2008年 05月 24日
ミスト
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この映画、面白いです♪
『ショーシャンク』や『グリーン・マイル』など、見事な「人間ドラマ」を世に送り出したフランク・ダラボン監督が、なんと今度は荒唐無稽なモンスター・パニックかい(>_<)! みたいな言われ様も目にしていたのですが、いざ蓋をあけてみると、モンスター・パニックの体裁はとっていますが、さきに挙げた2作にひけをとらない見事な人間ドラマでありました。
やっぱ、人間にとってなにより面白いのは、人間の葛藤にほかならないわけで、状況なんてどんなに地味でも、これさえ面白く描ければ、ドラマはどこまでだってエキサイティングになるのであります。
ましてやこの映画の状況は、地味なんてものじゃ、およそないし(笑)。
アメリカの田舎町。激しい嵐に襲われた翌日、町のスーパーマーケットは、食料品や補修用具などの必需品を買うためのひとでごった返していた。突如その平和な光景の中に、鼻血をたらした男性が飛び込んでくる。「霧の中に何かがいる!」と狂ったように叫びながら。
というわけで、突然の濃霧にとりまかれ、スーパーマーケットに孤立を余儀なくされた人々のサバイバルが始まります。
こういう話の場合、物語の主眼は「内に閉じ込められた人々の葛藤」にあるわけですから、「外にある脅威」というのは、絶望的に抵抗不可能なものでさえあれば、大嵐だろうが火山の爆発だろうが武装したならず者の一団であろうが、なんでも構わないと思うのですが、この映画では「軍の秘密実験」です(笑)。もうね、そこからてんで、状況説明に関しては全くやる気がないのが伺えますが、異次元を見るための窓を開いたら、そこから異次元の生命体が侵入してきちゃった、とか言われた日には、笑っちゃうしかありません。これじゃ、軍人さんがお気の毒。
いっそ、こういう化け物が現れましたけど、どこから来たのか、何者なのか、わたしにもさっぱりわかりません、というスタンスでも、だれからも別に責められたりはしなかったと思うのですが。
しかし、状況説明は投げやりでも、その「見せ方」は天下一品、匠の技。
霧で視界がとれない、という状況を100%フルに生かして、見せるべきを見せ、隠すべきを隠すことにより、化け物の得体の知れなさ恐ろしさを、むくつけに全部見せるよりはるかにはっきりと体感させてくれるのです。
いまそこにあるリアルがきちんと不気味であるだけに、とんでも設定に白ける余裕を与えません。
そして、ただでさえ、強大なクリーチャー、脆弱なシェルター(=ガラス張りのスーパーマーケット)、寄せ集めのひとびと、という不利な条件である上に、定番とも言える、神の名を借りて人々を扇動する悪魔的人物が配置され、人為的な脅威となっています。この人物を演じているのが演技巧者のマーシャ・ゲイ・ハーデン。もう、本気で憎たらしいですから!
ああ、もう、絶体絶命だ(>_<)! と、主人公だけじゃなく、観客にも思わせる手腕は超一流。
ただ、この映画、サプライスエンディングと言われてますけど、ほんとにそんなに予測不能だったかな? と思います。
少なくともわたしは、少年が父親に「ひとつだけのお願い」を口にしたときから、ううう、ラストはきっとこうなっちゃう(>_<)! と深い悲哀に包まれましたよ? もちろん、ラストのメンバー構成とかまではわからないですけど、父親は少年との約束ゆえに、ああした行動に出るが、その行動をとった後で、霧が晴れて危機を脱したことを知る。……ある意味、きわめて納得のいくスムースな流れで、ほかの展開の方が予測しにくい。
もちろん、ヒントは少年との約束だけではなく、人々が「よかれと思ってやった積極的な行為」は全て裏目に出る、という徹底した演出も、秀逸な伏線になっています。
発電機を修理しようとした若者、ショットガンを取りに行こうとしたバイカー、火傷の薬を取りに薬局に行った冒険から、泣き濡れているマーシャ・ゲイ・ハーデンをなぐさめようとした新任教師の行動にいたるまで、全て、だれかがなにかすると、結果は悪い方へしか転ばないのです。
それに、銃に関する描写があるし、その上、オリーが漏らした「最後にふたり生き残ったら殺しあうのが人間だ」という象徴的な台詞もある。
このオリーという人物、実にいいですね。物語に精彩を与えてくれています。一見、いかにも冴えないスーパーの店員でしかないのに、一番活躍し、勇敢で、頼りになったのがこのひとだったというのは心憎い。
