2009年 03月 16日
戦場のピアニスト
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突発的クレッチマン名作劇場の1。
トーマス・クレッチマンの出演作については、当ブログにおいても、色々紹介してまいりました。左の「タグ」欄のクレッチマンの名前をクリックしていただくと、一覧表をご覧になっていただけますが、これを見る限り、トーマス・クレッチマン氏、どうもロクな映画に出ていないような印象が(汗)。出演作は多いのに、これが代表作! というのを挙げるのは難しい。ドイツ本国での出演作は日本ではなかなか公開されないし、ハリウッド映画だと、どうしてもステレオタイプな役を割り振られがち。
ここ5年ぐらいの間にも、出演作は軽く20本を越えているらしいのに、日本で公開されたのはそのうち何本? あああ、もどかしい(泣)。
そこはもう、切歯扼腕するしかないですが、すでに公開されたものだけでも、名作名演技はちゃんと紹介していきたいわ、と思った次第。といっても、今回はとりあえず2作だけです。実は、あんまり、思いつかない(汗)。どちらもヨーロッパの映画で、ハリウッド映画じゃないです。やっぱりそうなっちゃうんだろうなぁ。いっそ日本映画に出るあるよろし。
というわけで、言わずと知れた名作、『戦場のピアニスト』です。
フランス、ドイツ、ポーランド、イギリスの共同制作作品。
トーマス・クレッチマンってだれ? と言うひとにも、『戦場のピアニスト』に出てたドイツ人将校さんよ、と言うと、ああ、あのひと! とわかってもらえることが多いのですが、実はこの映画でのクレッチマンの登場時間って、ほんっとに驚くほどごくわずかなんですね。なのに、映画の印象としては、エイドリアン・ブロディとダブル主演だったんじゃないか、と思ってしまうほどの印象の鮮烈さです。
この映画は、実在のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンが自身の体験を描いた本をもとに、実際にゲットーに収容された経験のあるロマン・ポランスキーが監督した映画ですから、細部にまでいきわたったリアリティの重みには鬼気迫るものがあります。それと同時に、潔くテンポのよい編集により、ひとつのシーンをダラダラとひきのばしたり、延々と愁嘆場を演じたり、感情を言葉で語りつくしたりする愚は犯さない。そんなことをしなくても、細部の重みが伝えるべきことを適確に伝えることを、監督は確信しているし、実際にそうなのだと思います。
ナチスとかユダヤ人への迫害とか民族浄化とか戦争とか暴力とか、こうした映画を観るといつも感じることではありますが、ひとつにはそれは、極限状態にあって、人間が是が非でも生き延びようとするのはなぜか、ということであり、文化や教養やつまりは人間性といったものがいかに脆く儚いまやかしの上になりたっているのかという慨嘆であり、そして何より、人間のなし得る不必要な残酷さについての戦慄と懐疑です。
たとえばこの映画では、ドイツ兵がユダヤ人をゲットーに収容したこと自体は、特に問おうとは思わないのです。だけど、収容されたユダヤ人たちに対し、踏切が開くまでの時間潰しに、強引にダンスを踊らせるといった無意味ないじめをするのは何故か、ということが気にかかるのです。
パンが一個しかないのなら、わかるのです。一個しかないパンを、そのとき強い立場にいる者が取るのは、仕方がないことだと思う。だけど二個乃至それ以上、食べきれないほどにパンがあり、一方が明らかに飢えているときに、パンを食べ飽きたもう一方が、飢えた一方の目の前で、敢えてそのパンを靴で踏みにじってみせるなら、それは「不必要な残酷さ」であると思うのです。
わたしは間違いなく、自分がパンを取れる立場なら、パンを取ってはばからないと断言できます。銃でもって殺せと言われる立場なら、殺すであろうことを疑いません。その程度に自分が弱くて利己的である自覚はあります。だから、そのことによって、そういう立場にあった人々を裁こうとは思わない。
でも、だけど、と思うのです。果たして自分は、慰みにかれらにダンスを躍らせるだろうか?
