2008年 10月 30日
P.S. アイラヴユー
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あまりにも脚本があんまりな、ほんとにあんまりだわ、という感じの恋愛映画です。
原作はアイルランド首相の実のお嬢さんが書いた世界的ベストセラーだそうですが、まさか、原作もこんなクオリティなんだろうか? それとも、脚色する際になんか予測不能の困った事情でもあったんでしょうか?
アイリッシュの夫ジェリーとつつましく幸せに暮らしていたホリー。しかし、9年に亘る幸せな結婚生活の末に、30代半ばの若さでもって、ジェリーは脳腫瘍で他界。絶望の底に突き落とされたホリーの手元に、亡くなったジェリーから次々と10通の手紙が届く。ホリーは手紙に書かれた指示に従い、誕生日パーティでハメをはずし、ジェリーの遺品を整理し、カラオケパーティに参加し、ジェリーの故郷・アイルランドを訪れる……。
ホリーは、ヒラリー・スワンク、夫のジェリーがジェラルド・バトラーです。はい。ジェラルド・バトラー目当てで劇場に足を運びました。
確かにジェラルドさん、魅力的です。しかしそれって、ジェラルド・バトラーが魅力的だから魅力的なだけであって、ジェリーというキャラクターが魅力的に描かれているという意味ではありません。ジェリーというキャラクター自体は、「夢のアイリッシュガイ」のカリカチュアです。それって、妖精なんかと同じで、確かにアイルランドには生息していそうですが、リアリティとは無縁のファントムです。
あざとくわざとらしく作り物じみた所作をさせられ、台詞を言わされているバトラーが、次第にかわいそうになってきます。同様に、スワンクの方も痛々しいです。腐ってもオスカー女優だというのに、しかも、ちっとも腐ってやいないというのに。
とにかく全般的に、ガチャガチャとステレオタイプなソープオペラのノリですが、ふたりともそんな安っぽい俳優じゃないはず。だめぢゃん、脚本はもっとちゃんと選ぼうね。
なにがいけなかったのかなぁ? 悲しみとまともに向き合うことなく、悲しみを克服する話が描けると思ったところが最大のまちがいなんじゃありませんか? 悲しい話であればあるほど、笑える演出で描くという姿勢は、むしろわたしには好ましいことですが、それが成り立つのは、悲しみがちゃんと悲しみとして描かれていればこそです。悲しみの描写が空疎なのに、笑わせる演出をしようとすれば、軸がぶれるのは当然のことです。
たとえば、「ホリー、悲嘆に暮れるの図」。
ジェリーが死んで3週間。引きこもりを続けるホリーは、食欲だけはあるらしく、食べ散らかしたピザの箱などが散乱する部屋で、シャワーも浴びず、テレビに合わせて歌って踊って「悲しみに浸って」います。
や、それは、ひとそれぞれだからね。そういう悲しみの浸り方っていうのも、アリなのかもしれません。問題は、それがアリなのか有り得ないのかっていうことじゃなくて、それを観た観客が、ホリーの悲しみに共感できるかどうかってことです。
韓国映画『シークレット・サンシャイン』の中で、幼い息子を失ったチョン・ドヨンも、悲しみに浸る毎日を過ごしますが、彼女もまた、食事は摂ります。あれは、カクトキかなんかでしょうか、噛めばボリボリといい音がするものを、テーブルにつかず、流しの前に立ったままで、仮面のような無表情で、ただボリボリと食む。どんなに悲しくても、生きている以上は腹が減る。腹が減ったら食わねばならぬ。その食らうという行為の、あさましさと悲しさが、ボリボリと響く音から伝わってきます。やがてチョン・ドヨンは、ボリボリと食らいながら、ホロリと一粒の涙をこぼすのです。
もちろん、ふたつは全く別の映画ですし、演出の方向性もちがいます。ただわたしは、ホリーの悲しみは作り物にしか思えませんでしたが、チョン・ドヨンの悲しみには共感しました。
作り物作り物、と何度もいいますが、そもそもこの映画の根本的作り自体が、「作り物じみた小細工」によって成り立っています。その小細工のあざとさがまた、自然な悲しみへの共感を阻害するのでしょう。
