても不思議に感じたのが、なぜ鯨は銛が打ちこめるほどボートが近づくことを許したのか、ということでした。なんと言っても手漕ぎボートと鯨では鯨の方が圧倒的に速いはず。ボートを見かけたらすぐスタコラ遠ざかってしまえば絶対人間ごときにやられるはずがないのに。
片や人間ときたら、泳げてせいぜい数十キロ、潜れてせいぜい数分の、極めて脆弱でちっぽけな生き物です。そのちっぽけな生き物が自信満々で鯨に攻め寄せていき、実際鯨を仕留めてしまう。なんかそれって理不尽。
そう言えば、最終的に故郷に戻ったエセックス号の乗員たちに対し、島のお偉い衆は緘口令を敷きます。鯨にやられたなんて絶対言うな。そんなことが知れ渡ったら捕鯨産業が大打撃を受ける。そのくらい、当時鯨は「無害」な生き物と思われていた。逃げもせずましてや反撃なんかするはずもなく、みすみす人間の手にかかってやられていた。あんな小さな捕鯨船で、絶滅近くまで激減するほど殺されまくっていた。
だけど白鯨は、攻撃する鯨だったんです。鯨が無害だなんて、とんでもない。そんなの人間の思い上がりも甚だしい。マッコウクジラが人間が害獣であることを認識し、叩き潰そうと思ったら、それこそ赤子の手をひねるがごとし。白鯨は一撃でエセックス号を粉砕したのみならず、ボートで逃げ延びたクルーたちを何か月も追尾して、生きるか死ぬかの極限状態に追い込まれたクルーを嘲笑うかのように、ボートの真横に浮上してきた。
手を伸ばせば触れることができるほどの近くに現れた白鯨に、しかしチェイスは銛を打ちこむことができませんでした。この状況で銛を打ちこんだからとて仕留めることができたとは思えませんが、しかし一矢を報いることもできなかった。銛を掴んだチェイスの手は完全に止まってしまったのです。
それは恐らくかれが畏怖の念に打たれたから。
『白鯨』の物語におけるエイハブ船長の執念を知る観客は、ここであっさり手をひくチェイスの姿に一瞬虚をつかれるのですが(そして結局、チェイスが捕鯨船に乗ることをやめてしまうという結末からも)、白鯨という荘厳な生き物に対する、そしてひいては海という広大な世界に対する、あるいは天然自然という人間にはどうしようもない巨大な存在に対する畏怖の念が、その謙虚におののく心が、かれらを生き延びさせたのだと思うと、監督の主張が奈辺にあったのかは自ずと明らかであるように思います。
しかし、アメリカが捕鯨をやめたのは、鯨というアメージングなクリーチャーに対する畏敬の念なんかが理由じゃもちろんないわけで、鯨油に代わってより安易に手にいれることができる石油を見つけたから、というにすぎません。
メルヴィルに対する口述を終えたニカーソンが(それは人肉食の体験をも含む、あまりにも過酷な漂流の物語でもあった)、メルヴィルを見送りながら、最近じゃ地面から油が採れるんだってな、と感慨深げにつぶやくシーンが印象的でした。あれほどまでに過酷な労働の果てに、あれほどまでに命の危険を冒し、あれほどまでにすばらしい生き物の命を犠牲にして、そしてようやく手に入れていた油を、なんと地面から掘り出すことができるようになってしまったというその皮肉。ニカーソンの胸中にはどんな思いが渦巻いていたことだろう。
人間は油を手に入れるためなら何でもする。何よりそれは富を約束するものだから。石油のためなら喜んで(自分以外の)血も流すし、環境も破壊する。鯨を殺すことをためらわなかったのと同じくらい、石油のためなら傍若無人に何でもやってのける。難癖をつけてイラクへも攻め込むし(たとえば『グリーンゾーン』)、中東の石油より安上がりなシェールオイルが手に入るようになると地下水を汚染するのも平気(たとえば『プロミスト・ランド』)。……あら、どっちもマット・デイモンなのね。
人間の欲望にはキリがない。鯨を保護せよは、鯨はもう必要ないと同義でしかない。そして鯨からしたら、そんな人間の都合など、知ったことではないのです。大海原の真ん中で、人間はあまりに小さくて弱い。そこで頂点に立つのは鯨の方なのです。
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by shirakian
| 2016-02-05 19:34
| 映画は行