2009年 04月 06日
フロスト×ニクソン
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なんというか、もう、鳥肌がたつくらい、面白かったです。
アメリカの歴史上初めて任期途中で辞任に追い込まれた大統領と、その大統領に単独インタビューを挑んだ「トークショーの司会者」。
インタビューはボクシングの試合と同じ、という台詞がありましたが、なんのなんの、ボクシングどころか、これは完全に「戦争」です。両者互いにブレーンを集め、緻密なリサーチを重ね、敵を自らのフィールドに引きずり込み、自らの主張を通し、敵の失言を誘い、完膚なきまでに叩きのめすと同時に、自らの目的を達成する。準備期間を含め、そのやり取りのエキサイティングなことといったら、そんじょそこらのアクション映画なんかよりよっぽど大量のアドレナリンが吹き出すことまちがいなし。まさに手に汗握る二時間であります。
ニクソンを演じたのがフランク・ランジェラ、デヴィッド・フロストを演じたのがマイケル・シーン。その野心とは裏腹に、ついに一度もテレビメディアに愛されることのなかったニクソンと、本能的にテレビを味方につけ、愛されるために生まれてきたかのようなフロスト。「人好きのするきみが羨ましい。本当なら、わたしは学者にでもなって、きみこそ政治家になるべき男だったのだろう」……戦い終わり夜が明けて、しみじみと慨嘆するニクソンの台詞は、腹の底からの本音に聞こえます。
これはもともとが舞台劇で、ランジェラもシーンも、それぞれ舞台で演じたのと同じ役を演じていますから、キャラクターが自分のものになっている、とかそういうレベルではなく、ニクソンなりフロストなりと、自分自身との境界が曖昧になってしまってるんじゃないかと思いたくなるほどの、「なりきりっぷり」です。
「なりきりっぷり」というのは、物まね名人のそっくりっぷり、ということではなく、(現に、ランジェラとニクソンは外見的にはそんなにそっくりってわけじゃない)、フロストなりニクソンなりの、その時々の感情を、痛みも喜びも怒りも悲しみも虚しさも疲労も誇らしさもしてやったりとほくそ笑む気持ちも、全て確実に自分のものとして感じている、ということです。
インタビューの前後は、もちろん様々な創作がまじっていると思いますが、そもそもインタビューのシーンというのは、実際の映像が残っているわけですから、それと同じ台詞を、そのときニクソンなりフロストなりが感じていた感情を再現しつつ、役者として口にするとき、単なるそっくりな物まねではなく、ランジェラなりシーンなりが「演じることに意味がある」シーンにするというのは、これは相当にハードルの高いチャレンジであっただろう、とは容易に想像できることです。
インタビューの前夜、フロストもニクソンも安眠は難しかっただろうな、と思いますけど、たとえばこの舞台の初日前夜とか、映画の撮影前夜には、ランジェラとシーンもよく眠れなかったんじゃないかしら、と思ってしまうのです。
醜聞にまみれた元大統領への世紀のインタビュー、という構造をより一層面白くしているのが、デヴィッド・フロストの追い詰められた立場です。
かれはもとより、政治家の巨悪を暴かんとする良心的なジャーナリストではなく、スキャンダラスなインタビューをものにして、己のステップアップを目論むテレビ界の俗物です。最初の動機が全米3大ネットワークに進出、というものであったにもかかわらず、実際にインタビューを実現に持っていく過程で、フロストはどんどん追い詰められていき、ネットワークに作らせるはずだった番組は自主制作せざるを得なくなり、さらにろくにスポンサーすらついてくれず、巨額の借金を重ね、私財を投じるはめに陥ってしまいます。
もしこれが失敗したら、当初の目論見と比べれば、あまりにも手痛い損失になってしまう。事実、インタビューが始まり、しかもその流れが圧倒的にニクソンに有利に働いているという、フロスト側からしたら悪夢のような展開にありながら、ナーバスになって引きこもることすら許されず、スポンサーとの折衝に飛び回るフロスト。
