キノ2
2016-04-16T17:11:12+09:00
shirakian
これはお友達が描いてくれた、うちの黒猫お嬢の肖像です。
Excite Blog
SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁
http://kinoer.exblog.jp/22943286/
2016-03-05T20:37:00+09:00
2016-03-05T20:39:14+09:00
2016-03-03T18:16:26+09:00
shirakian
映画さ行
BBCのTVシリーズ"SHERLOCK"のスペシャルバージョン。
日本では劇場で公開。
原題は"SHERLOCK: THE ABOMINABLE BRIDE"、ダグラス・マッキノン監督。
1895年、ヴィクトリア朝のロンドン。ウエディング・ドレスを纏ったリコレッティ夫人が、拳銃自殺を図った後、なぜか蘇り、夫を射殺したという。レストレードから事件について聞かされたホームズの下に、更なる女性の依頼人が現れる。ある朝届いた手紙に同封されていた5つのオレンジの種、それを見て以来夫の様子がおかしいというのだ。夫もまたリコレッティ夫人の名前に異常な反応を示し、幽霊を恐れているらしい。珍しい事件にホームズは舌なめずり、ワトソンを伴い、事件解決に乗り出すが。
というお話ですので、TVシリーズの方とは全く別仕立ての特別編だとばかり思っていたら、シーズン3最終話にからめたタイムトラベル風味の展開になっていて、時代劇の楽しさと現代劇とのクロスオーバーの楽しさを二重に楽しめるというご機嫌な一本。
本編開始前に、共同脚本を担当したスティーヴン・モファットによる、セットやら世界観やらキャラクターについてやらの解説ビデオが流れるのですが、これがまた楽しいであります。「コナン・ドイルはわれわれほどマニアじゃないからね」という一説が深く頷けます。そうなのね、その作品を一番よく知っているのは実は作者じゃなくて熱狂的なファン。作品世界の年表やらマップやらが作れるのは、実は作者じゃなくて熱狂的なファン。主人公の妹が大事にしている人形の名前が言えるのは、主人公が初めて何かをしたのがいつだったかを言えるのは、主人公の部屋の設えについて正確に描写できるのは、実は作者じゃなくて熱狂的なファン。作者って結構「あれ、そうだったっけ?」ってとこがあるよね。
まあ、なにしろ、あのシリーズですから、ヴィクトリア朝という時代の雰囲気を醸し出す妥協のなさはとてもTVシリーズとは思えず、かと言ってやはりあのシリーズですから、そこで活躍するキャラクターたちの時代感を損なわない現代的センスもまた健在。両者が両立するバランス感覚がすばらしい。
今回はモチーフがモチーフだけに、女権拡張の問題から現代にも通じる性的差別の問題まで見据えた今日的感覚の鋭さもまた魅力。特に「今」この物語を観るという意味は、非常に大きいと思うのでした。男社会で専門職に就くために性別を偽り男装して働くモリー(ルイーズ・ブレーリー)の姿は、社会問題として色々と感慨深い上にキュートで萌え萌えだし、メアリー(アマンダ・アビントン)は例によって「(ぶっ)翔んでる女」だし、ワトソン家の女中さんまで単なる女中じゃないんだぜ。
そして受けたのは、(原作の描写通り)巨デブのマイクロフト(マーク・ゲイティス)です。そうそう、このひと、やっぱこの体型じゃなきゃ! 尤も、現代版の『SHERLOCK』のマイクロフトがほっそりスマート体型なのは、あれはあれで正解だとは思うんですけれども。
しかしわたしが一番感心したのはジョン・ワトソンです。っていうか、ワトソンを演じたマーティン・フリーマンの演技力です。このひと、現代パートとヴィクトリア朝パートでワトソンのキャラクターを微妙に変えてきましたよ。そのさじ加減の絶妙さにはマジで鳥肌が立ちました。
確かにね、異なる時代の異なる環境の下異なる教育を受けて育った異なる価値観を持つ人間であれば、たとえ同じDNAを有する同じキャラクターであったとしても全く同じ人間ではあり得ない。様々な問題に対する感情や思考の違いは、微妙な表情の差異となり口調の差異となり発言や行動の差異となって表に出てくる。現代のジョンにとって「当たり前のこと」はヴィクトリア朝のワトソンにとって「考えたこともないこと」だし、ヴィクトリア朝のワトソンがとるべき「正しい態度」は現代のジョンにとっては「考えられない無礼」であったりする。だから両者は違って然るべきであり違わなければならないんだけれど、やっぱりそれでもふたりが同一人物であるという前提は全く揺るがない。フリーマン凄い、と思う所以です。
もちろんフリーマンだけが凄くてホームズのベネディクト・カンバーバッチは凄くない、とか言う話ではなく、ホームズのような一般的基準からはずれたキャラクターは時代の要請にさほど縛られないわけで、常識人であるワトソンほどには差異が表に出にくい、ということだったと思います。第一、カンバーバッチのホームズが素晴らしいのは言うまでもないことですし。
個人的お気に入りのシーンは、ホームズとワトソンがもめて、腕力に訴えたらどっちが強いか、という話になった時の会話。
「軍人のぼくとジャンキーの君じゃ勝負は見えてるだろ」
「軍人じゃなくて医者のくせに」
「軍医だ。いちいち名前を言いながら骨を折ることができるぞ」
なんて言うんでしょう、良識ある社会人で温厚な性格でしかも体格的にはぐっと小柄なワトソンの方が、いざとなったらむしろ気が強いというかタフガイというかアドレナリンジャンキーというか、この辺の描写ってほんと、どのバリエーションを見ても「してやったり☆」って思いますね。シリーズの一番最初で見事な射撃の腕を披露してみせたあの瞬間からもう、ね。
あともひとつ、事件に気をとられて家庭生活が疎かになり、メアリーの行動を掴めなくなってしまったワトソンがようやく妻と再会するシーンの会話。
「きみとすれ違ってしまうんじゃないかと不安だったんだ」
「出て行ったのはきみの方じゃないか」
「ぼくはメアリーに言ったんだ」
なぜかホームズが答えとる(笑)。
関係ないけどこのシーン、『ビッグバン・セオリー』でハワードがバーナデットに「ハニー」と呼びかけたら隣にいたラージが返事をする、というシーンを思い出します。
それと、もう一個いいかな(言わせておけば一晩中でも言い続けそうな気がするけど)、シャーロックが何かと非常識な発言をするたびに、ワトソンが「シャーロック!」って名前を呼ぶだけで軌道修正させる手綱さばきもツボ。どツボ。ワトソンのピシャリとした口調もいいけど、シャーロックが叱られた犬みたいに素直に従うのもおかしい。
TVシリーズの方では、シャーロックの薬物依存については非常にマイルドな描写に抑えてあって、せいぜいタバコ、それすらもニコチンパッチで対応、という文科省も文句の言いようのない穏当なものだったりするんですが、本作では、ホームズの意識がヴィクトリア朝とリンクする仕掛けとして薬物による酩酊、という説明がなされているせいか、かなりシビアにかれの薬物依存の問題が描かれていたのも印象的でした。大事な友達や血を分けた弟に自分の身体をあんなに粗末にされたら、ジョンもマイクロフトもたまらない気持ちになると思うの。シャーロック、クスリはダメ、絶対(>_<)。
本編終了後は、もうひとりの共同脚本家であるマイクロフト役のマーク・ゲイティスによるキャストへのインタビューというステキなおまけもあって大満足でした。
シャーロックとマイクロフト、邪悪なのはどっち? というスティーヴン・モファットの問いに答えてゲイティス、躊躇わずマイクロフトと断言。マイクロフトがシャーロックを邪悪な側に導いている。では、より賢いのはどちら?
これはトリッキーな質問ですが、この際モファットが言い間違いだったのか何らかの意図があったのか、「どちらが」と尋ねるのに最上級を使った。なのでゲイティスがまず、「より賢い、方だよね、最も賢い、じゃなくて」と釘を刺したところでインタビューは終了しています。さて、回答はどっちだったんでしょ。それはファンそれぞれの心の中に。うまい編集だったのであります。
・SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁@ぴあ映画生活]]>
オデッセイ
http://kinoer.exblog.jp/22909788/
2016-02-23T17:33:00+09:00
2016-04-16T17:11:12+09:00
2016-02-22T17:32:11+09:00
shirakian
映画あ行
リドリー・スコット監督のアメリカ映画です。
原題は"THE MARTIAN"。
人類3度目の火星有人探査計画アレス3。そのミッション中に砂嵐に見舞われ、撤収作業に入ったところで、マーク・ワトニー飛行士(マット・デイモン)が事故で行方不明になってしまう。状況から生存を絶望視したクルーは、ワトニーを火星に残したままヘルメス号で地球へ帰還の途につく。しかしワトニーは奇跡的に一命をとりとめていたのだ。かくて、次なる探査計画アレス4のクルーが到着するまでの4年間を単独で生き延びようとする宇宙飛行士と、かれの生存を知り救出しようとする人々の、広大な宇宙空間を隔てた壮絶な戦いが始まる。
というお話なんですけれども、これってもう、好きすぎるテーマの好きすぎる映画でほんとに好きすぎた。好き。大事なことなので四回言いました。今年はすでに『クリード』とか『キャロル』とかの凄い映画を観たし、『ブリッジ・オブ・スパイ』とゆー、やはりツボどんピシャリの映画もあったし、第一まだ二月だし、今年最高を言うにはあまりにも早すぎるのですが、ああ、それにしても好きだぁ。
なにしろリドスコ監督ですからストレスのないスピーディな演出であっという間に物語は進んでいくんだけど、あとになってよくよく考えてみれば、それぞれのシーンに詰め込まれた圧倒的な情報量は眩暈がするほど。これをみんな咀嚼してよいとは。幸せってこういうことを言うのね。
ええと、とりあえず落ち着いて、登場人物がたくさんいる映画ですので、若干整理しておきたいと思います。
まずは実際に火星に行きて帰りしアレス3計画の6人のクルー。
●マーク・ワトニー飛行士(マット・デイモン)。植物学者。
●メリッサ・ルイス准将(ジェシカ・チャステイン)。軍人。指揮官。地質学者。
●リック・マルティネス少佐(マイケル・ペーニャ)。軍人。パイロット。
●ベス・ヨハンセン(ケイト・マーラ)。システムオペレーター。原子炉技術者。
●クリス・ベック(セバスチャン・スタン)。医師。生物学者。
●アレックス・フォーゲル(アクセル・ヘニー)。天体物理学者。化学にも強い。
そして、そんなかれらを支えるNASAのスタッフ。
●テディ・サンダース(ジェフ・ダニエルズ)。NASA長官。
●ビンセント・カプーア(キウェテル・イジョフォー)。火星探査統括責任者。
●アニー・モントローズ(クリステン・ウィグ)。広報統括責任者。
●ミッチ・ヘンダーソン(ショーン・ビーン)。フライトディレクター。
●ミンディ・パーク(マッケンジー・デイヴィス)。衛星制御エンジニア。
更に、ワトニー救出ロケットを飛ばしたJPL(ジェット推進研究所)のエンジニアたち。
●ブルース・ン (ベネディクト・ウォン)。JPL所長。
●リッチ・パーネル(ドナルド・グローヴァー)。若手研究員。
そしてかれらと協力してワトニーを救出する中国国家航天局の面々。
●グオ・ミン(エディ・コー)。主任科学者。
●チュー・タオ(チェン・シュー)。 副主任科学者。
孤立無援のサバイバルを余儀なくされたマーク・ワトニーですが、そこには前ミッションから残留保存されていた大量の資材や、次のミッションのためにあらかじめ送り込まれていたヴィークルなどもあり、何よりかれの頭脳の中には膨大な知識の集積があって、全くの徒手空拳というわけではないんですが、それにしたって単独サバイバルを想定した環境ではなく、ましてや4年もの歳月を生き延びるなんて、想定外というよりむしろジョークに近い。
だけどそんな中で、知恵と工夫の限りを尽くし、どうにもなりそうにない状況をなんとかしてしまうというその爽快感。わたしなんか二桁の足し算が覚束ないニンゲン(なのか?)ですので、科学者がやってのける科学的問題解決なんて、全てが魔法にしか見えないわけですよ。ってことは、これって、目くるめく魔術の饗宴を描いたマジカルランドの物語なわけですよ。面白くないハズないじゃない?
