2008年 06月 02日
さよなら。いつかわかること
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ジョン・キューザック、いい役者さんですよね。
でも、すんごい久しぶりな気がしたので、いつぶりだったかしら、とちょっと調べてみたら、2003年振りだったらしいです。この年公開の『ニューオリンズ・トライアル』と『アイデンティティー』、両方ともわたしは観てますが、その後の出演作は観てない模様。日本に来なかったのかな? 来た?(だれに訊いている)。
もっとずっと若いころから、あんまり顔の変わらないひとだなぁ、という印象があるのですが、久しぶりに観たこの映画でも、うん、確かに、顔の印象は10年ぐらい前とほとんど変わらないです。……でも体型が(汗)。
あれは、なんなんだろう、役作りでしょうか、それとも、もうこの体型でいいや、って居直っちゃったのかしら、ちょっとかなりどすこかった。もともと細いひとではないけれども。
さて、この映画ですが、陸軍の軍曹としてイラクに赴任していた妻のグレースが戦死。なかなかその死を受け入れられないスタンリー(ジョン・キューザック)が、ふたりの娘を連れて小さな旅に出る、というお話。
もんのすごく、シンプルで、余計な飾りが一切ない、潔いような工夫が足りないような、悪くないけど薄味な映画です。
それってたぶん、ユーモアが足りないんだと思う。ジョン・キューザックはコミカルな演技もこなせる役者さんなのだから、もっとはじけた演出があってもよかったんじゃないかと思うし、いや、これはシリアスな話なのだから、その渦中にある人物にコミカルなシーンを演じさせるなんてとんでもない、ということなら、スタンリーの弟として、「兄とは正反対の個性を持つ人物」が登場するのだから、このひとに笑いのパートを担わせればよかった。
どんな深刻な映画でも、いや、深刻な映画であればあるほど、ユーモアは絶対に必要不可欠であると、わたしなんかは思ってしまうので、全くそれがないキマジメに終始した演出は、やはりちょっと息苦しいです。
それはさておき、突然パートナーを失ったら、もろいのはやはり男の方だな、としみじみと思わせるものがあります。女性は、特に、守るべき子どもがいると、歯をくいしばって前に進もうとするひとが多いんじゃないか。こういう場合、自暴自棄になって殻に閉じこもってしまったりするのは、女性よりも男性の方なんじゃないかという印象がある。印象論ですが。
ウィンチェスター家だって、悪霊に殺されたのが母親ではなく父親の方だったら、母親は悪霊退治にポゼスドしたりせず、普通にまっとうにふたりの息子を育て上げてくれたんじゃないかと思うのですが。ああ、父親って厄介だなぁ。……なんの話だすみません。
ところで、この邦題は、ダメな邦題だなぁ、と思います。
オリジナルのタイトルは『Grace is Gone』。文字通り、グレースは死んだんです。
グレースの死を、いまそこにある事実として、事実以外のなにものでもない、ただひたすら厳粛な事実として、淡々と描いていることがキモなのに、このおセンチな邦題は完全にポイントをはずしています。
そもそも、「いつかわかること」ってなんだろう? なにを言ってるんだろう?
