2009年 05月 18日
ぼくが天使になった日
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シニーズ探訪の四。
制服警官時代のマック・テイラーを鑑賞しましょう(笑)。
1999年の映画です。監督はシャーリー・マクレーン。「宗教家でもある彼女が10年来あたためてきたオリジナルストーリー」(allcinema)であるそうで、カトリック学校に通っている8歳のブルーノ少年が主人公です。
ブルーノのパパはママと離婚して家を出てしまい、過食症に陥ったママは400ポンドを越える巨体と化していた。ブルーノは学校では結構エグイいじめにあっているのに、シスターたちは、いじめられるブルーノの協調性のなさを矯正しようとするばかりで、いじめる子どもたちを叱ろうとしません。そんなブルーノの夢は語源学者。辞書は友だち、スペリングコンテストでの優勝を目指し、日々知識の吸収に余念がありません。
あるとき、学校に転校生がやって来ました。シャンクアは、アタシはアタシのやりたいようにやる、先生にノーというのも、赤いテンガロンハットを被っているのも、みんなアタシなりの自己主張、と言い切ってはばからない黒人の女の子。共にはみだしっこのブルーノとシャンクアは、徐々に友情をはぐくんで、やがてベストフレンドになっていきます。
という基本的な流れだけを見ると、普通にハートウォーミングでよさげな感じなんですが、どうも全体的に「もう少しがんばりましょう」という印象になってしまうのはなぜなのかしら……。
離婚家庭、フリークスっぽい母親、それだけでもいじめの条件は整っている上に、辞書が大好きでホッケーは苦手、友だちなんかいなくったってへっちゃら、そんなブルーノは典型的ないじめられっこです。そして、さらにその上、かれは、女の子のドレスを着るのが大好きときています。……こんな言い方はヒドイけど、これじゃやっぱり、いじめられるよね……。
この映画が「今一歩」と感じられた理由のひとつが、実はこのブルーノの衣装倒錯(というのかどうか?)の描き方にあるように思えます。実はブルーノは、別に女装がしたいわけではなく、夢に現れた天使のお告げのビジョンに基づく「より神様に近づくためのコスチューム」として綺麗なドレスを選んだだけなんだそうです。つまりは神のご意志だと。古来さまざまな偉人や権力者や勇者や宗教家たちがスカートやローブに身を包んでいたのと同じだと。そこが「宗教家」たるシャーリー・マクレーンの拘りどころだったのかもしれませんが、いやぁ、どう考えても、もっと素直に、ブルーノは女の子になりたい男の子なんだ、という話にした方がすっきりしたように思えてしまうのだけど。
だって、ブルーノの「女々しさ」こそが、この家族を語るに欠かせないキーワードになっているんですもん。ここで神様の話なんかもちだしたら、テーマがGUDAGUDAになってしまうと思うのだけど。
400ポンドのママを捨てたブルーノのパパというのが、ゲイリー・シニーズです。シニーズは警官であります。制服姿がとっても凛々しいです。私服の黒Tとジーンズ姿もワイルドでオットコマエ。
ところが、実はこの男らしいおまわりさん、ポエムやオペラが大好きな、「女々しい」男だったのです。
シニーズのママであるシャーリー・マクレーンは、所謂「男勝り」な猛女です。そんなママがシニーズの女々しさを許してくれるはずがありません。シニーズ少年は、男らしくしなさい、と頭をおさえつけられて成長しました。その延長線上で選んだ職業がマッチョの右代表である警官だったわけです。
ブルーノのママの言うところによると、新婚のころ、シニーズは400ポンド(になる前のスレンダーな)妻に、ポエムを読み、オペラを歌って聞かせていたそうです(シニーズのオペラ、聴きたいんですけどっ!)。つまり、シャーリー・ママの薫陶虚しく、シニーズの「女々しさ」は矯正されることなく、水面下に潜んだ状態で大人になったということです。男らしい警官の制服の下で、シニーズは妻とふたり、女々しい自分をさらけだせる家庭を築いていたと推測されるのです。
ところがシニーズは、せっかく自分をさらけだせていた(と思われる)家庭を棄て、マッチョな仮面の下に隠れてしまう。それがなぜなのか、わからない。や、現状を見れば、400ポンドの妻とシニーズが結婚していた、ということの方がビックリに思えるわけですが、妻だって最初から400ポンドだったわけじゃありません。彼女は、ストレスからくる過食症の結果、こうなってしまったらしい。
