2009年 03月 18日
マイ・ファーザー
|
突発的クレッチマン名作劇場の2。
ナチス政権下で多数の人体実験を行い、「死の天使」と呼ばれたヨゼフ・メンゲレ医師。息子のヘルマン(クレッチマン)は、幼少のころから、この父の子どもであることで、深く傷つけられてきたのですが、戦後30年以上が経過した1977年、ついにブラジルのマナウスに潜伏していた父と対面する日を迎えます。それはヘルマンにとって、恐ろしい葛藤を強いられる体験でした。
製作国はイタリア、ブラジル、ハンガリー。ちょっと不思議な顔合わせという気もしますね。ブラジルはともかく、ドイツ映画じゃなくてイタリアの映画なのね。ちなみに言語は英語です。クレッチマンって、ドイツ語と英語のほかにフランス語も堪能なひとらしいですが、イタリア映画にも時々出てるので、もしかしてイタリア語も話せるのかな。ロシア語もできるという噂もあるし、本職のスパイになれるかも(笑)。
この映画、実際には息子を演じたクレッチマンの方が先にキャスティングされたそうですが、エンディング・クレジットの名前は父親を演じたチャールトン・ヘストンの方が先なんですよね。それだけヘストンの占める割合が大きい。
2003年の映画ですから、このときヘストンはすでにアルツハイマーが発症していたはず。病を押してまでこの映画に出演したのはなぜだったのか? 思うに、俳優チャールトン・ヘストンの意地だったんじゃないでしょうか? この映画以前のヘストンの出演作と言えば、2002年の『ボウリング・フォー・コロンバイン』です。ヘストンは、あの映画を遺作にすることだけは、したくなかったんじゃないか。
常に他人から信頼される立派なハリウッド人士であったヘストンは、全米ライフル協会の会長職にだって誇りをもっていたはずで、『ボウリング…』でマイケル・ムーアに追い詰められてはからずも見せてしまった、きょどった姿は、本人としてはとても忸怩たるものがあったんじゃないか、と思われます。
それを挽回するために選んだ役が、この「死の天使」、ナチスの戦犯、メンゲレ医師だった、というところに、晩年のヘストンの鬼気迫るような思いを感じるのです。もうヘストンは、愛されることを望んでいなかった。あのひとはいいひとだったと言われるよりも、かれは凄い役者だったと言われることを望んでいたのではないか。
みんな勝手な推測ですが、そう思いたくもなるほどに、メンゲレを演じるヘストンの迫力はすさまじい。老いて尚堂々とした体躯も頼もしかったけれど、とにかく何といってもあの声の説得力。クレッチマンにとっては悪夢そものだった、脳裏にはいりこみ、何が何でも自分の主張を通してしまう、決して逆らうことなどできない純然たる悪魔の声。あの声は、晩年のあのヘストンにしか出しえなかった声なんじゃないかと思われるほどです。
トーマス・クレッチマンというひとは、決して小さいひとじゃないんだけど(183cm)、特にこの映画では、なんだかとっても小さく感じられます。初見のときは、大柄なヘストン(191cm)と共演しているせいだろう、と思ってて、実際、再会のシーンでヘストンにぎゅっと抱きしめられると、すっぽりとその腕の中に収まってしまうサイズなので、あー、クレッチマン、なんか、ちっちゃいな、と思ったのですが、どうも、それだけのことではないらしいと思うようになりました。
映画の上で、ある特定の俳優を大きく見せたり小さく見せたりするのは、実はそう難しいことではないと思います。人間は物の大きさを他の物との比較によってしか判断できませんから、同じ画面に大きなものばかり揃えれば、対象物は小さく見えるし、その逆もまた然りということです。だけど、この映画のクレッチマンが小さく見えるのは、そういう見た目の操作の問題でもない、心のありようの問題なのです。