そんなレベルのニンゲン(なのか?)に言われたくないとは思いますが、火星におけるワトニーのサバイバルや、地球上での科学者たちのサポートに関する描写って、実際わかるひとがみたら色々問題もあるのかもしれないけれど、鑑賞していて、そんなマサカ、と気持ちが萎えるような描写が一切ないのです。全てフェアで合理的な解決に「思える」。それがいい。何よりもいい。
そしてもひとつ大事なことは、出てくる人々がみな、極めて強靭なパーソナリティの持ち主であるということです。無駄にメソメソと落ち込んだり、切れて暴言吐きまくったりするひとがひとりもいない。誰もがみな、そんなつまらないことに時間を費やしたりせず、文字通り命がけのワトニーにしろ、不眠不休のJPLのエンジニアたちにしろ、政治との板挟みで苦渋の選択を強いられる長官のサンダースにしろ、確実に今できることにフォーカスして全力で今できることをする。それが結局、結果に繋がっていく。これはほんとに凄いことだし、この上なく気持ちいい。
中でも特に、常にユーモアを忘れないワトニーのキャラクターがあまりにも秀逸で、この清々しい映画のトーンを決定しているのはやはりワトニーだし、そんなワトニーを説得力たっぷりに演じ切ったマット・デイモンは何と言っても当代随一の役者さんなんである。
そしてワトニーの健全なユーモア感覚とガップリ四つに組むマイケル・ペーニャのマルティネス操縦士がまたいい。ワトニーの生存を諦めて火星を離れてしまった後でワトニーが生きていたことを知らされたヘルメス号の乗員が、初めてワトニーと通信するシーンがあります。マルティネスが通信を担当したのは、マルティネスとワトニーが単なるチームメイトという以上の親友同士だったから。
そこでマルティネスは言うのですね。
「置いてきちゃってごめんよ、ほら、やっぱおれら、おまえのこと嫌いだし。それに第一、植物学者なんかいたって何の役にも立たないじゃん?」
それを聞いて(っていうかテキストを読んで)当のワトニーは怒るどころか受けまくってる。
ふたりの、そしてクルー全員の、ひいては宇宙なんぞに挑もうとする途方もないメンタリティーを持った科学者というクラスタの、関係性や特性が端的に表現された名シーンなんであります。
さきほどNASA長官のサンダースが「政治との板挟みで苦渋の選択を強いられる」と書きましたけど、それこそ天文学的な予算をつぎ込む巨大ミッションであるだけに、どの方面を向いてもプレッシャーが山積みであることは想像に難くないわけですが、中でも何よりこの火星探査に関わる情報を、NASAが一切包み隠さず逐一世界に向けて発信し続けた、ということが大きいのです。そのためサンダースは、ワトニーの死体がカメラに映ることにより、惑星探査に対する世論が変化することを恐れて遺体の回収すら嫌がったくらい。だけどそうは言っても、やっぱり隠蔽はしない。情報は世界と共有する。見上げたフェアな姿勢なわけです。
そんな公正さの最大の成果は、NASAが問題解決に中国の手を借りることができた点です。中国だって今やアメリカに勝るとも劣らぬ大国なわけですから自前の惑星探査計画ぐらい持っていて、もちろん火星探査だって準備おさおさ怠りない。なのでNASAが困っているのを知った中国国家航天局のグオ・ミン主任は首をかしげる。
「なんでアメリカは我々に援助を要請してこないんだ? 太陽神には火星に行くのに十分な燃料があるのに?」
それに対してチュー・タオ副主任が答える。
「うちに太陽神があること、知らないんじゃないですか? 極秘計画ですし」
なんかこの辺の大らかな雰囲気も凄く好きですね。中国をワルモノに仕立て上げず、科学に国境はなし、とばかりスムースに協力関係が構築されるのも嬉しい。そしてちょっぴり悲しいのが、この時アメリカを助けたのが日本じゃなかった、ってことっすかね。渡辺謙さんあたりに「種子島宇宙センターには火星に行くのに十分な燃料が」とか言ってほしかったんだけれどもねぇ。
ことほど左様に色々と好きすぎる映画だったんですが、唯一難を言えば、ジェシカ・チャステインが演じたルイス船長。この映画の中で唯一、ネガティブに感情的な言動をするひとだったので、もっと毅然としていてほしかったです。
撤収を決意したのもワトニーを置き去りにしたのも、全てはその時点での合理的判断によるものだったはずなのに、ワトニーがあんなことになったのはみんなわたしが悪いのよ、と悲劇のヒロインに酔ってる感じが鬱陶しかったし、火星軌道上でワトニーをキャッチする船外ミッションについても、当初予定では他のクルーがやることになってて、実際その予定通りで何の問題もなかったはずなのに、土壇場になって「やっぱりわたしがやるしかないわ!」としゃしゃり出てきたのも興ざめです。わたしがやるしかない、じゃなくて、やらなきゃわたしの気がすまない、でしょうが。そもそもが、安易に艦橋を離れる艦長というのが大キライ。艦長の任務は現場で危険を冒すことじゃない。事後に責任をとることだ。
あと、ショーン・ビーンがどうしてもNASAのひとに見えなくて困った……。フライトディレクターという職掌がいまいちよくわからなかった点もあるとは思うんだけど。や、この映画にショーン・ビーンが出てたのは大変嬉しかったし、思った以上に出番がいっぱいあったのも欣喜雀躍だったんですけど……やっぱりどうも、NASAのひとに見えないんだよなぁ。
最後にもうひとり、JPLの若手研究者を演じたドナルド・クローヴァーも面白い役でした。このひと、『マジック・マイクXXL』では綺麗な歌声を披露してくれたりもして、なかなかタレンティッドな役者さん。これからの活躍が楽しみですね。
・オデッセイ@ぴあ映画生活]]>
最愛の子
http://kinoer.exblog.jp/22869681/
2016-02-11T18:50:00+09:00
2016-02-12T12:38:10+09:00
2016-02-11T14:14:35+09:00
shirakian
映画さ行
ピーター・チャン監督の中港合作映画。
原題は"親愛的"。
中国に(限らず世界中に)蔓延する児童誘拐の問題を扱った社会派の映画ですが、監督がピーター・チャン監督ですので、単にドキュメンタリー風に突き放した目線で現実を描写するというより、個々の当事者に寄り添い、かつ特定の誰かを糾弾するといったことのない、温かい視線の映画だと思いました。
まずはallcinemaさんからあらすじを引用すると、
2009年7月18日。中国、深セン。 下町で寂れたネットカフェを営むティエンは3歳の息子ポンポンと2人暮らし。ある日、そのポンポンが何者かにさらわれてしまう。以来、ティエンはポンポンの母である元妻ジュアンとともに必死で捜索を続けるが、消息は一向につかめないまま時間ばかりが過ぎていく。そして3年後、2人は深センから遠く離れた農村でついに我が子を発見する。しかし6歳になったポンポンは、もはや実の親であるティエンとジュアンを覚えていなかった。彼が母親と慕うのは、誘拐犯の妻で育ての親であるホンチンだけだった。そのホンチンは、ポンポンは1年前に死んだ夫がよその女に産ませた子どもだと信じ、この3年間、献身的な愛情で彼を育ててきたのだったが…。(/引用これまで)。
子供を攫われた父と母、ティエンとジュアンを演じるのがホアン・ボーとハオ・レイ。誘拐された子供を育てた母親ホンチンを演じたのがヴィッキー・チャオです。
中華圏のトップ女優のひとりであるヴィッキー・チャオは、生き生きとした大きな目が魅力の大変大変かわいらしい女優さんですが、そのヴィッキーがほとんどノーメークで、中国最貧省と言われる安徽省の貧農を演じています。やぼったい衣装、垢抜けない立ち居振る舞い、無教養まるだしの話し方、世間を知らず常識を知らず追い詰められたら自分の身体を差し出すことくらいしか問題解決の術を持たない、存在それ自体が悲しいほどの女性なんですが、ヴィッキー・チャオはみごとにその女性を演じ切って大変高く評価されています。
そしてヴィッキーに留まらず、この映画は脇の一人にいたるまで、役者さんがほんとにすばらしいです。子どもを攫われた親という立場を演じたホアン・ボーとハオ・レイは言うに及ばず、子供を手放すまいと必死に食い下がるホンチンの味方になってくれたカオ弁護士を演じたトン・ダーウェイ、そして、ティエンらが参加した「子供を誘拐された親たちの互助会」の代表を務めるハンを演じたチャン・イー。みな忘れがたい存在感を放っていました。
映画は前半と後半で視点人物が変わります。前半は子どもを取り戻そうと奮闘するティエンの視点で、後半は自分が育てた子を手放すまいとするホンチンの視点が主になります。
誘拐した子を手放すまいとするなど理の通るはずもないのですが、実際に子どもを誘拐したのはホンチンではなくその夫であり、ホンチンは「おまえが不妊症だからよその女に生ませた」という夫の説明を信じて疑っていなかったのです。そしてその夫は、ティエンの子、ポンポンの下にも、もうひとり女の子を連れ帰っていたのですが、そちらは正真正銘身寄りのない捨て子だったのです。後半、ホンチンが手放すまいとするのは、ポンポンではなくこの女の子の方。さすがに実の親の手に帰ったポンポンのことはあきらめざるをえなかった。
「よその女に生ませた」が夫の嘘だったのと同様、「おまえが不妊症だから」も同じく夫の嘘だったのに、ホンチンはどちらも疑うことなく信じてしまった。まともに教育を受けたことがない彼女の人生は、恐らく同様に無批判無定見に他人の言うことを信じることの繰り返しで、そのために様々な局面で踏みにじられ続けてきたにもかからわらず、それが不当で悲惨なことであるということに気づくことすらできなかったのであろうことは容易に伺われます。
それもひとえに貧困のゆえです。ホンチンは安徽省の農民ですが、誘拐されたポンポンが見つかったのが「安徽省だった」と聞いた瞬間、誰もが思わずああ、と慨嘆することを禁じえないように、そこは深センとは同じ国同じ時代とは思えないほどの格差のある最貧の土地です。
物心もつかない3歳で誘拐され3年にわたってそこで暮らしたポンポンは、実親に発見された時、室内で唾を吐き、トイレもまともに使えない子どもに育っていました。それは何もポンポンが虐待されていたからではなく、その土地のその境遇の子どもたちはみなそのように育っているからというに過ぎないのですが、そんな風に育ってしまった子どもが、かりに何かの僥倖で高等教育を受けられるようになったとしても、北京や上海や深センで、当たり前のように「文化的環境」に恵まれてきたほかの子どもたちと伍していくのがどれほど困難なことであるか、貧困がどれほど過酷なハンディキャップになってしまうか。いや、そもそもそれ以前に「何かの僥倖」が起こってかれらが互角のラインにつけるということ自体、ほぼあり得ないことなわけですが。
この映画ではまさに通奏低音のように「貧困」という問題が繰り返し相貌を変え語られていきます。子どもたちが誘拐されるというおぞましい犯罪が後を絶たないのも、貧困が要因である確率が極めて高いのです。誘拐それ自体もそうだけど、子供を誘拐された被害者に対して、情報提供を装った詐欺行為で金をせしめようとする、あまりにもあさましい輩が大勢いる。
藁にもすがる思いのティエンのところにも、そうした連中がひっきりなしに接触してくる。ある時など、情報提供者への報奨金を用意して引き渡しに出向いたティエンが、直前になって詐欺に気づき、間一髪で逃げ出そうとするのを、金を寄越せと執拗に追いかけてくる。ティエンとて、深センで暮らしているからと言って裕福なわけでは全くなく、事業に失敗し、それゆえ夫婦仲が破綻し、爪に火をともして暮らしているのです。ようやくかき集めた金をみすみすとられるわけにはいかない。なぜならその金はあくまで息子をとり戻すために使わなければならないからです。
なんなんだよ、もう、おまえたちみんなよう!(你们都是什么人!?)
繰り返し繰り返しそんな連中に付きまとわれて、心身ともにヘトヘトになっていたティエンが半泣きになって叫ぶ気持ちが痛いほどによくわかる。
だけどそれすらも、虚しい探索に一年経ち二年経ち、何の情報も得られなくなった孤独に比べればずっとマシだと、後にティエンは「子供を誘拐された親たちの互助会」の会合で語ります。
互助会が成り立つほどに同じ体験をした親が大勢いるということにまず慄然としますが、そこで語られるひとりひとりの体験がまた、深く胸に突き刺さる。親が子を亡くすということがどれほど耐え難い痛みであるか。それが事故や病気であっても容易に諦められるものではないのに、ましてや他人に誘拐されるだなんて。
金ほしさの誘拐が成立するのは、子がほしくても得られない人々が大金を払っても子を買おうとする現実があるからであり、そうまでして子を手に入れようとする背景については、欧米とはまた違った中国特有の事情というものがある。ホンチンの夫が誘拐に手を染めてしまったのも、金がほしかったからではなく、子種を持たず子孫を残せない男の、家名を絶えさせることへのどうしようもない思いがあったからではないかと思われるのです。家名だなんて、残す財産のひとつもない、寒村の貧農に過ぎないというのに。
そして児童誘拐で恐ろしいのは、攫われた子どもたちの行く末が「子供がほしい裕福なカップル」であるとは限らないということです。労働力として連れ去られたのならまだまし、女の子であれば性奴隷的要員である可能性もあるし、ヘタをすれば臓器目的の誘拐であったかもしれない。
攫われた子どもは死んでいない。どこかできっと生きている。しかし生きているかもしれないそのことが、それはそれでまた、必死に探す親たちを傷つけてしまう。
幸いティエンは3年で息子に再会することができましたが、互助会を主催するハンは6年捜しても徒労に終わり、ついに第二子をもうけることを決意しなければならなくなります。それはどこかで必ず生きているはずのかけがえのないわが子を見限る行為であり、共に希望を繋いできた互助会のメンバーを裏切る行為であり、ハン本人がまず納得も容認もできない行為なのに、それでも生き続けていく上で、そうせざるをえなかった苦渋の選択だったのです。このひとの苦悩の描写が、ティエンのそれとはまた異なる色味があり、まさに壮絶でした。
こうした互助会というのは、たとえば難病を患う子を持つ親たちの会、といったような形で、アメリカの映画でもよく見かけることができます。誘拐被害者の互助会のひとたちが掲げる「わたしたちがわたしたちの苦悩を引き受けることで、この世にある苦悩を少しでも減らすことができますように」というスローガンは、キリスト教社会の思想にも通じるものがあって、こうした会合はどこも基本的に同じなのだなと思いますが、悲しみにくれる参加者を慰めるたの応援の儀式だけは、かなり厳しいと思いました。応援団のエールというかラグビーのハカというか、みなで声を揃えて叫ぶのですね。
鼓励! チャチャチャ! 鼓励! チャチャチャ! 鼓励鼓励! チャチャ!
