2008年 08月 18日
ダークナイト
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前作の『バットマン ビギンズ』を観た時、ノーラン監督の片思いのようだ、と思いました。監督はバットマンが好きで好きでたまらないのに、その思いが全然バットマンには届いていないような感じ。思いを告げるノーラン監督のアプローチのことごとくが、はずしちゃってる感じ。かれの目指したリアルも、シリアスも、知性も、すべてはかれひとりの思い込みで、空回りして、結局ふられちゃった感じ。キャストの豪華さだけが印象に残る映画でした。
だから、実は、今度もそんなに期待してなかった。ノーラン監督はそもそもアプローチの仕方がまちがってるんだから、かれのやり方では「ちゃんとしたバットマン」にはならないだろう、バットマンとお似合いなのは、かれではなくバートンだろう、と。
ところが、とんだ大間違い。や、間違いではなかったのかも。なにしろ、今回の映画は、『バットマン ダークナイト』ではなく、『ダークナイト』。ノーラン監督は別に、「バットマンシリーズとしてよくできた一本」を創ろうとしたのではなく、バットマンを媒体として、なにか新しいものを創出したのだと思う。たぶんそれは、一種の神話的なものです。
この映画がここまで「特別な」ものになり得たのは、まず第一に、緻密に作りこまれた脚本があるわけで、この物語は、個々のキャラクターの存在が、それぞれにからまりあい、相乗効果をもたらし、そこから発展していく作りのものだから、計算がひとつでも狂えば、ストーリーを担うキャラクターのどの一翼でも描写が弱ければ、それで支えられなくなってしまう、非常に微妙なバランスの上に成り立っているものだと思いますが、そのバランス計算が絶妙です。まるでアポロの軌道計算のように。
その脚本あってこそ、というのを踏まえた上で、やっぱり、ジョーカーというキャラクターは凄まじい。
なぜなのかよくわからないのだけど、いまでも、ジョーカーの姿を思い浮かべるだけで、ぶわっと涙がこみあげてくるような、恐ろしく不安定な精神状態に陥ってしまう。夜中にトイレに行けなくなる子供みたいに、かれの存在に怯えてるわけじゃない。ましてや哀れなかれの境遇に同情して涙してるわけでもない。ただ、嵐の前の空気のように、存在自体のあまりの不穏さに、ただただ胸が震えるような感じがしている。
おそらくそれは、ジョーカーがあまりに「悪」そのものだからでしょう。
「悪そのもの」という概念は、実はちょっとわたしには馴染まない。なにしろ日本には、神様だけで八百万もおわすのだし、善だ悪だと言ったところで、黒から白へのその変化はごく微妙なグラデーションでしかないもののように思える。ハリウッドが(そしてキリスト教文化圏が)大好きな「善悪の二元対立」なんて、あまりに単純すぎる世界観に思える。
でもやっぱり、存在そのものが「悪」というものは、あるんじゃないか。根本からどうしようもなく邪悪なものは、あるんじゃないか。それは、最近では『ノーカントリー』でハビエル・バルデムが演じたアントン・シュガーがそうだったし、古きを言えば『ユージュアル・サスペクツ』でケヴィン・スペイシーが演じたカイザー・ソゼがそうでした。
ヒース・レジャーのジョーカーは、まちがいなくそうした「エクスキューズなしの根本的な悪」の系譜に連なるもので、かれの存在は、人間の「善」に対する信頼なんて、悉く覆してしまう。かれは、だれかに愛されなかったからああなったわけでもなく、虐待されたからああなったわけでもなく、絶望の淵に突き落とされたからああなったわけでもなく、ただ淡々とそのようであるからそうであるという存在なのだと思う。だから恐ろしい。そしてその絶望の深さはどうしようもない。
喋り方も、笑い方も、身のこなしも、唯一そうでなければならないそこに、ピタリと着地してみせたレジャーの演技は、鬼気迫るというか、やっぱり、なにかに憑り付かれているような感じです。目の奥の圧倒的な虚無。そもそも生身の人間に、あんな表情ができるのですか? 鳥肌がたちます。
ヒース・レジャーのジョーカーについて本気で語ろうと思えば、こんなスペースじゃ全然足りないです。卒業論文ぐらいの気合を入れて書かなきゃならない。……ので、すみません、こんなんでお茶を濁して撤退……。