そんなギリギリの崖っぷちに追い込まれていながら、フロストにはいまひとつ、決定打となる情報がなく、いや、そんなことより、情報があろうとなかろうと、何がなんでもニクソンを追い詰めてやる、という気迫に欠けているのです。
それはフロスト側の問題というより、ニクソンの圧倒的な迫力です。フロスト・チームはブレーンも含めて、ニクソンの怪物ぶりに飲まれてしまっていた、少なくとも最初のうちは。
それが、事実なのか脚色なのかは知りませんが、インタビュー最終日の前夜、フロストのもとに、酔ったニクソンからかかってきた一本の電話によって、及び腰だったフロストのジャーナリスト魂に火がついてしまう。ここからの畳み掛けるような展開が面白い。
結局、最終的にニクソンにウォーターゲート事件での誤りを認めさせるに到った情報は、実際にはどんなものでもよかったんじゃないかな、と思います。別にあそこで凄い新情報が出た、というような、ジャーナリスティックにサプライズな面白さではなく、どんな情報であれ、それを使っていかにニクソンを攻めることができたか、という一種の心理戦的側面の面白さです。
そして何よりも、このインタビューでニクソンが敗北した理由は、かれが何を言ったか、ではなく、そのときかれがどんな表情を浮かべたか、という点にあるのであって、そこがテレビの底力であり恐ろしさであり面白さでもある。あの表情を見せてしまったが最後、いままでどんな名演説で人々に感銘を与え、人心を掴んでいたとしても、全てがなかったことになってしまう。ニクソンは、いままでずっとこのテレビという魔物を手懐け、自分の武器にしようとしてきたのだけど、結局それを果たせなかった。それをやってのけたのは、かれが「トークショーの司会者」と高を括っていた、軟派なフロストの方だった。
この映画が台詞劇であることはまちがいなく、実際台詞の応酬がそれ自体でとても面白いのだけど、あの瞬間のニクソンの表情は、舞台ではなく、アップを映し出すことのできる映画で観られてよかったなぁ、としみじみ思うところです。それだけランジェラの表情がすばらしい。
今、ニクソンをテーマに映画を作るということは、やはりニクソンの功罪、というよりその「罪」を白日のもとに晒すことが求められているような気もしますが、この映画を観ると、恐らく多くのひとが逆にニクソンにシンパシーを感じてしまうのではないかと思います。権勢欲にとりつかれた政治的怪物、愚かな(あるいは強欲な)判断で何万人もの若者を死に追いやった犯罪者、誇大妄想にとりつかれた究極の嘘つき――――ランジェラのニクソンを、そういった目でのみ見ることは、この映画の観客には不可能です。
いかに汚れた人生であれ、かれにはかれの葛藤があり、困難があり、挫折があり、どんなにもがいても得られないものがあった。何よりあの、靴のエピソードがうますぎる(>_<)。ニクソンは、フロストがはいているようなオシャレなイタリア製の靴を履きたいと、ずっと思っていたんだけれど、あれは女々しい靴であなたにふさわしくない、と言われてしまえば、履きたいと口にすることはできない。「望月の欠けたることもなしと思へば」に見えるニクソンは、実は常に他人の目を気にして、それにあわせようともがいてきた不器用な男だった……。
そんな風にニクソンに感情移入してしまうことが、いいことなのかどうかわかりませんが、でもとにかく、フランク・ランジェラの演技の力はそれほど凄い。
ランジェラとシーン以外も、両者のブレーンを勤めた脇役陣が、これまたガッチリと手堅く、物語に厚みを感じさせてくれました。フロスト側のプロデューサーを演じたマシュー・マクファディン、ブレインを務めたジャーナリストのオリヴァー・プラットと学者のサム・ロックウェル、そしてニクソンの報道官ジャック・ブレナンを演じたケヴィン・ベーコン。適所適材の力演でした。ロン・ハワード監督は、やっぱ名匠だなぁ。
あと、どうでもいいけど、このタイトル「×」のとこ、なんて読めばいいのか、ずーっと悩んでしまって、劇場窓口でまたもや口ごもってしまう事態に(笑)。劇場のひとは結局「フロストニクソン」と言ってたけど、じゃ、「×」はどうなったのさ? 徒にひとを悩ましておいて。
