2009年 01月 23日
BOY A
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刑期を終えた犯罪者が出獄した後、地域社会での受容はどういうプロセスで行われるのか、犯罪者自身はどのように社会に溶け込んで行くのか、『BOY A』は、正面からそうした問題に取り組んだ映画です。とてもとても、胸の痛い映画です。
アンドリュー・ガーフィールド演じる“boy A”は、10歳のころ犯した犯罪により14年の刑に服す。物語は、出所したかれが、ジャックと名を変えて、実社会の中に入っていくところから始まります。
良心的なケースワーカー(ピーター・ミュラン)とめぐり合い、仕事とアパートを与えられ、職場では理解ある上司と感じのいい同僚に恵まれたのみならず、恋人までできる。ジャックの「第二の人生」は順風満帆に思われたのですが。
実は、ガーフィールドが犯した犯罪が何であったのかについては、物語も後半にさしかかるまで明かされません。観客はまず、先入観なしにあるがままの「ジャック」という青年と向き合うことになります。
24歳という設定ですが、ほっそりとして手足の長い、か細いうなじを持ったガーフィールドは、青年というより少年と呼んだ方がまだふわさしいような、ひどく無垢で頼りない風情をしています。社会に出る餞にと、スニーカーを贈ってくれたミュランに、感激のあまり抱きつく姿は、まるで幼い子どものようで、あまりにも素直なその愛情表現に胸が痛くなるほどです。
容姿のみならず、感情の発露の仕方も、まわりの人々への接し方も、いちいち繊細なかれの姿を見ていると、この青年がどんな犯罪を犯したのかは知らないけれど、かれには幸福になる権利があり、現にいま手探りの状態ではあるけれど、どうやら幸福になりつつあるようだ、それは実に喜ばしいことだ、と感じさせられるのですが、しかし少しずつ提示されるヒントから、かれが犯した犯罪は、かつての自分を完全に社会から抹殺せざるを得ないほど「受け入れられがたい」ものであったらしく、この「幸福」が成就されがたいものであることを、察せざるを得ません。
それゆえ観客は、完全にガーフィールドに感情移入し、息をつめるようにして、どうかこの平安が壊れませんように、と祈りながら画面に見入ることになる。
まさにガーフィールド、恐るべし、と思います。
かれのことはロバート・レッドフォードの『大いなる陰謀』でしか知らないけど、と思っていたら、なんとあれが映画デビュー作だったのだそうですね。もう、ビックリですよ。だって、レッドフォードとふたりきりのシーン、しかも感情を爆発されるような派手な見せ場のないシーンで、レッドフォードと対等に渡り合わなきゃならないんですものね。レッドフォードが「たいへんな掘り出し物を発見した!」と大喜びした、というのもうなずけるというものです。
この映画も、ガーフィールドが圧倒的に「こちら側の人間」として認識されるのでなければ、映画自体が成り立ちません。かれが「こちら側の人間」にしか思われなかったがゆえに、かれの「正体」が露呈したあとの、まわりの人々の恐怖や絶望や裏切られた思いが、より先鋭につきつけられるのです。
それほどに、かれが犯した罪は、許しがたいものであったのだけれど……。
そこがまた、胸が痛いところです。
その罪を犯したとき、かれはまだ10歳の子どもに過ぎませんでした。劇中、何の説明もなく、「ぼくをあそこに行かせないで」と父親に泣きつくシーンが挿入されるのですが、全く情報がない状態では、まさかその「あそこ」が少年刑務所のことだとは思ってもみないことでしょう。10歳っていうのは、ほんとに、ほんの、子どもなんです。守られて保護されて抱きしめられているべき、ほんの、子どもなんです。
少年犯罪を犯す者は、自覚のある者で7割強、無自覚な者も含めると、なんと9割以上が、広義な「虐待」の被害者であると言います。
その子ども自身の邪悪さではなく、本来与えられてしかるべき保護や愛情が与えられず、子どもによっては絶え間ない苦痛や恐怖や絶望や屈辱を与え続けられてきたがゆえに、何かが歪んで、爆発してしまったのです。
事実、この映画でも、boy Aはちゃんとした両親がいるにもかかわらずネグレクトされた少年であり、学校ではいじめの被害者でした。boy Aの唯一の友だちであり、共に恐ろしい犯罪を犯してしまったフィリップもまた、より明確に日常的に性的虐待を受け続けている被害者でした。ふたりとも、垢まみれのだらしない服装をした子どもでした。大人がだれも関心を向けてくれないからです。
言っても詮無いことですが、たとえばピーター・ミュランのような人物が、ふたりが罪を犯す前に、ふたりと触れ合うことができていたら。罪を犯してしまい、14年も刑務所にいたガーフィールドに、あそこまで人間らしい感情を取り戻させることができたミュランです。罪を犯す前に、そうした愛情と理解と導きを与えることができていたら。ほんとうに言っても詮無いことなのですが、そう思わずにはいられません。
第一、限りない忍耐と愛情でもってガーフィールドの魂を救い出すことができたミュラン自身もまた、私生活においては、実の息子を抱きしめて安心感と自信と勇気を与えてやることのできない(ダメな)父親でした。ミュランの息子の、犯罪にこそ走らなかったけれど、やはり幼少期の経験により歪んでしまった人格が、ガーフィールドの悲劇をもたらしたのです。完全にガーフィールド側に立って見てしまうので、父親をなじり、自分のしたことを正当化する息子の理屈は、態のいい甘えにしか聞こえませんが、それでもかれもまた、ある意味「虐待」の被害者であった事実は否めないのです。
罪を犯してしまったら、二度と許されないのか?
