2008年 06月 23日
Mr.ブルックス ~完璧なる殺人鬼~
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なんか、こう、よっしゃーっ! 合格ーっ! って感じの映画でした(笑)。
シリアルキラーの物語なので、残酷な話ではあるんですが、これが滅法面白い。
とにかく、破綻がない緻密な脚本は、まるで数学の公式のようです。美しい。
Mr.ブルックスことケヴィン・コスナーは、ポートランドでマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるほどの成功したビジネスマン。愛する妻と、かわいい娘、すっごい豪邸には、趣味の陶器を焼くための工房まである。ところがコスナーには、だれにも言えない秘密があった。なんとかれは、快楽殺人依存症なのであった!
一時期、理想の夫、理想のお父さんとして一世を風靡した、いかにもそんな感じに見えるケヴィン・コスナーを配してのこの設定。まずそこから説得力たっぷりです。成功が華々しく見えれば見えるほど、安定が強固に感じられれば感じられるほど、その陰で病んでいるキャラクターの二面性が強く印象づけられるものですが、しかも、その二面性を描くのに、ブルックス氏の第二の人格として、ウィリアム・ハートが配されています。
コスナーとハートは同一人物の中にある別人格ですが、表にあらわれている人格とは異なるハートの人格は、ジキルとハイドのハイドのような、表の人格をアリ地獄のように「悪」へと引きずり落とす「悪なるもの」ではありません。確かにかれは無責任にコスナーを快楽殺人に誘おうとしたりもするのだけれど、意外なほど常識人であり、冷静な判断力を持ち、コスナーが困難に陥ったり、判断に迷ったりしたときには、むしろ助言役として機能しています。また、知的作業においては、論理的思考のパートをコスナーが、記憶にかかわるパートをハートが、という風に分担している風なのも面白い。
コスナーはハートと文字通り会話を交わすのですが、このふたりの会話って、こうした設定によく見られるような、表の人格が裏の人格の発言をうとましがり、いいからもう黙っててくれよ! と絶叫するような、そんな会話じゃないのです。ふたり、なんだかとっても仲がよくて楽しそう。奥さんといるより、娘といるより、コスナーはハートといる時の方がしっくりしているように見える。
人間の多面性を語るのに、ひとつの個性しかもたない「人格」なんて、あまりに薄っぺらすぎる。どんな人格もその人格なりの微妙さや複雑さや多面性を備えているのであり、それらのどの人格をとっても、その人間の一面を表すものにほかならない、そんな主張が感じられます。
だったらなぜこれって、コスナーの一人二役じゃなく、敢えてウィリアム・ハートなのか、という点についてちょっと考えてみたのですが。
ハートもコスナー同様ブルックス氏ではあるんだけれども、ブルックス氏の妻や娘はハートにとっては「きみの妻」であり「きみの娘」であるんですよね。立ち位置がひとごと。もちろん、コスナーの運命はハートの運命そのものですから、コスナーの妻や娘がどうでもいいというわけではないんだけど、そこにある感情は傍観者のものであり、ハートは、暴走する娘そのひとのことより、娘のことで悩み苦しむコスナーのことの方がはるかに気がかりである様子。そしてコスナーもまた、ハートに対しては素直に自分をさらけだして、甘え、なぐさめられ、助言を求めています。
そこから考えられる可能性として、ハートはもしかして、コスナーの父親あるいは兄(いずれにしてもすでに故人になっている)の容姿を投影しているのではないか? ということです。
ブルックス氏というひとは、肉親の縁が薄いひとで、子どものころ親兄弟とは死に別れてしまったのかもしれない、だれかに頼りたいという潜在願望がぬけきらずに大人になってしまったひとなのかもしれない、そんな願望がハートの容姿の別人格を作り出してしまったのかもしれない、と思ったわけです。もちろんそんなことは示唆されすらしないので、これは完全にわたしの推測です。
しかし、どうでもいいことですが、そんな仲良しハートとコスナー、ふたりのツーショットの絵柄って、なんだか随分みょうちくりんです。そこまで計算したのかどうかわからないのだけど、この図柄の滑稽さが、全体のトーンにたくまざるユーモアを添えているのです。……やっぱ、その辺も狙ったのかな。陰惨な話なのに、このユーモアのおかげで救われるような感じ。
コスナーは、当然、自分が快楽殺人依存症であることを骨の髄まで嫌悪しており、アル中でもないくせに、アルコール中毒患者の会に通って、なんとか自分をコントロールしようとしたりして、とにかくとても苦悩しているわけではあるんですが、ひとたび箍がはずれ、Goサインが点じた時の描写が秀逸です。
どういうことかというと、コスナー、殺人鬼として、ものすごく優秀(笑)。
