2015年 12月 06日
恋人たち
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★ネタバレ注意★
『ぐるりのこと。』の橋口亮輔監督、7年振りの長編映画、ということで話題の作品です。監督は脚本も担当。
とは言えわたくしは、『ぐるりのこと。』はまだ観てなくて、橋口監督作品で鑑賞済みなのは『二十才の微熱』と『ハッシュ!』だけです。だとすると14年振りという計算になるのかしら。どちらの作品も役者さんたちの小さな所作のひとつひとつが、いまだに忘れがたく心の片隅に残っている、という不思議な感触の映画でした。
この映画は、三つの異なる物語を集めたオムニバスです。それぞれの物語は緩く繋がってはいますが、基本的にはそれぞれ別の話です。あらすじをallcinemaさんから引用させていただくと、
橋梁のコンクリートをハンマーで叩き破損の有無をチェックする橋梁点検の仕事をしながら裁判のために奔走するアツシ。数年前、最愛の妻を通り魔殺人事件で失い、今なおその喪失感と犯人への憎しみから立ち直れずにいる。自分に関心を持たない夫と、ソリが合わない姑と3人暮らしの退屈な毎日を送る主婦、瞳子。ある日、ひとりの中年男とひょんなことから親しくなっていく。同性愛者で、完璧主義のエリート弁護士、四ノ宮。一緒に暮らす恋人がいながらも、秘かに学生時代からの男友だちを想い続けていた。そんな不器用ながらも懸命に日々を生きている3人だったが…。(/引用ここまで)
昨今、映画についてよく言われるのが「リアリティラインが甘い」という批判です。ご都合主義だの荒唐無稽だの、生身の人間がそんなリアクションをするものかね、という批判です。ところがこの映画の場合、リアルについて言えば、あまりのリアルに溺れそうになりました。頭と足首を掴まれて雑巾みたいにぎゅーっと絞られたような心地がしたのです。
ディテールが、匂いや手触りや湿り気を伴って、圧倒的に攻めてくる。
アツシ(篠原篤)のラインで印象的だったのは、アツシ自身もさることながら、ワンシーンだけ登場したアツシの義姉のシーンです。殺されたアツシの奥さんのお姉さんですね。この人は基本的に善良な人で、なかなか連絡がとれない義弟の身を案じて、手作りの料理を山のように抱えて訊ねて来てくれる。謂われもなく妹を殺されたというのに、義姉は不自然なほどのハイテンションで、料理教室に通っていることなどを明るくはしゃいだ口調で喋りまくります。しかし、妹の位牌を拝むために隣室に引っ込んだ後、義姉は密かに泣いていた。
婚約していたのに、妹が殺されたからって、婚約を破棄された。友だちもいたのに、妹が殺されたからって、みんな去って行ってしまった。どうして? わたしは妹を殺されたのに?
それは決して、婚約者や友人たちが冷酷な悪人だったからではなく、義姉が築いてきた人間関係が薄っぺらで実態のないものだったということでもない。
悲しみは誰かに話せばいい。何の助けにもならないとは思うけれど、話を聞くだけならできるから、話してごらんよ、誰かの悲しみに遭遇すると、普通ひとはそういう風に対処する。それは社会的動物としての処世の本能でもあるし、善良な人間としての基本でもある。それ自体は至って普通のことだけど、さて、どこまでその行為を継続することが可能だろうか? 誰かの悲しみごとその誰かの人生を背負うことが、果たしてどれほどのひとにできるだろうか?
話を聞いてほしい。それはいい。だけどなぜそれがわたしなのか?
