2015年 12月 14日
黄金のアデーレ 名画の帰還
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★ネタバレ注意★
サイモン・カーティス監督作品、製作国はアメリカとイギリスがクレジットされています。原題は"WOMAN IN GOLD"。
クリムトの描いた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ(WOMAN IN GOLD)」は、オーストリアのモナリザと称される国民的財産。しかしその絵画は、第二次世界大戦下、ナチスの手により本来の持ち主から略奪されたものだった。1998年、82歳となった元亡命ユダヤ人のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)は、オーストリア政府に対し、当該絵画の変換を求め、裁判を起こすのだが。
というストーリーは、先日観た『ミケランジェロ・プロジェクト』と同じく、ナチスに奪還された美術品を本来の持ち主に返すための奮闘を描いたものです。しかし、テーマこそ同じであっても、両者の風合いはかなり異なります。ミケプロ(略すな)があくまで善意の第三者による人類の共有財産の保護、が眼目であったの対し、こちらで描かれているのは極めて私的な体験なのです。その違いは大きい。
私的体験って、だってクリムトの代表作だよ? 一国の至宝だよ? 思い出がー、思い入れがー、所有権がー、とかそういう理由で返還を要求するなんて、それはちょっと強欲過ぎるんじゃないの? という疑問もあるやもしれませんが、やっぱり盾には両面がある。
たとえオーストラリア政府にとっての当該絵画がかけがえのない国民の共有財産であったとしても、マリア・アルトマンにとって、その同じ絵画はあくまで、大好きだった伯母をモデルにした家族の肖像であり、家族の居間に飾られていたものであり、その絵の前で様々な思い出が紡がれた家族の絵画なのです。有名画家によるものかどうかなんてどうでもいいし、芸術的に優れているかどうかも関係ない、ましてや資産価値の多寡など、この際彼女は問題にもしていなかったと思う。
問題なのは、その大事な家族の絵が、不当に奪われた、不当に奪われたままで、何の補償も謝罪もなされていない、ひとえにそのことなのです。
この映画では、少女時代のマリアを回想するシーンをふんだんに配し、アデーレの肖像に対する彼女の思いを丹念に描き出していますから、その絵が奪われた際の彼女の心情を慮るに難くない。どんなにひどい時代だったにせよ、どんなにひどい強権力が発揮されたのにせよ、一家がその絵を奪われたことが、とんでもなく不当なことだったことは否定できません。なんぴとたりとも、私有財産を侵されてはなりません。ユダヤ人だからと奪ってはならないことはもとより、金持ちだからといって奪うこともまたもちろん許されないのです。
しかし、なんですね。「裕福な」ユダヤ人たちが、不当に私有財産を剥奪され、着の身着のまま牛馬のように強制収容所に追い立てられていたその時、「普通の」オーストラリア市民は、それをどんな視線で見守っていたのだろう?
劇中でも描写されていましたが、それは決して同朋に対する横暴に眉を顰め、憤る態度ではなかったのです。むしろ、同調し、嘲笑い、溜飲を下げる態度であった。必死で逃げのびようとするユダヤ人を見つけた際に、勢い込んで官憲に指さす市民の行為は、単に保身のためとばかりは言えないものでした。
その根底にあったのは、持てる者への歪んだ怒りであったと思う。当時のユダヤ人は、その勤勉さ故か、教育熱心の故か、金融産業に従事することを忌避しなかった故か、その原因はわかりませんが、裕福な家族が多かった。マリアの一家もまた実業で財をなし、大変裕福な暮らしをしていたのです。
ナチスが台頭する以前、社会の底辺で肉体労働や汚れ仕事に従事していた人々の腹の底には、有名画家に肖像画を描かせ、楽しみのためにストラディバリウスのチェロを弾き、宝石を散りばめたアクセサリーを所有するような「裕福なユダヤ人」たちへの羨望の思いが燻っていたに違いありません。そうした人々は、いざ社会がひっくり返った時に、「裕福なユダヤ人」から奪うことを躊躇しなかった。罪悪感を持ちにくかった。金持ちから奪って何が悪い、という正当化がなされた。
こうした時代の雰囲気は、すっかり貧しくなってしまった現代日本の状況に重なるものを感じるのです。身ぐるみはがれた金持ちを、ざまあみろと嘲笑う感情は、難民の受け入れを拒み、口汚いヘイトスピーチを繰り返し、鵜の目鷹の目で叩くための弱者を捜す世相に繋がります。金持ちだからという理由で他人のものを奪う社会は、それらの人々を容易にガス室に送り込む社会になりかねない。そうしてそんな社会が怖いのは、嗤って誰かをガス室に送り込んだ人間が、翌日にはガス室に送られることになるかもしれないことです。
マリアの返還要求を歯牙にもかけなかったオーストラリア政府の態度もまた、あるいは当時の貧しい民衆の「金持ちから奪って何が悪い」という認識の延長線上にあるものなのかもしれません。
