2008年 07月 24日
アウェイ・フロム・ハー 君を想う
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ジュリー・クリスティがゴールデングローブ賞主演女優賞をはじめ、いろんな映画賞を受賞したことで話題になった映画です。クリスティの演技もすごいんですが、やっぱ、監督がサラ・ポーリーっていうのが、オドロキですよね、色んな意味で。
この映画を撮ったとき、ポーリーはまだ27歳だったそうです。若くて綺麗な女優さん、ともすればアイドルとして見てしまいがちな「お嬢さん」に、映画の監督ができるなんて、失礼ながらそこがまず驚き。しかも撮った映画のテーマというのが、認知症と老夫婦の愛の物語。渋い。渋すぎる。製作総指揮にアトム・エゴヤンの名前があるので、もしかしたら、かれからいろんなアドバイスとかしてもらったのかもしれませんけど(このふたりは、『スウィート・ヒア・アフター』の縁?)、でもやっぱ、監督がポーリーであることはまちがいなく、それだけじゃなく、脚本も彼女が書いているのですから、後世畏るべし。
物語はこうです。44年連れ添ったフィオナ(ジュリー・クリスティ)とグラント(ゴードン・ピンセント)のアンダーソン夫妻。44年の間にはいろんなこともあったけど、とにかく仲良く添い遂げて、傍目にも本人たちも幸せを噛みしめる日々。ところがフィオナは徐々に自分の認知症を自覚するようになり、進んで老人介護施設に入所することに。施設に慣れるまではと、30日間面会を禁止されている間に、フィオナはグラントのことを忘れはて、のみならず、別の入所者の男性に好意を示すようになっていた……。
長年連れ添った夫婦の、妻が認知症に犯され、夫がそれを見守る、という構図から、ジョディ・デンチの『アイリス』のような映画かと予測していたのですが、全然ちがいました。そもそもアプローチが全然ちがう。『アイリス』はあくまで夫婦の愛の物語に主眼があったのだけど、この映画は、それよりずっと意地が悪い。
物事は必ずしも見かけ通りではない。しでかした過去は決して消えない。人間は自分の思い通りに生きられるものではない。おろかな選択の結果はいつまでたってもついてまわる。云々云々。特に男性には厳しいお話になってるのは、やっぱ、若い女性監督の潔癖からきているのでしょうか。
アンダーソン夫妻は、「夫の定年後の第二の人生」を上手にデザインして、思い描いた通りに生きてきた、いわば「成功例」です。すばらしい環境に住む家を確保し、財政的にも破綻せず、夫婦ともに元気で、スポーツを楽しみ、友人を招き、本を読み、会話をし――――。「老い」なんか怖くない。年を重ねることは、醜くなることでもなく、弱くなることでもなく、豊かになることである。というひとつの「神話」を体現するかのような20年。でも、必ずしもそんな風に、人間は「老い」をコントロールできるものではありません。「豊かな老後」の果てに、「静かな死」が訪れればいいけど、「老い」は「死」にいたるまでに、とんでもないいたずらをしでかしてくれる。
「こうしたい」と思い描き、その実現に向けて努力し、努力の結果、その思い描いた自分を掴み取る。アメリカンドリームの基本です。人間はなりたい自分になることができる。そう信じて努力することは、決して悪いことじゃあないけれど。
……ただ、どんなに努力したって、頑張ったって、どうしようもないことだって、人生にはある、という話。
なにもせずに諦めるのがよい、とは言わないけれど、なにもかも望んだ通りになる、と思うのはやはり、傲慢であるということなのでしょう。
そうした「老い」に対する思いがまずひとつ。そしてもうひとつは、男女のこと、夫婦のこと。幾つになっても男と女。若いポーリー監督は、老夫婦の関係を描写するにも、敢えて生々しいセックス描写をやってのけます。
大学教授をしていたグラントは、若い頃、女学生に非常にもてた、というよりむしろ「入れ食い」状態であったらしい。それはグラントにとっては、人生のささやかな余得であり、楽しい思い出であり、罪のないおいたであり、要するに「どうってことのないこと」であって、愛しているのは妻ひとり、と思う気持ちと少しも矛盾しなかった。
でも、それはグラントの勝手な思い込みであって、フィオナにとって、状況は全然ちがっていたということ、しかもグラントは、フィオナにとって状況が全然ちがったのだとは、今の今まで夢にも思っていなかった、ということ。