アメリカの歴史上初めて任期途中で辞任に追い込まれた大統領と、その大統領に単独インタビューを挑んだ「トークショーの司会者」。
インタビューはボクシングの試合と同じ、という台詞がありましたが、なんのなんの、ボクシングどころか、これは完全に「戦争」です。両者互いにブレーンを集め、緻密なリサーチを重ね、敵を自らのフィールドに引きずり込み、自らの主張を通し、敵の失言を誘い、完膚なきまでに叩きのめすと同時に、自らの目的を達成する。準備期間を含め、そのやり取りのエキサイティングなことといったら、そんじょそこらのアクション映画なんかよりよっぽど大量のアドレナリンが吹き出すことまちがいなし。まさに手に汗握る二時間であります。
ニクソンを演じたのがフランク・ランジェラ、デヴィッド・フロストを演じたのがマイケル・シーン。その野心とは裏腹に、ついに一度もテレビメディアに愛されることのなかったニクソンと、本能的にテレビを味方につけ、愛されるために生まれてきたかのようなフロスト。「人好きのするきみが羨ましい。本当なら、わたしは学者にでもなって、きみこそ政治家になるべき男だったのだろう」……戦い終わり夜が明けて、しみじみと慨嘆するニクソンの台詞は、腹の底からの本音に聞こえます。
これはもともとが舞台劇で、ランジェラもシーンも、それぞれ舞台で演じたのと同じ役を演じていますから、キャラクターが自分のものになっている、とかそういうレベルではなく、ニクソンなりフロストなりと、自分自身との境界が曖昧になってしまってるんじゃないかと思いたくなるほどの、「なりきりっぷり」です。
「なりきりっぷり」というのは、物まね名人のそっくりっぷり、ということではなく、(現に、ランジェラとニクソンは外見的にはそんなにそっくりってわけじゃない)、フロストなりニクソンなりの、その時々の感情を、痛みも喜びも怒りも悲しみも虚しさも疲労も誇らしさもしてやったりとほくそ笑む気持ちも、全て確実に自分のものとして感じている、ということです。
インタビューの前後は、もちろん様々な創作がまじっていると思いますが、そもそもインタビューのシーンというのは、実際の映像が残っているわけですから、それと同じ台詞を、そのときニクソンなりフロストなりが感じていた感情を再現しつつ、役者として口にするとき、単なるそっくりな物まねではなく、ランジェラなりシーンなりが「演じることに意味がある」シーンにするというのは、これは相当にハードルの高いチャレンジであっただろう、とは容易に想像できることです。
インタビューの前夜、フロストもニクソンも安眠は難しかっただろうな、と思いますけど、たとえばこの舞台の初日前夜とか、映画の撮影前夜には、ランジェラとシーンもよく眠れなかったんじゃないかしら、と思ってしまうのです。
醜聞にまみれた元大統領への世紀のインタビュー、という構造をより一層面白くしているのが、デヴィッド・フロストの追い詰められた立場です。
かれはもとより、政治家の巨悪を暴かんとする良心的なジャーナリストではなく、スキャンダラスなインタビューをものにして、己のステップアップを目論むテレビ界の俗物です。最初の動機が全米3大ネットワークに進出、というものであったにもかかわらず、実際にインタビューを実現に持っていく過程で、フロストはどんどん追い詰められていき、ネットワークに作らせるはずだった番組は自主制作せざるを得なくなり、さらにろくにスポンサーすらついてくれず、巨額の借金を重ね、私財を投じるはめに陥ってしまいます。
もしこれが失敗したら、当初の目論見と比べれば、あまりにも手痛い損失になってしまう。事実、インタビューが始まり、しかもその流れが圧倒的にニクソンに有利に働いているという、フロスト側からしたら悪夢のような展開にありながら、ナーバスになって引きこもることすら許されず、スポンサーとの折衝に飛び回るフロスト。
そんなギリギリの崖っぷちに追い込まれていながら、フロストにはいまひとつ、決定打となる情報がなく、いや、そんなことより、情報があろうとなかろうと、何がなんでもニクソンを追い詰めてやる、という気迫に欠けているのです。