この状況でこれやられると、わたしだったら心が折れる……。
ほんとに、自分だったらと思うと、どんどん自分の内側に閉じこもって自滅してしまう未来しか見えないので、根気強く闘い続けたティエンやジュアンはじめ互助会の人々の姿には胸を打たれるのです。
しかもティエンはホンチンに対して決して冷酷な態度をとらない。この状況で考えられる限り最高に温かい対応をする。それはエンディングで紹介される、ティエンのモデルになった実在の人物が、後にホンチンのモデルになった人の家をわざわざ訪れた、というエピソードなどから伺われるかれの人柄もあったのでしょう。ホアン・ボーの笑顔が実によいのです。
・最愛の子@ぴあ映画生活]]>
白鯨との闘い
http://kinoer.exblog.jp/22841662/
2016-02-05T19:34:00+09:00
2016-04-01T10:01:58+09:00
2016-02-02T19:21:22+09:00
shirakian
映画は行
ロン・ハワード監督のアメリカ映画です。
原題は"IN THE HEART OF THE SEA"。
メルヴィルの『白鯨』の映画化ではなく、メルヴィルが『白鯨』を執筆する際にインスパイアされた実在の海難事故をもとにした映画です。「白鯨」も出てはくるけどモビー・ディックという名前ではないし、エイハブ船長は出て来ません。
原題の原義は"the heart of the city"というのが「都心」という意味になるのとおんなじで、「海の真ん中で」といったニュアンスなんだと思いますが、だとすると映画の内容から言って、邦題的には「海洋のはらわた」あたりがピッタリくるカンジ。『戦争のはらわた』『死霊のはらわた』と合わせて「はらわた三部作」として売り出……すのはいくらなんでも無理がありますが、ガッツリ「はらわた」呼びしたいぐらい底知れぬ海の迫力が横溢した映画なんであります。
1850年、ハーマン・メルヴィル(ベン・ウィショー)は、次回作の執筆のために30年前に起きた捕鯨船エセックス号の海難事故を取材すべく、最後の生き残りであるトム・ニカーソン(ブレンダン・グリーソン)を訪ねる。1819年、当時14歳だった孤児のニカーソン(トム・ホランド)は、一日も早く自立したいという思いで捕鯨船エセックス号に乗り込んだ。出港地は捕鯨船のメッカ、ナンタケット島。
鯨油で潤い、鯨油だけが富を生むこの島では、捕鯨に関わる人間だけが一級市民とみなされ、農夫その他、土地に縛り付けられて生きている人間は軽蔑の対象となる。ニカーソンが乗り込んだエセックス号の一等航海士オーウェン・チェイス(クリス・ヘムズワース)は経験豊富な優秀な捕鯨船乗りで、今航海では船長に抜擢されるはずだったのに、農夫の父を持つ出自故に、名門捕鯨一家の出であるジョージ・ポラード(ベンジャミン・ウォーカー)に船長の座を奪われてしまう。
ろくな経験もないまま船長という重責を担うことになったポラードは、激しいプレッシャーに悩み、堂々たる体躯の偉丈夫にして仕事に熟達し乗組員たちからの人望も厚いチェイスへの嫉妬や劣等感から、不安定な精神状態。一方のチェイスもまた、本来自分のものだったはずの地位を奪われ、ど素人の船長の不合理な命令に従わなければならない屈辱と、ポラードの姑息なやり口に対する苛立ちを抱え、やはり一触即発の状態。
ふたりが激突せずに済んだのは、ひとえにチェイスの幼馴染にして大親友、頼もしい捕鯨船乗りであるマシュー・ジョイ(キリアン・マーフィー)の冷静にして公平な仲裁があったればこそ。ジョイ、いい仕事しました。
そんなエセックス号の航海の、前半の目玉はなんと言っても捕鯨のシーンです。一言で言うならあまりにも無謀。ほんとにこんなんで産業として成り立っていたのかと開いた口が塞がらないくらい。だいたい、捕鯨船自体が今の感覚からするとあり得ないくらい小さな船で、こんな船で数年にもわたって帰港せずに航海を続けた、というのも驚きなら、いざ鯨を仕留める際には、ほんの小さな手漕ぎのボートで繰り出して、素手で、素手で銛を撃ちこむ。まさに腕力勝負の蛮人の所業。このシーンはちょっと『シーウルフ』のアザラシ猟の描写を彷彿とします。
鯨に打ち込んだ銛から伸びるロープが、鯨に引きずられてグングン沈んでいく、鯨が息絶えるのが先か、ボートが引きこまれるのが先か、そのタイミングをギリギリのところを見計らってロープを調節する手に汗握る瞬間。経験と勘と度胸だけが物を言う世界。
そして仕留めた鯨の処理の仕方。血を見てワッと寄ってくるサメたちを蹴散らせつつ、分厚い鯨の脂肪層をぶつ切りにし、油を搾る。特にマッコウクジラの頭部に潜り込んで脳油を採取する描写は、これぞまさに、あなたの知らない世界。
この解体の場面もそうですが、当時の捕鯨基地であるナンタケット島の雰囲気やビジネスの仕組みなど、未知の情報に触れられる喜びというのは大変大きいのです。ただ惜しむらくは、エセックス号は結局この一頭しか鯨を仕留められなかったので、鯨を解体するシーンも必要最低限しかなくて、実はちょっと物足りなかった。このシーン、匂いがついてたらヤだけど、もうちょっと色んな角度から色んな作業を見たかったよね。
さてそしてエセックス号は、いよいよ白鯨と対決します。戦果が得られず焦っていたエセックス号は、寄港した港でスペイン人の船長に白い鯨の噂を聞くのです。曰く、アラバスターのように真っ白な全長30メートルの怪物、と。
実際に直面した白鯨は、期待したほどまっ白ではなく、ボロボロに傷ついた古傷だらけの巨体。歳月に削られて白化した歴戦の勇士だったのでした。長年群れを守り、外敵と闘い、生き延びてきた、恐らく高齢の鯨。
最初の捕鯨シーンを見て実はとても不思議に感じたのが、なぜ鯨は銛が打ちこめるほどボートが近づくことを許したのか、ということでした。なんと言っても手漕ぎボートと鯨では鯨の方が圧倒的に速いはず。ボートを見かけたらすぐスタコラ遠ざかってしまえば絶対人間ごときにやられるはずがないのに。
片や人間ときたら、泳げてせいぜい数十キロ、潜れてせいぜい数分の、極めて脆弱でちっぽけな生き物です。そのちっぽけな生き物が自信満々で鯨に攻め寄せていき、実際鯨を仕留めてしまう。なんかそれって理不尽。
そう言えば、最終的に故郷に戻ったエセックス号の乗員たちに対し、島のお偉い衆は緘口令を敷きます。鯨にやられたなんて絶対言うな。そんなことが知れ渡ったら捕鯨産業が大打撃を受ける。そのくらい、当時鯨は「無害」な生き物と思われていた。逃げもせずましてや反撃なんかするはずもなく、みすみす人間の手にかかってやられていた。あんな小さな捕鯨船で、絶滅近くまで激減するほど殺されまくっていた。
だけど白鯨は、攻撃する鯨だったんです。鯨が無害だなんて、とんでもない。そんなの人間の思い上がりも甚だしい。マッコウクジラが人間が害獣であることを認識し、叩き潰そうと思ったら、それこそ赤子の手をひねるがごとし。白鯨は一撃でエセックス号を粉砕したのみならず、ボートで逃げ延びたクルーたちを何か月も追尾して、生きるか死ぬかの極限状態に追い込まれたクルーを嘲笑うかのように、ボートの真横に浮上してきた。
手を伸ばせば触れることができるほどの近くに現れた白鯨に、しかしチェイスは銛を打ちこむことができませんでした。この状況で銛を打ちこんだからとて仕留めることができたとは思えませんが、しかし一矢を報いることもできなかった。銛を掴んだチェイスの手は完全に止まってしまったのです。
それは恐らくかれが畏怖の念に打たれたから。
『白鯨』の物語におけるエイハブ船長の執念を知る観客は、ここであっさり手をひくチェイスの姿に一瞬虚をつかれるのですが(そして結局、チェイスが捕鯨船に乗ることをやめてしまうという結末からも)、白鯨という荘厳な生き物に対する、そしてひいては海という広大な世界に対する、あるいは天然自然という人間にはどうしようもない巨大な存在に対する畏怖の念が、その謙虚におののく心が、かれらを生き延びさせたのだと思うと、監督の主張が奈辺にあったのかは自ずと明らかであるように思います。
しかし、アメリカが捕鯨をやめたのは、鯨というアメージングなクリーチャーに対する畏敬の念なんかが理由じゃもちろんないわけで、鯨油に代わってより安易に手にいれることができる石油を見つけたから、というにすぎません。
メルヴィルに対する口述を終えたニカーソンが(それは人肉食の体験をも含む、あまりにも過酷な漂流の物語でもあった)、メルヴィルを見送りながら、最近じゃ地面から油が採れるんだってな、と感慨深げにつぶやくシーンが印象的でした。あれほどまでに過酷な労働の果てに、あれほどまでに命の危険を冒し、あれほどまでにすばらしい生き物の命を犠牲にして、そしてようやく手に入れていた油を、なんと地面から掘り出すことができるようになってしまったというその皮肉。ニカーソンの胸中にはどんな思いが渦巻いていたことだろう。
人間は油を手に入れるためなら何でもする。何よりそれは富を約束するものだから。石油のためなら喜んで(自分以外の)血も流すし、環境も破壊する。鯨を殺すことをためらわなかったのと同じくらい、石油のためなら傍若無人に何でもやってのける。難癖をつけてイラクへも攻め込むし(たとえば『グリーンゾーン』)、中東の石油より安上がりなシェールオイルが手に入るようになると地下水を汚染するのも平気(たとえば『プロミスト・ランド』)。……あら、どっちもマット・デイモンなのね。
人間の欲望にはキリがない。鯨を保護せよは、鯨はもう必要ないと同義でしかない。そして鯨からしたら、そんな人間の都合など、知ったことではないのです。大海原の真ん中で、人間はあまりに小さくて弱い。そこで頂点に立つのは鯨の方なのです。
・白鯨との闘い@ぴあ映画生活]]>
パディントン
http://kinoer.exblog.jp/22828954/
2016-01-31T19:14:00+09:00
2016-02-14T18:50:24+09:00
2016-01-29T22:23:09+09:00
shirakian
映画は行
ポール・キング監督のイギリス映画です。
原題は"PADDINGTON"。
この映画を楽しめるかどうかは、パディントンという熊がどのくらいデフォルメ、あるいは擬人化されているかにかかっている、と思っていました。やたらと大きな目だとかバサバサのまつ毛だとか表情豊かな眉毛だとか、動物の顔がそんな風に表現されているのをわたしはかわいいと思えませんので、もしパディントンがそんなんだったら楽しめないだろうな、と思ったし、「人間の言葉を話す熊」というのが前提ですからパディントンがある程度擬人化されているのは当然のことだとしても、その擬人化がどっちのベクトルに向かっているかによってまた、楽しめなくなるな、と思っていました。
結果。
うん。パディントン、かわいい。涙が出るほどかわいい。実際泣いた。かわいすぎて泣いた。
極めてリアル寄りなビジュアルデザインも素晴らしいですが、声をあてているのがベン・ウィショー。この、ウィショーの声が、も、の、す、ご、く、かわいい。信じられないくらいかわいい。ヘッドロックしてグリグリしたおしたいほどかわいい。今まで声にだけフォーカスしたことがなかったのでこんなにかわいい声だったなんて全く気付いていませんでした。
昔々、ペルーの奥地を訪れたイギリスの探検家が出会ったのは、人語を解する熊の夫婦(イメルダ・スタウントン&マイケル・ガンボン)だった。すっかり打ち解けた両者は楽しい時を過ごし、帰国の際、探検家は夫婦の歓待のお礼に、自分の帽子とマーマレードを置き土産にする。「何かあったらロンドンにいらっしゃい、あなたたちが棲む家を提供しよう」という言葉と共に。
それから幾星霜、熊の夫婦は甥っ子(ベン・ウィショー)を引き取り、仲良く三人で暮らしていたが、ある日大きな地震が起こり、家は倒壊、おじさんは下敷きになって亡くなってしまった。これこそ探検家の言う「何かあった」時だと、おばさんは熊の子を連れてロンドンを目指す。
ひとりペルーに残った高齢のおばさんと別れ、単身ロンドンに渡った熊の子は、ロンドンの大きな駅で途方に暮れてしまう。おばさんは、「この国は助け合いの心がある国、かつての大戦中、迷子札を首にかけた子どもたちは、善意の大人に引き取られて行ったもの、おまえもきっと優しいひとがひきとってくれる」と言っていたのに、足早に駅を歩く人々は熊の子なんぞに目もくれない。しかしそんな中で、熊の子の存在に、そしてその迷子札に気づいてくれたのがブラウン夫人(サリー・ホーキンス)だった。
という物語で、今この時期、何よりも鋭く胸を突き刺すのは、確かにそれが得られるかどうかもわからない、見知らぬ他人の善意を頼りに、命を賭して、長い長い旅路の果てに、異国の地を目指す、幼い命の物語であるということです。言うまでもなく、これはもう、そのまんま今のシリア難民の物語です。
そういう視点で見ると、おばさんと二人、広大なペルーの大河を小さなカヌーで漕ぎ抜き、見知らぬ港で見知らぬ船に乗り、気候も植生も言葉も何もかもが違う異国の地に、たったひとりで降り立ったパディントンの心情を思うと、それだけで胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちで、最初から泣いてしまいます。なによりあの迷子札、反則だよ。
もちろんパディントンは熊だから、必要以上に悲劇ぶったり悲観したりはしないです。大きな船の中、安全に隠れていられる場所は確保した。食料なら古いトランクいっぱいのおいしいマーマレードがある。座っていればロンドンに着ける。ロンドンに着いたら誰かが「家」に連れて行ってくれる。パディントンは熊らしく、飄々と淡々と堂々と苦難を乗り越えていきます。しかしそれでも、パディントン、子どもだし、何にも知らないし、孤独だし、なによりロンドンは遠いし、あまりにも故郷から遠いし。
そんな風に100%パディントンに感情移入して見守る観客にとって、パディントンを受け入れてくれたブラウン夫人の無邪気な善良さは、この上なく嬉しい。困っている人がいたら、それが小さい子どもだったら尚更のこと、手を差し伸べずにはいられない、その善良さ、優しさ、そうした美質をごく当たり前に持っているブラウン夫人は、もしかしたらパディントン以上にリアリティのないお伽噺のキャラクターなのかもしれません。だがしかし、それがいい。そうれなければならない。
また、この話の発端となった探検家も、ペルーの奥地を探検に行くのに、ポーターにピアノまで運ばせるあたり、鼻持ちならない上流階級人士であるのかと思いきや、実は帰国後、珍種の熊を捕獲に行かん、と色めきたつ同朋たちを押しとどめ、それゆえ学会から存在を抹消されてしまっても決して節を曲げなかったという、正真正銘善意のジェントルマンだったことが明かされる展開も最高です。
だけど、なんですね。探検家の善意は、探検家の娘にとっては、恐ろしい挫折の始まりであり、そのため娘の心にわだかまった"unfinished business"が、パディントンを大変な騒動に巻き込むことになってしまう。
