2016年 01月 05日
クリード チャンプを継ぐ男
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★ネタバレ注意★
・クリード チャンプを継ぐ男@ぴあ映画生活
あけましておめでとうございます。
今年最初の劇場鑑賞は、ロッキーかスターウォーズか、と迷ったんですが、結局こちらにしました。
■ロッキー
ライアン・クーグラー監督のアメリカ映画です。
原題は"CREED"。
最初にロッキーの後日談、と聞いた時は、原案も脚本も監督も主演もシルヴェスター・スタローンによるスタローンの俺様映画かと思ったんですが(スタローンに限ってこれは褒め言葉)、なんと1986年生まれという非常に若いライアン・クーグラー監督の持ち込み企画によるものだったんだそうです。
子どもの頃ロッキーと出会い、心の中のナンバーワン・ヒーローはずーっとロッキーで、ロッキーと共に成長した、という男の子が、やがて映画監督になり、そのロッキーの続きの物語を書き、ロッキー本人に認めてもらい、ロッキー自身の出演でもって一本の作品として撮りあげる。それだけで胸熱なお話ですが、できあがった作品がまた超胸熱。
途中から何やら込み上げてくるものが止まらなくて、中盤からずっと泣きっぱなしでしたよ。なにがそんなに心に響いたのか実はよくわからないです。わたし自身はそもそも格闘技が好きではないし、ロッキー・シリーズに関しては最初の一作しか観ていないし、およそファンとは言い難いのに。
アドニス・ジョンソン(マイケル・B・ジョーダン)は父親を知らず、母親亡き後は喧嘩三昧の荒れた暮らしを送っていたが、突然現れた品のいい婦人、メリー・アン・クリード(フィリシア・ラシャド)に、実はかれが高名なチャンピオン・ボクサーであるアポロ・クリードの私生児であることを告げられる。夫が愛人に生ませた子供を実子として迎えようというのだ。かくてアドニスは生来の聡明さもあって、裕福な家庭で高度な教育を受けまともな仕事につき順調に出世していったが、心の中には常にボクシングへのこだわりがあり、「普通の暮らし」の傍ら、独学でボクシングを学び、メキシコのストリートマッチで実戦経験を積んでいった。
そんなある日、プロへの思い断ちがたく独学の限界を痛感したアドニスは、父親がトレーニングした地元のジムへ入門を願い出るが、相手にしてもらえない。父親の地元では、アポロの壮絶な選手人生が熟知されており、恵まれた環境にあるアドニスまでもが同じ轍を踏む必要はないと、敬遠されてしまったのだ。そこでアドニスは、かつて父親と伝説の一戦を戦った名ボクサー、ロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)を頼りに、故郷のロサンゼルスを離れ、フィラデルフィアに赴く。すでに現役を退いていたロッキーは、トレーナーになってほしいというアドニスの要請を一旦は断るが、いつしかその熱意にほだされ、引き受けることになるのだが。
というお話。
こんな話、素材を問えば、どう考えたって凡庸なものにしかなり得ない。出自に苦悩する若いボクサー、かつて名選手で今や引退した孤独なトレーナー、世代の差、育った環境の違い、あまりにも大きな溝を乗り越えてボクシングという一点で固く結ばれるふたりの男、才能に恵まれた若者、更に加えて努力を惜しまない真面目さ、特訓につぐ特訓、指導のうまいトレーナー、とんとん拍子に訪れる試合のチャンス、繰り広げられる死闘、やがて訪れる栄光(または敗北)。
更に言えばもうひとつ、若者は見知らぬ新しい土地ですぐに美しい娘と出会い恋に落ち、というお決まりのコースまである。クリシェです。どこをどうとっても手垢のついたネタしかない。これで映画一本撮ろうだなんて舐めてる。どっかで観たような映画にしかなりようがない。
と、思うじゃないですが。
だったらなんで観客は泣きっぱなしだったの。なんでこんなに胸がいっぱいになるの。