それはフロスト側の問題というより、ニクソンの圧倒的な迫力です。フロスト・チームはブレーンも含めて、ニクソンの怪物ぶりに飲まれてしまっていた、少なくとも最初のうちは。
それが、事実なのか脚色なのかは知りませんが、インタビュー最終日の前夜、フロストのもとに、酔ったニクソンからかかってきた一本の電話によって、及び腰だったフロストのジャーナリスト魂に火がついてしまう。ここからの畳み掛けるような展開が面白い。
結局、最終的にニクソンにウォーターゲート事件での誤りを認めさせるに到った情報は、実際にはどんなものでもよかったんじゃないかな、と思います。別にあそこで凄い新情報が出た、というような、ジャーナリスティックにサプライズな面白さではなく、どんな情報であれ、それを使っていかにニクソンを攻めることができたか、という一種の心理戦的側面の面白さです。
そして何よりも、このインタビューでニクソンが敗北した理由は、かれが何を言ったか、ではなく、そのときかれがどんな表情を浮かべたか、という点にあるのであって、そこがテレビの底力であり恐ろしさであり面白さでもある。あの表情を見せてしまったが最後、いままでどんな名演説で人々に感銘を与え、人心を掴んでいたとしても、全てがなかったことになってしまう。ニクソンは、いままでずっとこのテレビという魔物を手懐け、自分の武器にしようとしてきたのだけど、結局それを果たせなかった。それをやってのけたのは、かれが「トークショーの司会者」と高を括っていた、軟派なフロストの方だった。
この映画が台詞劇であることはまちがいなく、実際台詞の応酬がそれ自体でとても面白いのだけど、あの瞬間のニクソンの表情は、舞台ではなく、アップを映し出すことのできる映画で観られてよかったなぁ、としみじみ思うところです。それだけランジェラの表情がすばらしい。
今、ニクソンをテーマに映画を作るということは、やはりニクソンの功罪、というよりその「罪」を白日のもとに晒すことが求められているような気もしますが、この映画を観ると、恐らく多くのひとが逆にニクソンにシンパシーを感じてしまうのではないかと思います。権勢欲にとりつかれた政治的怪物、愚かな(あるいは強欲な)判断で何万人もの若者を死に追いやった犯罪者、誇大妄想にとりつかれた究極の嘘つき――――ランジェラのニクソンを、そういった目でのみ見ることは、この映画の観客には不可能です。
いかに汚れた人生であれ、かれにはかれの葛藤があり、困難があり、挫折があり、どんなにもがいても得られないものがあった。何よりあの、靴のエピソードがうますぎる(>_<)。ニクソンは、フロストがはいているようなオシャレなイタリア製の靴を履きたいと、ずっと思っていたんだけれど、あれは女々しい靴であなたにふさわしくない、と言われてしまえば、履きたいと口にすることはできない。「望月の欠けたることもなしと思へば」に見えるニクソンは、実は常に他人の目を気にして、それにあわせようともがいてきた不器用な男だった……。
そんな風にニクソンに感情移入してしまうことが、いいことなのかどうかわかりませんが、でもとにかく、フランク・ランジェラの演技の力はそれほど凄い。
ランジェラとシーン以外も、両者のブレーンを勤めた脇役陣が、これまたガッチリと手堅く、物語に厚みを感じさせてくれました。フロスト側のプロデューサーを演じたマシュー・マクファディン、ブレインを務めたジャーナリストのオリヴァー・プラットと学者のサム・ロックウェル、そしてニクソンの報道官ジャック・ブレナンを演じたケヴィン・ベーコン。適所適材の力演でした。ロン・ハワード監督は、やっぱ名匠だなぁ。
あと、どうでもいいけど、このタイトル「×」のとこ、なんて読めばいいのか、ずーっと悩んでしまって、劇場窓口でまたもや口ごもってしまう事態に(笑)。劇場のひとは結局「フロストニクソン」と言ってたけど、じゃ、「×」はどうなったのさ? 徒にひとを悩ましておいて。
by shirakian
| 2009-04-06 22:29
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