この娘、ミリセントを演じたのがニコール・キッドマン。ファミリー・ムービーの悪役ですから、『101』のクルエラみたいなデフォルメのきつい、ある意味狂ったキャラクターなんですけど、最近のキッドマンは、なんかこう顔がこわばった感じで微妙な表情が出ないなぁ、という印象があるんですが、それが逆に功を奏して、ロボットめいた血も涙もない狂人、という役柄にぴったりマッチしています。怖いけど綺麗。綺麗だけど怖い。そんな綺麗なキッドマンがミッション・インポッシブルのパロディみたいなアクションを決めてみせるのもご愛嬌。
あとはもう、美術がステキ。ロンドンの街の描写がステキ。ブラウン家のインテリアがステキ。ミリセントが働く博物館もステキ。こういう映像が観られるのは本当に至福ですのよ。
最後にふと思うのは、パディントンを育てた熊夫妻は、パディントンの実の両親ではないんですよね。実の両親はどうしちゃったんだろう。何があって亡くなってしまったんだろう。そう言えば、夫婦共に仕事をもっているブラウン家で主に家政を切り盛りしているバードさん(ジュリー・ウォルターズ)も、しっかり家族の一員ではあるんだけど、ブラウン夫妻のどちらかのお母さん、というわけではないのよね。ここでも何があったのかなぁ。何気に孤独の影が差してる。
・パディントン@ぴあ映画生活]]>
ブリッジ・オブ・スパイ
http://kinoer.exblog.jp/22811686/
2016-01-26T20:11:00+09:00
2016-02-09T18:35:08+09:00
2016-01-24T21:53:28+09:00
shirakian
映画は行
米ソ冷戦時代に行われたスパイ交換の実話に基づく映画。監督はスティーヴン・スピルバーグ、脚本はコーエン兄弟、主演はトム・ハンクス。
原題は"BRIDGE OF SPIES"。
allcinemaさんからあらすじを引用すると、
米ソ冷戦下の1957年、ニューヨーク。ルドルフ・アベルという男がスパイ容疑で逮捕される。国選弁護人として彼の弁護を引き受けたのは、保険を専門に扱う弁護士ジェームズ・ドノヴァン。ソ連のスパイを弁護したことでアメリカ国民の非難を一身に浴びるドノヴァンだったが、弁護士としての職責をまっとうし、死刑を回避することに成功する。5年後、アメリカの偵察機がソ連領空で撃墜され、アメリカ人パイロットのパワーズがスパイとして拘束されてしまう。アメリカ政府はパワーズを救い出すためにアベルとの交換を計画、その大事な交渉役として白羽の矢を立てたのは、軍人でも政治家でもない一民間人のドノヴァンだった。交渉場所は、まさに壁が築かれようとしていた敵地の東ベルリン。身の安全は誰にも保証してもらえない極秘任務に戸惑いつつも、腹をくくって危険な交渉へと臨むドノヴァンだったが…。(/引用これまで)。
ドノヴァン弁護士がトム・ハンクス、ソ連のスパイ、ルドルフ・アベルがマーク・ライランスです。結論から言って、わたしこの映画、好きだなぁ。
ひとつにはやはりスピルバーグ。
インディーズ系の低予算映画や新人監督のデビュー作などに、物凄い新しい才能の煌めきを発見して震えるほどの喜悦を感じる、いわゆる「サンダンスの閃光」現象もすばらしいものですが、超大物監督による横綱相撲でしか見ることのできない映画というものもある。
時代の雰囲気を再現することひとつにしても、細部まで破綻のない安定感のある描写によって瞬くうちに観客を「あの時代」に引き込む映画的マジック、端役のひとりひとりに至るまで、実際にそこにいてそのように行動した人、として認識させる演出の手腕とヒューマンリソース。間違いなくサスペンスを盛り上げていく狂いのない采配。映画って楽しいなぁ、楽しいなぁ、こんなん観れて幸せだなぁ、と思わせる匠のお仕事です。
ふたつにはやはりコーエン兄弟。
映画の命は脚本だと思う。3Dだの4Dだの何が出てきて劇場がどう変容しようと、脚本がダメならダメな映画にしかならない。何よりもいいなと思うのは、コーエン兄弟の脚本には常に上質のユーモアがあるということ。ユーモアは、もしかしたら、スピルバーグは苦手の分野かもしれない。コーエン兄弟を得られていなければ、この映画はもっと息苦しい映画になっていたかもしれない。
たとえばキャラクター描写ひとつとっても、トム・ハンクス演じるドノヴァンという弁護士は、大変高潔な人物として描かれているので、普通だったら多少権高い印象になってしまったかもしれないところ、コーエン兄弟が描出するドノヴァンには、「酒好き」という愛すべき特徴があったりする。
酒好きと言っても別にアル中寸前の飲んだくれ、とかそういうわけではなく、ドノヴァンはほんとに美味しいお酒が好きなんだね。自分が弁護することになったソ連スパイが死刑にされることのないよう、判事の自宅に助命嘆願に訪れる、というような場面でも、判事の妻が酒を勧めてくれれば、全然時間のない中、ありがたくいただいてしまう。しかも自分の好みの飲み方をちゃっかり伝えて。東側の手強い交渉相手のオフィスでも、いい酒を出されると、相手が話をしている隙にクイと飲み干しちゃって、おかわりを催促する。別の場面でも、グラスを渡された瞬間邪魔が入っても、一瞬の隙をついて味見しちゃう、などなど、とりあえずいい酒を飲めるチャンスは逃さない、という描写が、映画全体に大変ユーモラスな雰囲気を与えると同時に、ドノヴァンという人間への親しみや共感を感じさせることに成功している。
そしてまた、練り上げられた台詞の数々。後に映画台詞のクラシックとして語り継がれていくのではないかと思われるレベルの台詞が、いくらでも散見されるその楽しみ。同じことを語るにしても、貧弱な語彙で語られるより洗練された言葉で語られる方が、千倍も楽しい。
最後に三つめにはやはりトム・ハンクス。
それはまた脚本と演出の合わせ技でもあるのだけど、この映画のトム・ハンクスを見ると、「気高い」という印象を受ける。
うん。こんな政治的な題材の映画で、しかも、アメリカ人がアメリカ的価値観で描いたアメリカよりの映画で、しかもしかも演じるのはアメリカ的良心を代表するトム・ハンクス、演出はスピルバーグ、こんな映画で「気高い」などと言うのは、あまりにチョロ過ぎる。と言われても仕方ない。
ドノヴァンは、弁護士としてとても原理原則に忠実なひとなわけですね。そこを曲げない故に「信念のひと」という印象になるけれど、見方によっては融通のきかない人情味のないひと、という印象にもなりかねない。そんな一面が映画冒頭、ドノヴァンの日常的仕事っぷりを説明するシーンで描かれています。
かれはもっぱら保険関連の弁護を専門に行う弁護士だったわけですが、被害者側の代理人と自動車事故に対応する保険の交渉を行っている。どうやらその事故は、一件の事故で5人が怪我なり死亡なりした事故であるらしく、被害者側としては個別の補償を求めてくる。しかしドノヴァンは、事故が一件である以上、あくまでそれはひとつの事案として扱うべき問題で、個別対応などありえない、とつっぱねる。「一件なんだよ、一件! 一件!」この、"One,one,one!" と繰り返すかれの口癖は、その後、節目節目でそれぞれ異なる意味合いで実に効果的に使われていきます。
たぶん、法律の細目や契約の詳細を見ればドノヴァンの主張の方が正しいのだろうということはわかる。けれどあまりにも揺るがないその主張は、まさに「取り付く島もない」といったもので、弱者の気持ちなど忖度しないエリート、という人間像を感じさせる。
しかしかれが曲げないのは、相手が弱者だからではなく、相手が誰であれかれは曲げないのですね。そしてその規範は、個人の信念などと言った曖昧なものではなく、あくまで憲法におかれたものなのです。
憲法の意味、そこで語られる基本的人権の意味、思想信条も主義主張も出自も環境も文化的背景も教養の度合いも悉く異なるあなたやわたしが、同じ一つの国民として立脚できるその所以はただひとつ、同じ憲法に守られている存在だからである。憲法というのはそれぐらい重い。
それ故、かれの揺らぎなさは、相手が敵国のスパイであろうと変わらない。守られるべき人権は守られなければならない。さきの戦争の傷も未だ癒えず、来るべき核の脅威が真剣に懸念される世相の、集団ヒステリーじみた敵対的空気の中にあっても、ドノヴァンはソ連人スパイ、アベルが不当に扱われてはならないと考える。その考えは、時代の雰囲気とは相いれない故に、かれのみならずかれの家族までもが命の危険に曝されてしまう。それでもかれの信念は揺らがない。
そしてそのことはまた、頭蓋に軍事機密を詰め込んだ米軍パイロットだけでなく、不幸な偶然により東ドイツに拘束されてしまった一学生フレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)の身を案じる気持ちにも及ぶのです。捕虜交換という政治劇の場では無価値どころか交渉の邪魔ですらある学生であっても、ドノヴァンにとっては守られるべきアメリカ市民であり、しかもかれは(熱心だけどちょっぴり頼りない)自分の助手と同世代のまだほんの若者なのだから。
かれの行動に気高さを感じるのは、その行動の根底にこのような信念があるからですが、その一方でかれは決してナイーブな理想主義者などではなく、極めてしたたかなネゴシエーターである。なんともそれがいい。
建前上、この捕虜交換には政府は関知せず(そのためあくまで一民間人としての立場のドノヴァンは、政府関係者が利用するホテルを使うことができず、ろくに暖房もきかないボロ家を根城に交渉を行わななければならなかった)、しかも、ほぼ等価交換が成立する米ソの「スパイ」のみならず、巻き込まれた学生を含めた二対一の交換を成立させなければならない綱渡りの交渉です。はたから見ればほぼ不可能事に思われる。
しかし、ぬらりくらりと実態を掴ませないソ連に対しては、「ここでアベルを見捨てれば、次に米国に捕まったスパイはあっさり機密を売り渡すようになるだろう」と脅し、アメリカに主権国家として認めさせようと躍起になっている東ドイツには、「おまえらの横槍のせいで交渉が失敗したら、ソ連はどう思うだろう?」と脅す。相手が一番言われたくない脅しどころを見事に抑えた恫喝者の鑑。これぞ外交交渉。まことに惚れ惚れするのであります。
国と国とが人命を浪費しつつ武器で闘うなんてあまりに馬鹿げてる。そんなこと誰でも知っている。ほんとならそうならないように、国家間の利益対立やわだかまりを交渉で解決する方が賢明であり人道的であり何より安上がりだ。だからほんとにエキサイティングなのは、武器を使った戦争ではなく、交渉人による外交交渉なのです。この映画は、その一番面白いところを存分に見せてくれました。これはおいしい。
ことほど左様に、さすがトム・ハンクスな映画なんですが、実はしかし役者で言えば、アベル役のマーク・ライランスがすばらしいのです。敵国のスパイという立場ながら、品位と教養を感じさせる全てを達観した男の、なんとも味わい深い佇まい。一体これほどの名優が今までどこに隠れていたのかしら。『ブーリン家の姉妹』なんかにも出ていたらしいのだけど、全然存在に気づかなかったわ。本作の演技で世界的に絶賛されている模様ですので、恐らくこの後、クリストフ・ヴァルツみたいに遅咲きのブレイクを果たして引っ張りだこになるのではないかと思うのですが。
あと、映画のラストで、実在のジェームズ・ドノヴァンは、この人質交換を成功させた後、キューバ相手の交渉で数千人の命を救った、というテロップが流れたのが気になって気になって。なにそれ、凄い、面白い! 是非是非続編として同じキャストで観てみたいものです。
・ブリッジ・オブ・スパイ@ぴあ映画生活]]>
クリムゾン・ピーク
http://kinoer.exblog.jp/22797172/
2016-01-21T17:45:00+09:00
2016-03-13T17:44:17+09:00
2016-01-20T18:23:22+09:00
shirakian
映画か行
ギレルモ・デル・トロ監督のアメリカ映画です。
原題も"CRIMSON PEAK"。
幼いころに母親を亡くし、富豪の父親カーター・カッシング(ジム・ビーヴァー)に溺愛されて育ったイーディス(ミア・ワシコウスカ)は、世間知らずのお嬢さんなりに作家を志していた。ある時、父親の下に資金援助を求めて現れた英国の没落貴族トーマス・シャープ(トム・ヒドルストン)と出会い、熱烈に求愛された結果、経験値の浅いイーディスはコロリと恋に落ちるが、世間知に長けた父親はトーマスに胡散臭いものを嗅ぎ取り、探偵に調査を依頼する。その結果を踏まえ、トーマスを追い払おうとしたカーターは、しかし何者かの手によって惨殺されてしまう。莫大な遺産を相続したイーディスは、トーマスと結婚し、英国にあるかれの領地でトーマスの姉ルシール(ジェシカ・チャステイン)と3人で暮らし始めたのだが。
というお話は、まずは上出来の幽霊譚です。
ニューヨークの生家に現れるイーディスの実母の幽霊は、死んだ後も尚娘の身を案じて警告を発するために現れるのですが、なにしろ死因が黒死病だっただけに、その姿はおぞましくもあさましく、陰影に富んだ古い建物の長い廊下や凝った造りのドアなどとあいまって、思わず笑いが漏れるほどの恐ろしさ。……あんまり怖いと笑ってしまうっていうのもアレなんだけれども、だってトロ監督の演出がね、幽霊の姿かたちのみならず、出現するタイミングとか、現れ方とか、現れた時の行動とか、なにもかもが完璧にツボにはまったお手本のような幽霊描写なわけで、もうこれは笑うしかないんですのよ。
そして更に、没落貴族の居城に現れたシャープ家ゆかりの幽霊たちの描写。これが、これがまた、広大で壮麗な古城だというのに、その実態は天井が抜けて雪が積もるホール、長年にわたる掘削の結果液状化した赤土が滲み出る床、その荒涼たるさまを嘆くかのように、贅を尽くした往年の栄華の残滓にあふれた見事な細部、そのようなザ・ゴジックなロケーションに現れる、クリムゾンのゴーストたち。あああ、もう、うっとりです、あまりに怖くてうっとりしてしまう恐ろしさです。……って、どうも、感情の発現に問題があるような気もしますが、うん、とにかくそのビジュアルは圧倒的に素晴らしい。
ただね、残念なことにね、この映画って実は幽霊が主眼の話じゃないのね。「結局一番怖いのは生きた人間」という話なんですよ。ホラーというよりサスペンスなの。そして、サスペンスとして見ると、話の運びが凡庸な上に、あちこちにご都合主義が目についてしまって、あまり乗れない。
犯人は誰か、動機は何か、どういう手口が用いられたのか、という殺人物の基本描写が全てお座なりに定番をなぞったもので、新味や意外性に欠けている上に、その結果起こる惨劇をヒロインが生き延びる際にも、知恵と工夫で難関を潜り抜ける、というようなこともなく、結局ナタ対シャベルの肉弾戦に帰結するし、せっかくコナン・ドイルファンなんて属性を与えて探偵役を務めるのかと思われたイーディスの友人である医師のアラン・マクマイケル(チャーリー・ハナム)が特に何の活躍もせず終わってしまうし。
イーディスの目に事の真相が明らかになっていく描写も萎え所ですが、それ以上に、幽霊に脅かされたり犯罪が予想されたりする屋敷から、もう逃げ出したいと泣きが入っていたイーディスが、あわよく家から出る機会があったというのに、翌日には機嫌よく「ただいま☆」と帰ってきてしまう不自然さが気になります。イーディスが精神的にあまりにタフすぎることは、ほとんどリアリティラインに抵触しかねない。世間知らずのお嬢様のくせに、大好きな父親を亡くしたばかりのくせに。