ふたりの間に一体何があって離婚に至ってしまったのか、それについては全く語られていないのでわかりませんが、察するにシニーズ自身が、「素の自分」を直視することに耐えられなくなったからのように思われます。その証拠に、離婚後のかれの言動は、新婚時代の素直な生き様から思い切り反動的な、「一見マッチョ」路線を突っ走っているからです。新しいパートナーに、いかにもオンナオンナした悪い意味で女っぽい女性を選んでみたり、ホッケーで活躍できない息子を冷たくつきはなしたり。
本当なら、そもそも自分が自らのアイデンティティが周りに認めてもらえない、というブルーノが抱えているのと同じ問題で苦しんできたのですから、どうやって自分を失わずに世間と折り合いをつけていけばいいのか、ブルーノと一緒に悩み考え、自分もまた一緒に成長していけばいいものを、シニーズパパ、息子にひどく冷たいのです。
いや、冷たいというのは無関心ということですから、シニーズは決して冷たいわけではないのですね。関心がないどころか、ブルーノが気になって仕方がないのですから。それなのに、ブルーノの姿を目の当たりにし、やることを目にするにつけ、ウンザリしてしまう、拒否したくなってしまう、なかったことにしてしまいたくなる。
物語のラスト、スペリングコンテストの全国大会で優勝し、ローマ法王の謁を賜る栄誉を得たブルーノ。そんな息子を「こっそり」空港まで見送りに来てしまうシニーズ。シニーズからは特に何の言葉をかけるわけでもなかったのだけど、ブルーノが気づいて駆け寄って来てくれます。
そして8歳の少年が、もたもたと足踏みするだけの父親に、自分は胸を張って自分の道を歩いていくのだということ、父親のネグレクトも無理解も暴言も、みんな許しているということ、愛しているということ、そういうメッセージを力強い握手でもって伝えてくれるのです。
ひとはだれだって、自分らしく生きる権利がある。だけど、自分らしく生きるためには、時に世間と闘わなければならないこともある。パパはいまだにそういう事実に対し、腹を据えることができなくて、母親に対する反発や妻との離婚といった形でしかアイデンティティを保てないでいるのに、幼い息子の方が、堂々とそこに辿り着いてしまいました。
というわけで、このドラマのシニーズ的楽しみは、ひとえにこのおまわりさんの人間的弱さにあります。事態がままならないとき、辛くてたまらなく思えるとき、カッコイイおまわりさんのシニーズは、ロッカールームでひとり、ラジカセでオペラを聴きながらぽろぽろ泣いちゃったりするのです。ああ、ダニー・メッサーに見せてやりたい(>_<)!
制服警官時代のマック・テイラーを鑑賞しましょう(笑)。
1999年の映画です。監督はシャーリー・マクレーン。「宗教家でもある彼女が10年来あたためてきたオリジナルストーリー」(allcinema)であるそうで、カトリック学校に通っている8歳のブルーノ少年が主人公です。
ブルーノのパパはママと離婚して家を出てしまい、過食症に陥ったママは400ポンドを越える巨体と化していた。ブルーノは学校では結構エグイいじめにあっているのに、シスターたちは、いじめられるブルーノの協調性のなさを矯正しようとするばかりで、いじめる子どもたちを叱ろうとしません。そんなブルーノの夢は語源学者。辞書は友だち、スペリングコンテストでの優勝を目指し、日々知識の吸収に余念がありません。
あるとき、学校に転校生がやって来ました。シャンクアは、アタシはアタシのやりたいようにやる、先生にノーというのも、赤いテンガロンハットを被っているのも、みんなアタシなりの自己主張、と言い切ってはばからない黒人の女の子。共にはみだしっこのブルーノとシャンクアは、徐々に友情をはぐくんで、やがてベストフレンドになっていきます。
という基本的な流れだけを見ると、普通にハートウォーミングでよさげな感じなんですが、どうも全体的に「もう少しがんばりましょう」という印象になってしまうのはなぜなのかしら……。
離婚家庭、フリークスっぽい母親、それだけでもいじめの条件は整っている上に、辞書が大好きでホッケーは苦手、友だちなんかいなくったってへっちゃら、そんなブルーノは典型的ないじめられっこです。そして、さらにその上、かれは、女の子のドレスを着るのが大好きときています。……こんな言い方はヒドイけど、これじゃやっぱり、いじめられるよね……。
この映画が「今一歩」と感じられた理由のひとつが、実はこのブルーノの衣装倒錯(というのかどうか?)の描き方にあるように思えます。実はブルーノは、別に女装がしたいわけではなく、夢に現れた天使のお告げのビジョンに基づく「より神様に近づくためのコスチューム」として綺麗なドレスを選んだだけなんだそうです。つまりは神のご意志だと。古来さまざまな偉人や権力者や勇者や宗教家たちがスカートやローブに身を包んでいたのと同じだと。そこが「宗教家」たるシャーリー・マクレーンの拘りどころだったのかもしれませんが、いやぁ、どう考えても、もっと素直に、ブルーノは女の子になりたい男の子なんだ、という話にした方がすっきりしたように思えてしまうのだけど。