この映画でクレッチマンは常に、自信がない。確信がない。心が定まらず揺れ動いている。そんなかれの不安定な心情こそが、かれを小さく見せているのです。つまり、かれを小さく感じるのは、かれの心のあり方と、それに反応してその不安定さを感じ取る観客の視線との相乗効果があるからなのです。しっかりと鍛えたアスリートの身体をもってして、ここまでの心もとなさを表現した、というのは、やっぱ凄いことだと思ってしまう。
クレッチマン演じるヘルマンは、戦犯である父親のもとに、堂々と裁判を受けさせるべく説得に赴いたわけですが、実際にヘルマンがやりたかったのは、父親を裁くことではなく、理解することでした。もっと言えば、父親が決してモンスターなんかじゃなく、父親がやったことにもそれなりのきちんと納得できる道理があったのだと思いたかったのです。ヘルマンはそれだけメンゲレという男の息子であるということに縛られていたということです。それは単純な親子の愛情といった甘っちょろいものではなく、もっとずっと切実な思いであろうと思われます。ヘルマンは、父親がモンスターであるのなら、同じ血をひく自分もまたモンスターであろうという恐れを、ずっと抱えて生きてきたのです。
単に父親を糾弾するだけなら、再会はヘルマンにとって、ここまで苦しいものにはならなかったはず。どこかに「希望」はないかと、息をつめ、すがるように探ってしまうがために、かれの中での葛藤は、耐え難いレベルにまで滾ってしまうのです。幾度も父親を告発しようとしながらできないヘルマン。協力を要請し、わざわざマナウスくんだりまで来てくれた友人にまで噛み付いてしまうほど、不安定な心をもてあますヘルマン。
いっそのことと、二度にもわたって父親を殺そうと試みるのだけれど、こんなヘルマンに父親を殺せるわけがないのです。殺人の衝動は、さらなる無力感となってヘルマンに跳ね返ってくる。灼熱のマナウスの気候とあいまって、かれがどんどん消耗し、衰弱していくさまが、あまりにも痛々しく感じられる一方で、息子の葛藤に動じる気配もない父親のふてぶてしさが圧倒的に迫ってくるのです。
父親の精神的支配を物語る面白いシーンとして、ヘルマンの婚約者と、ブラジル人娼婦をめぐるエピソードがあります。ヘルマンの婚約者は、ドイツはブレーメン出身の、金髪碧眼の美しい女性です。息子にその写真を見せられたヘストンは、その選択を手放しで喜びます。これぞ完璧な血だ、最高の子孫が残せる、と。ヘルマンは身をよじるほどのいたたまれなさを感じます。なぜならその前に、ブラジル人娼婦に欲望を感じながらも、いざ事に及ぼうとした途端、「劣等種族との交わり」におののいて、胃の中身をぶちまけてしまったからです。理性ではなく、身体がそれを拒否してしまう。それほどに父親に刻み込まれた価値観は、かれの中で呪いとなっていたのです。
物語は、この父子の再会後、8年の歳月を経て公開された遺体が、果たしてメンゲレ本人のものであったのか、それともメンゲレは実はまだ生きていて無事にパラグアイに逃れており、遺体の公開は捜査の目をそらすための息子の偽装だったのか、というミステリーを中心に語られていきます。そう思われても仕方がないほどに、遺体の公開にはさまざまな不自然な点があり、NYのユダヤ人団体に依頼を受けた弁護士のサリエリ、じゃなくて、F・マーレイ・エイブラハムは、クレッチマンにインタビューをしながら、真相に迫ろうとするのです。
なぜ8年前に再会したときに父親を告発しなかったのかと尋ねられ、クレッチマンはエイブラハムに答えます。なぜならわたしは、かれの息子だからだ、と。
えーと、クレッチマン的見所としては、マナウスの暑さにやられて常に濡れたように汗をかいてるところ(笑)。ぐっしょり濡れそぼっているんだけど、その姿が暑苦しくもなければ不潔にも感じられないのは凄いと思います。あと、眼鏡ね(笑)。眼鏡、似合います。素敵すぎます(笑)。