細工があざといので、ホリーの立ち直りのプロセスというのも、あまりにもヒロインに都合のいい展開に、応援しようという気持ちよりも、しらける気持ちがさきに立ちます。嫌な仕事をしないで済んで、旅行や習い事を楽しんでいられれば、そりゃ生き生きとしてもいられましょうが、そういう暮らしにリアリティはありません。ましてや、旅行には、新たな恋の予感が、習い事には新たなキャリアの可能性が、漏れなくついてくると言われては。しかも、そうしたプロセスを経ていくホリーの、気持ちの流れが説得力のある形で描けているとは思えない。場面場面で結構場当たり的で、これもまたご都合主義な感じです。
ジェリーと、「新たな恋の予感」の相手との間にもうひとり、ダニエルという男がはさまるのですが、これがまた、どうにも居心地が悪い。端的に言って、ホリーは自分に好意を寄せている男を、利用するだけ利用して捨てた、という印象です。もちろん、お話的にホリーをそんなワルモノにするわけにはいきませんから、いままでさんざんホリーに懸想してたかに見えたダニエルが、いざホリーとキスした途端、「なんてこった! 妹とキスしたみたいな感じだ!」とかわけのわからんことを言いだして、「自分から身を退く」展開になるんですが、観客としては、ぽかーん? です。無駄にストーリーの流れを阻害するだけの、こんな当て馬キャラなら、はじめっからいらんっつーに。
というわけで、新たな恋の予感の君ですが、こちらは、ジェフリー・ディーン・モーガンです。
(知ってるひとには)言わずと知れた、『スーパーナチュラル』のパパ・ウィンチェスターこと、ジョン・ウィンチェスターですね♪
映画としてはトホホな出来でしたが、ここでこんなJDMが観られただけで、よしとしてもよくってよ、とわたくし、思いました。JDM、グッジョブ(≧▽≦)!
だってなにしろ、パパ・ウィンチェスターが、ロマンチックな異国の男、ハーレクイン・ヒーローを演じているのが観られるなんて(笑)!
JDM演じるウィリアムは、ジェリーの幼馴染でバンド仲間。ホリーはかれと、ジェリーの手紙の指示で、アイルランドをセンチメンタル・ジャーニーしていたときに出会います。
とにかく、すごいですよ、ウィリアム。ジェリー以上に有り得ない「アイルランドの妖精さん」です。
なにしろ、常にホリーにとって必要なタイミングで忽然と現れるわ、たまたま都合よくフリーだわ(でなきゃ、とんでもなく貞操観念のない男、ということになりますが、おそらくそんなことはないでしょう)、神経症じみてるホリーを難なく受け入れてくれるわ、ホリーに必要ななぐさめを見事適確に与えることができるわ、ジェリーのことを完璧に理解してくれるわ、もう、至れり尽くせり。勝手にしてください、って思うの(笑)。
まあ、それはそれとして(いいのか?)、JDM、いいですね♪
スパナチュを観てたときは、ウィンチェスター兄弟に辛い思いをさせてばかりのこの男、どうしたって許せねぇ、と三角な目で見ていたので、実はかれのこと、ちょっとデブ、だと思ってたんですけど(汗)、ごめんなさい、あなたって、デブじゃなくて、たくましい身体をなさっていたのね。
号令をかけたり、うめき声をあげたりしていないとき、あなたの声って、ふんわりとまろやかで、なんて優しいの(笑)。そんな声で、あんな優しい台詞が吐けるなら、息子たちにもそうしてやっていれば、あの子たちだって、それぞれがちがった形で「親に愛されなかった子ども」だと思いこむことなんかなかったのに……って、それはちがう話だけれど。
というわけで、作り手が全然意図していないところで、結構楽しませていただきました。どうもありがとうございました(笑)。
原作はアイルランド首相の実のお嬢さんが書いた世界的ベストセラーだそうですが、まさか、原作もこんなクオリティなんだろうか? それとも、脚色する際になんか予測不能の困った事情でもあったんでしょうか?