さて、トーマス・クレッチマンです。
クレッチマンの演じたヴィルム・ホーゼンフェルト大尉もまた、明らかに「不必要な残酷さ」とは無縁の人物であったと思います。
ナチスの中で出世して大尉になまでなった人間である以上、残虐な行為と無縁であったとは思いません。しかしそれはかれの立場がかれにやらせたことであり、かれの心の中には常に、そうした行為への不快感がくすぶっていたはずなのです。そう信じるに足るだけの、脆くて儚い人間性の存在を、かれの中には感じるのです。
クレッチマンは、映画の終盤も終盤、シュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディが、ゲットーに送られ、家族と離散し、ゲットーから逃げ出し、飢えと孤独と恐怖に苛まれ、砲撃を受け、逃げ惑い、ヨレヨレになってある一軒の廃屋へ辿り着いたそのときになって、ようやく登場します。二時間半ある映画の、ほぼ二時間を過ぎたあたりで、その後もすぐに画面から消えてしまうのだけど、さきほども言ったように、映画を観終わったあとの印象では、とてもそんなわずかな出番だったとは信じられないくらい、印象深いキャラクターなのです。
まずなんと言っても、ビジュアルが(笑)。
あの軍服姿の美しさ。気品と威厳と倦怠と。
ようやく見つけた缶詰を開けようと躍起になっていた飢えに飢えたブロディが、手元を狂わせ、缶詰が転がりだしてしまう。その缶詰が転がったさきに佇む、綺麗に磨かれた軍靴。ブロディの視線にあわせてカメラがゆっくりと上に向けられていくと、そこには完璧に軍服を着こなした金髪のドイツ軍人が……。
これ以上印象的かつ効果的な登場シーンはないと思えるほどの名場面です。ポランスキー監督は、クレッチマンをとても丹念に端整に美しく撮ってくれています。ポランスキー監督、ほんとうにどうもありがとう(≧▽≦)!
ブロディが潜んでいた廃屋は、クレッチマンの部隊が本部として使用しようと接収した建物でしたから、クレッチマンはブロディを見つけてとまどいます。おまえはだれだ? ユダヤ人か? 隠れていたのか? 職業はなんだ?
ブロディは答えます。ピアニストでした。クレッチマンはブロディをピアノの前に誘います。だったらなにか弾いてみろ、と。
このシーンでのブロディの演奏シーンが、それはもう何というか、魂を揺さぶられるような、すさまじい名演奏なのです。いままで押さえに押さえていた思いの丈を全てぶつけるような、我慢に我慢を重ねてきた音楽への渇望が一気に迸り出るような、雄渾で儚くて哀しい、それは見事な演奏なのです。
で、この演奏に感銘をうけたクレッチマンは、ドイツ兵がわんさか働いている屋敷にブロディを匿ってしまいます。ブロディの存在をだれにも言わないばかりか、かれが潜んでいる屋根裏部屋に食料まで運んでやる。隠れているブロディに、小さな声で「ユダ!」と呼びかける口調が、ママに隠れて屋根裏で飼ってる野良猫に「ミケ!」と呼びかけてる少年みたいでかわいらしいです(笑)。
このときクレッチマンがブロディに持って行ってやったのは、大きくてずっしりと食べ応えのありそうなパンと、何かのジャムがどっさり、そして、缶切りでした。
缶切り(>_<)。
クレッチマンは、腹ペコのブロディが缶詰を開けあぐねていることに気づいていたのですね。そのときは特に何も言わず、後からさりげなくそっと差し出された缶切りは、いかにも人間らしい気遣いを感じさせます。かれは痩せこけたボロボロのユダヤ人を、野良犬のようなものとして扱うことをしなかった。そう言えば、あのパンはきれいに新聞に包んで紐で結ばれていました。だれかにやらせるわけにはいかなかったはずだから、ああして贈り物を包んだのもクレッチマン自身だったのでしょう。そういう何気ない描写からも、かれが「不必要な残酷さ」とは無縁の人物であったことが伺われるのです。