物語の主眼は「受容」です。
幼いふたりの娘、12歳のハイディと8歳のドーンにとっての母親の死の受容、それこそが大事なテーマなのであって、スタンリーの葛藤は、とりあえず置いとけ、と思います。同情も感情移入もしないよ。あなたはもうおとななんだから、甘やかしてあげる気持ちにはなれないよ。子どもたちの気持ちの方が何十倍も大事だよ。
そしてそういう意味では、子どもたちは見事にしっかりと健やかに、「受容」という難事をやってのけたわけで、それはいまそこですでになしとげられた偉業であって、「いつか」なんてそんな、ヘタすると一生訪れないかもしれない遠い可能性のことではなく、止まらず歩み続ける進行形の勇気の物語なのだから、「いつかわかること」なんて、ハイディとドーンに失礼であろう、と思います。
このふたり、とてもかわいいです。
まだ8歳で、無邪気で明るいドーンもいいけど、そろそろ分別がついてきて、尋常でない父親の態度から不穏なものを感じ取ることができる感受性も、1足す1は2であるなぁ、と悟る聡明さもあるんだけれど、やっぱりそこは、綺麗なドレスや楽しいイベントでごまかされちゃう子どもの部分もあるハイディの、微妙な年齢が痛々しい。
キューザックに同情も感情移入もしないとは言ったけど、もちろん、かれだってツライんです。ただでさえ最愛の妻をなくしてツライところへもってきて、幼いとはいえ、相手は女の子ふたり、ほんとのこと言うと、どうやって接していいものやら、実はよくわからない。戸惑いや自信のなさは、時に強圧的な態度になっちゃったりもして、自分でもその辺、よくないこととは分かってるんだけど、だったらどうしたらいいのか、ほんとにお手上げ。
ピアスをしたいとか言い出すし。やらせちゃっていいわけ? 母親だったらこういうときなんて言うの? ああ、女の子って悩ましい。これが男の子ふたりだったら、有無を言わせず軍隊式訓練を施して、泣くな男だろう、闇の中には常に悪が潜んでいるんだ! と言っときゃいいんですが。……って、だから一体なんの話だすみません。
この話は受容の話ですから、キューザックはまず、自分が受容し、そして子どもたちにも受容させるために、そのための小さな猶予の時間を持つため、小さな旅に出るわけです。ぎくしゃくしていた親子が、四六時中一緒にいる旅という時空の中で、ちょっとだけなにかを掴み取っていく。大事なのはその過程。
だから、さあ、いよいよ母親の死を子どもたちに告げますよ、という一大イベントの時が訪れ、「子どもたちよ聞いてくれ、お父さんもお母さんも、おまえたちのことをとっても愛しているんだよ」と父親が話し始めたところで、ああ、ある意味、どうしたってありきたりになっちゃう父親の大演説を聞かされるのかな、と思ったところで、音声がフェードアウトする。
なるほど。大事なのは過程であって、最後にそれをどう話すかなんて、それは二義的なことだから。その辺の演出は徹底しているのでありました。
だから、これは、「いつか」の物語ではありません。「いまこのとき」の物語です。この家族は確実にひとつ、乗り越えたのだという手ごたえがあります。もちろん、哀しみが癒えたとか、そういうはずもないのだし、子どもたちはともかく、スタンリーの受容の戦いは、むしろこれから先の話なのだけど、それでも、後味はすがすがしい。
イラクで戦死、というそのことに、意味があったのかどうか、問いかけることさえしなければ。
でも、すんごい久しぶりな気がしたので、いつぶりだったかしら、とちょっと調べてみたら、2003年振りだったらしいです。この年公開の『ニューオリンズ・トライアル』と『アイデンティティー』、両方ともわたしは観てますが、その後の出演作は観てない模様。日本に来なかったのかな? 来た?(だれに訊いている)。
もっとずっと若いころから、あんまり顔の変わらないひとだなぁ、という印象があるのですが、久しぶりに観たこの映画でも、うん、確かに、顔の印象は10年ぐらい前とほとんど変わらないです。……でも体型が(汗)。
あれは、なんなんだろう、役作りでしょうか、それとも、もうこの体型でいいや、って居直っちゃったのかしら、ちょっとかなりどすこかった。もともと細いひとではないけれども。
さて、この映画ですが、陸軍の軍曹としてイラクに赴任していた妻のグレースが戦死。なかなかその死を受け入れられないスタンリー(ジョン・キューザック)が、ふたりの娘を連れて小さな旅に出る、というお話。
もんのすごく、シンプルで、余計な飾りが一切ない、潔いような工夫が足りないような、悪くないけど薄味な映画です。
それってたぶん、ユーモアが足りないんだと思う。ジョン・キューザックはコミカルな演技もこなせる役者さんなのだから、もっとはじけた演出があってもよかったんじゃないかと思うし、いや、これはシリアスな話なのだから、その渦中にある人物にコミカルなシーンを演じさせるなんてとんでもない、ということなら、スタンリーの弟として、「兄とは正反対の個性を持つ人物」が登場するのだから、このひとに笑いのパートを担わせればよかった。
どんな深刻な映画でも、いや、深刻な映画であればあるほど、ユーモアは絶対に必要不可欠であると、わたしなんかは思ってしまうので、全くそれがないキマジメに終始した演出は、やはりちょっと息苦しいです。
それはさておき、突然パートナーを失ったら、もろいのはやはり男の方だな、としみじみと思わせるものがあります。女性は、特に、守るべき子どもがいると、歯をくいしばって前に進もうとするひとが多いんじゃないか。こういう場合、自暴自棄になって殻に閉じこもってしまったりするのは、女性よりも男性の方なんじゃないかという印象がある。印象論ですが。
ウィンチェスター家だって、悪霊に殺されたのが母親ではなく父親の方だったら、母親は悪霊退治にポゼスドしたりせず、普通にまっとうにふたりの息子を育て上げてくれたんじゃないかと思うのですが。ああ、父親って厄介だなぁ。……なんの話だすみません。
ところで、この邦題は、ダメな邦題だなぁ、と思います。
オリジナルのタイトルは『Grace is Gone』。文字通り、グレースは死んだんです。
グレースの死を、いまそこにある事実として、事実以外のなにものでもない、ただひたすら厳粛な事実として、淡々と描いていることがキモなのに、このおセンチな邦題は完全にポイントをはずしています。
そもそも、「いつかわかること」ってなんだろう? なにを言ってるんだろう?