それはさておき、ここまで伏線が明白だと、製作者の方としても、観客にとってのラストがサプライスエンディングであると予測していたのか、想定の範囲内であろうと予測していたのか、微妙なところだと思います。たぶん、観客にもラストの予測はつくだろう、という意図の下の演出だったのじゃないかしら、と思われるのが、主人公一行が車で出発するシーンの一種荘厳な描写です。
霧に包まれた駐車場を、ゆっくりとスローモーションで出て行く、たくさんのライトをつけた車。それまで、ほとんど音楽さえ使わず、極力エモーショナルな演出は避け、幼馴染と恋心を確かめあった直後に、かわいい女店員が殺されるシーンですら、感動的な台詞のひとつもなく、毒で醜く腫れあがった死に顔をさらす徹底振りだったのに、このシーンの高揚感はただごとではないのです。
あれはまるで葬送のプレリュードのように見えました。
役者陣は、オスカー女優のマーシャ・ゲイ・ハーデンを除いては、あまり有名なひとがおらず(わたしが知らないだけかも)、人件費は低予算で押さえて、お金はクリーチャー関連に使いました、というのが伺えて頼もしく(笑)、予算の97%が出演料に消えたと思しき『大いなる陰謀』とは対照的です。
そんな地味な役者陣の中でも、主演を務めたトーマス・ジェーンは、わたしの感覚では、ケヴィン・コスナーとかデニス・クエイドとかの系譜に連なる、「ハンサムなんだとは思うけどなんというか大味でつまんない」系の役者さんで、どうにも華がなく、観ていて楽しくありません。困ったものです。このひとがもっとセクシーだったら、もっとのめりこんで観たのに。ラストだって泣いてあげられたのに(笑)。
『ショーシャンク』や『グリーン・マイル』など、見事な「人間ドラマ」を世に送り出したフランク・ダラボン監督が、なんと今度は荒唐無稽なモンスター・パニックかい(>_<)! みたいな言われ様も目にしていたのですが、いざ蓋をあけてみると、モンスター・パニックの体裁はとっていますが、さきに挙げた2作にひけをとらない見事な人間ドラマでありました。
やっぱ、人間にとってなにより面白いのは、人間の葛藤にほかならないわけで、状況なんてどんなに地味でも、これさえ面白く描ければ、ドラマはどこまでだってエキサイティングになるのであります。
ましてやこの映画の状況は、地味なんてものじゃ、およそないし(笑)。
アメリカの田舎町。激しい嵐に襲われた翌日、町のスーパーマーケットは、食料品や補修用具などの必需品を買うためのひとでごった返していた。突如その平和な光景の中に、鼻血をたらした男性が飛び込んでくる。「霧の中に何かがいる!」と狂ったように叫びながら。
というわけで、突然の濃霧にとりまかれ、スーパーマーケットに孤立を余儀なくされた人々のサバイバルが始まります。
こういう話の場合、物語の主眼は「内に閉じ込められた人々の葛藤」にあるわけですから、「外にある脅威」というのは、絶望的に抵抗不可能なものでさえあれば、大嵐だろうが火山の爆発だろうが武装したならず者の一団であろうが、なんでも構わないと思うのですが、この映画では「軍の秘密実験」です(笑)。もうね、そこからてんで、状況説明に関しては全くやる気がないのが伺えますが、異次元を見るための窓を開いたら、そこから異次元の生命体が侵入してきちゃった、とか言われた日には、笑っちゃうしかありません。これじゃ、軍人さんがお気の毒。
いっそ、こういう化け物が現れましたけど、どこから来たのか、何者なのか、わたしにもさっぱりわかりません、というスタンスでも、だれからも別に責められたりはしなかったと思うのですが。
しかし、状況説明は投げやりでも、その「見せ方」は天下一品、匠の技。
霧で視界がとれない、という状況を100%フルに生かして、見せるべきを見せ、隠すべきを隠すことにより、化け物の得体の知れなさ恐ろしさを、むくつけに全部見せるよりはるかにはっきりと体感させてくれるのです。
いまそこにあるリアルがきちんと不気味であるだけに、とんでも設定に白ける余裕を与えません。
そして、ただでさえ、強大なクリーチャー、脆弱なシェルター(=ガラス張りのスーパーマーケット)、寄せ集めのひとびと、という不利な条件である上に、定番とも言える、神の名を借りて人々を扇動する悪魔的人物が配置され、人為的な脅威となっています。この人物を演じているのが演技巧者のマーシャ・ゲイ・ハーデン。もう、本気で憎たらしいですから!