しかし、そうであるとすると、同じオーストラリア人でありながら、マリアの闘いに加担したジャーナリストのフベルトゥス・チェルニン(ダニエル・ブリュール)というひとは、果たしてどういう立ち位置にいたんだろう。その辺の描写を非常に物足りなく思いました。なぜかれはマリアに協力することにしたのか。人権に対する単なる信念の故なのか、なにか個人的思い入れがあったのか。せっかくのダニエル・ブリュールですのに、頼もしい味方、というより、なんだか胡散臭い男、にしか見えなかったのが残念極まりないです。
一方、マリアの弁護士を務めたランディ・シェーンベルクを演じたライアン・レイノルズですけれども。わたくし今までアクション・ヒーローを演じるレイノルズを観ても、なんかあまりピンときてなかったのですが、この映画のかれはしみじみとよかったのです。新境地を拓いた、というほどの画期的な印象です。
レイノルズが演じたランディの家族もまた、マリア同様大戦前はオーストラリアの名士だったのですが、ユダヤ人であるが故に、故国を追われアメリカに亡命してきた人々です。尤も、マリアと同世代でマリアの友人でもある母親はまさにその当事者でしたが、ランディ自身がその体験をしたわけではありません。従って、最初に仕事の依頼を受けた時、マリアの思いはかれにとっては他人事でしかなかった。真剣に仕事に取り組む気になったのは、アデーレの肖像の資産価値を知ったからです。しかし、裁判の準備のためにウィーンに足を運ぶうち、自分の一家が経験した悲惨な体験が、直接心に響いてきた。その思いは、単にかれ個人、かれの家族、というだけの問題ではなく、ユダヤ人全体、ひいては、不当に人権を脅かされた全ての人への思いとなって昇華されていきます。
つまり、ランディは偶然その場に居合わせただけの、ごく平凡な男であった。その平凡さがすごくいいのです。レイノルズは長身でスタイルもいいし、アクションヒーローとしてもちろんカッコイイのですが、なんかどうもそっち方面の適性を思うと、華や愛嬌や外連味に欠ける感じがあったのだけど、この役を観るに、将来的にはトム・ハンクスの路線を歩める役者さんなんじゃないかと思ったのでした。
・黄金のアデーレ 名画の帰還@ぴあ映画生活
サイモン・カーティス監督作品、製作国はアメリカとイギリスがクレジットされています。原題は"WOMAN IN GOLD"。
クリムトの描いた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ(WOMAN IN GOLD)」は、オーストリアのモナリザと称される国民的財産。しかしその絵画は、第二次世界大戦下、ナチスの手により本来の持ち主から略奪されたものだった。1998年、82歳となった元亡命ユダヤ人のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)は、オーストリア政府に対し、当該絵画の変換を求め、裁判を起こすのだが。
というストーリーは、先日観た『ミケランジェロ・プロジェクト』と同じく、ナチスに奪還された美術品を本来の持ち主に返すための奮闘を描いたものです。しかし、テーマこそ同じであっても、両者の風合いはかなり異なります。ミケプロ(略すな)があくまで善意の第三者による人類の共有財産の保護、が眼目であったの対し、こちらで描かれているのは極めて私的な体験なのです。その違いは大きい。
私的体験って、だってクリムトの代表作だよ? 一国の至宝だよ? 思い出がー、思い入れがー、所有権がー、とかそういう理由で返還を要求するなんて、それはちょっと強欲過ぎるんじゃないの? という疑問もあるやもしれませんが、やっぱり盾には両面がある。
たとえオーストラリア政府にとっての当該絵画がかけがえのない国民の共有財産であったとしても、マリア・アルトマンにとって、その同じ絵画はあくまで、大好きだった伯母をモデルにした家族の肖像であり、家族の居間に飾られていたものであり、その絵の前で様々な思い出が紡がれた家族の絵画なのです。有名画家によるものかどうかなんてどうでもいいし、芸術的に優れているかどうかも関係ない、ましてや資産価値の多寡など、この際彼女は問題にもしていなかったと思う。
問題なのは、その大事な家族の絵が、不当に奪われた、不当に奪われたままで、何の補償も謝罪もなされていない、ひとえにそのことなのです。
この映画では、少女時代のマリアを回想するシーンをふんだんに配し、アデーレの肖像に対する彼女の思いを丹念に描き出していますから、その絵が奪われた際の彼女の心情を慮るに難くない。どんなにひどい時代だったにせよ、どんなにひどい強権力が発揮されたのにせよ、一家がその絵を奪われたことが、とんでもなく不当なことだったことは否定できません。なんぴとたりとも、私有財産を侵されてはなりません。ユダヤ人だからと奪ってはならないことはもとより、金持ちだからといって奪うこともまたもちろん許されないのです。
しかし、なんですね。「裕福な」ユダヤ人たちが、不当に私有財産を剥奪され、着の身着のまま牛馬のように強制収容所に追い立てられていたその時、「普通の」オーストラリア市民は、それをどんな視線で見守っていたのだろう?
