2008年 02月 05日
ヒトラーの贋札
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第二次世界大戦中、ドイツが行った「ペルンハルト作戦」を、その作戦に関わった当事者の記録を元に描いたドイツ映画です。
ベルンハルト作戦というのは要するに、贋札を大量に造ってうまいこと流通させれば、敵国の経済を混乱させることができる上に、自国の外貨不足も解決できるという一石二鳥の極めておいしい作戦です。……いまでも北朝鮮では盛んに行われている……。
そして、この作戦に直接関わって贋札を作ったのが実は、強制収容所に入れられたユダヤ人たちだった、という真相はズシリと衝撃的です。
強制収容所の悲惨な実態――――というようなものは、さまざまな映画(やそのほかのメディア)を通して、これでもかというほど観てきたつもりになっていますが、そういった「極限状態の悲惨」に比べれば、この作戦に従事したさまざまな特殊技能を有するユダヤ人たちは「特権的」な待遇を与えられています。
いますが、それがさらに別の意味で、かれらの尊厳を踏みにじっていくのです。
完璧な贋札を作ることは、ナチスに協力することであり、ナチスの勝利に貢献することであり、つまりは同胞を裏切り、死に至らしめ、戦争を長引かせ、人々を更に不幸にすることを意味します。けれどそれを拒否すれば、そこにあるのは速やかな死でしかない。
死にたくなければ、この「犯罪」を受け入れなければならない。受け入れるということは、「特権的」待遇をも受け入れるということです。
柔らかなベッド、美しい音楽、休日、煙草、娯楽、身体を洗うこと、まともな食事、まともな服……。
人間の尊厳ある生活を支えているのはこんなディテールです。
そして、そうしたディテールの一つ一つが、それらを奪われて、やせ衰えて死んでいく人々の存在をくっきりと浮き彫りにすることにもなるのです。
作業所で、作業所の外の「普通の」収容者の様子は、直接映像で描かれる事はありません。かれらの境遇はただ音でのみ伝えられます。それはつまり劇中人物と観客が同じ条件のもとにいるということです。
音でのみしか伝えられませんが、しかしこの作業所に到るまでに、人々はすでに地獄をくぐりぬけてきています。「外」で何が起こっているのか、わからないはずがないのです。そして「外」の世界はまた、「家族」の象徴であったりもするのです。
印刷や、製紙や、写真撮影や、絵画や、さまざまな技術者たちが、それぞれの立場で、それぞれの葛藤と闘って、それでも結局必死で生き延びていく(あるいは生き延びることができずに果てていく)姿は、胸が痛いというような言葉ではとうてい語れるものではありません。
キャラクターの一人一人がくっきりと際だった巧みな演出であるために、観客が感じざるをえない共感と辛さはより一層深いものとなるのです。
主要人物のソロモン・ソロヴィッチ(カール・マルコヴィクス)は贋作造りのプロです。つまりこの作戦がなくても、かれは贋作造りを生業としてきた犯罪者なわけです。かれと共に働く不名誉を嫌がる「まっとうな」ユダヤ人銀行家もいます。銀行家はドイツ人の監督官にその気持ちを訴えて――――思い切り笑われます。さもおかしいジョークを聴かされたというかのように。そうです。それはジョークでしかない。こんな時代に。こんな状況で。
とにかくソロモンは海千山千の犯罪者であるだけに、徹底的なリアリストです。虚を棄て実を取る。何がなんでも戦争終結まで生き延びようとする。しかしかれとて人間の尊厳を棄てることはできないのです。理想主義者の挙動に立場を危うくされながらも、できるだけ作業の遅延をはかることによって、かれなりにギリギリの抵抗を示してみせるのです。
その理想主義者である印刷技師のアドルフ・ブルガー(アウグスト・ディール)は、「外」の世界で妻が殺されるという「ありふれた」悲劇に打ちのめされます。ナチスに協力するなどもってのほか。蟷螂の斧でもいい。なぜ抵抗しないのか? 反撃しないのか? かれの青臭い理想は仲間たちを危うい立場に追い込んでしまいます。しかしかれもまた、無鉄砲に突っ走ったりはしません。それなりに現実と折り合いをつけ、生き延びる選択をするのです。
このふたりのバランス感覚がもう、絶妙です。
そしてこの映画、何が凄いって、これだけ深く鋭く重く切ない社会派の映画でありながら、すこぶる良質のサスペンス映画でもあるということです。
手に汗握るストーリーの面白さにひっぱられ、ハラハラドキドキ最後まで一瞬たりとも目が離せない。こんなテーマをこれほどのエンターテインメントに仕立て上げてしまった手腕はすばらしいと言うしかありません。
