2009年 05月 31日
THIS IS ENGLAND
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うっかり間があいてしまいました。
“ブログなんだから、毎日更新したいよね”計画から、また一歩遠ざかってしまいました……。それって計画だったんでしょうか。
本日のお題は『This is England』(邦題もコレです。もはやカタカナですらないのね)です。
ロバート・カーライル&リス・エヴァンスの『家族のかたち』を撮った、シェーン・メドウス監督の2006年作品。日本公開には完成から3年を要したことに。
1983年、英国病と闘うサッチャー首相が「小さな政府」を目指し、福祉や教育関係の予算をガンガン削減していく一方で、国の威信をかけ、はるか南米はアルゼンチンの沖合いにあるフォークランド諸島で戦争をしていた時代のお話。
12歳の少年ショーン(トーマス・ターグーズ)は、父親をこのフォークランド紛争で亡くしており、学校では毎日のようにいじめられ、12歳にして人生真っ暗です。
そんなショーンがふとしたことから出会ったのが、ウディー(ジョー・ギルガン)らスキンヘッドのグループ。不良少年とは言うけれど、リーダーのウディーはいいやつで、落ち込んでいるショーンを「笑わせる」ことで元気付けようとしてくれるばかりか、自分たちの仲間のひとりとしてショーンを受け入れ、そのファッションを共有させてくれるのでした。
ドクター・マーティンのブーツやベン・シャーマンのシャツ、そしてバリカンで刈り上げた頭。それが似合おうが似合うまいが、ファッションとしていけていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。その服装が許されることは、その集団の一員であることを意味し、その帰属意識は、常に疎外感を感じていたショーンにとってはかけがえのないものでした。
しかもショーンは、ウディーのグループのひとり、スメルと呼ばれる年上の少女(ロザムンド・ハンソン)に恋をする。年上であるのみならず、スメルの方が15㎝は背が高く、しかも彼女は当時の流行をとりいれたボーイ・ジョージ風の過激なメイク。まるきり小僧っこのショーンと、濃厚メイクの長身の少女。外見的には釣り合わないにもほどがあるのに、ふたりの間には、ほのぼのとした愛情が芽生えるのでした。
話がそれだけなら、これは心温まるひとりの少年の青春譜です。ひとりぼっちだった少年が、仲間に見出され、帰属する場所を得て、ばかをやったり無茶をやったりアルコールやタバコなんかにも手をだしちゃったりしつつ、イギリスの片隅で、ゆるゆると成長していくノスタルジックなお話です。
しかしこれは、伊達に1983年を舞台にしたわけじゃない。
この時代に萌芽(というか、顕在化というべきか)した社会的問題は、いまやイギリス一国の抱える問題ではなく(特に最近の日本の状況を観れば、酷似しているとしかいいようがありません)、また、目に見えるその事象のみに留まらない、人間社会というものを考えるときの普遍的根本的な問題として、まさに提起されているからです。
つまり、ショーン少年の青春譜を慈しむと同時に、社会の抱える病と、若者や貧困や弱者や教育や政治といったものについて、鋭く明かりを当ててみせた映画でもあるのだなぁ、と思います。
ただでさえ分厚い階級の壁があるイギリス社会。貧困は世代から世代へ受け継がれていき、抜け出すことは容易でないのに、時の政府の切り捨てにあい、いままでなら自分たちの領分だった仕事からもどんどん追い出されていきます。その隅間を埋めるのは、もっと安い賃金でその職を請け負う移民たちです。
この辺りの構造は、まじめなケン・ローチ監督のまじめな映画、『この自由な世界で』を併せて観ると、補完的にわかりやすいのじゃないかしら、と思います。
自分で自分の身を守れない下層労働者たちの怒りは、冷酷な政府に向かうよりさきに、自分たちより弱い存在へと容易に向かっていきます。移民への憎悪や怒りは、歪んだナショナリズムの形をとって、意味のない卑怯な攻撃へと姿を変えていく。