ただ、そこにはやはりトロ監督の計算があり、イーディスのタフさというのは、彼女が幽霊に対してある種の親和性を持っていた、ということに起因しているのですね。かつて遭遇したおぞましい姿をした母親の幽霊が原体験になっていて幽霊を受け入れる素地ができていた。だからイーディスは、たとえ恐ろしいビジュアルであっても、幽霊たちが何かを自分に伝えようとしてそこにいるのだということを理解しており、その伝えたいことに耳を傾ける準備ができていた。
だからこそ、ナタ対シャベルのラストバトルの時も、まさに危機一髪というそのときにイーディスを救ってくれたのは、イーディスを守るためにそこに姿を現したイーディスを愛する者の幽霊だった。
幽霊を恐ろしいものというよりむしろ哀しいものとして描くそのフィーリングは実にピッタリきて心地よいのです。
ただひとつ、とはいえだけどせっかくのゴシックロマンなんですもの、あれだけ魅惑的なビジュアルの古城を建ててみせたのですもの、最後はやっぱり採掘過剰で進行中だった地盤沈下に、イーディスの資産を得て完成したトーマスの掘削機による一堀りがトドメとなって、クリムゾンピーク(赤土が雪に沁みだして真っ赤に染まる現象)に飲み込まれ崩壊していく古城、というスペクタクルが観たかったよねぇ。だってトロ監督の映画ですもの。残念だわぁ。
・クリムゾン・ピーク@ぴあ映画生活]]>
スター・ウォーズ/フォースの覚醒
http://kinoer.exblog.jp/22782234/
2016-01-17T16:02:00+09:00
2016-01-21T17:52:18+09:00
2016-01-16T16:44:24+09:00
shirakian
映画さ行
J・J・エイブラムス監督によるスターウォーズシリーズ第七弾。
原題は"STAR WARS:THE FORCE AWAKENS"。
残念ながらわたしはスターウォーズに関してはほんとうに興味が薄く、今までのシリーズ6作についても、恐らく全部観ているハズ、とは思うものの、確かにしかと全て観た、とは断言できない部分もあり、といったテイタラクなので、この映画についても、観に行ったはいいものの、観ている傍から何を観たのかスルスル忘れていってしまうような感じでした。大変面目ないです。
なので観るには観たけど、特に別に言いたいこともないのだわ。もちろん時間を損した! と憤らなければならないような駄作では全くなく、ワクワクもすればウキウキもするしホロリともすれば感心もするという上出来の娯楽作ではあったのですが、だけどまあ、わたしの映画ではなかった、ということですわね。
そうは言ってもやっぱり、ハリソン・フォードのハン・ソロがチューバッカと共にミレニアムファルコンで駆け巡る話を観るのは心楽しいことです。しかも、どうせ出てきてもカメオ程度でしょ、と思っていたらば、ほとんど主役級だったので、その喜びもひとしお。ソロとチューバッカのやり取りはやっぱりイイ! こんなふたりを見せてくれただけでも、ありがとうありがとうほんとうにありがとうと思いました。
だったら最後もあんなことしないで(>_<)。
盛り上げるためだけにあんな心無いことができるなんて、エイブラムス監督って単にお仕事で映画撮ってるひとなのかな。作品世界のファンじゃないでしょ。そりゃルーカスも怒るわ。
その他のキャラクターで言えば、レイ役の新人デイジー・リドリーは大変感じのいい頑張り屋さんで、今後ブレイクまちがいなし、と思いますし、フィンを演じたジョン・ボイエガも重くなりすぎない演技がよかった。ハン・ソロとの絡みもよかった。
レジスタンスの凄腕パイロット、ポー・ダメロンを演じたオスカー・アイザックは、直近の出演作の『アメリカン・ドリーマー』がまさにそうだったように、複雑な心理描写が要求されるシリアスな役柄が多い役者さんという印象でしたが、今作のように「カッコイイのが仕事」という役を演じたことによってファン層が広がったのではないかと思いました。
この映画、大物俳優が何人もカメオ出演していると聞いていたので、鵜の目鷹の目で確認しようとしたのですが、ストームトルーパーを演じたダニエル・クレイグは結局マスクを脱がないし、最高指導者スノークを演じたアンディ・サーキスは、あれじゃ到底サーキスだとはわからなかったし、一番残念なのは、サイモン・ペッグがどこにいたのか確認できなかったことです。
でも、POIのレオン・タオことケン・レオンがレジスタンスの将校役で出ているのは見つけたので、ふふふ発見! と色めき立ったのですが、かれにはちゃんと「スタトゥラ提督」という役名まであったりするので、これってカメオとかじゃなく普通に出演してただけだよね。
あとは、そうね、今やC3POを観るとシェルダン・クーパーと思うようになってしまいました。どっとはらい。
・スター・ウォーズ/フォースの覚醒@ぴあ映画生活]]>
クリード チャンプを継ぐ男
http://kinoer.exblog.jp/22734635/
2016-01-05T19:09:00+09:00
2016-02-09T18:33:33+09:00
2016-01-03T18:47:49+09:00
shirakian
映画か行
あけましておめでとうございます。
今年最初の劇場鑑賞は、ロッキーかスターウォーズか、と迷ったんですが、結局こちらにしました。
■ロッキー
ライアン・クーグラー監督のアメリカ映画です。
原題は"CREED"。
最初にロッキーの後日談、と聞いた時は、原案も脚本も監督も主演もシルヴェスター・スタローンによるスタローンの俺様映画かと思ったんですが(スタローンに限ってこれは褒め言葉)、なんと1986年生まれという非常に若いライアン・クーグラー監督の持ち込み企画によるものだったんだそうです。
子どもの頃ロッキーと出会い、心の中のナンバーワン・ヒーローはずーっとロッキーで、ロッキーと共に成長した、という男の子が、やがて映画監督になり、そのロッキーの続きの物語を書き、ロッキー本人に認めてもらい、ロッキー自身の出演でもって一本の作品として撮りあげる。それだけで胸熱なお話ですが、できあがった作品がまた超胸熱。
途中から何やら込み上げてくるものが止まらなくて、中盤からずっと泣きっぱなしでしたよ。なにがそんなに心に響いたのか実はよくわからないです。わたし自身はそもそも格闘技が好きではないし、ロッキー・シリーズに関しては最初の一作しか観ていないし、およそファンとは言い難いのに。
アドニス・ジョンソン(マイケル・B・ジョーダン)は父親を知らず、母親亡き後は喧嘩三昧の荒れた暮らしを送っていたが、突然現れた品のいい婦人、メリー・アン・クリード(フィリシア・ラシャド)に、実はかれが高名なチャンピオン・ボクサーであるアポロ・クリードの私生児であることを告げられる。夫が愛人に生ませた子供を実子として迎えようというのだ。かくてアドニスは生来の聡明さもあって、裕福な家庭で高度な教育を受けまともな仕事につき順調に出世していったが、心の中には常にボクシングへのこだわりがあり、「普通の暮らし」の傍ら、独学でボクシングを学び、メキシコのストリートマッチで実戦経験を積んでいった。
そんなある日、プロへの思い断ちがたく独学の限界を痛感したアドニスは、父親がトレーニングした地元のジムへ入門を願い出るが、相手にしてもらえない。父親の地元では、アポロの壮絶な選手人生が熟知されており、恵まれた環境にあるアドニスまでもが同じ轍を踏む必要はないと、敬遠されてしまったのだ。そこでアドニスは、かつて父親と伝説の一戦を戦った名ボクサー、ロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)を頼りに、故郷のロサンゼルスを離れ、フィラデルフィアに赴く。すでに現役を退いていたロッキーは、トレーナーになってほしいというアドニスの要請を一旦は断るが、いつしかその熱意にほだされ、引き受けることになるのだが。
というお話。
こんな話、素材を問えば、どう考えたって凡庸なものにしかなり得ない。出自に苦悩する若いボクサー、かつて名選手で今や引退した孤独なトレーナー、世代の差、育った環境の違い、あまりにも大きな溝を乗り越えてボクシングという一点で固く結ばれるふたりの男、才能に恵まれた若者、更に加えて努力を惜しまない真面目さ、特訓につぐ特訓、指導のうまいトレーナー、とんとん拍子に訪れる試合のチャンス、繰り広げられる死闘、やがて訪れる栄光(または敗北)。
更に言えばもうひとつ、若者は見知らぬ新しい土地ですぐに美しい娘と出会い恋に落ち、というお決まりのコースまである。クリシェです。どこをどうとっても手垢のついたネタしかない。これで映画一本撮ろうだなんて舐めてる。どっかで観たような映画にしかなりようがない。
と、思うじゃないですが。
だったらなんで観客は泣きっぱなしだったの。なんでこんなに胸がいっぱいになるの。
それはひとつにはライアン・クーグラー監督の演出や話運びのうまさです。ありきたりの題材でもプレゼンの仕方を工夫すれば面白い映画になるということ。
たとえば、カメだの卵だのグレーのスウェットだのランニングだのプッシュアップだの、少しでもオリジナルを知っている人にはピンとくるアイテムを無数に散りばめ、だったらあのロッキーのテーマはいつかかるのか、と観客の期待を煽りに煽り、そしてこの上ない最高のタイミングで高らかに歌い上げてみせるセンス、更には、だったらそれならフィラデルフィア美術館の階段のシーンはどうなるの、とこれまた観客の期待を煽りに煽り、ラスト、あんなしんみりと美しいシーンで絞めて見せるその手腕。
そしてたとえばヒロインのビアンカ(テッサ・トンプソン)を提示する手法。謂わばビアンカもまた、「若くて美しい女性」という記号でもって、互いのことをよく知りもしないのにあっさりと恋に落ちる行きずりに近いキャラクターではあるんですが、提示の仕方がうまいとそれが単に記号に堕さず、生きた息吹きをもって感得される。
ビアンカはアドニスが越してきた小さなアパートの階下の部屋に暮らす女性。最初の出会いは夜中に大音量で音楽をかけるので、眠れないアドニスが頭に来て怒鳴りこみに行く、という最悪のシチュエーション。それだけでも感じ悪いのに、文句を言われた際のビアンカの対応がまた下種の極み。なんたるビッチ! と観客が不快になる一方で、アドニスの方はやはり、「若い美貌の女」というところであっさりガードが下がってしまった様子で、やれやれ、そういうことね、と期待値は上がらない。
ところが、それから偶然の機会に、ビアンカが単なるはた迷惑な音楽好きではなくプロのミュージシャンであることがわかり、のみならず、聴力に進行性の障害を持っていることが明かされる。これらのことが段階を追って示されていくので、アドニスのビアンカへの興味が、単なる欲情に留まらない、相手に対する関心やリスペクト、更には本気の気遣いに移行していくさまが自然に納得できるようになっている。
若きファイターには美しい恋人が不可欠。そこまではクリシェ。だけど「美しい恋人」だってひとりの人間であるのなら、単なるヒーローの引き立て役ではなく、その人なりの人生や葛藤や夢や希望や生活の基盤があり、それらに立脚した上で初めてヒーローを支え、励ますというスタンスに立てる、という当たり前の事実。それがきちんと描かれているのがいい。
だけどもっと大切なのは、アドニスというキャラクターそのもの。
マイケル・B・ジョーダンという役者さんは、ライアン・クーグラー監督にとって何か特別なひとなのかな、前作の『フルートベール駅で』の主演もかれだったけど、ライトヘビー級のボクサーというにはいかにも華奢な印象を受ける。頑張って筋肉をつけたのはわかるけど、骨格そのものがそんなに大きくないので、本物のボクサーと並ぶと絵柄としての説得力に乏しい。単にアポロの息子、ということでキャスティングするのなら、もっと体格的にふさわしい役者がいくらでもいたようにも思える。
だがしかし、なんですね。
アドニスはこういう物語で定番の、学校教育もろくに受けたことのない底辺を這うように生きてきた(ちょうどロッキーがそうだったような)若者ではない。裕福な家庭で高度の教育を受けさせたもらったかれは、教養ある言葉使いをし、最先端の情報機器を使いこなし、マナーも常識も、特段恥をかかねばならないような欠損は何もない。だからかれはハングリー精神がないと言われる。ファイターに一番必要な、這い上がるためのモチベーションがない、と。なぜかれが、かくも執拗にボクサーへの夢をあきらめきれないのか、周りの誰にもわからない。トレーナーを引き受けたロッキーですら、本当のところはわかっていない。ただただかれの必死さだけはわかるので、それで引き受けたというだけのこと。
だけどモチベーションって何も、貧困から抜け出すことだけに限られるものじゃない。何がそんなにアドニスを掻き立てていたのか、しかし観客は、物語を共にするうちに、徐々にそれがわかっていく。必死さの裏側の、切ないかれの思いに共感していく。そしてついにそれが言葉として語られる時、その本音を聞かされたロッキーと共に、観客もまた心臓をわしづかみにされるような深い静かな衝撃を受ける。
偽物だと思われるのが怖かった。あの父の息子であるのなら、本物の「クリード」でありたかった。
アドニスを演じたマイケル・B・ジョーダンは、好感度の高い清潔感のある演技で、敢えて言葉にすることもないアドニスの日々の営みの底から、それがどれほど切実な願いであったかをきちんと表現できている。そこがいい。
だがだがしかし、なんですね。
本気でいいのは、やっぱりやっぱりシルヴェスター・スタローン。
晩年のロッキーのその姿は、まんまスタローン自身と被る。そしてロッキーは、自らの老いも衰えも隠しもせず誤魔化しもせず淡々と受け止めているけれど、そんなロッキーを真っ向から演じたスタローン自身もまた、同じ覚悟を固めた潔さを感じる。
そしてもうひとつスタローン自身とかぶるのは、ロッキーのソーシャル・スキルの高さです。人を逸らさず、もめ事を起こさず、リスペクトを忘れず、適切に会話し、妥当な流れを作る。こういうひとは、ボスとしても夫としても伯父さんとしても友達としても、心底心地がいい。誰もロッキーを嫌わない。たぶんそれはスタローンも同じ。
そんなロッキーに、誰よりもまず、アドニスがメロメロになった。
だから、ロッキーが病気を自分に隠し、尚且つ治療を受ける気はないと告げた時、アドニスの心は破裂しそうになる。ロッキーにしてみれば、エイドリアンも死に、ミッキーも死に、ポーリーも死に、たったひとり残されたこの寂しい世界に、辛いだけでなく尊厳をも脅かされる治療を闘ってまで、留まりたいとは思えない。ロッキーの気持ちは痛いほどによくわかる。
だからって、もう誰もいないから、おれはここを去るつもりだと言われてしまえば、だったらおれは? と言わずにはいられない。おれがいるのに、おれのために生きようとは思ってくれないのか? おれの存在はそれだけのものなのか?