罪を償い、更生をとげた者には、新たな人生が許されてもいいのではないか?
ましてやその罪が、本人自身もまた被害者であった結果なら、かれにも憐れむべき余地はあるのではないか?
犯罪を犯したのがガーフィールドなので、観客はそのように感じ、あまりにも痛ましい結末に、胸を痛めずにはいられないのですが、しかし、犯罪には常に、被害者がいるのです。被害者の感情はどうなるのか? ことに、罪が殺人である場合、被害者の奪われてしまった人生はどうなるのか? 同じく打ち壊され奪われてしまった、被害者の近親者の人生はどうなるのか?
人を殺すようなモンスターを、なぜ許さなければならないのか?
モンスターに罪を償うことなど、果たしてできるのか? 被害者は二度と幸福になれないのに、加害者が幸福になることは許されるのか?
加害者自身が被害者だと言うが、虐待された子どもが必ずしも犯罪者になるわけではない。犯罪者はやはりモンスターであり、そんなものをなぜ憐れまねばならないのか?
理屈ではわりきれない感情、感情とは相反する理屈。容易には結論の出ない難しい問題であると思います。
正直言って、特に性犯罪者のような場合、たとえその男が刑期を終えて「罪を償い」「更生」して実社会に出てきたのだとしても、性犯罪(特に子どもに対するそれ)の再犯性の高さを考えれば、その人物の氏名を公開し、どこに住んでどのように暮らしているのか、少なくともその地域住民には明かされるべき、と思うのです。そんなことをすれば、せっかく更生したにもかかわらず、ノーマルな社会生活など決して望めない、とうのはわかった上で、やはりそう思うのです。加害者の人権なんか云々するのはやめてほしい、云々すべきはあくまでも被害者の人権なのだ、と基本的には思うのです。
そんなわたしでも、ガーフィールドの姿を見ると、常々抱いていた思いにぶれが生じるのを感じます。映画では、犯罪をおかした少年と、現在のガーフィールドとのリンクを、意図的にはずしてあるのも原因かな、と思います。かれの中に潜んでいたモンスターがどういう種類のものであったのか、それが確実に息の根をとめられたのかどうか、わたしたちには知る術がないのです。
アンドリュー・ガーフィールド演じる“boy A”は、10歳のころ犯した犯罪により14年の刑に服す。物語は、出所したかれが、ジャックと名を変えて、実社会の中に入っていくところから始まります。
良心的なケースワーカー(ピーター・ミュラン)とめぐり合い、仕事とアパートを与えられ、職場では理解ある上司と感じのいい同僚に恵まれたのみならず、恋人までできる。ジャックの「第二の人生」は順風満帆に思われたのですが。
実は、ガーフィールドが犯した犯罪が何であったのかについては、物語も後半にさしかかるまで明かされません。観客はまず、先入観なしにあるがままの「ジャック」という青年と向き合うことになります。
24歳という設定ですが、ほっそりとして手足の長い、か細いうなじを持ったガーフィールドは、青年というより少年と呼んだ方がまだふわさしいような、ひどく無垢で頼りない風情をしています。社会に出る餞にと、スニーカーを贈ってくれたミュランに、感激のあまり抱きつく姿は、まるで幼い子どものようで、あまりにも素直なその愛情表現に胸が痛くなるほどです。
容姿のみならず、感情の発露の仕方も、まわりの人々への接し方も、いちいち繊細なかれの姿を見ていると、この青年がどんな犯罪を犯したのかは知らないけれど、かれには幸福になる権利があり、現にいま手探りの状態ではあるけれど、どうやら幸福になりつつあるようだ、それは実に喜ばしいことだ、と感じさせられるのですが、しかし少しずつ提示されるヒントから、かれが犯した犯罪は、かつての自分を完全に社会から抹殺せざるを得ないほど「受け入れられがたい」ものであったらしく、この「幸福」が成就されがたいものであることを、察せざるを得ません。
それゆえ観客は、完全にガーフィールドに感情移入し、息をつめるようにして、どうかこの平安が壊れませんように、と祈りながら画面に見入ることになる。
まさにガーフィールド、恐るべし、と思います。
かれのことはロバート・レッドフォードの『大いなる陰謀』でしか知らないけど、と思っていたら、なんとあれが映画デビュー作だったのだそうですね。もう、ビックリですよ。だって、レッドフォードとふたりきりのシーン、しかも感情を爆発されるような派手な見せ場のないシーンで、レッドフォードと対等に渡り合わなきゃならないんですものね。レッドフォードが「たいへんな掘り出し物を発見した!」と大喜びした、というのもうなずけるというものです。
この映画も、ガーフィールドが圧倒的に「こちら側の人間」として認識されるのでなければ、映画自体が成り立ちません。かれが「こちら側の人間」にしか思われなかったがゆえに、かれの「正体」が露呈したあとの、まわりの人々の恐怖や絶望や裏切られた思いが、より先鋭につきつけられるのです。
