2008年 10月 12日
落下の王国
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ターセム監督の『ザ・セル』(2000年)は、凡庸なストーリーの、忘れ去られてしかるべき映画でしたが、そこに出てきたスライスされた馬のイメージは、映画を観てから何年も経っても、いまだ忘れられない衝撃として、クッキリと脳裏に刻み込まれています。
そのターセム監督の最新作……って、映画作品としてはこれが二作目なのかな? 寡作な監督さんですね。もともとはミュージックビデオで活躍していた方だそうで、物語をつむぐというより、映像で表現したいという衝動の方がより強いひとなのだと思う。『落下の王国』もまた、『ザ・セル』と同じく、物語は弱い。
しかしその映像は、『ザ・セル』を凌駕する迫力です。
昔々、まだトーキーが発明される以前のハリウッド。撮影中の事故で重傷を負い、下半身不随になってしまった青年ロイ(リー・ペイス)が、病院のベッドでひとりの少女と出会う。少女アレクサンドリア(カティンカ・ウンタルー)は、家族を手伝ってオレンジの収穫をしている際に、樹から落ちて腕を骨折し、入院中だった。青年は、少女を自分の目的のために利用しようと、少女の気を惹くための「お話」を語って聞かせるのだった。
青年は、仕事をしくじった上に、身体もダメになり、恋人まで映画の主演俳優に奪られてしまうという、不幸のどん底にあり、自暴自棄になっています。そんなかれの「目的」は自殺にほかならず、少女の気を惹こうとしたのも、自殺のためのモルヒネを盗って来させるためでした。
そしてわずか5歳の、一見、不運にも腕を折ってしまった以外は何の屈託もなさげに見える少女もまた、背負っていた背景は重かったのです。
少女の一家はインド系の移民です。少女自身はアメリカで成長したので、英語を話せますが、母親は全く英語がわからない。そんな移民、異教徒、異人種にとって、新天地アメリカは決してパラダイスではありませんでした。父親は「angry people」のターゲットとなり、惨殺され、家は焼き討ちされてしまうのです。この犯罪がレイシズムを基調とするヘイトクライムであったのか、単なる貧困による略奪が暴走したものであったのか、視点人物である少女がわずか5歳ですので、その辺りはハッキリとは描写されていませんが、いずれにせよ少女を取り巻く環境が苛酷なものであり、少女が甘受している人生がどんなものであるかは、容易に想像がつくのです。
しかし、自殺願望に取り付かれたスタントマンのロイとはちがい、アレクサンドリアは淡々とそれを受け入れているかに見えます。もちろんそれは、少女の方が人間ができていた、ということではなく、単に少女はあまりに幼かったから、というだけの話なのですが、とにかく少女は、神父さんにオレンジをぶつけたり、病院に納入された大きな氷の塊を舐めてみたり、優しい看護婦さんに手紙を書いてみたり、入院生活をそれなりに楽しみ、なによりも、ロイがつむぐ物語にすっかり引き込まれているようです。
けれど、わずか5歳の少女の中にも、喪失は痛みと共にあり、理不尽さや残酷さに対する怒りは形を持たぬまま淀み、音のない悲しみが、常に基調低音として振動を骨に伝えてくるのです。
ロイの物語は、かれを裏切った恋人や、恋人を奪い、なおかつ日の当たる場所にいる人気俳優への復讐譚ですから、それは常に血と慟哭の物語となりますが、受け止めるアレクサンドリアの中にもまた、同じ血と慟哭はあり、それは物語の外では決して顕わにされることのない父親への思いであり、思いは語り手であるロイへと収束していくのです。
ただひたすら残酷な、ときに目をそむけざるを得ないような物語は、到底入院中の少女の無聊をなぐさめるために語るべきようなものではなく、どうせならオリジナルバージョンではなくディズニーバージョンの御伽噺でもして聞かせた方が、よほど少女も楽しかろうに、と思わせるものですが、それはフェアな見方ではない。なぜなら物語の語り手はロイでも、物語自体は、アレクサンドリアの物語でもあったからです。
ストーリー自体の悲しみ以上に、その悲しみの向こうに透けて見える少女の悲しみを感得するとき、観客の悲しみは弥増してしまうのです。
それにしても、です。そうした悲しい物語を描き出すのに、なんと魅力的な映像世界であることか。
予告編を一目観たときに心臓を打ち抜かれてしまった「泳ぐゾウ」のイメージ、美しい珊瑚礁、紺碧の空と白熱の砂漠、海に浮かぶ城、青く塗られた街、極彩色の衣装、どの一こまを切り取っても絵画のように美しい。
監督のテイストと石岡瑛子さんがデザインした独特の衣装が、ピッタリとマッチして、豪華絢爛な映像美をつむぎだしています。
そして特筆すべきは、アレクサンドリアを演じたカティンカ・ウンタルーの「自然な愛らしさ」でしょう。この子は決してエマ・ワトソンやダコタ・ファニングみたいな、「お人形さんみたいな美少女」ではなく、ちょっとぽっちゃり目のいかにも普通っぽい女の子です。そんな女の子が、ぐいぐい鼻をこすったりといった、演出されていない自然な仕種でのびのびと演じているのですから、存在自体にとてもリアリティがある。育った環境と年齢からくる言葉のたどたどしさも、「子役俳優の台詞」的わざとらしさを排除しています。なんか、ほんとに、もう、かわいい(笑)。
観終わったあと、またもう一度観たくなる映画です。