その後もクレッチマンは撤退の際に、食料のほかに自分の着ていたコートをブロディに与えます。自分はもっと暖かいものを持っているから、と。
戦争が終わったら何をする? とクレッチマンは「ユダ」に尋ねます。もうじき戦争は終わるし、ドイツ人が支配する者でユダヤ人が虐げられる者であるという構図も霧消する。クレッチマンは現状が虚構でしかないことを見抜いている。目の前にいる「ユダ」が人間として対等な存在であることを知っている。
ブロディは、戦前そうしていたように、ラジオでピアノを弾くと答えます。
名前を教えてくれ、必ず聴くから。
シュピルマン。
シュピルマン? ピアニストらしい名前だ。クレッチマンは柔らかく微笑みます。
胸の痛いシーンです。戦争が終わり、「文明」が戻り、シュピルマンがピアノを弾く日々はやってくるけれど、クレッチマンがそれをラジオで聴くことはもうないから。
ピアノは、というより、音楽は、脆く儚いまやかしの上になりたっていて、狂気や暴力や残酷さの前では、実にあっけなくその座を明け渡してしまう文化や教養やつまりは人間性といったものの象徴です。ブロディの試練が辛いのは、かれが単に、生存を脅かされ、家族と引き離され、家族を殺され、尊厳を傷つけられ、飢え病み裏切られ傷ついたからだけではなく、かれが演奏することを封じられてしまったからです。主役がピアニストであったのは、単にこの物語がノンフィクションをベースにしたものだったからではありません。ピアニストの存在を通して語るべき必然性があったからこそ、かれはピアニストだったのです。この物語は一種の貴種流離譚ですが、気品あふれるブロディの風貌は、まさにそれにふさわしかったと思います。
トーマス・クレッチマンの出演作については、当ブログにおいても、色々紹介してまいりました。左の「タグ」欄のクレッチマンの名前をクリックしていただくと、一覧表をご覧になっていただけますが、これを見る限り、トーマス・クレッチマン氏、どうもロクな映画に出ていないような印象が(汗)。出演作は多いのに、これが代表作! というのを挙げるのは難しい。ドイツ本国での出演作は日本ではなかなか公開されないし、ハリウッド映画だと、どうしてもステレオタイプな役を割り振られがち。
ここ5年ぐらいの間にも、出演作は軽く20本を越えているらしいのに、日本で公開されたのはそのうち何本? あああ、もどかしい(泣)。
そこはもう、切歯扼腕するしかないですが、すでに公開されたものだけでも、名作名演技はちゃんと紹介していきたいわ、と思った次第。といっても、今回はとりあえず2作だけです。実は、あんまり、思いつかない(汗)。どちらもヨーロッパの映画で、ハリウッド映画じゃないです。やっぱりそうなっちゃうんだろうなぁ。いっそ日本映画に出るあるよろし。
というわけで、言わずと知れた名作、『戦場のピアニスト』です。
フランス、ドイツ、ポーランド、イギリスの共同制作作品。
トーマス・クレッチマンってだれ? と言うひとにも、『戦場のピアニスト』に出てたドイツ人将校さんよ、と言うと、ああ、あのひと! とわかってもらえることが多いのですが、実はこの映画でのクレッチマンの登場時間って、ほんっとに驚くほどごくわずかなんですね。なのに、映画の印象としては、エイドリアン・ブロディとダブル主演だったんじゃないか、と思ってしまうほどの印象の鮮烈さです。
この映画は、実在のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンが自身の体験を描いた本をもとに、実際にゲットーに収容された経験のあるロマン・ポランスキーが監督した映画ですから、細部にまでいきわたったリアリティの重みには鬼気迫るものがあります。それと同時に、潔くテンポのよい編集により、ひとつのシーンをダラダラとひきのばしたり、延々と愁嘆場を演じたり、感情を言葉で語りつくしたりする愚は犯さない。そんなことをしなくても、細部の重みが伝えるべきことを適確に伝えることを、監督は確信しているし、実際にそうなのだと思います。