劇中でも描写されていましたが、それは決して同朋に対する横暴に眉を顰め、憤る態度ではなかったのです。むしろ、同調し、嘲笑い、溜飲を下げる態度であった。必死で逃げのびようとするユダヤ人を見つけた際に、勢い込んで官憲に指さす市民の行為は、単に保身のためとばかりは言えないものでした。
その根底にあったのは、持てる者への歪んだ怒りであったと思う。当時のユダヤ人は、その勤勉さ故か、教育熱心の故か、金融産業に従事することを忌避しなかった故か、その原因はわかりませんが、裕福な家族が多かった。マリアの一家もまた実業で財をなし、大変裕福な暮らしをしていたのです。
ナチスが台頭する以前、社会の底辺で肉体労働や汚れ仕事に従事していた人々の腹の底には、有名画家に肖像画を描かせ、楽しみのためにストラディバリウスのチェロを弾き、宝石を散りばめたアクセサリーを所有するような「裕福なユダヤ人」たちへの羨望の思いが燻っていたに違いありません。そうした人々は、いざ社会がひっくり返った時に、「裕福なユダヤ人」から奪うことを躊躇しなかった。罪悪感を持ちにくかった。金持ちから奪って何が悪い、という正当化がなされた。
こうした時代の雰囲気は、すっかり貧しくなってしまった現代日本の状況に重なるものを感じるのです。身ぐるみはがれた金持ちを、ざまあみろと嘲笑う感情は、難民の受け入れを拒み、口汚いヘイトスピーチを繰り返し、鵜の目鷹の目で叩くための弱者を捜す世相に繋がります。金持ちだからという理由で他人のものを奪う社会は、それらの人々を容易にガス室に送り込む社会になりかねない。そうしてそんな社会が怖いのは、嗤って誰かをガス室に送り込んだ人間が、翌日にはガス室に送られることになるかもしれないことです。
マリアの返還要求を歯牙にもかけなかったオーストラリア政府の態度もまた、あるいは当時の貧しい民衆の「金持ちから奪って何が悪い」という認識の延長線上にあるものなのかもしれません。
しかし、そうであるとすると、同じオーストラリア人でありながら、マリアの闘いに加担したジャーナリストのフベルトゥス・チェルニン(ダニエル・ブリュール)というひとは、果たしてどういう立ち位置にいたんだろう。その辺の描写を非常に物足りなく思いました。なぜかれはマリアに協力することにしたのか。人権に対する単なる信念の故なのか、なにか個人的思い入れがあったのか。せっかくのダニエル・ブリュールですのに、頼もしい味方、というより、なんだか胡散臭い男、にしか見えなかったのが残念極まりないです。
一方、マリアの弁護士を務めたランディ・シェーンベルクを演じたライアン・レイノルズですけれども。わたくし今までアクション・ヒーローを演じるレイノルズを観ても、なんかあまりピンときてなかったのですが、この映画のかれはしみじみとよかったのです。新境地を拓いた、というほどの画期的な印象です。
レイノルズが演じたランディの家族もまた、マリア同様大戦前はオーストラリアの名士だったのですが、ユダヤ人であるが故に、故国を追われアメリカに亡命してきた人々です。尤も、マリアと同世代でマリアの友人でもある母親はまさにその当事者でしたが、ランディ自身がその体験をしたわけではありません。従って、最初に仕事の依頼を受けた時、マリアの思いはかれにとっては他人事でしかなかった。真剣に仕事に取り組む気になったのは、アデーレの肖像の資産価値を知ったからです。しかし、裁判の準備のためにウィーンに足を運ぶうち、自分の一家が経験した悲惨な体験が、直接心に響いてきた。その思いは、単にかれ個人、かれの家族、というだけの問題ではなく、ユダヤ人全体、ひいては、不当に人権を脅かされた全ての人への思いとなって昇華されていきます。
つまり、ランディは偶然その場に居合わせただけの、ごく平凡な男であった。その平凡さがすごくいいのです。レイノルズは長身でスタイルもいいし、アクションヒーローとしてもちろんカッコイイのですが、なんかどうもそっち方面の適性を思うと、華や愛嬌や外連味に欠ける感じがあったのだけど、この役を観るに、将来的にはトム・ハンクスの路線を歩める役者さんなんじゃないかと思ったのでした。
・黄金のアデーレ 名画の帰還@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-12-14 22:26
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