2016年 02月 11日
最愛の子
|
★ネタバレ注意★
・最愛の子@ぴあ映画生活
ピーター・チャン監督の中港合作映画。
原題は"親愛的"。
中国に(限らず世界中に)蔓延する児童誘拐の問題を扱った社会派の映画ですが、監督がピーター・チャン監督ですので、単にドキュメンタリー風に突き放した目線で現実を描写するというより、個々の当事者に寄り添い、かつ特定の誰かを糾弾するといったことのない、温かい視線の映画だと思いました。
まずはallcinemaさんからあらすじを引用すると、
2009年7月18日。中国、深セン。 下町で寂れたネットカフェを営むティエンは3歳の息子ポンポンと2人暮らし。ある日、そのポンポンが何者かにさらわれてしまう。以来、ティエンはポンポンの母である元妻ジュアンとともに必死で捜索を続けるが、消息は一向につかめないまま時間ばかりが過ぎていく。そして3年後、2人は深センから遠く離れた農村でついに我が子を発見する。しかし6歳になったポンポンは、もはや実の親であるティエンとジュアンを覚えていなかった。彼が母親と慕うのは、誘拐犯の妻で育ての親であるホンチンだけだった。そのホンチンは、ポンポンは1年前に死んだ夫がよその女に産ませた子どもだと信じ、この3年間、献身的な愛情で彼を育ててきたのだったが…。(/引用これまで)。
子供を攫われた父と母、ティエンとジュアンを演じるのがホアン・ボーとハオ・レイ。誘拐された子供を育てた母親ホンチンを演じたのがヴィッキー・チャオです。
中華圏のトップ女優のひとりであるヴィッキー・チャオは、生き生きとした大きな目が魅力の大変大変かわいらしい女優さんですが、そのヴィッキーがほとんどノーメークで、中国最貧省と言われる安徽省の貧農を演じています。やぼったい衣装、垢抜けない立ち居振る舞い、無教養まるだしの話し方、世間を知らず常識を知らず追い詰められたら自分の身体を差し出すことくらいしか問題解決の術を持たない、存在それ自体が悲しいほどの女性なんですが、ヴィッキー・チャオはみごとにその女性を演じ切って大変高く評価されています。
そしてヴィッキーに留まらず、この映画は脇の一人にいたるまで、役者さんがほんとにすばらしいです。子どもを攫われた親という立場を演じたホアン・ボーとハオ・レイは言うに及ばず、子供を手放すまいと必死に食い下がるホンチンの味方になってくれたカオ弁護士を演じたトン・ダーウェイ、そして、ティエンらが参加した「子供を誘拐された親たちの互助会」の代表を務めるハンを演じたチャン・イー。みな忘れがたい存在感を放っていました。
映画は前半と後半で視点人物が変わります。前半は子どもを取り戻そうと奮闘するティエンの視点で、後半は自分が育てた子を手放すまいとするホンチンの視点が主になります。
誘拐した子を手放すまいとするなど理の通るはずもないのですが、実際に子どもを誘拐したのはホンチンではなくその夫であり、ホンチンは「おまえが不妊症だからよその女に生ませた」という夫の説明を信じて疑っていなかったのです。そしてその夫は、ティエンの子、ポンポンの下にも、もうひとり女の子を連れ帰っていたのですが、そちらは正真正銘身寄りのない捨て子だったのです。後半、ホンチンが手放すまいとするのは、ポンポンではなくこの女の子の方。さすがに実の親の手に帰ったポンポンのことはあきらめざるをえなかった。
「よその女に生ませた」が夫の嘘だったのと同様、「おまえが不妊症だから」も同じく夫の嘘だったのに、ホンチンはどちらも疑うことなく信じてしまった。まともに教育を受けたことがない彼女の人生は、恐らく同様に無批判無定見に他人の言うことを信じることの繰り返しで、そのために様々な局面で踏みにじられ続けてきたにもかからわらず、それが不当で悲惨なことであるということに気づくことすらできなかったのであろうことは容易に伺われます。
それもひとえに貧困のゆえです。ホンチンは安徽省の農民ですが、誘拐されたポンポンが見つかったのが「安徽省だった」と聞いた瞬間、誰もが思わずああ、と慨嘆することを禁じえないように、そこは深センとは同じ国同じ時代とは思えないほどの格差のある最貧の土地です。
物心もつかない3歳で誘拐され3年にわたってそこで暮らしたポンポンは、実親に発見された時、室内で唾を吐き、トイレもまともに使えない子どもに育っていました。それは何もポンポンが虐待されていたからではなく、その土地のその境遇の子どもたちはみなそのように育っているからというに過ぎないのですが、そんな風に育ってしまった子どもが、かりに何かの僥倖で高等教育を受けられるようになったとしても、北京や上海や深センで、当たり前のように「文化的環境」に恵まれてきたほかの子どもたちと伍していくのがどれほど困難なことであるか、貧困がどれほど過酷なハンディキャップになってしまうか。いや、そもそもそれ以前に「何かの僥倖」が起こってかれらが互角のラインにつけるということ自体、ほぼあり得ないことなわけですが。
この映画ではまさに通奏低音のように「貧困」という問題が繰り返し相貌を変え語られていきます。子どもたちが誘拐されるというおぞましい犯罪が後を絶たないのも、貧困が要因である確率が極めて高いのです。誘拐それ自体もそうだけど、子供を誘拐された被害者に対して、情報提供を装った詐欺行為で金をせしめようとする、あまりにもあさましい輩が大勢いる。
藁にもすがる思いのティエンのところにも、そうした連中がひっきりなしに接触してくる。ある時など、情報提供者への報奨金を用意して引き渡しに出向いたティエンが、直前になって詐欺に気づき、間一髪で逃げ出そうとするのを、金を寄越せと執拗に追いかけてくる。ティエンとて、深センで暮らしているからと言って裕福なわけでは全くなく、事業に失敗し、それゆえ夫婦仲が破綻し、爪に火をともして暮らしているのです。ようやくかき集めた金をみすみすとられるわけにはいかない。なぜならその金はあくまで息子をとり戻すために使わなければならないからです。
なんなんだよ、もう、おまえたちみんなよう!(你们都是什么人!?)