ナチス政権下で多数の人体実験を行い、「死の天使」と呼ばれたヨゼフ・メンゲレ医師。息子のヘルマン(クレッチマン)は、幼少のころから、この父の子どもであることで、深く傷つけられてきたのですが、戦後30年以上が経過した1977年、ついにブラジルのマナウスに潜伏していた父と対面する日を迎えます。それはヘルマンにとって、恐ろしい葛藤を強いられる体験でした。
製作国はイタリア、ブラジル、ハンガリー。ちょっと不思議な顔合わせという気もしますね。ブラジルはともかく、ドイツ映画じゃなくてイタリアの映画なのね。ちなみに言語は英語です。クレッチマンって、ドイツ語と英語のほかにフランス語も堪能なひとらしいですが、イタリア映画にも時々出てるので、もしかしてイタリア語も話せるのかな。ロシア語もできるという噂もあるし、本職のスパイになれるかも(笑)。
この映画、実際には息子を演じたクレッチマンの方が先にキャスティングされたそうですが、エンディング・クレジットの名前は父親を演じたチャールトン・ヘストンの方が先なんですよね。それだけヘストンの占める割合が大きい。
2003年の映画ですから、このときヘストンはすでにアルツハイマーが発症していたはず。病を押してまでこの映画に出演したのはなぜだったのか? 思うに、俳優チャールトン・ヘストンの意地だったんじゃないでしょうか? この映画以前のヘストンの出演作と言えば、2002年の『ボウリング・フォー・コロンバイン』です。ヘストンは、あの映画を遺作にすることだけは、したくなかったんじゃないか。
常に他人から信頼される立派なハリウッド人士であったヘストンは、全米ライフル協会の会長職にだって誇りをもっていたはずで、『ボウリング…』でマイケル・ムーアに追い詰められてはからずも見せてしまった、きょどった姿は、本人としてはとても忸怩たるものがあったんじゃないか、と思われます。
それを挽回するために選んだ役が、この「死の天使」、ナチスの戦犯、メンゲレ医師だった、というところに、晩年のヘストンの鬼気迫るような思いを感じるのです。もうヘストンは、愛されることを望んでいなかった。あのひとはいいひとだったと言われるよりも、かれは凄い役者だったと言われることを望んでいたのではないか。
みんな勝手な推測ですが、そう思いたくもなるほどに、メンゲレを演じるヘストンの迫力はすさまじい。老いて尚堂々とした体躯も頼もしかったけれど、とにかく何といってもあの声の説得力。クレッチマンにとっては悪夢そものだった、脳裏にはいりこみ、何が何でも自分の主張を通してしまう、決して逆らうことなどできない純然たる悪魔の声。あの声は、晩年のあのヘストンにしか出しえなかった声なんじゃないかと思われるほどです。
トーマス・クレッチマンというひとは、決して小さいひとじゃないんだけど(183cm)、特にこの映画では、なんだかとっても小さく感じられます。初見のときは、大柄なヘストン(191cm)と共演しているせいだろう、と思ってて、実際、再会のシーンでヘストンにぎゅっと抱きしめられると、すっぽりとその腕の中に収まってしまうサイズなので、あー、クレッチマン、なんか、ちっちゃいな、と思ったのですが、どうも、それだけのことではないらしいと思うようになりました。
映画の上で、ある特定の俳優を大きく見せたり小さく見せたりするのは、実はそう難しいことではないと思います。人間は物の大きさを他の物との比較によってしか判断できませんから、同じ画面に大きなものばかり揃えれば、対象物は小さく見えるし、その逆もまた然りということです。だけど、この映画のクレッチマンが小さく見えるのは、そういう見た目の操作の問題でもない、心のありようの問題なのです。