あんたが死んだら、どんだけおれが悲しいか!
ひとはひとりで生きてるわけじゃない。どれだけ孤独なつもりでも、人間である以上、他者との繋がりを完全に断つことなどできようはずもない。ロッキー自身はもう終わったつもりでも、ロッキーの魂を引き継いでいく若者がいる。若者が闘うのなら、ロッキーが諦めていい道理はない。
だからこれは、挑戦する若者「クリード」の物語であると同じくらい、土壇場で踏みとどまる「ロッキー」の物語でもある。スタローンがいい。とにかくすごくいい。
試合に臨むアドニスを、ひいてはトレーナーを務めるロッキーを励ますために、フィラデルフィアの路地裏にたむろしている若者たちが、バイクで追走するシーンがあります。あのシーンでどっと涙が込み上げてくるのは、あの若者たちはおそらく、かつてロッキーの後をついて走っていた小さな子どもたちの成長した姿だからです。貧しい寂れた街で、仕事もなく希望もなくバイクでも乗り回すしかない若者たちが、それでもロッキーの奮闘を讃え、勝利に歓喜している。
あと、実際ボクシングに関わる面々が、役者の演技と言うにはあまりに真に迫りすぎてる、と思ったんですが、案の定、実際にみんなプロのひとだったみたいですよ。
アドニスと闘ったリッキー・コンランを演じたアンソニー・ベリューは世界戦経験もあるプロボクサーだし、ロッキーが集めてきたアドニス強化チームのメンバーも、カットマンを演じたジェイコブ・デュランにしろパッドマンを演じたリカルド・マッギルにしろ、知る人ぞ知る本物の本職の方だった模様。カットマンもパッドマンも台詞とかは全くないのに存在感が半端でなかったものねぇ。パッドマンのマッギルとか結構なお年だと思うのに、あの動きときたら、もう。
・クリード チャンプを継ぐ男@ぴあ映画生活]]>
2015 Moviegoing
http://kinoer.exblog.jp/22723620/
2015-12-31T17:11:00+09:00
2016-01-04T10:58:03+09:00
2015-12-31T15:32:49+09:00
shirakian
未分類
■アクトレス~女たちの舞台~ (オリヴィエ・アサイヤス)
■イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 (モルテン・ティルドゥム)
■ヴィンセントが教えてくれたこと (セオドア・メルフィ)
■おみおくりの作法 (ウベルト・パゾリーニ)
■恋人たち ( 橋口亮輔)
■コードネーム U.N.C.L.E. (ガイ・リッチー)
■セッション ( デイミアン・チャゼル)
■独裁者と小さな孫 (モフセン・マフマルバフ)
■パレードへようこそ (マシュー・ウォーチャス)
■マッドマックス 怒りのデス・ロード (ジョージ・ミラー)
今年劇場で観た映画は58作品です。うち、レビューを書いたのは41本、割合で言うと70%ぐらい。別に忙しかったわけでもないんですが、年年歳歳ナマケモノになっていっている模様。
2015年は、マッドマックスとターミネーターとジュラシックパークとロッキーとスターウォーズが公開された年、として映画史に刻まれることになったわけですが、残念ながら現時点ではまだ『スターウォーズ』も『クリード』も未見です。お正月のお楽しみ。
当該リストは、世評や興行成績は度外視して、あくまでわたくし個人の琴線に触れた映画としてリストアップしました。優れた映画、というよりやっぱり「印象に残った映画」です。アレもコレも入っていませんけれども、まあソレはソレということで。
毎年このリストでは順位をつけたことは一度もないのですが、それでも今年は圧倒的に『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の年だったよなぁ、と思います。仮に順位をつけるとしたら、この作品が一位を獲得することは間違いないです。
とは言え、より個人的に「今年一番」をわが胸に問えば、実は『おみおくりの作法』だったなぁ、と思います。スターもイケメンも出てこない、地味な地味な小さな映画、興行成績だって知れたものだと思うし、歴史に残る映画かと言うとそんなこともないんだろうけれど、わたしにとってはとても大事な映画でした。
あともう一作、『独裁者と小さな孫』、これがもう、よくてよくて。こんな品格のある映画もないなぁ、と。なにしろ暮れもいいかげん押し迫ってから観たもので、レビューを書くのが間に合いませんでした。自分としてはこれからゆっくりでいいから是非書くべき、とも思うのですが、なにしろ年年歳歳ナマケモノになってきているので、書くかどうかわかりません。だからって別にいいっちゃいいんだけれども。
その他の作品については一応全部レビューを書いているので、そちらにリンクを貼りました。この記事を書くのに何が一番面倒くさいかって、それはもう、過去記事にリンクを貼るのが一番面倒くさいのよ。もしかして世の中には一発でぱぱっと貼れる技とかあるのかしらん? あるなら是非知りたい。
●印象に残った女優 ()内は作品名、50音順、8名選出
■綾瀬はるか (海街diary)
■コン・リー (妻への家路)
■シャーリーズ・セロン (マッドマックス 怒りのデス・ロード)
■ジュリアン・ムーア (アリスのままで)
■ジュリエット・ビノシュ (アクトレス~女たちの舞台~)
■ナオミ・ワッツ (ヴィンセントが教えてくれたこと)
■ヤン・ズーシャン (20歳よ、もう一度)
■ロビン・ライト (コングレス未来学会議)
綾瀬はるかとヤン・ズーシャンが若干若手寄りであることを除けば、概ねベテランの女優さんばかりのリストになりました。熟練の演技でしみじみと楽しませていただいた一年だったと思います。リストに上がってないところを見ると、今年は気になる少女女優はいなかったんだっけかな。
今年のアクトレス・オブ・ザ・イヤーがシャーリーズ・セロンであることは、全く異論の余地のない絶対的な正義であって、フュリオサは単に今年一番輝いていたヒロインというのみならず、映画史に深く刻まれた殿堂入りのヒロインであったと思うのです。
●印象に残った男優 ()内は作品名、50音順、13名選出
■J・K・シモンズ (セッション)
■アンドリュー・スコット (パレードへようこそ)
■エディ・マーサン (おみおくりの作法)
■エディ・レッドメイン (博士と彼女のセオリー)
■コディ・スミット=マクフィー (マッド・ガンズ)
■コリン・ファース (キングスマン)
■ジェイク・ギレンホール (ナイトクローラー)
■トム・ハーディ (チャイルド44 森に消えた子供たち)
■ビル・マーレイ (ヴィンセントが教えてくれたこと)
■ベネディクト・カンバーバッチ (イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密)
■ベン・ウィショー (追憶と、踊りながら)
■マーク・ラファロ (フォックスキャッチャー)
■ロバート・デュヴァル (ジャッジ 裁かれる判事)
コディ・スミット=マクフィーの『マッド・ガンズ』は、『独裁者と小さな孫』を観るまでは(つまりこのリストを作るギリギリ直前までは)作品編にランクインしていたのですが、今年は作品編にアップする本数を10本に絞ったので、そちらでは敢え無く落選してしまいました。これまた地味だけどステキな映画でしてね。そしてやっぱりコディくんの存在感は大きい。少年の成長譚として、今年は『キングスマン』が挙げられるのかな、と思いますが、わたし的にはそれよりこっち、と思います。ひ弱な子どもだったコディくんが試練の果てに大人の男になっていく、その行程がしみじみと乾いていていい。この映画は、共演者がみなよかったですね。って、なぜレビューを書いていないのかしらね。こりゃどうも困った傾向ですね。
そして、今年圧倒的印象を残した演技者と言えばやはり、J・K・シモンズ。ヒース・レジャーのジョーカーとか、アンソニー・ホプキンスのハンニバルとか、映画史に残るモンスターは何人かいますが、シモンズの演技もその境地に達していたと思います。かれのあれは決して決して「天才的ミュージシャンにして超絶厳しい指導者」とかじゃありませんからね。夢誤解なきよう。あれはまごうことなきモンスターです。ハラショー。
だけどね、わたくし的アクター・オブ・ザ・イヤーを言えば、イケメンは世界の宝協会会員としては認めたくないんだけど、今年はエディ・マーサンだったと思うの。
■過去のMoviegoing
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007 スペクター
http://kinoer.exblog.jp/22667711/
2015-12-20T18:44:00+09:00
2015-12-21T12:04:00+09:00
2015-12-16T17:58:26+09:00
shirakian
映画た行
ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドでは4作目、シリーズ通算では24作目の007です。監督はサム・メンデス、原題は"SPECTRE"。
■007 スカイフォール
■007 慰めの報酬
例によってあらすじをallcinemaさんから引用すると、
“死者の日”の祭りでにぎわうメキシコシティで、凶悪犯スキアラと大立ち回りを演じたジェームズ・ボンド。後日、MI6の本部に呼び出され、Mから職務停止を言い渡されてしまう。折しもロンドンでは、スパイ不要論を掲げるマックス・デンビが国家安全保障局の新トップとなり、MI6をMI5に吸収しようと画策していた。表立って活動することができなくなったボンドだったが、マネーペニーやQの協力でローマへと飛び、そこでスキアラの未亡人ルチアと接触、強大な悪の組織の存在を突き止めるが…。(/引用これまで)。
2015年の4大スパイ映画と言えば、『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』と『キングスマン』と『コードネーム U.N.C.L.E.』とこの『スペクター』。そのうち『ローグ・ネイション』は未見なので残りの3作を「好き順」で並べると、アンクル>007>キングスマン、という感じです。
冒頭、美女同伴でカーニバルを楽しむいなせなボンド、と思いきや、美女はデコイで実はミッション中のボンド、よくある窓越しの狙撃シーンと見せかけて、あっと驚く大破壊シーンによる華々しい幕開けです。一発の銃弾に誘発されたあまりにも深刻なコラテラル・ダメージに戦慄する観客は、息つく暇もなく大群衆の真上で暴走するヘリコプターに、悲鳴をこらえて手に汗握ります。アバンタイトルの掴みはバッチリ。
ダニエル・クレイグになってからのシリーズは、リアルな人間としてのジェームズ・ボンド像を前面に押し出し、ボンドの生い立ちや過去にからんだシリアスなドラマを展開しており、それが持ち味になっていました。だけどもう、デンチのMも亡くなったことだし、過去の亡霊はMと共に葬ってもよかったんじゃないかなぁ、という気がしました。なんていうか、ボンド自身がもう結構吹っ切れてる印象だったし。
前作でメンバーが一新した結果、単なる秘書ではなく元工作員だったマネーペニー(ナオミ・ハリス)、老人ではなくフットワークの軽い若いQ(ベン・ウィショー)、肉体的にはか弱い老女だったMから一転してとりあえず闘える肉体を持った壮年男性のM(レイフ・ファインズ)、と、レギュラー陣が全員外に出て活動できるメンツに変わっているわけです。要するにチームとして稼働できる体制である、ということ。
もはや時代は単独ヒーローがひとりで世界を救うなんてドラマを求めてはいないのだと思う。何かを成し遂げるためには、誰かの協力が不可欠。超人一人の力よりみなが合わせた力の総和の方が大きい。
それなのに、やっぱり、俺様仕様で独断専行したがるボンドは、なんかあんまりかっこよく見えませんでした。マネーペニーやQたちを単に「利用している」ようにしか見えなかったのも大いに減点だし、なにより、「女に弱いドンファン」という設定が激しく浮いて見えたのです。
それが一番感じられたのは、スキアラの未亡人ルチアを演じたモニカ・ベルッチのパートです。史上最高齢のボンド・ガール、などと揶揄されつつも、ルチアの役にはしっとりとした大人の女の色香が不可欠、という判断から起用されたイタリアの宝石でありましょうに、劇中の扱いはほとんど侮辱と言っていいほどのレベル。単に出番が少ないというのみならず、完全にセックス要員としての尊厳のない役だったのです。これには心底ビックリ。ベルッチ起用しといてこのざま?