だって、ブルーノの「女々しさ」こそが、この家族を語るに欠かせないキーワードになっているんですもん。ここで神様の話なんかもちだしたら、テーマがGUDAGUDAになってしまうと思うのだけど。
400ポンドのママを捨てたブルーノのパパというのが、ゲイリー・シニーズです。シニーズは警官であります。制服姿がとっても凛々しいです。私服の黒Tとジーンズ姿もワイルドでオットコマエ。
ところが、実はこの男らしいおまわりさん、ポエムやオペラが大好きな、「女々しい」男だったのです。
シニーズのママであるシャーリー・マクレーンは、所謂「男勝り」な猛女です。そんなママがシニーズの女々しさを許してくれるはずがありません。シニーズ少年は、男らしくしなさい、と頭をおさえつけられて成長しました。その延長線上で選んだ職業がマッチョの右代表である警官だったわけです。
ブルーノのママの言うところによると、新婚のころ、シニーズは400ポンド(になる前のスレンダーな)妻に、ポエムを読み、オペラを歌って聞かせていたそうです(シニーズのオペラ、聴きたいんですけどっ!)。つまり、シャーリー・ママの薫陶虚しく、シニーズの「女々しさ」は矯正されることなく、水面下に潜んだ状態で大人になったということです。男らしい警官の制服の下で、シニーズは妻とふたり、女々しい自分をさらけだせる家庭を築いていたと推測されるのです。
ところがシニーズは、せっかく自分をさらけだせていた(と思われる)家庭を棄て、マッチョな仮面の下に隠れてしまう。それがなぜなのか、わからない。や、現状を見れば、400ポンドの妻とシニーズが結婚していた、ということの方がビックリに思えるわけですが、妻だって最初から400ポンドだったわけじゃありません。彼女は、ストレスからくる過食症の結果、こうなってしまったらしい。
ふたりの間に一体何があって離婚に至ってしまったのか、それについては全く語られていないのでわかりませんが、察するにシニーズ自身が、「素の自分」を直視することに耐えられなくなったからのように思われます。その証拠に、離婚後のかれの言動は、新婚時代の素直な生き様から思い切り反動的な、「一見マッチョ」路線を突っ走っているからです。新しいパートナーに、いかにもオンナオンナした悪い意味で女っぽい女性を選んでみたり、ホッケーで活躍できない息子を冷たくつきはなしたり。
本当なら、そもそも自分が自らのアイデンティティが周りに認めてもらえない、というブルーノが抱えているのと同じ問題で苦しんできたのですから、どうやって自分を失わずに世間と折り合いをつけていけばいいのか、ブルーノと一緒に悩み考え、自分もまた一緒に成長していけばいいものを、シニーズパパ、息子にひどく冷たいのです。
いや、冷たいというのは無関心ということですから、シニーズは決して冷たいわけではないのですね。関心がないどころか、ブルーノが気になって仕方がないのですから。それなのに、ブルーノの姿を目の当たりにし、やることを目にするにつけ、ウンザリしてしまう、拒否したくなってしまう、なかったことにしてしまいたくなる。
物語のラスト、スペリングコンテストの全国大会で優勝し、ローマ法王の謁を賜る栄誉を得たブルーノ。そんな息子を「こっそり」空港まで見送りに来てしまうシニーズ。シニーズからは特に何の言葉をかけるわけでもなかったのだけど、ブルーノが気づいて駆け寄って来てくれます。
そして8歳の少年が、もたもたと足踏みするだけの父親に、自分は胸を張って自分の道を歩いていくのだということ、父親のネグレクトも無理解も暴言も、みんな許しているということ、愛しているということ、そういうメッセージを力強い握手でもって伝えてくれるのです。
ひとはだれだって、自分らしく生きる権利がある。だけど、自分らしく生きるためには、時に世間と闘わなければならないこともある。パパはいまだにそういう事実に対し、腹を据えることができなくて、母親に対する反発や妻との離婚といった形でしかアイデンティティを保てないでいるのに、幼い息子の方が、堂々とそこに辿り着いてしまいました。
というわけで、このドラマのシニーズ的楽しみは、ひとえにこのおまわりさんの人間的弱さにあります。事態がままならないとき、辛くてたまらなく思えるとき、カッコイイおまわりさんのシニーズは、ロッカールームでひとり、ラジカセでオペラを聴きながらぽろぽろ泣いちゃったりするのです。ああ、ダニー・メッサーに見せてやりたい(>_<)!
by shirakian
| 2009-05-18 21:04
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