ウディーたちの「罪のない」グループに忽然と現れ、仲間を分裂させ、危険なナショナリズムに引きずり込んだ年長の男、コンボ(スティーヴン・グレアム)自身が、典型的な「負け犬」でした。少年たちには威圧的にふるまうことができても、所詮は職も持たない前科者です。淡い恋には破れ、見下していたはずのジャマイカ人の青年が、思いがけず豊かなファミリーの愛情に恵まれていることを知り、深く傷ついてしまうのです。
そんな男の説く薄っぺらな「愛国心」ではあったけれども、父親の死を容認できないショーンにとって、その死が無意味なものであったと揶揄されるよりは、「祖国」のための戦いであったと鼓舞される方が救いを感じます。まだ幼いかれが、急速に危険なナショナリズムにのめりこんでいった気持ちは否定できないのです。しかし、ナショナリズムといいつつ、かれらがやっていたことは、弱いものいじめの犯罪でしかない。自分たちを弱者と自覚している弱者は、より弱い獲物を求めてやまず、かくていじめの連鎖は広がっていきます。
不幸な事件を通してではありましたが、幸いなことにショーンは、少なくとも自らの中で、そうした連鎖を断ち切ることに成功します。ラスト、いままでナショナリズムの象徴としてありがたがっていたイングランド国旗(ユナイテット・キングダムのユニオンジャックじゃなく、あくまでイングランドの赤と白の旗なのですね)を海に棄てるシーンには、不思議な開放感があります。
ところでこの映画は、シェーン・メドウス監督の自伝的な物語であるそうです。であれば、あのショーン少年は、長じて映画監督になったということになります。
社会の隅で朽ちていくのではなく、物を作ることによって日の目を見ることができた。クリエーターというどこの階級にも属さぬものになることにより、分厚い階級の壁を越えることができたというわけです。逆に言えば、固定化された階級を持つ社会では、クリエーターという「別格」の存在にならぬ限り、その壁を越えることは難しい、ということでもあるけれど。
……たぶんそれは、イギリスに限らず、どこの社会でも同じじゃないかと思うのです。
“ブログなんだから、毎日更新したいよね”計画から、また一歩遠ざかってしまいました……。それって計画だったんでしょうか。
本日のお題は『This is England』(邦題もコレです。もはやカタカナですらないのね)です。
ロバート・カーライル&リス・エヴァンスの『家族のかたち』を撮った、シェーン・メドウス監督の2006年作品。日本公開には完成から3年を要したことに。
1983年、英国病と闘うサッチャー首相が「小さな政府」を目指し、福祉や教育関係の予算をガンガン削減していく一方で、国の威信をかけ、はるか南米はアルゼンチンの沖合いにあるフォークランド諸島で戦争をしていた時代のお話。
12歳の少年ショーン(トーマス・ターグーズ)は、父親をこのフォークランド紛争で亡くしており、学校では毎日のようにいじめられ、12歳にして人生真っ暗です。
そんなショーンがふとしたことから出会ったのが、ウディー(ジョー・ギルガン)らスキンヘッドのグループ。不良少年とは言うけれど、リーダーのウディーはいいやつで、落ち込んでいるショーンを「笑わせる」ことで元気付けようとしてくれるばかりか、自分たちの仲間のひとりとしてショーンを受け入れ、そのファッションを共有させてくれるのでした。
ドクター・マーティンのブーツやベン・シャーマンのシャツ、そしてバリカンで刈り上げた頭。それが似合おうが似合うまいが、ファッションとしていけていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。その服装が許されることは、その集団の一員であることを意味し、その帰属意識は、常に疎外感を感じていたショーンにとってはかけがえのないものでした。
しかもショーンは、ウディーのグループのひとり、スメルと呼ばれる年上の少女(ロザムンド・ハンソン)に恋をする。年上であるのみならず、スメルの方が15㎝は背が高く、しかも彼女は当時の流行をとりいれたボーイ・ジョージ風の過激なメイク。まるきり小僧っこのショーンと、濃厚メイクの長身の少女。外見的には釣り合わないにもほどがあるのに、ふたりの間には、ほのぼのとした愛情が芽生えるのでした。