それはひとつにはライアン・クーグラー監督の演出や話運びのうまさです。ありきたりの題材でもプレゼンの仕方を工夫すれば面白い映画になるということ。
たとえば、カメだの卵だのグレーのスウェットだのランニングだのプッシュアップだの、少しでもオリジナルを知っている人にはピンとくるアイテムを無数に散りばめ、だったらあのロッキーのテーマはいつかかるのか、と観客の期待を煽りに煽り、そしてこの上ない最高のタイミングで高らかに歌い上げてみせるセンス、更には、だったらそれならフィラデルフィア美術館の階段のシーンはどうなるの、とこれまた観客の期待を煽りに煽り、ラスト、あんなしんみりと美しいシーンで絞めて見せるその手腕。
そしてたとえばヒロインのビアンカ(テッサ・トンプソン)を提示する手法。謂わばビアンカもまた、「若くて美しい女性」という記号でもって、互いのことをよく知りもしないのにあっさりと恋に落ちる行きずりに近いキャラクターではあるんですが、提示の仕方がうまいとそれが単に記号に堕さず、生きた息吹きをもって感得される。
ビアンカはアドニスが越してきた小さなアパートの階下の部屋に暮らす女性。最初の出会いは夜中に大音量で音楽をかけるので、眠れないアドニスが頭に来て怒鳴りこみに行く、という最悪のシチュエーション。それだけでも感じ悪いのに、文句を言われた際のビアンカの対応がまた下種の極み。なんたるビッチ! と観客が不快になる一方で、アドニスの方はやはり、「若い美貌の女」というところであっさりガードが下がってしまった様子で、やれやれ、そういうことね、と期待値は上がらない。
ところが、それから偶然の機会に、ビアンカが単なるはた迷惑な音楽好きではなくプロのミュージシャンであることがわかり、のみならず、聴力に進行性の障害を持っていることが明かされる。これらのことが段階を追って示されていくので、アドニスのビアンカへの興味が、単なる欲情に留まらない、相手に対する関心やリスペクト、更には本気の気遣いに移行していくさまが自然に納得できるようになっている。
若きファイターには美しい恋人が不可欠。そこまではクリシェ。だけど「美しい恋人」だってひとりの人間であるのなら、単なるヒーローの引き立て役ではなく、その人なりの人生や葛藤や夢や希望や生活の基盤があり、それらに立脚した上で初めてヒーローを支え、励ますというスタンスに立てる、という当たり前の事実。それがきちんと描かれているのがいい。
だけどもっと大切なのは、アドニスというキャラクターそのもの。
マイケル・B・ジョーダンという役者さんは、ライアン・クーグラー監督にとって何か特別なひとなのかな、前作の『フルートベール駅で』の主演もかれだったけど、ライトヘビー級のボクサーというにはいかにも華奢な印象を受ける。頑張って筋肉をつけたのはわかるけど、骨格そのものがそんなに大きくないので、本物のボクサーと並ぶと絵柄としての説得力に乏しい。単にアポロの息子、ということでキャスティングするのなら、もっと体格的にふさわしい役者がいくらでもいたようにも思える。
だがしかし、なんですね。
アドニスはこういう物語で定番の、学校教育もろくに受けたことのない底辺を這うように生きてきた(ちょうどロッキーがそうだったような)若者ではない。裕福な家庭で高度の教育を受けさせたもらったかれは、教養ある言葉使いをし、最先端の情報機器を使いこなし、マナーも常識も、特段恥をかかねばならないような欠損は何もない。だからかれはハングリー精神がないと言われる。ファイターに一番必要な、這い上がるためのモチベーションがない、と。なぜかれが、かくも執拗にボクサーへの夢をあきらめきれないのか、周りの誰にもわからない。トレーナーを引き受けたロッキーですら、本当のところはわかっていない。ただただかれの必死さだけはわかるので、それで引き受けたというだけのこと。