物語の主眼は「受容」です。
幼いふたりの娘、12歳のハイディと8歳のドーンにとっての母親の死の受容、それこそが大事なテーマなのであって、スタンリーの葛藤は、とりあえず置いとけ、と思います。同情も感情移入もしないよ。あなたはもうおとななんだから、甘やかしてあげる気持ちにはなれないよ。子どもたちの気持ちの方が何十倍も大事だよ。
そしてそういう意味では、子どもたちは見事にしっかりと健やかに、「受容」という難事をやってのけたわけで、それはいまそこですでになしとげられた偉業であって、「いつか」なんてそんな、ヘタすると一生訪れないかもしれない遠い可能性のことではなく、止まらず歩み続ける進行形の勇気の物語なのだから、「いつかわかること」なんて、ハイディとドーンに失礼であろう、と思います。
このふたり、とてもかわいいです。
まだ8歳で、無邪気で明るいドーンもいいけど、そろそろ分別がついてきて、尋常でない父親の態度から不穏なものを感じ取ることができる感受性も、1足す1は2であるなぁ、と悟る聡明さもあるんだけれど、やっぱりそこは、綺麗なドレスや楽しいイベントでごまかされちゃう子どもの部分もあるハイディの、微妙な年齢が痛々しい。
キューザックに同情も感情移入もしないとは言ったけど、もちろん、かれだってツライんです。ただでさえ最愛の妻をなくしてツライところへもってきて、幼いとはいえ、相手は女の子ふたり、ほんとのこと言うと、どうやって接していいものやら、実はよくわからない。戸惑いや自信のなさは、時に強圧的な態度になっちゃったりもして、自分でもその辺、よくないこととは分かってるんだけど、だったらどうしたらいいのか、ほんとにお手上げ。
ピアスをしたいとか言い出すし。やらせちゃっていいわけ? 母親だったらこういうときなんて言うの? ああ、女の子って悩ましい。これが男の子ふたりだったら、有無を言わせず軍隊式訓練を施して、泣くな男だろう、闇の中には常に悪が潜んでいるんだ! と言っときゃいいんですが。……って、だから一体なんの話だすみません。
この話は受容の話ですから、キューザックはまず、自分が受容し、そして子どもたちにも受容させるために、そのための小さな猶予の時間を持つため、小さな旅に出るわけです。ぎくしゃくしていた親子が、四六時中一緒にいる旅という時空の中で、ちょっとだけなにかを掴み取っていく。大事なのはその過程。
だから、さあ、いよいよ母親の死を子どもたちに告げますよ、という一大イベントの時が訪れ、「子どもたちよ聞いてくれ、お父さんもお母さんも、おまえたちのことをとっても愛しているんだよ」と父親が話し始めたところで、ああ、ある意味、どうしたってありきたりになっちゃう父親の大演説を聞かされるのかな、と思ったところで、音声がフェードアウトする。
なるほど。大事なのは過程であって、最後にそれをどう話すかなんて、それは二義的なことだから。その辺の演出は徹底しているのでありました。
だから、これは、「いつか」の物語ではありません。「いまこのとき」の物語です。この家族は確実にひとつ、乗り越えたのだという手ごたえがあります。もちろん、哀しみが癒えたとか、そういうはずもないのだし、子どもたちはともかく、スタンリーの受容の戦いは、むしろこれから先の話なのだけど、それでも、後味はすがすがしい。
イラクで戦死、というそのことに、意味があったのかどうか、問いかけることさえしなければ。
by shirakian
| 2008-06-02 22:10
| 映画さ行