2009年 02月 05日
この自由な世界で
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ケン・ローチというひとは、ほんとに、すっごく生真面目なひとなんだと思う。
毎朝新聞で、搾取される労働者とか、虐待される子どもとか、戦争とか紛争とか虐げられた移民とか、そんな問題を目にしては、いちいち本気で胃に穴があくほど怒りを感じているんだと思う。だから、撮る映画がみんな、こうした怒りに満ちている。怒りのよって来る所以が常に、弱者への共感であるために、怒りに満ちた告発の映画が、いつも人肌の温みを持っている……んだと思います。
『この自由な世界で』は、いわゆる派遣労働の問題を扱った、実にタイムリーな映画です。正規雇用の人間と同等の仕事をこなしながら、保険や福利厚生や生活支援などなどには完全に無縁で、賃金的にも大きく差別されている上に、派遣元から大幅に搾取される派遣労働者という存在。いまのような不況下では真っ先に人員整理の対象となり、そうなった場合の保証は全くない。しかも、この映画ではそこに、移民労働者の問題や、不法入国・就労の問題、政治亡命の問題などなどが複雑にからみあってくるのです。
というと、いかにも大上段に構えた社会派の映画、とうい感じがしちゃうのだけど、ローチ監督の視点は、高所から見下ろすものではなく、底辺を生きるひとびと、そのひとりひとりに寄り添う高さにあるので、頭ごなしに正論をふっかけられているような感触はないです。
ひとりの働く女性を起点とする、ごくごくミクロな視点の、ごくごく小さな、ごくごく個人的な問題を描くことによって、そこから自ずとマクロな(それは、ほんとうにマクロな、単にロンドンの、イギリスの、問題にとどまらない、欧州全体の、そしてアジア社会をも含む、だったら当然アメリカだとて無縁ではない、全世界規模の)社会全体の問題が浮き彫りにされていく作りです。漫然と見てしまえば、単なるシングルマザーの奮戦記で、あるいはこれがハリウッドコメディであったなら、頑張る若い母親のサクセス・ストーリーにだってなっちゃいかねないような話なのですが、もちろん、そういう話ではないです。
ストーリーはこうです。ヒロインのアンジー(カーストン・ウェアリング)はシングルマザー。さまざまな職を転々とする腰の落ち着かない人生ながら、ようやく大手の派遣会社に就職し、バリバリと働いていた矢先。同僚のセクハラに腹を立て、コップの水をぶっかけたことを理由に、解雇されてしまうことに。
解雇するならセクハラされた方じゃなくてした方でしょうに、と非常に不快な成り行きですが、ここから推測されるに、アンジーはそれ以前から、会社としては扱いにくい社員としてマークされていたのでしょう。確かに、我が強く若干協調性に欠ける部分があり、出る釘は打たれるタイプのようです。逆に言えば、のびのびと個性を発揮できる環境でさえあれば、単に他人と波風たてずにやっていくだけしか能がない「協調性ある社員」とは比べ物にならないビッグな仕事がやってのけられるはず。
ということで、自ら起業して労働派遣の会社を起こすアンジー。睡眠を削り、頭を使い、情報に耳を澄まし、時には女の武器まで散らつかせて必死で働く毎日。仕事はマジできついけど、働けば働いた分だけ自分の利益として返ってくる手ごたえは大きい。
明らかにこれはひとつのサクセス・ストーリーです。アンジーが法の定めの範囲内に踏みとどまってさえいれば。
早い話が、最初は正規の労働許可証を持った移民労働者だけを相手にし、仕事がほしい人を、働き手が必要な人に紹介し、時にはちょっぴり感謝なんかされちゃったりもしながら、順調にまわっていたはずのところに、不法移民を働かせればもっと儲かる、という「知恵の実」を知ってしまったために、坂を転がり落ちるように、アンジーの手口は悪辣化していくのです。
希望に燃えて会社を始めたはずの頑張り家のお母さんが、次第に弱者を搾取する側になり果てていく。そうした彼女の内面の推移が、最初はきれいなブロンドにブリーチされていた髪に、次第にその生え際から地色の黒っぽい色が現れだし、徐々に黒い部分が大きくなるビジュアルに象徴されているようにも思われます。
最初はアンジー自身が搾取される側だったのです。彼女こそが弱者だったのだから、弱者の痛みを彼女が知らないはずがない。ひとを労わる気持ちも、弱い者に同情する気持ちも、困っているひとを助けたい気持ちも、そうしたひととしての「よい」部分をちゃんとたくさん持っていたはずなのです。だけど、欲に目がくらむとはまさにこのこと。だんだん、自分のやっていることが見えなくなってしまう。
しかも、最初から一緒に頑張ってきた仕事のパートナーからは、あまりの悪どいやり口に見限られ、被害者である労働者たちの手によって息子を誘拐され脅されるような目にあいながらも、アンジーは自分のやり方を変える気にはなれないのです。
人間の欲望の果てしなさ。恐ろしさ。業の深さという言うしかないです。
アンジーを見限ったビジネスパートナーのローズや、アンジーに代わって彼女の子どもを育ててくれている年取った両親や、ポーランドから就労に来て、ひょんなきっかけからアンジーのために通訳などさまざまな手助けをしてくれた青年など、彼女のまわりにいる人々の、地道な「まっとうさ」に救われる思いがするものの、ラスト、アンジーのやり口を知らず、ロンドンで仕事を得ることができれば、きっと新しい未来が開けると、無邪気に笑って見せる、就労希望の東欧の女性の笑顔が、ガツンと胸に痛いのです。