限りなく頭のよい優秀な人物が、的確に自分の仕事をこなしていくという流れは、たとえそれが快楽殺人のようなことであっても、観る者をして快感を感じさせるものなんだ、ということがよぉくわかる。とにかくこれが、小気味いいのです。しかもそれを見せるのに、一方に、杜撰な殺人者や、衝動的便乗者、などの「ダメな例」を対比させることによって、コスナーの優秀さが際立つ仕組みになっているのも匠の技です。
物語は、「完璧なる殺人鬼」であったコスナーが、些細なミスを犯したところから絶望的なまでに暴走していくシチュエーションを、一体どうやって収束させるのか、という興味にぐいぐいひきつけられて突き進むのですが、この収束のさせ方が、どれもこれもリアリティがあり、だからこそ最後までかれの運命から目が離せないのです。この辺りが、緻密でよくできた脚本、と思う所以です。
コスナーが、自分だって殺しなんかしたくないんだ、やめたいに決まってるけど、やめられないんだ、依存症なんだから、とつぶやくその台詞が、絶叫ではなく、淡々と事実を述べるものであるのもまた、ゾッとさせるリアリティを放っています。そんな絶望の中にありながら、殺人を重ねるその手口は、鮮やかそのもの。なるほど、自分の手でコントロールできない衝動って、こういうことなんだ、とここでも深く納得です。
実はこの物語、殺人鬼のコスナー&ハートと平行して、殺人鬼を追う刑事であるデミ・ムーアの話も描かれています。こちらも丹念で破綻のない描写を積み重ねていき、あちこちでニアミスを繰り返し、際どくクロスする局面もありながら、結局出会うことのなかったふたりの攻防を、緊迫感のあるドラマに仕立て上げています。
だけどね、刑事のデミ・ムーア、なんかビジュアルがイマイチなの……。なんでだろ。普通、あんなスタイルがよくて凛々しいタイプの女優さんが、パンツスーツできめてくれたら、アクセサリーなんかなんにもいらない(>_<)! って感じに仕上がるはずなのに、なぜか今回、スーツ姿が似合ってなかったような。ちょっと鈍重な感じ。ジャケットの丈があってなかった? うーん、スタイリストはなにやってたんだ。
あー、それで、どうでもいいことを思い出してしまいました。デミ・ムーアって、一時期ちょっと太っちゃったんだけど、『素顔のままで』という映画でフルヌードを披露するのをきっかけに、ダイエット大作戦を展開したんですよね。その時、なんかのまちがいで、彼女がダイエットにかけた費用として、どっかの国の国家予算に匹敵するくらいの額が報道されて、一体どういうダイエット!? と物議をかもしたものだった(笑)。
や、しかし、それから何年? いまだにあのスタイルを維持しているところを見ると、ほんとにそのくらいの予算をかけたスペシャル・ダイエットだったのかも!? とも思ってしまいます(笑)。
シリアルキラーの物語なので、残酷な話ではあるんですが、これが滅法面白い。
とにかく、破綻がない緻密な脚本は、まるで数学の公式のようです。美しい。
Mr.ブルックスことケヴィン・コスナーは、ポートランドでマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるほどの成功したビジネスマン。愛する妻と、かわいい娘、すっごい豪邸には、趣味の陶器を焼くための工房まである。ところがコスナーには、だれにも言えない秘密があった。なんとかれは、快楽殺人依存症なのであった!
一時期、理想の夫、理想のお父さんとして一世を風靡した、いかにもそんな感じに見えるケヴィン・コスナーを配してのこの設定。まずそこから説得力たっぷりです。成功が華々しく見えれば見えるほど、安定が強固に感じられれば感じられるほど、その陰で病んでいるキャラクターの二面性が強く印象づけられるものですが、しかも、その二面性を描くのに、ブルックス氏の第二の人格として、ウィリアム・ハートが配されています。
コスナーとハートは同一人物の中にある別人格ですが、表にあらわれている人格とは異なるハートの人格は、ジキルとハイドのハイドのような、表の人格をアリ地獄のように「悪」へと引きずり落とす「悪なるもの」ではありません。確かにかれは無責任にコスナーを快楽殺人に誘おうとしたりもするのだけれど、意外なほど常識人であり、冷静な判断力を持ち、コスナーが困難に陥ったり、判断に迷ったりしたときには、むしろ助言役として機能しています。また、知的作業においては、論理的思考のパートをコスナーが、記憶にかかわるパートをハートが、という風に分担している風なのも面白い。
コスナーはハートと文字通り会話を交わすのですが、このふたりの会話って、こうした設定によく見られるような、表の人格が裏の人格の発言をうとましがり、いいからもう黙っててくれよ! と絶叫するような、そんな会話じゃないのです。ふたり、なんだかとっても仲がよくて楽しそう。奥さんといるより、娘といるより、コスナーはハートといる時の方がしっくりしているように見える。
人間の多面性を語るのに、ひとつの個性しかもたない「人格」なんて、あまりに薄っぺらすぎる。どんな人格もその人格なりの微妙さや複雑さや多面性を備えているのであり、それらのどの人格をとっても、その人間の一面を表すものにほかならない、そんな主張が感じられます。