繰り返し繰り返しそんな連中に付きまとわれて、心身ともにヘトヘトになっていたティエンが半泣きになって叫ぶ気持ちが痛いほどによくわかる。
だけどそれすらも、虚しい探索に一年経ち二年経ち、何の情報も得られなくなった孤独に比べればずっとマシだと、後にティエンは「子供を誘拐された親たちの互助会」の会合で語ります。
互助会が成り立つほどに同じ体験をした親が大勢いるということにまず慄然としますが、そこで語られるひとりひとりの体験がまた、深く胸に突き刺さる。親が子を亡くすということがどれほど耐え難い痛みであるか。それが事故や病気であっても容易に諦められるものではないのに、ましてや他人に誘拐されるだなんて。
金ほしさの誘拐が成立するのは、子がほしくても得られない人々が大金を払っても子を買おうとする現実があるからであり、そうまでして子を手に入れようとする背景については、欧米とはまた違った中国特有の事情というものがある。ホンチンの夫が誘拐に手を染めてしまったのも、金がほしかったからではなく、子種を持たず子孫を残せない男の、家名を絶えさせることへのどうしようもない思いがあったからではないかと思われるのです。家名だなんて、残す財産のひとつもない、寒村の貧農に過ぎないというのに。
そして児童誘拐で恐ろしいのは、攫われた子どもたちの行く末が「子供がほしい裕福なカップル」であるとは限らないということです。労働力として連れ去られたのならまだまし、女の子であれば性奴隷的要員である可能性もあるし、ヘタをすれば臓器目的の誘拐であったかもしれない。
攫われた子どもは死んでいない。どこかできっと生きている。しかし生きているかもしれないそのことが、それはそれでまた、必死に探す親たちを傷つけてしまう。
幸いティエンは3年で息子に再会することができましたが、互助会を主催するハンは6年捜しても徒労に終わり、ついに第二子をもうけることを決意しなければならなくなります。それはどこかで必ず生きているはずのかけがえのないわが子を見限る行為であり、共に希望を繋いできた互助会のメンバーを裏切る行為であり、ハン本人がまず納得も容認もできない行為なのに、それでも生き続けていく上で、そうせざるをえなかった苦渋の選択だったのです。このひとの苦悩の描写が、ティエンのそれとはまた異なる色味があり、まさに壮絶でした。
こうした互助会というのは、たとえば難病を患う子を持つ親たちの会、といったような形で、アメリカの映画でもよく見かけることができます。誘拐被害者の互助会のひとたちが掲げる「わたしたちがわたしたちの苦悩を引き受けることで、この世にある苦悩を少しでも減らすことができますように」というスローガンは、キリスト教社会の思想にも通じるものがあって、こうした会合はどこも基本的に同じなのだなと思いますが、悲しみにくれる参加者を慰めるたの応援の儀式だけは、かなり厳しいと思いました。応援団のエールというかラグビーのハカというか、みなで声を揃えて叫ぶのですね。
鼓励! チャチャチャ! 鼓励! チャチャチャ! 鼓励鼓励! チャチャ!
この状況でこれやられると、わたしだったら心が折れる……。
ほんとに、自分だったらと思うと、どんどん自分の内側に閉じこもって自滅してしまう未来しか見えないので、根気強く闘い続けたティエンやジュアンはじめ互助会の人々の姿には胸を打たれるのです。
しかもティエンはホンチンに対して決して冷酷な態度をとらない。この状況で考えられる限り最高に温かい対応をする。それはエンディングで紹介される、ティエンのモデルになった実在の人物が、後にホンチンのモデルになった人の家をわざわざ訪れた、というエピソードなどから伺われるかれの人柄もあったのでしょう。ホアン・ボーの笑顔が実によいのです。
by shirakian
| 2016-02-11 18:50
| 映画さ行