ナチスとかユダヤ人への迫害とか民族浄化とか戦争とか暴力とか、こうした映画を観るといつも感じることではありますが、ひとつにはそれは、極限状態にあって、人間が是が非でも生き延びようとするのはなぜか、ということであり、文化や教養やつまりは人間性といったものがいかに脆く儚いまやかしの上になりたっているのかという慨嘆であり、そして何より、人間のなし得る不必要な残酷さについての戦慄と懐疑です。
たとえばこの映画では、ドイツ兵がユダヤ人をゲットーに収容したこと自体は、特に問おうとは思わないのです。だけど、収容されたユダヤ人たちに対し、踏切が開くまでの時間潰しに、強引にダンスを踊らせるといった無意味ないじめをするのは何故か、ということが気にかかるのです。
パンが一個しかないのなら、わかるのです。一個しかないパンを、そのとき強い立場にいる者が取るのは、仕方がないことだと思う。だけど二個乃至それ以上、食べきれないほどにパンがあり、一方が明らかに飢えているときに、パンを食べ飽きたもう一方が、飢えた一方の目の前で、敢えてそのパンを靴で踏みにじってみせるなら、それは「不必要な残酷さ」であると思うのです。
わたしは間違いなく、自分がパンを取れる立場なら、パンを取ってはばからないと断言できます。銃でもって殺せと言われる立場なら、殺すであろうことを疑いません。その程度に自分が弱くて利己的である自覚はあります。だから、そのことによって、そういう立場にあった人々を裁こうとは思わない。
でも、だけど、と思うのです。果たして自分は、慰みにかれらにダンスを躍らせるだろうか?
さて、トーマス・クレッチマンです。
クレッチマンの演じたヴィルム・ホーゼンフェルト大尉もまた、明らかに「不必要な残酷さ」とは無縁の人物であったと思います。
ナチスの中で出世して大尉になまでなった人間である以上、残虐な行為と無縁であったとは思いません。しかしそれはかれの立場がかれにやらせたことであり、かれの心の中には常に、そうした行為への不快感がくすぶっていたはずなのです。そう信じるに足るだけの、脆くて儚い人間性の存在を、かれの中には感じるのです。
クレッチマンは、映画の終盤も終盤、シュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディが、ゲットーに送られ、家族と離散し、ゲットーから逃げ出し、飢えと孤独と恐怖に苛まれ、砲撃を受け、逃げ惑い、ヨレヨレになってある一軒の廃屋へ辿り着いたそのときになって、ようやく登場します。二時間半ある映画の、ほぼ二時間を過ぎたあたりで、その後もすぐに画面から消えてしまうのだけど、さきほども言ったように、映画を観終わったあとの印象では、とてもそんなわずかな出番だったとは信じられないくらい、印象深いキャラクターなのです。
まずなんと言っても、ビジュアルが(笑)。
あの軍服姿の美しさ。気品と威厳と倦怠と。
ようやく見つけた缶詰を開けようと躍起になっていた飢えに飢えたブロディが、手元を狂わせ、缶詰が転がりだしてしまう。その缶詰が転がったさきに佇む、綺麗に磨かれた軍靴。ブロディの視線にあわせてカメラがゆっくりと上に向けられていくと、そこには完璧に軍服を着こなした金髪のドイツ軍人が……。
これ以上印象的かつ効果的な登場シーンはないと思えるほどの名場面です。ポランスキー監督は、クレッチマンをとても丹念に端整に美しく撮ってくれています。ポランスキー監督、ほんとうにどうもありがとう(≧▽≦)!