だったらなぜこれって、コスナーの一人二役じゃなく、敢えてウィリアム・ハートなのか、という点についてちょっと考えてみたのですが。
ハートもコスナー同様ブルックス氏ではあるんだけれども、ブルックス氏の妻や娘はハートにとっては「きみの妻」であり「きみの娘」であるんですよね。立ち位置がひとごと。もちろん、コスナーの運命はハートの運命そのものですから、コスナーの妻や娘がどうでもいいというわけではないんだけど、そこにある感情は傍観者のものであり、ハートは、暴走する娘そのひとのことより、娘のことで悩み苦しむコスナーのことの方がはるかに気がかりである様子。そしてコスナーもまた、ハートに対しては素直に自分をさらけだして、甘え、なぐさめられ、助言を求めています。
そこから考えられる可能性として、ハートはもしかして、コスナーの父親あるいは兄(いずれにしてもすでに故人になっている)の容姿を投影しているのではないか? ということです。
ブルックス氏というひとは、肉親の縁が薄いひとで、子どものころ親兄弟とは死に別れてしまったのかもしれない、だれかに頼りたいという潜在願望がぬけきらずに大人になってしまったひとなのかもしれない、そんな願望がハートの容姿の別人格を作り出してしまったのかもしれない、と思ったわけです。もちろんそんなことは示唆されすらしないので、これは完全にわたしの推測です。
しかし、どうでもいいことですが、そんな仲良しハートとコスナー、ふたりのツーショットの絵柄って、なんだか随分みょうちくりんです。そこまで計算したのかどうかわからないのだけど、この図柄の滑稽さが、全体のトーンにたくまざるユーモアを添えているのです。……やっぱ、その辺も狙ったのかな。陰惨な話なのに、このユーモアのおかげで救われるような感じ。
コスナーは、当然、自分が快楽殺人依存症であることを骨の髄まで嫌悪しており、アル中でもないくせに、アルコール中毒患者の会に通って、なんとか自分をコントロールしようとしたりして、とにかくとても苦悩しているわけではあるんですが、ひとたび箍がはずれ、Goサインが点じた時の描写が秀逸です。
どういうことかというと、コスナー、殺人鬼として、ものすごく優秀(笑)。
限りなく頭のよい優秀な人物が、的確に自分の仕事をこなしていくという流れは、たとえそれが快楽殺人のようなことであっても、観る者をして快感を感じさせるものなんだ、ということがよぉくわかる。とにかくこれが、小気味いいのです。しかもそれを見せるのに、一方に、杜撰な殺人者や、衝動的便乗者、などの「ダメな例」を対比させることによって、コスナーの優秀さが際立つ仕組みになっているのも匠の技です。
物語は、「完璧なる殺人鬼」であったコスナーが、些細なミスを犯したところから絶望的なまでに暴走していくシチュエーションを、一体どうやって収束させるのか、という興味にぐいぐいひきつけられて突き進むのですが、この収束のさせ方が、どれもこれもリアリティがあり、だからこそ最後までかれの運命から目が離せないのです。この辺りが、緻密でよくできた脚本、と思う所以です。
コスナーが、自分だって殺しなんかしたくないんだ、やめたいに決まってるけど、やめられないんだ、依存症なんだから、とつぶやくその台詞が、絶叫ではなく、淡々と事実を述べるものであるのもまた、ゾッとさせるリアリティを放っています。そんな絶望の中にありながら、殺人を重ねるその手口は、鮮やかそのもの。なるほど、自分の手でコントロールできない衝動って、こういうことなんだ、とここでも深く納得です。
実はこの物語、殺人鬼のコスナー&ハートと平行して、殺人鬼を追う刑事であるデミ・ムーアの話も描かれています。こちらも丹念で破綻のない描写を積み重ねていき、あちこちでニアミスを繰り返し、際どくクロスする局面もありながら、結局出会うことのなかったふたりの攻防を、緊迫感のあるドラマに仕立て上げています。
だけどね、刑事のデミ・ムーア、なんかビジュアルがイマイチなの……。なんでだろ。普通、あんなスタイルがよくて凛々しいタイプの女優さんが、パンツスーツできめてくれたら、アクセサリーなんかなんにもいらない(>_<)! って感じに仕上がるはずなのに、なぜか今回、スーツ姿が似合ってなかったような。ちょっと鈍重な感じ。ジャケットの丈があってなかった? うーん、スタイリストはなにやってたんだ。
あー、それで、どうでもいいことを思い出してしまいました。デミ・ムーアって、一時期ちょっと太っちゃったんだけど、『素顔のままで』という映画でフルヌードを披露するのをきっかけに、ダイエット大作戦を展開したんですよね。その時、なんかのまちがいで、彼女がダイエットにかけた費用として、どっかの国の国家予算に匹敵するくらいの額が報道されて、一体どういうダイエット!? と物議をかもしたものだった(笑)。
や、しかし、それから何年? いまだにあのスタイルを維持しているところを見ると、ほんとにそのくらいの予算をかけたスペシャル・ダイエットだったのかも!? とも思ってしまいます(笑)。
by shirakian
| 2008-06-23 22:12
| 映画ま行