ジョーカーの「闇」が際立つのは、あるべき「光」が明るいからで、それを担っていたのが新任地方検事のハービー・デントを演じたアーロン・エッカートです。天性の明るさ、ある種の天真爛漫さを感じさせるキャラクター、人好きのする笑顔、説得力のある声、有能さと人間味の絶妙なバランス、キラキラのブロンド、デントを演じるエッカートはあまりにもはまり役です。まさにホワイトナイトというのがふさわしい。
(どうでもいいけど、トゥーフェイスことデントは、後半、顔の半分が無残なことになってしまうわけですが、おかげで益々残り半分の美貌がひきたつ効果も(笑)。これってアレです、『ゴールデンアイ』のアレック・トレヴェルヤンの顔半分の火傷と同じ(笑))。
だからって、レジャーとエッカートの好演の影で、「主演」のブルース・ウェインを演じたクリスチャン・ベイルの影が薄かったとは、全然思わせないところがまた凄い。ブルース・ウェインは、「主演」ですが「ヒーロー」ではないです。ジョーカーの「闇」に対して「光」を代弁しているのは、あくまでデントであって、ウェインじゃない。なぜならかれもまたダークナイトであるのだから。
主演なのにヒーローではなかったバットマンは、この映画の中では何だったのかと言えば、わたしはかれはアンカーだったのだと思う。
ジョーカー、デント、バットマンのトライアングル、そしてもうひつとつ、ウェイン、デント、レイチェルのトライアングル、このふたつのトライアングルの中心をなすもの。さっきもちょっと言いましたが、この緻密に練り上げられた脚本は、キャラクター構成のどの一翼がくずれても成り立たないのです。その大事なキャラクターパズルの中核をなす存在、そして同時に物語の中核をなす存在。
もちろん、ストーリー上、かれは決して一歩ひいた立ち位置にいるわけではなく、きっちり前面に出ているし、アクションシーンだって決して地味なわけじゃないです。それでもアンカーという、波の下海の底で船を支える存在であることを感じさせる。よく「押さえた演技」とかいいますけど、それともまた違うように思います。ベイルは別に、100ある存在感を60に押さえてるわけじゃない。100あるテンションの60ぐらいで演じてるわけでもない。ただ映画に必要とされる匙加減に、適確に自らをコントロールしているだけです。ジョーカーが凄すぎるので見落とされがちですが、かれもまた、怖い役者だなぁと思います。
書いても書いても全然書き足りない感じの映画です。
この程度書いたくらいじゃ、インデックスを書いただけみたいな感じです。
まだ一回しか観てませんけど、たぶん、リピートせずにはおれないと思います。
だから、実は、今度もそんなに期待してなかった。ノーラン監督はそもそもアプローチの仕方がまちがってるんだから、かれのやり方では「ちゃんとしたバットマン」にはならないだろう、バットマンとお似合いなのは、かれではなくバートンだろう、と。
ところが、とんだ大間違い。や、間違いではなかったのかも。なにしろ、今回の映画は、『バットマン ダークナイト』ではなく、『ダークナイト』。ノーラン監督は別に、「バットマンシリーズとしてよくできた一本」を創ろうとしたのではなく、バットマンを媒体として、なにか新しいものを創出したのだと思う。たぶんそれは、一種の神話的なものです。
この映画がここまで「特別な」ものになり得たのは、まず第一に、緻密に作りこまれた脚本があるわけで、この物語は、個々のキャラクターの存在が、それぞれにからまりあい、相乗効果をもたらし、そこから発展していく作りのものだから、計算がひとつでも狂えば、ストーリーを担うキャラクターのどの一翼でも描写が弱ければ、それで支えられなくなってしまう、非常に微妙なバランスの上に成り立っているものだと思いますが、そのバランス計算が絶妙です。まるでアポロの軌道計算のように。
その脚本あってこそ、というのを踏まえた上で、やっぱり、ジョーカーというキャラクターは凄まじい。
なぜなのかよくわからないのだけど、いまでも、ジョーカーの姿を思い浮かべるだけで、ぶわっと涙がこみあげてくるような、恐ろしく不安定な精神状態に陥ってしまう。夜中にトイレに行けなくなる子供みたいに、かれの存在に怯えてるわけじゃない。ましてや哀れなかれの境遇に同情して涙してるわけでもない。ただ、嵐の前の空気のように、存在自体のあまりの不穏さに、ただただ胸が震えるような感じがしている。
おそらくそれは、ジョーカーがあまりに「悪」そのものだからでしょう。