ベルンハルト作戦というのは要するに、贋札を大量に造ってうまいこと流通させれば、敵国の経済を混乱させることができる上に、自国の外貨不足も解決できるという一石二鳥の極めておいしい作戦です。……いまでも北朝鮮では盛んに行われている……。
そして、この作戦に直接関わって贋札を作ったのが実は、強制収容所に入れられたユダヤ人たちだった、という真相はズシリと衝撃的です。
強制収容所の悲惨な実態――――というようなものは、さまざまな映画(やそのほかのメディア)を通して、これでもかというほど観てきたつもりになっていますが、そういった「極限状態の悲惨」に比べれば、この作戦に従事したさまざまな特殊技能を有するユダヤ人たちは「特権的」な待遇を与えられています。
いますが、それがさらに別の意味で、かれらの尊厳を踏みにじっていくのです。
完璧な贋札を作ることは、ナチスに協力することであり、ナチスの勝利に貢献することであり、つまりは同胞を裏切り、死に至らしめ、戦争を長引かせ、人々を更に不幸にすることを意味します。けれどそれを拒否すれば、そこにあるのは速やかな死でしかない。
死にたくなければ、この「犯罪」を受け入れなければならない。受け入れるということは、「特権的」待遇をも受け入れるということです。
柔らかなベッド、美しい音楽、休日、煙草、娯楽、身体を洗うこと、まともな食事、まともな服……。
人間の尊厳ある生活を支えているのはこんなディテールです。
そして、そうしたディテールの一つ一つが、それらを奪われて、やせ衰えて死んでいく人々の存在をくっきりと浮き彫りにすることにもなるのです。
作業所で、作業所の外の「普通の」収容者の様子は、直接映像で描かれる事はありません。かれらの境遇はただ音でのみ伝えられます。それはつまり劇中人物と観客が同じ条件のもとにいるということです。
音でのみしか伝えられませんが、しかしこの作業所に到るまでに、人々はすでに地獄をくぐりぬけてきています。「外」で何が起こっているのか、わからないはずがないのです。そして「外」の世界はまた、「家族」の象徴であったりもするのです。
印刷や、製紙や、写真撮影や、絵画や、さまざまな技術者たちが、それぞれの立場で、それぞれの葛藤と闘って、それでも結局必死で生き延びていく(あるいは生き延びることができずに果てていく)姿は、胸が痛いというような言葉ではとうてい語れるものではありません。
キャラクターの一人一人がくっきりと際だった巧みな演出であるために、観客が感じざるをえない共感と辛さはより一層深いものとなるのです。
主要人物のソロモン・ソロヴィッチ(カール・マルコヴィクス)は贋作造りのプロです。つまりこの作戦がなくても、かれは贋作造りを生業としてきた犯罪者なわけです。かれと共に働く不名誉を嫌がる「まっとうな」ユダヤ人銀行家もいます。銀行家はドイツ人の監督官にその気持ちを訴えて――――思い切り笑われます。さもおかしいジョークを聴かされたというかのように。そうです。それはジョークでしかない。こんな時代に。こんな状況で。
とにかくソロモンは海千山千の犯罪者であるだけに、徹底的なリアリストです。虚を棄て実を取る。何がなんでも戦争終結まで生き延びようとする。しかしかれとて人間の尊厳を棄てることはできないのです。理想主義者の挙動に立場を危うくされながらも、できるだけ作業の遅延をはかることによって、かれなりにギリギリの抵抗を示してみせるのです。
その理想主義者である印刷技師のアドルフ・ブルガー(アウグスト・ディール)は、「外」の世界で妻が殺されるという「ありふれた」悲劇に打ちのめされます。ナチスに協力するなどもってのほか。蟷螂の斧でもいい。なぜ抵抗しないのか? 反撃しないのか? かれの青臭い理想は仲間たちを危うい立場に追い込んでしまいます。しかしかれもまた、無鉄砲に突っ走ったりはしません。それなりに現実と折り合いをつけ、生き延びる選択をするのです。
このふたりのバランス感覚がもう、絶妙です。
そしてこの映画、何が凄いって、これだけ深く鋭く重く切ない社会派の映画でありながら、すこぶる良質のサスペンス映画でもあるということです。
手に汗握るストーリーの面白さにひっぱられ、ハラハラドキドキ最後まで一瞬たりとも目が離せない。こんなテーマをこれほどのエンターテインメントに仕立て上げてしまった手腕はすばらしいと言うしかありません。
by shirakian
| 2008-02-05 21:51
| 映画は行