なんかもうね、出会ったその日にガツガツとセックスに持ち込むボンド、というのが全然いけてないわけです。そういう描写はもはや粋とは言い難い。それと言うのも、かつては、出会った瞬間「ステキ! 抱いて!」と身体を差し出す美女、というのが男目線のファンタジーの中では一種の勲章記号として機能してきたけれど、その「美女」の方を主体にして見れば、自ら進んでそんなリスキーなことをする人間というのがちっとも「ステキ」じゃない、ということに尽きる。もはや一方通行の視点のみでは物事は語れないのです。
しかも更に悪いことに、好みの女と見れば手あたり次第のくせに、情をかわした女に対して惚れたの腫れたの愛しているの人生を共に歩くの言い出すあたりが決定的にダサイ。愛してるって、あなた、さっき出会ったばかりでしょーに、浅い。あまりにも浅い。アゾフ海よりも浅い。
なので、マドレーヌ・スワン(レア・セドゥ)を巡るドラマ部分が、なんかいまいち盛り上がらない。どうせなら、誘拐されて死ぬほどボンドを心配させる役回りは、こんな昨日今日出会ったばかりのキャラクターではなく、マネーペニーなりQなりいっそMでもいいけど、もっとボンドと深い繋がりのあるキャラであってほしかったなぁ、と思ったものでした。
だけどやっぱり一番の困惑のもとは、今回の敵役、クリストフ・ヴァルツ演じるフランツ・オーベルハウザーを巡る描写だったかなぁ。オーベルハウザーはまさにボンドの過去の亡霊そのもの、といった役回りで、ボンドの個人的な歴史にも深くコミットしているのみならず、過去にボンドが手掛けてきた全ての事件の黒幕でもあったらしい。
そういうスペシャルな悪役でありながら、なぜか漂う小物感。小物っていうか、頭悪そう。やることなすことなんだかなぁ、という脱力感。せめてカミソリのような参謀をつけておいてほしかったところですが、いやさ、脚本さえ頑張ってくれれば、そもそもクリストフ・ヴァルツ自身は知性派の悪役が演じられる役者なのですし。観客を悶えさせるこの隔靴掻痒感。ああ、もったいない。
今まで挙げてきた違和感ポイントはすべてドラマに関する部分であって、華麗なるアクションについては大変楽しんで鑑賞しました。先述したアバンタイトルのメキシコ・シークエンスも楽しかったし、ボンドとMr.ヒンクス(デイヴ・バウティスタ)のカーチェイスのシーンはワクワクしました。とにかくすっごくかっこいいシーン。
ただ、最後、川につっこむんなら、ボートか潜水艦に変身してほしかったよなぁ。なんであそこで愛車(実はボンド用のアストンマーチンじゃなかったけど)を見捨ててひとりだけ射出座席で脱出とかしちゃうんだ。せっかくQが丹精込めて作った車なのに。アンパンマンの顔じゃあるまいし、安易に交換すればいいという姿勢はよろしくありませんね。
あと、もう一点不満点を挙げるなら、レア・セドゥのファッションだなぁ。どうしてあんな中年女性のような服を着せるんだろう。せっかくスタイルのいい女優さんなのに、観る楽しみがなさすぎる。なにしろ一方のボンドがトム・フォードのスーツでしょ、それをこれ見よがしにぶぅわしぃっ! と着こなしていらっさるわけでしょ、だったら隣にならぶヒロインももうちょっとイベント感のあるファッションを披露してほしかったと思うの。なんかこう、おばちゃんのような柄物膝丈ワンピとか、寝間着のようなドレスとかでは萌えないのよう。
一番よかったのはQ。何を置いてもQ。前作で期待した通り、出番が増えててほんとに楽しかったです。ダニエル・クレイグはさ、もうボンド、演りたくないらしいから、いっそQ主役でスピンオフ作っちゃえばいいんじゃね、と思いました。
・007 スペクター@ぴあ映画生活
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黄金のアデーレ 名画の帰還
http://kinoer.exblog.jp/22634645/
2015-12-14T22:26:00+09:00
2015-12-16T18:44:51+09:00
2015-12-09T23:05:51+09:00
shirakian
映画あ行
サイモン・カーティス監督作品、製作国はアメリカとイギリスがクレジットされています。原題は"WOMAN IN GOLD"。
クリムトの描いた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ(WOMAN IN GOLD)」は、オーストリアのモナリザと称される国民的財産。しかしその絵画は、第二次世界大戦下、ナチスの手により本来の持ち主から略奪されたものだった。1998年、82歳となった元亡命ユダヤ人のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)は、オーストリア政府に対し、当該絵画の変換を求め、裁判を起こすのだが。
というストーリーは、先日観た『ミケランジェロ・プロジェクト』と同じく、ナチスに奪還された美術品を本来の持ち主に返すための奮闘を描いたものです。しかし、テーマこそ同じであっても、両者の風合いはかなり異なります。ミケプロ(略すな)があくまで善意の第三者による人類の共有財産の保護、が眼目であったの対し、こちらで描かれているのは極めて私的な体験なのです。その違いは大きい。
私的体験って、だってクリムトの代表作だよ? 一国の至宝だよ? 思い出がー、思い入れがー、所有権がー、とかそういう理由で返還を要求するなんて、それはちょっと強欲過ぎるんじゃないの? という疑問もあるやもしれませんが、やっぱり盾には両面がある。
たとえオーストラリア政府にとっての当該絵画がかけがえのない国民の共有財産であったとしても、マリア・アルトマンにとって、その同じ絵画はあくまで、大好きだった伯母をモデルにした家族の肖像であり、家族の居間に飾られていたものであり、その絵の前で様々な思い出が紡がれた家族の絵画なのです。有名画家によるものかどうかなんてどうでもいいし、芸術的に優れているかどうかも関係ない、ましてや資産価値の多寡など、この際彼女は問題にもしていなかったと思う。
問題なのは、その大事な家族の絵が、不当に奪われた、不当に奪われたままで、何の補償も謝罪もなされていない、ひとえにそのことなのです。
この映画では、少女時代のマリアを回想するシーンをふんだんに配し、アデーレの肖像に対する彼女の思いを丹念に描き出していますから、その絵が奪われた際の彼女の心情を慮るに難くない。どんなにひどい時代だったにせよ、どんなにひどい強権力が発揮されたのにせよ、一家がその絵を奪われたことが、とんでもなく不当なことだったことは否定できません。なんぴとたりとも、私有財産を侵されてはなりません。ユダヤ人だからと奪ってはならないことはもとより、金持ちだからといって奪うこともまたもちろん許されないのです。
しかし、なんですね。「裕福な」ユダヤ人たちが、不当に私有財産を剥奪され、着の身着のまま牛馬のように強制収容所に追い立てられていたその時、「普通の」オーストラリア市民は、それをどんな視線で見守っていたのだろう?
劇中でも描写されていましたが、それは決して同朋に対する横暴に眉を顰め、憤る態度ではなかったのです。むしろ、同調し、嘲笑い、溜飲を下げる態度であった。必死で逃げのびようとするユダヤ人を見つけた際に、勢い込んで官憲に指さす市民の行為は、単に保身のためとばかりは言えないものでした。
その根底にあったのは、持てる者への歪んだ怒りであったと思う。当時のユダヤ人は、その勤勉さ故か、教育熱心の故か、金融産業に従事することを忌避しなかった故か、その原因はわかりませんが、裕福な家族が多かった。マリアの一家もまた実業で財をなし、大変裕福な暮らしをしていたのです。
ナチスが台頭する以前、社会の底辺で肉体労働や汚れ仕事に従事していた人々の腹の底には、有名画家に肖像画を描かせ、楽しみのためにストラディバリウスのチェロを弾き、宝石を散りばめたアクセサリーを所有するような「裕福なユダヤ人」たちへの羨望の思いが燻っていたに違いありません。そうした人々は、いざ社会がひっくり返った時に、「裕福なユダヤ人」から奪うことを躊躇しなかった。罪悪感を持ちにくかった。金持ちから奪って何が悪い、という正当化がなされた。
こうした時代の雰囲気は、すっかり貧しくなってしまった現代日本の状況に重なるものを感じるのです。身ぐるみはがれた金持ちを、ざまあみろと嘲笑う感情は、難民の受け入れを拒み、口汚いヘイトスピーチを繰り返し、鵜の目鷹の目で叩くための弱者を捜す世相に繋がります。金持ちだからという理由で他人のものを奪う社会は、それらの人々を容易にガス室に送り込む社会になりかねない。そうしてそんな社会が怖いのは、嗤って誰かをガス室に送り込んだ人間が、翌日にはガス室に送られることになるかもしれないことです。
マリアの返還要求を歯牙にもかけなかったオーストラリア政府の態度もまた、あるいは当時の貧しい民衆の「金持ちから奪って何が悪い」という認識の延長線上にあるものなのかもしれません。
しかし、そうであるとすると、同じオーストラリア人でありながら、マリアの闘いに加担したジャーナリストのフベルトゥス・チェルニン(ダニエル・ブリュール)というひとは、果たしてどういう立ち位置にいたんだろう。その辺の描写を非常に物足りなく思いました。なぜかれはマリアに協力することにしたのか。人権に対する単なる信念の故なのか、なにか個人的思い入れがあったのか。せっかくのダニエル・ブリュールですのに、頼もしい味方、というより、なんだか胡散臭い男、にしか見えなかったのが残念極まりないです。
一方、マリアの弁護士を務めたランディ・シェーンベルクを演じたライアン・レイノルズですけれども。わたくし今までアクション・ヒーローを演じるレイノルズを観ても、なんかあまりピンときてなかったのですが、この映画のかれはしみじみとよかったのです。新境地を拓いた、というほどの画期的な印象です。
レイノルズが演じたランディの家族もまた、マリア同様大戦前はオーストラリアの名士だったのですが、ユダヤ人であるが故に、故国を追われアメリカに亡命してきた人々です。尤も、マリアと同世代でマリアの友人でもある母親はまさにその当事者でしたが、ランディ自身がその体験をしたわけではありません。従って、最初に仕事の依頼を受けた時、マリアの思いはかれにとっては他人事でしかなかった。真剣に仕事に取り組む気になったのは、アデーレの肖像の資産価値を知ったからです。しかし、裁判の準備のためにウィーンに足を運ぶうち、自分の一家が経験した悲惨な体験が、直接心に響いてきた。その思いは、単にかれ個人、かれの家族、というだけの問題ではなく、ユダヤ人全体、ひいては、不当に人権を脅かされた全ての人への思いとなって昇華されていきます。
つまり、ランディは偶然その場に居合わせただけの、ごく平凡な男であった。その平凡さがすごくいいのです。レイノルズは長身でスタイルもいいし、アクションヒーローとしてもちろんカッコイイのですが、なんかどうもそっち方面の適性を思うと、華や愛嬌や外連味に欠ける感じがあったのだけど、この役を観るに、将来的にはトム・ハンクスの路線を歩める役者さんなんじゃないかと思ったのでした。
・黄金のアデーレ 名画の帰還@ぴあ映画生活]]>
恋人たち
http://kinoer.exblog.jp/22620682/
2015-12-06T22:29:00+09:00
2015-12-07T09:08:02+09:00
2015-12-06T22:11:51+09:00
shirakian
邦画
『ぐるりのこと。』の橋口亮輔監督、7年振りの長編映画、ということで話題の作品です。監督は脚本も担当。
とは言えわたくしは、『ぐるりのこと。』はまだ観てなくて、橋口監督作品で鑑賞済みなのは『二十才の微熱』と『ハッシュ!』だけです。だとすると14年振りという計算になるのかしら。どちらの作品も役者さんたちの小さな所作のひとつひとつが、いまだに忘れがたく心の片隅に残っている、という不思議な感触の映画でした。
この映画は、三つの異なる物語を集めたオムニバスです。それぞれの物語は緩く繋がってはいますが、基本的にはそれぞれ別の話です。あらすじをallcinemaさんから引用させていただくと、
橋梁のコンクリートをハンマーで叩き破損の有無をチェックする橋梁点検の仕事をしながら裁判のために奔走するアツシ。数年前、最愛の妻を通り魔殺人事件で失い、今なおその喪失感と犯人への憎しみから立ち直れずにいる。自分に関心を持たない夫と、ソリが合わない姑と3人暮らしの退屈な毎日を送る主婦、瞳子。ある日、ひとりの中年男とひょんなことから親しくなっていく。同性愛者で、完璧主義のエリート弁護士、四ノ宮。一緒に暮らす恋人がいながらも、秘かに学生時代からの男友だちを想い続けていた。そんな不器用ながらも懸命に日々を生きている3人だったが…。(/引用ここまで)
昨今、映画についてよく言われるのが「リアリティラインが甘い」という批判です。ご都合主義だの荒唐無稽だの、生身の人間がそんなリアクションをするものかね、という批判です。ところがこの映画の場合、リアルについて言えば、あまりのリアルに溺れそうになりました。頭と足首を掴まれて雑巾みたいにぎゅーっと絞られたような心地がしたのです。
ディテールが、匂いや手触りや湿り気を伴って、圧倒的に攻めてくる。
アツシ(篠原篤)のラインで印象的だったのは、アツシ自身もさることながら、ワンシーンだけ登場したアツシの義姉のシーンです。殺されたアツシの奥さんのお姉さんですね。この人は基本的に善良な人で、なかなか連絡がとれない義弟の身を案じて、手作りの料理を山のように抱えて訊ねて来てくれる。謂われもなく妹を殺されたというのに、義姉は不自然なほどのハイテンションで、料理教室に通っていることなどを明るくはしゃいだ口調で喋りまくります。しかし、妹の位牌を拝むために隣室に引っ込んだ後、義姉は密かに泣いていた。
婚約していたのに、妹が殺されたからって、婚約を破棄された。友だちもいたのに、妹が殺されたからって、みんな去って行ってしまった。どうして? わたしは妹を殺されたのに?
それは決して、婚約者や友人たちが冷酷な悪人だったからではなく、義姉が築いてきた人間関係が薄っぺらで実態のないものだったということでもない。
悲しみは誰かに話せばいい。何の助けにもならないとは思うけれど、話を聞くだけならできるから、話してごらんよ、誰かの悲しみに遭遇すると、普通ひとはそういう風に対処する。それは社会的動物としての処世の本能でもあるし、善良な人間としての基本でもある。それ自体は至って普通のことだけど、さて、どこまでその行為を継続することが可能だろうか? 誰かの悲しみごとその誰かの人生を背負うことが、果たしてどれほどのひとにできるだろうか?
話を聞いてほしい。それはいい。だけどなぜそれがわたしなのか?
婚約者も友人も、恐らくそのことで困惑した。そのことで困惑してしまえば、日常を共にすることはできない。
誰かが悲しみを癒すために、心の底からあふれてくる澱のような思いを、黙って全部受け止め続けることは、ただの友人にはできない。夫でもない婚約者にもできない。いやむしろ夫ですらできない。それどころか親兄弟ですらできない。恐らくそれができるのは、一時間幾らと金銭契約を交わした分析医ぐらいのものだ。
だけどアツシの場合、御しがたい悲しみと、その果てしのない吐露を、受け止めてくれた「他人」がいた。ただの職場の同僚であって、友だちですらない人間なのに。
アツシが働く橋梁点検の会社に勤める技師の黒田大輔(黒田大輔)は片腕がない。片方しかない不自由な腕で、きちんと仕事をこなし、器用に日用品を操り、淡々と日々の暮らしを営んでいる。いつも微笑んでいるような優しい顔をして、怒鳴り声など想像もつかないような優しい声で話す。この黒田が、アツシの義姉同様、引きこもりがちのアツシを気遣って、弁当の差し入れと共にアツシの下を訪れる(この弁当は、映画のもうひとりの主役、高橋瞳子のパート先で作ったものだ)。
この時もアツシは、被害者の立場なのに、世間からさんざん理不尽に扱われて爆発寸前になっていたのです。妻が殺されたショックで職を失い、健康保険料の支払いが滞って現在抱えている鬱病の治療が思うように受けられない。役所の窓口で助けてもらおうとしても木で鼻を括ったような対応をされる。妻を殺した犯人の判決が出れば、心神喪失の主張が通ってろくに罰せられることすらない。ならば民事で闘おうとしても弁護士は誠意のカケラも見せてくれない。(この弁護士が三番目の主役の四ノ宮)。
だけど不思議なことに、アツシはどんなに怒りを抱えても、決してその怒りを他人に向けようとはしないのですね。役所の窓口でも、嫌味な係員に掴みかかったりしないし、犯人が措置入院になったことを知っても、家具を蹴り飛ばしたりして周りにいる人を怯えさせたりもしない。それほどの怒りですら、かれの善良さを歪めることはできなかったのだと思う。
それなのに、弁当持参で慰めてくれる黒田の前で、アツシは犯人をこの手で殺してやりたいと慟哭する。すると黒田が言うのですね。
殺しちゃダメだよ、殺しちゃうとさ、こうやって話せないじゃん。オレはあなたともっと話したいと思うよ。
話がしたいと、こんな、ドロドロの悲しみに溺れて、シャブにまで手を出そうとして、自殺までしようとして、それでもなぜか転落できなくて、口を開けばとめどなく恨み節ばかり滝のようにほとばしってしまうのに、話がしたいと、あなたともっと話がしたいと、言ってくれる誰かがいた。
だったら、もしかしたら、できるのかもしれない、こうして生きていることを、少しでも、ほんの少しでも、肯定することが。
どんなに誰かが優しい言葉で慰めてくれたとしても、どんなに誰かが悲しみの受け皿になってくれたとしても、悲しみが消え去ることはない、決してない。それはいつだってそこにいて、不意打ちに襲い掛かってくる。今、喪失で苦しいアツシは、ずっとその苦しみと共に生きていくしかない。だけどそんな、苦痛と共にある人生でも、それでもよしと、思えれば、たとえほんの少しだけでも。
黒田の存在がアツシの人生で大きなパートを占めるというわけではないのです。かれらは一緒に暮らしているわけですらない。所詮は会社の同僚なんです。仮にアツシがあの会社をやめたら、それきり会うこともないかもしれない。だから、そこにあるのは絶対的な救いなんかじゃ決してない。ほんのささいなきっかけに過ぎない。
だけど、どうしようもなく絶望してしまっても、ほんのささいなきっかけがあれば、あるいは明日もまた、生きていくことができるのではないか?