話がそれだけなら、これは心温まるひとりの少年の青春譜です。ひとりぼっちだった少年が、仲間に見出され、帰属する場所を得て、ばかをやったり無茶をやったりアルコールやタバコなんかにも手をだしちゃったりしつつ、イギリスの片隅で、ゆるゆると成長していくノスタルジックなお話です。
しかしこれは、伊達に1983年を舞台にしたわけじゃない。
この時代に萌芽(というか、顕在化というべきか)した社会的問題は、いまやイギリス一国の抱える問題ではなく(特に最近の日本の状況を観れば、酷似しているとしかいいようがありません)、また、目に見えるその事象のみに留まらない、人間社会というものを考えるときの普遍的根本的な問題として、まさに提起されているからです。
つまり、ショーン少年の青春譜を慈しむと同時に、社会の抱える病と、若者や貧困や弱者や教育や政治といったものについて、鋭く明かりを当ててみせた映画でもあるのだなぁ、と思います。
ただでさえ分厚い階級の壁があるイギリス社会。貧困は世代から世代へ受け継がれていき、抜け出すことは容易でないのに、時の政府の切り捨てにあい、いままでなら自分たちの領分だった仕事からもどんどん追い出されていきます。その隅間を埋めるのは、もっと安い賃金でその職を請け負う移民たちです。
この辺りの構造は、まじめなケン・ローチ監督のまじめな映画、『この自由な世界で』を併せて観ると、補完的にわかりやすいのじゃないかしら、と思います。
自分で自分の身を守れない下層労働者たちの怒りは、冷酷な政府に向かうよりさきに、自分たちより弱い存在へと容易に向かっていきます。移民への憎悪や怒りは、歪んだナショナリズムの形をとって、意味のない卑怯な攻撃へと姿を変えていく。
ウディーたちの「罪のない」グループに忽然と現れ、仲間を分裂させ、危険なナショナリズムに引きずり込んだ年長の男、コンボ(スティーヴン・グレアム)自身が、典型的な「負け犬」でした。少年たちには威圧的にふるまうことができても、所詮は職も持たない前科者です。淡い恋には破れ、見下していたはずのジャマイカ人の青年が、思いがけず豊かなファミリーの愛情に恵まれていることを知り、深く傷ついてしまうのです。
そんな男の説く薄っぺらな「愛国心」ではあったけれども、父親の死を容認できないショーンにとって、その死が無意味なものであったと揶揄されるよりは、「祖国」のための戦いであったと鼓舞される方が救いを感じます。まだ幼いかれが、急速に危険なナショナリズムにのめりこんでいった気持ちは否定できないのです。しかし、ナショナリズムといいつつ、かれらがやっていたことは、弱いものいじめの犯罪でしかない。自分たちを弱者と自覚している弱者は、より弱い獲物を求めてやまず、かくていじめの連鎖は広がっていきます。
不幸な事件を通してではありましたが、幸いなことにショーンは、少なくとも自らの中で、そうした連鎖を断ち切ることに成功します。ラスト、いままでナショナリズムの象徴としてありがたがっていたイングランド国旗(ユナイテット・キングダムのユニオンジャックじゃなく、あくまでイングランドの赤と白の旗なのですね)を海に棄てるシーンには、不思議な開放感があります。
ところでこの映画は、シェーン・メドウス監督の自伝的な物語であるそうです。であれば、あのショーン少年は、長じて映画監督になったということになります。
社会の隅で朽ちていくのではなく、物を作ることによって日の目を見ることができた。クリエーターというどこの階級にも属さぬものになることにより、分厚い階級の壁を越えることができたというわけです。逆に言えば、固定化された階級を持つ社会では、クリエーターという「別格」の存在にならぬ限り、その壁を越えることは難しい、ということでもあるけれど。
……たぶんそれは、イギリスに限らず、どこの社会でも同じじゃないかと思うのです。
by shirakian
| 2009-05-31 21:46
| 映画た行