死ぬ前に、自分の人生が悪くなかったと思うのは、男の方ばかり。
フィオナの「惚け」の症状が、ほとんどまんがちっくなほどにグラントに対して残酷な形で表出したのは、グラントならずとも、フィオナの心の奥底の、「愛」という表層を引き剥がしたその下に、グラントに復讐したい気持ちがあったからでは、と勘ぐってみたくもなるというものです。
44年も一緒に暮らしても、しかも互いにほんとに愛し合っていたのだとしても、結局相手のことなんて、なんにもわかっていなかったんじゃないか。
ところで、若いころモテモテだったグラントですが、施設に面会に行くと、必ず入所者とまちがわれるくらい立派な「じいさん」になってしまった今でも、女性に対するフェロモンが健在らしい、というのは、やっぱ、笑うところです。そして、かれの旺盛なフェロモンが、とんでもなく残酷で(でもやっぱ滑稽な)決断をかれにさせてしまうことになる。(ゴードン・ピンセントって、そんなすごいハンサムというわけではないと思うけど、「フェロモン」という分野において、非常に説得力があって、うまいキャスティングだなぁ、と思いました)。
「老いらくの出来心の相手」であるオリンピア・デュカキスは、大変プライドの高い女性らしいので、普通だったら、事がこじれる前に身をひきそうな気もするけど、あそこまで背水の陣を敷いてしまった以上、そうもいかないわけで、そこまでグラントを追い詰めて、なんだかポーリー監督、意地悪くニンマリしているような気がする。
数々の賞を受賞したジュリー・クリスティですが、年相応に年齢を重ねた顔ではあるのだけれど、やはり輝くばかりに美しいです。くっきりした目鼻立ちも美しいし、お肌も綺麗なんだけど、なんというか、まとっている雰囲気が凛然として気品があり、知性の輝きがあります。知性ってなんだろう。どうしたら身につくのだろう。大学に行けば身につくんだろうか。とにかく、それがあるとひとは輝いて見えるのだから不思議なものだ。
そして、その美しいクリスティが、施設での愛情の対象を失ってふさぎこむと、どんどん「老婆」そのものになっていく恐ろしさ。
「老い」なんて怖くない。年をとってもこんなに美しくいられる。あるいは、「老い」はやはり怖い。こんなに美しいひとでも、こんなに醜くなれる。
ポーリー監督の、若い視点は揺れ動いているのか、それとも後者にロックオンしているのか。
この映画を撮ったとき、ポーリーはまだ27歳だったそうです。若くて綺麗な女優さん、ともすればアイドルとして見てしまいがちな「お嬢さん」に、映画の監督ができるなんて、失礼ながらそこがまず驚き。しかも撮った映画のテーマというのが、認知症と老夫婦の愛の物語。渋い。渋すぎる。製作総指揮にアトム・エゴヤンの名前があるので、もしかしたら、かれからいろんなアドバイスとかしてもらったのかもしれませんけど(このふたりは、『スウィート・ヒア・アフター』の縁?)、でもやっぱ、監督がポーリーであることはまちがいなく、それだけじゃなく、脚本も彼女が書いているのですから、後世畏るべし。
物語はこうです。44年連れ添ったフィオナ(ジュリー・クリスティ)とグラント(ゴードン・ピンセント)のアンダーソン夫妻。44年の間にはいろんなこともあったけど、とにかく仲良く添い遂げて、傍目にも本人たちも幸せを噛みしめる日々。ところがフィオナは徐々に自分の認知症を自覚するようになり、進んで老人介護施設に入所することに。施設に慣れるまではと、30日間面会を禁止されている間に、フィオナはグラントのことを忘れはて、のみならず、別の入所者の男性に好意を示すようになっていた……。
長年連れ添った夫婦の、妻が認知症に犯され、夫がそれを見守る、という構図から、ジョディ・デンチの『アイリス』のような映画かと予測していたのですが、全然ちがいました。そもそもアプローチが全然ちがう。『アイリス』はあくまで夫婦の愛の物語に主眼があったのだけど、この映画は、それよりずっと意地が悪い。
物事は必ずしも見かけ通りではない。しでかした過去は決して消えない。人間は自分の思い通りに生きられるものではない。おろかな選択の結果はいつまでたってもついてまわる。云々云々。特に男性には厳しいお話になってるのは、やっぱ、若い女性監督の潔癖からきているのでしょうか。