ブロディが潜んでいた廃屋は、クレッチマンの部隊が本部として使用しようと接収した建物でしたから、クレッチマンはブロディを見つけてとまどいます。おまえはだれだ? ユダヤ人か? 隠れていたのか? 職業はなんだ?
ブロディは答えます。ピアニストでした。クレッチマンはブロディをピアノの前に誘います。だったらなにか弾いてみろ、と。
このシーンでのブロディの演奏シーンが、それはもう何というか、魂を揺さぶられるような、すさまじい名演奏なのです。いままで押さえに押さえていた思いの丈を全てぶつけるような、我慢に我慢を重ねてきた音楽への渇望が一気に迸り出るような、雄渾で儚くて哀しい、それは見事な演奏なのです。
で、この演奏に感銘をうけたクレッチマンは、ドイツ兵がわんさか働いている屋敷にブロディを匿ってしまいます。ブロディの存在をだれにも言わないばかりか、かれが潜んでいる屋根裏部屋に食料まで運んでやる。隠れているブロディに、小さな声で「ユダ!」と呼びかける口調が、ママに隠れて屋根裏で飼ってる野良猫に「ミケ!」と呼びかけてる少年みたいでかわいらしいです(笑)。
このときクレッチマンがブロディに持って行ってやったのは、大きくてずっしりと食べ応えのありそうなパンと、何かのジャムがどっさり、そして、缶切りでした。
缶切り(>_<)。
クレッチマンは、腹ペコのブロディが缶詰を開けあぐねていることに気づいていたのですね。そのときは特に何も言わず、後からさりげなくそっと差し出された缶切りは、いかにも人間らしい気遣いを感じさせます。かれは痩せこけたボロボロのユダヤ人を、野良犬のようなものとして扱うことをしなかった。そう言えば、あのパンはきれいに新聞に包んで紐で結ばれていました。だれかにやらせるわけにはいかなかったはずだから、ああして贈り物を包んだのもクレッチマン自身だったのでしょう。そういう何気ない描写からも、かれが「不必要な残酷さ」とは無縁の人物であったことが伺われるのです。
その後もクレッチマンは撤退の際に、食料のほかに自分の着ていたコートをブロディに与えます。自分はもっと暖かいものを持っているから、と。
戦争が終わったら何をする? とクレッチマンは「ユダ」に尋ねます。もうじき戦争は終わるし、ドイツ人が支配する者でユダヤ人が虐げられる者であるという構図も霧消する。クレッチマンは現状が虚構でしかないことを見抜いている。目の前にいる「ユダ」が人間として対等な存在であることを知っている。
ブロディは、戦前そうしていたように、ラジオでピアノを弾くと答えます。
名前を教えてくれ、必ず聴くから。
シュピルマン。
シュピルマン? ピアニストらしい名前だ。クレッチマンは柔らかく微笑みます。
胸の痛いシーンです。戦争が終わり、「文明」が戻り、シュピルマンがピアノを弾く日々はやってくるけれど、クレッチマンがそれをラジオで聴くことはもうないから。
ピアノは、というより、音楽は、脆く儚いまやかしの上になりたっていて、狂気や暴力や残酷さの前では、実にあっけなくその座を明け渡してしまう文化や教養やつまりは人間性といったものの象徴です。ブロディの試練が辛いのは、かれが単に、生存を脅かされ、家族と引き離され、家族を殺され、尊厳を傷つけられ、飢え病み裏切られ傷ついたからだけではなく、かれが演奏することを封じられてしまったからです。主役がピアニストであったのは、単にこの物語がノンフィクションをベースにしたものだったからではありません。ピアニストの存在を通して語るべき必然性があったからこそ、かれはピアニストだったのです。この物語は一種の貴種流離譚ですが、気品あふれるブロディの風貌は、まさにそれにふさわしかったと思います。
by shirakian
| 2009-03-16 22:01
| 映画さ行