だけどモチベーションって何も、貧困から抜け出すことだけに限られるものじゃない。何がそんなにアドニスを掻き立てていたのか、しかし観客は、物語を共にするうちに、徐々にそれがわかっていく。必死さの裏側の、切ないかれの思いに共感していく。そしてついにそれが言葉として語られる時、その本音を聞かされたロッキーと共に、観客もまた心臓をわしづかみにされるような深い静かな衝撃を受ける。
偽物だと思われるのが怖かった。あの父の息子であるのなら、本物の「クリード」でありたかった。
アドニスを演じたマイケル・B・ジョーダンは、好感度の高い清潔感のある演技で、敢えて言葉にすることもないアドニスの日々の営みの底から、それがどれほど切実な願いであったかをきちんと表現できている。そこがいい。
だがだがしかし、なんですね。
本気でいいのは、やっぱりやっぱりシルヴェスター・スタローン。
晩年のロッキーのその姿は、まんまスタローン自身と被る。そしてロッキーは、自らの老いも衰えも隠しもせず誤魔化しもせず淡々と受け止めているけれど、そんなロッキーを真っ向から演じたスタローン自身もまた、同じ覚悟を固めた潔さを感じる。
そしてもうひとつスタローン自身とかぶるのは、ロッキーのソーシャル・スキルの高さです。人を逸らさず、もめ事を起こさず、リスペクトを忘れず、適切に会話し、妥当な流れを作る。こういうひとは、ボスとしても夫としても伯父さんとしても友達としても、心底心地がいい。誰もロッキーを嫌わない。たぶんそれはスタローンも同じ。
そんなロッキーに、誰よりもまず、アドニスがメロメロになった。
だから、ロッキーが病気を自分に隠し、尚且つ治療を受ける気はないと告げた時、アドニスの心は破裂しそうになる。ロッキーにしてみれば、エイドリアンも死に、ミッキーも死に、ポーリーも死に、たったひとり残されたこの寂しい世界に、辛いだけでなく尊厳をも脅かされる治療を闘ってまで、留まりたいとは思えない。ロッキーの気持ちは痛いほどによくわかる。
だからって、もう誰もいないから、おれはここを去るつもりだと言われてしまえば、だったらおれは? と言わずにはいられない。おれがいるのに、おれのために生きようとは思ってくれないのか? おれの存在はそれだけのものなのか?
あんたが死んだら、どんだけおれが悲しいか!
ひとはひとりで生きてるわけじゃない。どれだけ孤独なつもりでも、人間である以上、他者との繋がりを完全に断つことなどできようはずもない。ロッキー自身はもう終わったつもりでも、ロッキーの魂を引き継いでいく若者がいる。若者が闘うのなら、ロッキーが諦めていい道理はない。
だからこれは、挑戦する若者「クリード」の物語であると同じくらい、土壇場で踏みとどまる「ロッキー」の物語でもある。スタローンがいい。とにかくすごくいい。
試合に臨むアドニスを、ひいてはトレーナーを務めるロッキーを励ますために、フィラデルフィアの路地裏にたむろしている若者たちが、バイクで追走するシーンがあります。あのシーンでどっと涙が込み上げてくるのは、あの若者たちはおそらく、かつてロッキーの後をついて走っていた小さな子どもたちの成長した姿だからです。貧しい寂れた街で、仕事もなく希望もなくバイクでも乗り回すしかない若者たちが、それでもロッキーの奮闘を讃え、勝利に歓喜している。
あと、実際ボクシングに関わる面々が、役者の演技と言うにはあまりに真に迫りすぎてる、と思ったんですが、案の定、実際にみんなプロのひとだったみたいですよ。
アドニスと闘ったリッキー・コンランを演じたアンソニー・ベリューは世界戦経験もあるプロボクサーだし、ロッキーが集めてきたアドニス強化チームのメンバーも、カットマンを演じたジェイコブ・デュランにしろパッドマンを演じたリカルド・マッギルにしろ、知る人ぞ知る本物の本職の方だった模様。カットマンもパッドマンも台詞とかは全くないのに存在感が半端でなかったものねぇ。パッドマンのマッギルとか結構なお年だと思うのに、あの動きときたら、もう。
by shirakian
| 2016-01-05 19:09
| 映画か行