アンダーソン夫妻は、「夫の定年後の第二の人生」を上手にデザインして、思い描いた通りに生きてきた、いわば「成功例」です。すばらしい環境に住む家を確保し、財政的にも破綻せず、夫婦ともに元気で、スポーツを楽しみ、友人を招き、本を読み、会話をし――――。「老い」なんか怖くない。年を重ねることは、醜くなることでもなく、弱くなることでもなく、豊かになることである。というひとつの「神話」を体現するかのような20年。でも、必ずしもそんな風に、人間は「老い」をコントロールできるものではありません。「豊かな老後」の果てに、「静かな死」が訪れればいいけど、「老い」は「死」にいたるまでに、とんでもないいたずらをしでかしてくれる。
「こうしたい」と思い描き、その実現に向けて努力し、努力の結果、その思い描いた自分を掴み取る。アメリカンドリームの基本です。人間はなりたい自分になることができる。そう信じて努力することは、決して悪いことじゃあないけれど。
……ただ、どんなに努力したって、頑張ったって、どうしようもないことだって、人生にはある、という話。
なにもせずに諦めるのがよい、とは言わないけれど、なにもかも望んだ通りになる、と思うのはやはり、傲慢であるということなのでしょう。
そうした「老い」に対する思いがまずひとつ。そしてもうひとつは、男女のこと、夫婦のこと。幾つになっても男と女。若いポーリー監督は、老夫婦の関係を描写するにも、敢えて生々しいセックス描写をやってのけます。
大学教授をしていたグラントは、若い頃、女学生に非常にもてた、というよりむしろ「入れ食い」状態であったらしい。それはグラントにとっては、人生のささやかな余得であり、楽しい思い出であり、罪のないおいたであり、要するに「どうってことのないこと」であって、愛しているのは妻ひとり、と思う気持ちと少しも矛盾しなかった。
でも、それはグラントの勝手な思い込みであって、フィオナにとって、状況は全然ちがっていたということ、しかもグラントは、フィオナにとって状況が全然ちがったのだとは、今の今まで夢にも思っていなかった、ということ。
死ぬ前に、自分の人生が悪くなかったと思うのは、男の方ばかり。
フィオナの「惚け」の症状が、ほとんどまんがちっくなほどにグラントに対して残酷な形で表出したのは、グラントならずとも、フィオナの心の奥底の、「愛」という表層を引き剥がしたその下に、グラントに復讐したい気持ちがあったからでは、と勘ぐってみたくもなるというものです。
44年も一緒に暮らしても、しかも互いにほんとに愛し合っていたのだとしても、結局相手のことなんて、なんにもわかっていなかったんじゃないか。
ところで、若いころモテモテだったグラントですが、施設に面会に行くと、必ず入所者とまちがわれるくらい立派な「じいさん」になってしまった今でも、女性に対するフェロモンが健在らしい、というのは、やっぱ、笑うところです。そして、かれの旺盛なフェロモンが、とんでもなく残酷で(でもやっぱ滑稽な)決断をかれにさせてしまうことになる。(ゴードン・ピンセントって、そんなすごいハンサムというわけではないと思うけど、「フェロモン」という分野において、非常に説得力があって、うまいキャスティングだなぁ、と思いました)。
「老いらくの出来心の相手」であるオリンピア・デュカキスは、大変プライドの高い女性らしいので、普通だったら、事がこじれる前に身をひきそうな気もするけど、あそこまで背水の陣を敷いてしまった以上、そうもいかないわけで、そこまでグラントを追い詰めて、なんだかポーリー監督、意地悪くニンマリしているような気がする。
数々の賞を受賞したジュリー・クリスティですが、年相応に年齢を重ねた顔ではあるのだけれど、やはり輝くばかりに美しいです。くっきりした目鼻立ちも美しいし、お肌も綺麗なんだけど、なんというか、まとっている雰囲気が凛然として気品があり、知性の輝きがあります。知性ってなんだろう。どうしたら身につくのだろう。大学に行けば身につくんだろうか。とにかく、それがあるとひとは輝いて見えるのだから不思議なものだ。
そして、その美しいクリスティが、施設での愛情の対象を失ってふさぎこむと、どんどん「老婆」そのものになっていく恐ろしさ。
「老い」なんて怖くない。年をとってもこんなに美しくいられる。あるいは、「老い」はやはり怖い。こんなに美しいひとでも、こんなに醜くなれる。
ポーリー監督の、若い視点は揺れ動いているのか、それとも後者にロックオンしているのか。
by shirakian
| 2008-07-24 21:32
| 映画あ行