そして観終わって何年経っても、あのスライスされた馬の映像のように、いくつかのシーンは、しっかりと脳裏に刻み込まれて薄れることがないのだろう、と思います。
そのターセム監督の最新作……って、映画作品としてはこれが二作目なのかな? 寡作な監督さんですね。もともとはミュージックビデオで活躍していた方だそうで、物語をつむぐというより、映像で表現したいという衝動の方がより強いひとなのだと思う。『落下の王国』もまた、『ザ・セル』と同じく、物語は弱い。
しかしその映像は、『ザ・セル』を凌駕する迫力です。
昔々、まだトーキーが発明される以前のハリウッド。撮影中の事故で重傷を負い、下半身不随になってしまった青年ロイ(リー・ペイス)が、病院のベッドでひとりの少女と出会う。少女アレクサンドリア(カティンカ・ウンタルー)は、家族を手伝ってオレンジの収穫をしている際に、樹から落ちて腕を骨折し、入院中だった。青年は、少女を自分の目的のために利用しようと、少女の気を惹くための「お話」を語って聞かせるのだった。
青年は、仕事をしくじった上に、身体もダメになり、恋人まで映画の主演俳優に奪られてしまうという、不幸のどん底にあり、自暴自棄になっています。そんなかれの「目的」は自殺にほかならず、少女の気を惹こうとしたのも、自殺のためのモルヒネを盗って来させるためでした。
そしてわずか5歳の、一見、不運にも腕を折ってしまった以外は何の屈託もなさげに見える少女もまた、背負っていた背景は重かったのです。
少女の一家はインド系の移民です。少女自身はアメリカで成長したので、英語を話せますが、母親は全く英語がわからない。そんな移民、異教徒、異人種にとって、新天地アメリカは決してパラダイスではありませんでした。父親は「angry people」のターゲットとなり、惨殺され、家は焼き討ちされてしまうのです。この犯罪がレイシズムを基調とするヘイトクライムであったのか、単なる貧困による略奪が暴走したものであったのか、視点人物である少女がわずか5歳ですので、その辺りはハッキリとは描写されていませんが、いずれにせよ少女を取り巻く環境が苛酷なものであり、少女が甘受している人生がどんなものであるかは、容易に想像がつくのです。
しかし、自殺願望に取り付かれたスタントマンのロイとはちがい、アレクサンドリアは淡々とそれを受け入れているかに見えます。もちろんそれは、少女の方が人間ができていた、ということではなく、単に少女はあまりに幼かったから、というだけの話なのですが、とにかく少女は、神父さんにオレンジをぶつけたり、病院に納入された大きな氷の塊を舐めてみたり、優しい看護婦さんに手紙を書いてみたり、入院生活をそれなりに楽しみ、なによりも、ロイがつむぐ物語にすっかり引き込まれているようです。
けれど、わずか5歳の少女の中にも、喪失は痛みと共にあり、理不尽さや残酷さに対する怒りは形を持たぬまま淀み、音のない悲しみが、常に基調低音として振動を骨に伝えてくるのです。
ロイの物語は、かれを裏切った恋人や、恋人を奪い、なおかつ日の当たる場所にいる人気俳優への復讐譚ですから、それは常に血と慟哭の物語となりますが、受け止めるアレクサンドリアの中にもまた、同じ血と慟哭はあり、それは物語の外では決して顕わにされることのない父親への思いであり、思いは語り手であるロイへと収束していくのです。
ただひたすら残酷な、ときに目をそむけざるを得ないような物語は、到底入院中の少女の無聊をなぐさめるために語るべきようなものではなく、どうせならオリジナルバージョンではなくディズニーバージョンの御伽噺でもして聞かせた方が、よほど少女も楽しかろうに、と思わせるものですが、それはフェアな見方ではない。なぜなら物語の語り手はロイでも、物語自体は、アレクサンドリアの物語でもあったからです。
ストーリー自体の悲しみ以上に、その悲しみの向こうに透けて見える少女の悲しみを感得するとき、観客の悲しみは弥増してしまうのです。
それにしても、です。そうした悲しい物語を描き出すのに、なんと魅力的な映像世界であることか。
予告編を一目観たときに心臓を打ち抜かれてしまった「泳ぐゾウ」のイメージ、美しい珊瑚礁、紺碧の空と白熱の砂漠、海に浮かぶ城、青く塗られた街、極彩色の衣装、どの一こまを切り取っても絵画のように美しい。
監督のテイストと石岡瑛子さんがデザインした独特の衣装が、ピッタリとマッチして、豪華絢爛な映像美をつむぎだしています。
そして特筆すべきは、アレクサンドリアを演じたカティンカ・ウンタルーの「自然な愛らしさ」でしょう。この子は決してエマ・ワトソンやダコタ・ファニングみたいな、「お人形さんみたいな美少女」ではなく、ちょっとぽっちゃり目のいかにも普通っぽい女の子です。そんな女の子が、ぐいぐい鼻をこすったりといった、演出されていない自然な仕種でのびのびと演じているのですから、存在自体にとてもリアリティがある。育った環境と年齢からくる言葉のたどたどしさも、「子役俳優の台詞」的わざとらしさを排除しています。なんか、ほんとに、もう、かわいい(笑)。
観終わったあと、またもう一度観たくなる映画です。
そして観終わって何年経っても、あのスライスされた馬の映像のように、いくつかのシーンは、しっかりと脳裏に刻み込まれて薄れることがないのだろう、と思います。
by shirakian
| 2008-10-12 22:00
| 映画ら行