アイリッシュの夫ジェリーとつつましく幸せに暮らしていたホリー。しかし、9年に亘る幸せな結婚生活の末に、30代半ばの若さでもって、ジェリーは脳腫瘍で他界。絶望の底に突き落とされたホリーの手元に、亡くなったジェリーから次々と10通の手紙が届く。ホリーは手紙に書かれた指示に従い、誕生日パーティでハメをはずし、ジェリーの遺品を整理し、カラオケパーティに参加し、ジェリーの故郷・アイルランドを訪れる……。
ホリーは、ヒラリー・スワンク、夫のジェリーがジェラルド・バトラーです。はい。ジェラルド・バトラー目当てで劇場に足を運びました。
確かにジェラルドさん、魅力的です。しかしそれって、ジェラルド・バトラーが魅力的だから魅力的なだけであって、ジェリーというキャラクターが魅力的に描かれているという意味ではありません。ジェリーというキャラクター自体は、「夢のアイリッシュガイ」のカリカチュアです。それって、妖精なんかと同じで、確かにアイルランドには生息していそうですが、リアリティとは無縁のファントムです。
あざとくわざとらしく作り物じみた所作をさせられ、台詞を言わされているバトラーが、次第にかわいそうになってきます。同様に、スワンクの方も痛々しいです。腐ってもオスカー女優だというのに、しかも、ちっとも腐ってやいないというのに。
とにかく全般的に、ガチャガチャとステレオタイプなソープオペラのノリですが、ふたりともそんな安っぽい俳優じゃないはず。だめぢゃん、脚本はもっとちゃんと選ぼうね。
なにがいけなかったのかなぁ? 悲しみとまともに向き合うことなく、悲しみを克服する話が描けると思ったところが最大のまちがいなんじゃありませんか? 悲しい話であればあるほど、笑える演出で描くという姿勢は、むしろわたしには好ましいことですが、それが成り立つのは、悲しみがちゃんと悲しみとして描かれていればこそです。悲しみの描写が空疎なのに、笑わせる演出をしようとすれば、軸がぶれるのは当然のことです。
たとえば、「ホリー、悲嘆に暮れるの図」。
ジェリーが死んで3週間。引きこもりを続けるホリーは、食欲だけはあるらしく、食べ散らかしたピザの箱などが散乱する部屋で、シャワーも浴びず、テレビに合わせて歌って踊って「悲しみに浸って」います。
や、それは、ひとそれぞれだからね。そういう悲しみの浸り方っていうのも、アリなのかもしれません。問題は、それがアリなのか有り得ないのかっていうことじゃなくて、それを観た観客が、ホリーの悲しみに共感できるかどうかってことです。
韓国映画『シークレット・サンシャイン』の中で、幼い息子を失ったチョン・ドヨンも、悲しみに浸る毎日を過ごしますが、彼女もまた、食事は摂ります。あれは、カクトキかなんかでしょうか、噛めばボリボリといい音がするものを、テーブルにつかず、流しの前に立ったままで、仮面のような無表情で、ただボリボリと食む。どんなに悲しくても、生きている以上は腹が減る。腹が減ったら食わねばならぬ。その食らうという行為の、あさましさと悲しさが、ボリボリと響く音から伝わってきます。やがてチョン・ドヨンは、ボリボリと食らいながら、ホロリと一粒の涙をこぼすのです。
もちろん、ふたつは全く別の映画ですし、演出の方向性もちがいます。ただわたしは、ホリーの悲しみは作り物にしか思えませんでしたが、チョン・ドヨンの悲しみには共感しました。
作り物作り物、と何度もいいますが、そもそもこの映画の根本的作り自体が、「作り物じみた小細工」によって成り立っています。その小細工のあざとさがまた、自然な悲しみへの共感を阻害するのでしょう。