ああ、もう、絶体絶命だ(>_<)! と、主人公だけじゃなく、観客にも思わせる手腕は超一流。
ただ、この映画、サプライスエンディングと言われてますけど、ほんとにそんなに予測不能だったかな? と思います。
少なくともわたしは、少年が父親に「ひとつだけのお願い」を口にしたときから、ううう、ラストはきっとこうなっちゃう(>_<)! と深い悲哀に包まれましたよ? もちろん、ラストのメンバー構成とかまではわからないですけど、父親は少年との約束ゆえに、ああした行動に出るが、その行動をとった後で、霧が晴れて危機を脱したことを知る。……ある意味、きわめて納得のいくスムースな流れで、ほかの展開の方が予測しにくい。
もちろん、ヒントは少年との約束だけではなく、人々が「よかれと思ってやった積極的な行為」は全て裏目に出る、という徹底した演出も、秀逸な伏線になっています。
発電機を修理しようとした若者、ショットガンを取りに行こうとしたバイカー、火傷の薬を取りに薬局に行った冒険から、泣き濡れているマーシャ・ゲイ・ハーデンをなぐさめようとした新任教師の行動にいたるまで、全て、だれかがなにかすると、結果は悪い方へしか転ばないのです。
それに、銃に関する描写があるし、その上、オリーが漏らした「最後にふたり生き残ったら殺しあうのが人間だ」という象徴的な台詞もある。
このオリーという人物、実にいいですね。物語に精彩を与えてくれています。一見、いかにも冴えないスーパーの店員でしかないのに、一番活躍し、勇敢で、頼りになったのがこのひとだったというのは心憎い。
それはさておき、ここまで伏線が明白だと、製作者の方としても、観客にとってのラストがサプライスエンディングであると予測していたのか、想定の範囲内であろうと予測していたのか、微妙なところだと思います。たぶん、観客にもラストの予測はつくだろう、という意図の下の演出だったのじゃないかしら、と思われるのが、主人公一行が車で出発するシーンの一種荘厳な描写です。
霧に包まれた駐車場を、ゆっくりとスローモーションで出て行く、たくさんのライトをつけた車。それまで、ほとんど音楽さえ使わず、極力エモーショナルな演出は避け、幼馴染と恋心を確かめあった直後に、かわいい女店員が殺されるシーンですら、感動的な台詞のひとつもなく、毒で醜く腫れあがった死に顔をさらす徹底振りだったのに、このシーンの高揚感はただごとではないのです。
あれはまるで葬送のプレリュードのように見えました。
役者陣は、オスカー女優のマーシャ・ゲイ・ハーデンを除いては、あまり有名なひとがおらず(わたしが知らないだけかも)、人件費は低予算で押さえて、お金はクリーチャー関連に使いました、というのが伺えて頼もしく(笑)、予算の97%が出演料に消えたと思しき『大いなる陰謀』とは対照的です。
そんな地味な役者陣の中でも、主演を務めたトーマス・ジェーンは、わたしの感覚では、ケヴィン・コスナーとかデニス・クエイドとかの系譜に連なる、「ハンサムなんだとは思うけどなんというか大味でつまんない」系の役者さんで、どうにも華がなく、観ていて楽しくありません。困ったものです。このひとがもっとセクシーだったら、もっとのめりこんで観たのに。ラストだって泣いてあげられたのに(笑)。
by shirakian
| 2008-05-24 22:28
| 映画ま行