毎朝新聞で、搾取される労働者とか、虐待される子どもとか、戦争とか紛争とか虐げられた移民とか、そんな問題を目にしては、いちいち本気で胃に穴があくほど怒りを感じているんだと思う。だから、撮る映画がみんな、こうした怒りに満ちている。怒りのよって来る所以が常に、弱者への共感であるために、怒りに満ちた告発の映画が、いつも人肌の温みを持っている……んだと思います。
『この自由な世界で』は、いわゆる派遣労働の問題を扱った、実にタイムリーな映画です。正規雇用の人間と同等の仕事をこなしながら、保険や福利厚生や生活支援などなどには完全に無縁で、賃金的にも大きく差別されている上に、派遣元から大幅に搾取される派遣労働者という存在。いまのような不況下では真っ先に人員整理の対象となり、そうなった場合の保証は全くない。しかも、この映画ではそこに、移民労働者の問題や、不法入国・就労の問題、政治亡命の問題などなどが複雑にからみあってくるのです。
というと、いかにも大上段に構えた社会派の映画、とうい感じがしちゃうのだけど、ローチ監督の視点は、高所から見下ろすものではなく、底辺を生きるひとびと、そのひとりひとりに寄り添う高さにあるので、頭ごなしに正論をふっかけられているような感触はないです。
ひとりの働く女性を起点とする、ごくごくミクロな視点の、ごくごく小さな、ごくごく個人的な問題を描くことによって、そこから自ずとマクロな(それは、ほんとうにマクロな、単にロンドンの、イギリスの、問題にとどまらない、欧州全体の、そしてアジア社会をも含む、だったら当然アメリカだとて無縁ではない、全世界規模の)社会全体の問題が浮き彫りにされていく作りです。漫然と見てしまえば、単なるシングルマザーの奮戦記で、あるいはこれがハリウッドコメディであったなら、頑張る若い母親のサクセス・ストーリーにだってなっちゃいかねないような話なのですが、もちろん、そういう話ではないです。
ストーリーはこうです。ヒロインのアンジー(カーストン・ウェアリング)はシングルマザー。さまざまな職を転々とする腰の落ち着かない人生ながら、ようやく大手の派遣会社に就職し、バリバリと働いていた矢先。同僚のセクハラに腹を立て、コップの水をぶっかけたことを理由に、解雇されてしまうことに。
解雇するならセクハラされた方じゃなくてした方でしょうに、と非常に不快な成り行きですが、ここから推測されるに、アンジーはそれ以前から、会社としては扱いにくい社員としてマークされていたのでしょう。確かに、我が強く若干協調性に欠ける部分があり、出る釘は打たれるタイプのようです。逆に言えば、のびのびと個性を発揮できる環境でさえあれば、単に他人と波風たてずにやっていくだけしか能がない「協調性ある社員」とは比べ物にならないビッグな仕事がやってのけられるはず。
ということで、自ら起業して労働派遣の会社を起こすアンジー。睡眠を削り、頭を使い、情報に耳を澄まし、時には女の武器まで散らつかせて必死で働く毎日。仕事はマジできついけど、働けば働いた分だけ自分の利益として返ってくる手ごたえは大きい。
明らかにこれはひとつのサクセス・ストーリーです。アンジーが法の定めの範囲内に踏みとどまってさえいれば。
早い話が、最初は正規の労働許可証を持った移民労働者だけを相手にし、仕事がほしい人を、働き手が必要な人に紹介し、時にはちょっぴり感謝なんかされちゃったりもしながら、順調にまわっていたはずのところに、不法移民を働かせればもっと儲かる、という「知恵の実」を知ってしまったために、坂を転がり落ちるように、アンジーの手口は悪辣化していくのです。
希望に燃えて会社を始めたはずの頑張り家のお母さんが、次第に弱者を搾取する側になり果てていく。そうした彼女の内面の推移が、最初はきれいなブロンドにブリーチされていた髪に、次第にその生え際から地色の黒っぽい色が現れだし、徐々に黒い部分が大きくなるビジュアルに象徴されているようにも思われます。
最初はアンジー自身が搾取される側だったのです。彼女こそが弱者だったのだから、弱者の痛みを彼女が知らないはずがない。ひとを労わる気持ちも、弱い者に同情する気持ちも、困っているひとを助けたい気持ちも、そうしたひととしての「よい」部分をちゃんとたくさん持っていたはずなのです。だけど、欲に目がくらむとはまさにこのこと。だんだん、自分のやっていることが見えなくなってしまう。
しかも、最初から一緒に頑張ってきた仕事のパートナーからは、あまりの悪どいやり口に見限られ、被害者である労働者たちの手によって息子を誘拐され脅されるような目にあいながらも、アンジーは自分のやり方を変える気にはなれないのです。
人間の欲望の果てしなさ。恐ろしさ。業の深さという言うしかないです。
アンジーを見限ったビジネスパートナーのローズや、アンジーに代わって彼女の子どもを育ててくれている年取った両親や、ポーランドから就労に来て、ひょんなきっかけからアンジーのために通訳などさまざまな手助けをしてくれた青年など、彼女のまわりにいる人々の、地道な「まっとうさ」に救われる思いがするものの、ラスト、アンジーのやり口を知らず、ロンドンで仕事を得ることができれば、きっと新しい未来が開けると、無邪気に笑って見せる、就労希望の東欧の女性の笑顔が、ガツンと胸に痛いのです。
by shirakian
| 2009-02-05 21:35
| 映画か行