「悪そのもの」という概念は、実はちょっとわたしには馴染まない。なにしろ日本には、神様だけで八百万もおわすのだし、善だ悪だと言ったところで、黒から白へのその変化はごく微妙なグラデーションでしかないもののように思える。ハリウッドが(そしてキリスト教文化圏が)大好きな「善悪の二元対立」なんて、あまりに単純すぎる世界観に思える。
でもやっぱり、存在そのものが「悪」というものは、あるんじゃないか。根本からどうしようもなく邪悪なものは、あるんじゃないか。それは、最近では『ノーカントリー』でハビエル・バルデムが演じたアントン・シュガーがそうだったし、古きを言えば『ユージュアル・サスペクツ』でケヴィン・スペイシーが演じたカイザー・ソゼがそうでした。
ヒース・レジャーのジョーカーは、まちがいなくそうした「エクスキューズなしの根本的な悪」の系譜に連なるもので、かれの存在は、人間の「善」に対する信頼なんて、悉く覆してしまう。かれは、だれかに愛されなかったからああなったわけでもなく、虐待されたからああなったわけでもなく、絶望の淵に突き落とされたからああなったわけでもなく、ただ淡々とそのようであるからそうであるという存在なのだと思う。だから恐ろしい。そしてその絶望の深さはどうしようもない。
喋り方も、笑い方も、身のこなしも、唯一そうでなければならないそこに、ピタリと着地してみせたレジャーの演技は、鬼気迫るというか、やっぱり、なにかに憑り付かれているような感じです。目の奥の圧倒的な虚無。そもそも生身の人間に、あんな表情ができるのですか? 鳥肌がたちます。
ヒース・レジャーのジョーカーについて本気で語ろうと思えば、こんなスペースじゃ全然足りないです。卒業論文ぐらいの気合を入れて書かなきゃならない。……ので、すみません、こんなんでお茶を濁して撤退……。
ジョーカーの「闇」が際立つのは、あるべき「光」が明るいからで、それを担っていたのが新任地方検事のハービー・デントを演じたアーロン・エッカートです。天性の明るさ、ある種の天真爛漫さを感じさせるキャラクター、人好きのする笑顔、説得力のある声、有能さと人間味の絶妙なバランス、キラキラのブロンド、デントを演じるエッカートはあまりにもはまり役です。まさにホワイトナイトというのがふさわしい。
(どうでもいいけど、トゥーフェイスことデントは、後半、顔の半分が無残なことになってしまうわけですが、おかげで益々残り半分の美貌がひきたつ効果も(笑)。これってアレです、『ゴールデンアイ』のアレック・トレヴェルヤンの顔半分の火傷と同じ(笑))。
だからって、レジャーとエッカートの好演の影で、「主演」のブルース・ウェインを演じたクリスチャン・ベイルの影が薄かったとは、全然思わせないところがまた凄い。ブルース・ウェインは、「主演」ですが「ヒーロー」ではないです。ジョーカーの「闇」に対して「光」を代弁しているのは、あくまでデントであって、ウェインじゃない。なぜならかれもまたダークナイトであるのだから。
主演なのにヒーローではなかったバットマンは、この映画の中では何だったのかと言えば、わたしはかれはアンカーだったのだと思う。
ジョーカー、デント、バットマンのトライアングル、そしてもうひつとつ、ウェイン、デント、レイチェルのトライアングル、このふたつのトライアングルの中心をなすもの。さっきもちょっと言いましたが、この緻密に練り上げられた脚本は、キャラクター構成のどの一翼がくずれても成り立たないのです。その大事なキャラクターパズルの中核をなす存在、そして同時に物語の中核をなす存在。
もちろん、ストーリー上、かれは決して一歩ひいた立ち位置にいるわけではなく、きっちり前面に出ているし、アクションシーンだって決して地味なわけじゃないです。それでもアンカーという、波の下海の底で船を支える存在であることを感じさせる。よく「押さえた演技」とかいいますけど、それともまた違うように思います。ベイルは別に、100ある存在感を60に押さえてるわけじゃない。100あるテンションの60ぐらいで演じてるわけでもない。ただ映画に必要とされる匙加減に、適確に自らをコントロールしているだけです。ジョーカーが凄すぎるので見落とされがちですが、かれもまた、怖い役者だなぁと思います。
書いても書いても全然書き足りない感じの映画です。
この程度書いたくらいじゃ、インデックスを書いただけみたいな感じです。
まだ一回しか観てませんけど、たぶん、リピートせずにはおれないと思います。
by shirakian
| 2008-08-18 21:02
| 映画た行