それほどに、かれが犯した罪は、許しがたいものであったのだけれど……。
そこがまた、胸が痛いところです。
その罪を犯したとき、かれはまだ10歳の子どもに過ぎませんでした。劇中、何の説明もなく、「ぼくをあそこに行かせないで」と父親に泣きつくシーンが挿入されるのですが、全く情報がない状態では、まさかその「あそこ」が少年刑務所のことだとは思ってもみないことでしょう。10歳っていうのは、ほんとに、ほんの、子どもなんです。守られて保護されて抱きしめられているべき、ほんの、子どもなんです。
少年犯罪を犯す者は、自覚のある者で7割強、無自覚な者も含めると、なんと9割以上が、広義な「虐待」の被害者であると言います。
その子ども自身の邪悪さではなく、本来与えられてしかるべき保護や愛情が与えられず、子どもによっては絶え間ない苦痛や恐怖や絶望や屈辱を与え続けられてきたがゆえに、何かが歪んで、爆発してしまったのです。
事実、この映画でも、boy Aはちゃんとした両親がいるにもかかわらずネグレクトされた少年であり、学校ではいじめの被害者でした。boy Aの唯一の友だちであり、共に恐ろしい犯罪を犯してしまったフィリップもまた、より明確に日常的に性的虐待を受け続けている被害者でした。ふたりとも、垢まみれのだらしない服装をした子どもでした。大人がだれも関心を向けてくれないからです。
言っても詮無いことですが、たとえばピーター・ミュランのような人物が、ふたりが罪を犯す前に、ふたりと触れ合うことができていたら。罪を犯してしまい、14年も刑務所にいたガーフィールドに、あそこまで人間らしい感情を取り戻させることができたミュランです。罪を犯す前に、そうした愛情と理解と導きを与えることができていたら。ほんとうに言っても詮無いことなのですが、そう思わずにはいられません。
第一、限りない忍耐と愛情でもってガーフィールドの魂を救い出すことができたミュラン自身もまた、私生活においては、実の息子を抱きしめて安心感と自信と勇気を与えてやることのできない(ダメな)父親でした。ミュランの息子の、犯罪にこそ走らなかったけれど、やはり幼少期の経験により歪んでしまった人格が、ガーフィールドの悲劇をもたらしたのです。完全にガーフィールド側に立って見てしまうので、父親をなじり、自分のしたことを正当化する息子の理屈は、態のいい甘えにしか聞こえませんが、それでもかれもまた、ある意味「虐待」の被害者であった事実は否めないのです。
罪を犯してしまったら、二度と許されないのか?
罪を償い、更生をとげた者には、新たな人生が許されてもいいのではないか?
ましてやその罪が、本人自身もまた被害者であった結果なら、かれにも憐れむべき余地はあるのではないか?
犯罪を犯したのがガーフィールドなので、観客はそのように感じ、あまりにも痛ましい結末に、胸を痛めずにはいられないのですが、しかし、犯罪には常に、被害者がいるのです。被害者の感情はどうなるのか? ことに、罪が殺人である場合、被害者の奪われてしまった人生はどうなるのか? 同じく打ち壊され奪われてしまった、被害者の近親者の人生はどうなるのか?
人を殺すようなモンスターを、なぜ許さなければならないのか?
モンスターに罪を償うことなど、果たしてできるのか? 被害者は二度と幸福になれないのに、加害者が幸福になることは許されるのか?
加害者自身が被害者だと言うが、虐待された子どもが必ずしも犯罪者になるわけではない。犯罪者はやはりモンスターであり、そんなものをなぜ憐れまねばならないのか?
理屈ではわりきれない感情、感情とは相反する理屈。容易には結論の出ない難しい問題であると思います。
正直言って、特に性犯罪者のような場合、たとえその男が刑期を終えて「罪を償い」「更生」して実社会に出てきたのだとしても、性犯罪(特に子どもに対するそれ)の再犯性の高さを考えれば、その人物の氏名を公開し、どこに住んでどのように暮らしているのか、少なくともその地域住民には明かされるべき、と思うのです。そんなことをすれば、せっかく更生したにもかかわらず、ノーマルな社会生活など決して望めない、とうのはわかった上で、やはりそう思うのです。加害者の人権なんか云々するのはやめてほしい、云々すべきはあくまでも被害者の人権なのだ、と基本的には思うのです。
そんなわたしでも、ガーフィールドの姿を見ると、常々抱いていた思いにぶれが生じるのを感じます。映画では、犯罪をおかした少年と、現在のガーフィールドとのリンクを、意図的にはずしてあるのも原因かな、と思います。かれの中に潜んでいたモンスターがどういう種類のものであったのか、それが確実に息の根をとめられたのかどうか、わたしたちには知る術がないのです。
by shirakian
| 2009-01-23 23:11
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