ラストシーンはそれを暗示するどこまでも明るい空が、ビルの合間に覗いているのです。その穏やかさには、ほんとに胸が痛くなるのです。
というのがアツシのパート。瞳子のパートと四ノ宮のパートは、またそれぞれテーマが違うのです。四ノ宮のパートは、自身同性愛者であることをカミングアウトされている橋口監督にとっては普遍的なテーマを内包したものであると思うし、瞳子のパートで提示されている問題の面白さときたら他に類を見ないと思えるほどで、それはそれでまたじっくり考察したい気持ちもあるのだけれど、映画を観た素直な感想としては、これはアツシに関する映画であったなぁ、と思うのでした。
・恋人たち@ぴあ映画生活]]>
ベル&セバスチャン
http://kinoer.exblog.jp/22567434/
2015-11-30T18:32:00+09:00
2015-12-04T18:20:03+09:00
2015-11-26T19:20:21+09:00
shirakian
映画は行
ニコラ・ヴァニエ監督のフランス映画です。
原題は"BELLE ET SEBASTIEN"。
原作はセシル・オーブリーの『アルプスの村の犬と少年』。この小説は80年代に「名犬ジョリィ」というタイトルでTVアニメ化され人気を博したそうですが、原作未読、アニメの方も知りませんでした。
だったらなんで観ようと思ったのかと言うと、まずひとつは、今期は3本の犬映画を観ようと思っていて、この作品がその第一弾に当たること。ほかの2作というのは、『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』と『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』。どっちもタイトル長いよ。
そしてもうひとつは、主演の少年の面構えが大変よろしかったことです。や、かわいらしい少年なんですけれどもね、なんかこう、児童劇団のスター的飼い慣らされたかわいらしさじゃなくて、野趣あふれるというか、要するに、うん、面構えがよろしかった。
三つめは、ベルを演じた犬が、大変ふかふかであったこと。山がそこにあるから登るひとがいるのなら、犬がふかふかだから観るひとがいたっていいじゃな~い。
1943年、アルプスの麓の寒村。戦火とは無縁に見えるこんな小さな村にも、ドイツ軍が駐留してきた。ナチスの手を逃れスイスに向かうユダヤ人の逃走を幇助していると思われる村を監視するためだった。村人たちは表向きはドイツ軍に従順にふるまいつつ、裏ではユダヤ人らを助け、スイスへの道案内をしていたのだ。一方、ドイツ軍の中にも、情報を村人に流す内通者がいるらしかった。
そんな大人たちの事情とは無縁に、少年セバスチャン(フェリックス・ボッスエ)は学校にも行かず、毎日野山を駆け回って暮らしていたが、村の周辺には“野獣”と呼ばれる野犬が出没していた。かつて飼い犬だった野獣は、虐待され、人間不信に陥ってしまい、もう人間に心を開くことはできまいと思われていたのだ。しかし、そんな野獣と遭遇した少年は、野獣が決して獰猛な獣などではないことを見抜き、ベルと名付けて友情を育んでいった。
という物語は純然たるファミリー映画ではあるんですが、良質の子ども向きは、決して所詮子どもだからと妥協した映画ではなく、子どもだからこそと全力を尽くした映画であることの見本であるかのような、ほんとに上等の映画です。大人の鑑賞に十二分に耐える。
何よりも素晴らしいのがとにかく、ロケーション、ロケーション、ロケーション。雄大で峻烈で美しいアルプスの山並みを見事に捉えたカメラワーク。冬に向かう山の色と完璧に調和した人々の暮らしの中の色彩。そんな天然の美の中で、ひときわ目をひく、若い娘の真っ赤なドレス。
中でも特に感動したのが、冬山のシーンを走るまっ白い犬です。一面の白の中で白い被写体を撮るなんて、わたしがカメラマンなら泣いて嫌がるところですが、どういうテクニックだかトリックだかマジックだか、決して雪の色に埋没することなく生き生きと白犬ベルの動きを捉えて見せた映像が、ほんとにすばらしいのです。
セバスチャンはセザールという老人(チェッキー・カリョ)と暮らしているのだけど、どうやらセザールはセバスチャンと血の繋がった祖父ではないらしい。セバスチャンの母親は、事情はわからないけれど、「アメリカにいる」ということになっていて、アメリカという国はアルプスを越えた山の向うにあるらしい。そして間もなくやって来るクリスマスの日に、きっとお母さんは帰って来る。ほしかったプレゼントを携えて。というのが最近のセバスチャンの頭の大半を占める最重要課題。
セバスチャンがほしい物というのは、村長さんが持っていて、時々取り出して使っている羅針盤つきの懐中時計なんですね。何もない山奥の村で少年が目にする品物の中では、とびぬけて最高にカッコイイ品物であるには違いない。
この物語は大きく分けると二つの葛藤から成り立っています。
一つ目は、ベルが決して野獣ではないことを人々の共通認識にできるかどうか。
二つ目は、セバスチャンがクリスマスに母親と再会できるかどうか。
一つ目については、銃で撃たれ純白の被毛を鮮血に染めるベルとか、崖から滑落してロープ一本でぶら下がっているベルとか、短い予告編の中に幾つも危機一髪のシーンが見られましたので、ベルが市民権を得るまでの間、ハラハラそわそわ気が気ではなかったのですが、そこはそれ、ファミリームービーですから、ベルの怪我はちゃんとお医者さんに診てもらえるし、崖から落ちかけたら全員が必死に助けてくれます。
要するに、ベルが賢いステキな犬であることを人々が認知するに至るまで、さほどの時間を要さなかったわけですが、認知されるについても納得のいくイベントが仕込んでありましたし、セバスチャンが一目でベルの本質を見抜くについても、くだくだしく段取り的な描写を重ねなくても、セバスチャンという独特の存在感のある少年のおかげで、目と目で見つめあうだけでわかりあえる魂のとき、という描写がすんなり腹に落ちる感じです。
ところが二つ目についてはそんなにうまくはいかなかった。
そもそもが、セザールがセバスチャンに語った全てが、悉く嘘だったのですね。あの山の向うはアメリカなんかじゃない。お母さんはアメリカなんかにいやしない。アメリカは遠いの、とセバスチャンに尋ねられれば、さあなぁ、アメリカに行ったことないからわからんよ、とはぐらかす。どうしてセザールはそんな心無い嘘をつかねばならなかったのか。
それは厳しい現実から目を逸らすセザール自身の怯懦だったし、幼いセバスチャンを厳しい現実から守ってやりたいという虚しいあがきの結果だった。お母さんはクリスマスにセバスチャンに会いには来れない。
セザールはせめてこれだけは、と、村長の下を訪れ、なけなしの貯金をはたいたのか、泣き落としをしたのか、詐欺まがいのことをしたのか、わかりませんが、とにかく村長の羅針盤つきの時計を手にいれた。そしてそれをセバスチャンにプレゼントした。
ほしくてたまらなかったカッコイイ時計。それを手にした瞬間、セバスチャンの顔はぱあっ、と輝くのですが、しかし次の瞬間、笑顔はふっと掻き消える。
「お母さんは?」
「お母さんがプレゼントの時計を持ってクリスマスに帰って来る」、お題目のように毎日唱えていたその呪文の、ほんとのほんとに肝心なところは、決して「プレゼントの時計」なんかじゃなかった。お母さんが帰って来る、ただそれだけ。お母さんさえ帰って来てくれるなら、時計なんかほんとはどうでもよかった。時計だけ手に入ったってしょうがない。だってお母さんはどこ?
その悲しいクリスマスの日、セバスチャンは結局、セザールから「真実」というプレゼントを受け取るのです。逞しく山で生活する少年は、銃を持ったドイツ兵にもひるまない、トモダチのベルを大人たちから守り抜く根性と知略がある、そんなセバスチャンであればこそ、お母さんを巡る真実の物語も、しっかりと受け止める素地がもうできている。
フェリックス・ボッスエ以外の役者さんについて言えば、ドイツ軍人を演じたアンドレアス・ピチューマンが大変美貌でした。この人が悪い人でなくてよかった。そしてチェッキー・カリョはいいカンジにおじいちゃんになってきてて大変喜ばしいと思いました。
あとね、ベルって登場シーンでは、灰色に薄汚れた大変汚っこい姿なんですよ。全身まんべんなく汚れているので、もとから灰色の犬かと思っちゃうくらい。だけど、あまりの臭さにセバスチャンが洗ってやると、輝くばかりの純白の犬であることが発覚するわけです。なんかそれって、クラスでも目立たない地味な図書委員の女の子が、眼鏡をはずすとあっと驚く美少女でした、という描写に相通ずるものが。
・ベル&セバスチャン@ぴあ映画生活]]>
コードネーム U.N.C.L.E.
http://kinoer.exblog.jp/22544756/
2015-11-26T18:45:00+09:00
2016-03-22T21:55:51+09:00
2015-11-22T19:01:43+09:00
shirakian
映画か行
ガイ・リッチー監督のイギリス映画です。
原題は"THE MAN FROM U.N.C.L.E."。
60年代に一世を風靡したTVドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のリメイク作品ですが、テレビシリーズの方は断片的にしか知りません。ソロとイリヤ、それぞれが元CIAとKGBのエージェントだった、とかいうのも今回初めてほぉそういうことでしたか、と認識したくらいなので、オリジナルとのイメージの違いがどうこう、とかいう不満も感嘆もどっちも全くありません。なので普通に楽しんで観ました。
東西冷戦のさなかのヨーロッパ。本来敵対する立場の米ソ両国の諜報部が協力を余儀なくされる事態が発生した。ナチスの残党に核弾頭およびその設計図が渡ろうとしていたのだ。
というわけで、CIAとKGBがそれぞれ語学に長けた有能なエージェントを供出し、手を組んでミッションを行うことになり、それに東ドイツの物理学者の娘だの、イタリアの大富豪だの、裏で糸ひく英国情報部(ヒュー・グラントの食えなさ加減が最高)だのが絡むという王道スパイアクション。
時代設定を敢えてオリジナルと同じ60年代にもってきたのが功を奏して、ガイ・リッチー監督のスピーディでスタイリッシュな演出とも好相性、はまるべきピースがはまるべき場所にピタリと納まった的な快感があります。この素材とリッチー監督という巡り合わせ、監督本人にも観客にも幸運なマッチングだったと思います。
まずなんと言っても60年代のファッションとか風俗とかガジェットとかの描写が楽しい。特に事件に絡む物理学者の娘であったため協力することになった自動車整備士のギャビー(アリシア・ヴィカンダー)が、なんとなく若き日の加賀まりこ風のキュートさなんですが、このキュートなお嬢さんが当時の先端ファッションをとっかえひっかえしてくれるのが大変目の保養。
参考画像:若い頃の加賀まりこ。いや、そこは普通にアリシア・ヴィカンダーの画像貼ろうよ。
で、そのギャビーの衣装を見たてるのが、洒落もののアメリカ人ではなく、堅物KGBのイリヤの方、というのがまたおかしい。かれはあれで女性のファッションにはかなりの拘りがあるようです。カレシにすると面倒くさいタイプね。
そのイリヤ・クリヤキンを演じたアーミー・ハマーが大変コメディ・センスのあるひとだというのは過去作の『白雪姫と鏡の女王』なんかですでに証明済ですが、一方のナポレオン・ソロを演じたヘンリー・カヴィルというひとは、小粋とか気障とかを演じて寒くならない洗練された雰囲気がちゃんとあって、こちらもはまり役でした。イリヤもソロもそれぞれとっても愛嬌があって好ましいです。
面白かったシーンはやっぱ、ソロとイリヤ、ふたりでボートで逃走中に、ソロが振り落とされたことに気づかないイリヤを後目に、ちゃっかり安全圏に上陸したソロは、たまたま止めてあった他人の車に乗り込んで、たまたま置いてあったサンドイッチなんかを楽しんで高みの見物、しかしいよいよイリヤのボートが沈没するや、車ごと海に飛び込んでイリヤを救出する、という一連のシーンとかね。危機に際して慌てず騒がずいつも心に太陽を的ガロウズ・ユーモアの描写が効いてて、そこにリッチー監督の「スタイリッシュ」が綺麗にマッチして楽しい好シーンでした。
ソロとイリヤが正式に顔合わせをするシーンで、公園の池に面した小じゃれたカフェの小さなテーブルに、スパイとそれぞれの上司、大の男が四人膝すり合わせて座ってる絵柄自体も滑稽でナイスでしたが、一通りの説明が終わり、「それでは、あとは若いふたりで」と上司ふたりが席を立つと、カフェに居合わせていた全ての客たちが一斉に席を立つ(客の全員がそれぞれの情報機関の見張り要員だった)とかいうシーンも楽しかった。
あと、敵地に乗り込む際に、散らばって侵入する突撃部隊の動きを分割画面で描写する演出なんかも、無駄にモタモタ時間をくわずにすむのみならず、コミックブックのコマワリを意識した楽しさがあって、60年代の演出に対するオマージュであると同時に、新しい「かっこよさ」を創出するのに成功していたシーンだと思います。
そうそう、そう言えば、サッカーのベッカムが出てましたよ。KGBのブリーフィングのシーンで、イリヤに見せるスライドを映写する係。選手引退後はこんな仕事をしてらしたのね(違)。カメオみたいな役ですが、ベッカムとリッチー監督ってオトモダチなのかしら。
総じて、特にあれこれ語りたくなる映画というわけでもないんだけど、気持ちよく楽しく鑑賞できて、続編があるならモースト・ウェルカム!という観て損のない一本でした。
・コードネーム U.N.C.L.E.@ぴあ映画生活]]>
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