細工があざといので、ホリーの立ち直りのプロセスというのも、あまりにもヒロインに都合のいい展開に、応援しようという気持ちよりも、しらける気持ちがさきに立ちます。嫌な仕事をしないで済んで、旅行や習い事を楽しんでいられれば、そりゃ生き生きとしてもいられましょうが、そういう暮らしにリアリティはありません。ましてや、旅行には、新たな恋の予感が、習い事には新たなキャリアの可能性が、漏れなくついてくると言われては。しかも、そうしたプロセスを経ていくホリーの、気持ちの流れが説得力のある形で描けているとは思えない。場面場面で結構場当たり的で、これもまたご都合主義な感じです。
ジェリーと、「新たな恋の予感」の相手との間にもうひとり、ダニエルという男がはさまるのですが、これがまた、どうにも居心地が悪い。端的に言って、ホリーは自分に好意を寄せている男を、利用するだけ利用して捨てた、という印象です。もちろん、お話的にホリーをそんなワルモノにするわけにはいきませんから、いままでさんざんホリーに懸想してたかに見えたダニエルが、いざホリーとキスした途端、「なんてこった! 妹とキスしたみたいな感じだ!」とかわけのわからんことを言いだして、「自分から身を退く」展開になるんですが、観客としては、ぽかーん? です。無駄にストーリーの流れを阻害するだけの、こんな当て馬キャラなら、はじめっからいらんっつーに。
というわけで、新たな恋の予感の君ですが、こちらは、ジェフリー・ディーン・モーガンです。
(知ってるひとには)言わずと知れた、『スーパーナチュラル』のパパ・ウィンチェスターこと、ジョン・ウィンチェスターですね♪
映画としてはトホホな出来でしたが、ここでこんなJDMが観られただけで、よしとしてもよくってよ、とわたくし、思いました。JDM、グッジョブ(≧▽≦)!
だってなにしろ、パパ・ウィンチェスターが、ロマンチックな異国の男、ハーレクイン・ヒーローを演じているのが観られるなんて(笑)!
JDM演じるウィリアムは、ジェリーの幼馴染でバンド仲間。ホリーはかれと、ジェリーの手紙の指示で、アイルランドをセンチメンタル・ジャーニーしていたときに出会います。
とにかく、すごいですよ、ウィリアム。ジェリー以上に有り得ない「アイルランドの妖精さん」です。
なにしろ、常にホリーにとって必要なタイミングで忽然と現れるわ、たまたま都合よくフリーだわ(でなきゃ、とんでもなく貞操観念のない男、ということになりますが、おそらくそんなことはないでしょう)、神経症じみてるホリーを難なく受け入れてくれるわ、ホリーに必要ななぐさめを見事適確に与えることができるわ、ジェリーのことを完璧に理解してくれるわ、もう、至れり尽くせり。勝手にしてください、って思うの(笑)。
まあ、それはそれとして(いいのか?)、JDM、いいですね♪
スパナチュを観てたときは、ウィンチェスター兄弟に辛い思いをさせてばかりのこの男、どうしたって許せねぇ、と三角な目で見ていたので、実はかれのこと、ちょっとデブ、だと思ってたんですけど(汗)、ごめんなさい、あなたって、デブじゃなくて、たくましい身体をなさっていたのね。
号令をかけたり、うめき声をあげたりしていないとき、あなたの声って、ふんわりとまろやかで、なんて優しいの(笑)。そんな声で、あんな優しい台詞が吐けるなら、息子たちにもそうしてやっていれば、あの子たちだって、それぞれがちがった形で「親に愛されなかった子ども」だと思いこむことなんかなかったのに……って、それはちがう話だけれど。
というわけで、作り手が全然意図していないところで、結構楽しませていただきました。どうもありがとうございました(笑)。
by shirakian
| 2008-10-30 22:00
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