この映画でクレッチマンは常に、自信がない。確信がない。心が定まらず揺れ動いている。そんなかれの不安定な心情こそが、かれを小さく見せているのです。つまり、かれを小さく感じるのは、かれの心のあり方と、それに反応してその不安定さを感じ取る観客の視線との相乗効果があるからなのです。しっかりと鍛えたアスリートの身体をもってして、ここまでの心もとなさを表現した、というのは、やっぱ凄いことだと思ってしまう。
クレッチマン演じるヘルマンは、戦犯である父親のもとに、堂々と裁判を受けさせるべく説得に赴いたわけですが、実際にヘルマンがやりたかったのは、父親を裁くことではなく、理解することでした。もっと言えば、父親が決してモンスターなんかじゃなく、父親がやったことにもそれなりのきちんと納得できる道理があったのだと思いたかったのです。ヘルマンはそれだけメンゲレという男の息子であるということに縛られていたということです。それは単純な親子の愛情といった甘っちょろいものではなく、もっとずっと切実な思いであろうと思われます。ヘルマンは、父親がモンスターであるのなら、同じ血をひく自分もまたモンスターであろうという恐れを、ずっと抱えて生きてきたのです。
単に父親を糾弾するだけなら、再会はヘルマンにとって、ここまで苦しいものにはならなかったはず。どこかに「希望」はないかと、息をつめ、すがるように探ってしまうがために、かれの中での葛藤は、耐え難いレベルにまで滾ってしまうのです。幾度も父親を告発しようとしながらできないヘルマン。協力を要請し、わざわざマナウスくんだりまで来てくれた友人にまで噛み付いてしまうほど、不安定な心をもてあますヘルマン。
いっそのことと、二度にもわたって父親を殺そうと試みるのだけれど、こんなヘルマンに父親を殺せるわけがないのです。殺人の衝動は、さらなる無力感となってヘルマンに跳ね返ってくる。灼熱のマナウスの気候とあいまって、かれがどんどん消耗し、衰弱していくさまが、あまりにも痛々しく感じられる一方で、息子の葛藤に動じる気配もない父親のふてぶてしさが圧倒的に迫ってくるのです。
父親の精神的支配を物語る面白いシーンとして、ヘルマンの婚約者と、ブラジル人娼婦をめぐるエピソードがあります。ヘルマンの婚約者は、ドイツはブレーメン出身の、金髪碧眼の美しい女性です。息子にその写真を見せられたヘストンは、その選択を手放しで喜びます。これぞ完璧な血だ、最高の子孫が残せる、と。ヘルマンは身をよじるほどのいたたまれなさを感じます。なぜならその前に、ブラジル人娼婦に欲望を感じながらも、いざ事に及ぼうとした途端、「劣等種族との交わり」におののいて、胃の中身をぶちまけてしまったからです。理性ではなく、身体がそれを拒否してしまう。それほどに父親に刻み込まれた価値観は、かれの中で呪いとなっていたのです。
物語は、この父子の再会後、8年の歳月を経て公開された遺体が、果たしてメンゲレ本人のものであったのか、それともメンゲレは実はまだ生きていて無事にパラグアイに逃れており、遺体の公開は捜査の目をそらすための息子の偽装だったのか、というミステリーを中心に語られていきます。そう思われても仕方がないほどに、遺体の公開にはさまざまな不自然な点があり、NYのユダヤ人団体に依頼を受けた弁護士のサリエリ、じゃなくて、F・マーレイ・エイブラハムは、クレッチマンにインタビューをしながら、真相に迫ろうとするのです。
なぜ8年前に再会したときに父親を告発しなかったのかと尋ねられ、クレッチマンはエイブラハムに答えます。なぜならわたしは、かれの息子だからだ、と。
えーと、クレッチマン的見所としては、マナウスの暑さにやられて常に濡れたように汗をかいてるところ(笑)。ぐっしょり濡れそぼっているんだけど、その姿が暑苦しくもなければ不潔にも感じられないのは凄いと思います。あと、眼鏡ね(笑)。眼鏡、似合います。素敵すぎます(笑)。
by shirakian
| 2009-03-18 21:29
| 映画ま行