婚約者も友人も、恐らくそのことで困惑した。そのことで困惑してしまえば、日常を共にすることはできない。
誰かが悲しみを癒すために、心の底からあふれてくる澱のような思いを、黙って全部受け止め続けることは、ただの友人にはできない。夫でもない婚約者にもできない。いやむしろ夫ですらできない。それどころか親兄弟ですらできない。恐らくそれができるのは、一時間幾らと金銭契約を交わした分析医ぐらいのものだ。
だけどアツシの場合、御しがたい悲しみと、その果てしのない吐露を、受け止めてくれた「他人」がいた。ただの職場の同僚であって、友だちですらない人間なのに。
アツシが働く橋梁点検の会社に勤める技師の黒田大輔(黒田大輔)は片腕がない。片方しかない不自由な腕で、きちんと仕事をこなし、器用に日用品を操り、淡々と日々の暮らしを営んでいる。いつも微笑んでいるような優しい顔をして、怒鳴り声など想像もつかないような優しい声で話す。この黒田が、アツシの義姉同様、引きこもりがちのアツシを気遣って、弁当の差し入れと共にアツシの下を訪れる(この弁当は、映画のもうひとりの主役、高橋瞳子のパート先で作ったものだ)。
この時もアツシは、被害者の立場なのに、世間からさんざん理不尽に扱われて爆発寸前になっていたのです。妻が殺されたショックで職を失い、健康保険料の支払いが滞って現在抱えている鬱病の治療が思うように受けられない。役所の窓口で助けてもらおうとしても木で鼻を括ったような対応をされる。妻を殺した犯人の判決が出れば、心神喪失の主張が通ってろくに罰せられることすらない。ならば民事で闘おうとしても弁護士は誠意のカケラも見せてくれない。(この弁護士が三番目の主役の四ノ宮)。
だけど不思議なことに、アツシはどんなに怒りを抱えても、決してその怒りを他人に向けようとはしないのですね。役所の窓口でも、嫌味な係員に掴みかかったりしないし、犯人が措置入院になったことを知っても、家具を蹴り飛ばしたりして周りにいる人を怯えさせたりもしない。それほどの怒りですら、かれの善良さを歪めることはできなかったのだと思う。
それなのに、弁当持参で慰めてくれる黒田の前で、アツシは犯人をこの手で殺してやりたいと慟哭する。すると黒田が言うのですね。
殺しちゃダメだよ、殺しちゃうとさ、こうやって話せないじゃん。オレはあなたともっと話したいと思うよ。
話がしたいと、こんな、ドロドロの悲しみに溺れて、シャブにまで手を出そうとして、自殺までしようとして、それでもなぜか転落できなくて、口を開けばとめどなく恨み節ばかり滝のようにほとばしってしまうのに、話がしたいと、あなたともっと話がしたいと、言ってくれる誰かがいた。
だったら、もしかしたら、できるのかもしれない、こうして生きていることを、少しでも、ほんの少しでも、肯定することが。
どんなに誰かが優しい言葉で慰めてくれたとしても、どんなに誰かが悲しみの受け皿になってくれたとしても、悲しみが消え去ることはない、決してない。それはいつだってそこにいて、不意打ちに襲い掛かってくる。今、喪失で苦しいアツシは、ずっとその苦しみと共に生きていくしかない。だけどそんな、苦痛と共にある人生でも、それでもよしと、思えれば、たとえほんの少しだけでも。
黒田の存在がアツシの人生で大きなパートを占めるというわけではないのです。かれらは一緒に暮らしているわけですらない。所詮は会社の同僚なんです。仮にアツシがあの会社をやめたら、それきり会うこともないかもしれない。だから、そこにあるのは絶対的な救いなんかじゃ決してない。ほんのささいなきっかけに過ぎない。
だけど、どうしようもなく絶望してしまっても、ほんのささいなきっかけがあれば、あるいは明日もまた、生きていくことができるのではないか?
ラストシーンはそれを暗示するどこまでも明るい空が、ビルの合間に覗いているのです。その穏やかさには、ほんとに胸が痛くなるのです。
というのがアツシのパート。瞳子のパートと四ノ宮のパートは、またそれぞれテーマが違うのです。四ノ宮のパートは、自身同性愛者であることをカミングアウトされている橋口監督にとっては普遍的なテーマを内包したものであると思うし、瞳子のパートで提示されている問題の面白さときたら他に類を見ないと思えるほどで、それはそれでまたじっくり考察したい気持ちもあるのだけれど、映画を観た素直な感想としては、これはアツシに関する映画であったなぁ、と思うのでした。
・恋人たち@ぴあ映画生活
『ぐるりのこと。』の橋口亮輔監督、7年振りの長編映画、ということで話題の作品です。監督は脚本も担当。
とは言えわたくしは、『ぐるりのこと。』はまだ観てなくて、橋口監督作品で鑑賞済みなのは『二十才の微熱』と『ハッシュ!』だけです。だとすると14年振りという計算になるのかしら。どちらの作品も役者さんたちの小さな所作のひとつひとつが、いまだに忘れがたく心の片隅に残っている、という不思議な感触の映画でした。
この映画は、三つの異なる物語を集めたオムニバスです。それぞれの物語は緩く繋がってはいますが、基本的にはそれぞれ別の話です。あらすじをallcinemaさんから引用させていただくと、
橋梁のコンクリートをハンマーで叩き破損の有無をチェックする橋梁点検の仕事をしながら裁判のために奔走するアツシ。数年前、最愛の妻を通り魔殺人事件で失い、今なおその喪失感と犯人への憎しみから立ち直れずにいる。自分に関心を持たない夫と、ソリが合わない姑と3人暮らしの退屈な毎日を送る主婦、瞳子。ある日、ひとりの中年男とひょんなことから親しくなっていく。同性愛者で、完璧主義のエリート弁護士、四ノ宮。一緒に暮らす恋人がいながらも、秘かに学生時代からの男友だちを想い続けていた。そんな不器用ながらも懸命に日々を生きている3人だったが…。(/引用ここまで)
昨今、映画についてよく言われるのが「リアリティラインが甘い」という批判です。ご都合主義だの荒唐無稽だの、生身の人間がそんなリアクションをするものかね、という批判です。ところがこの映画の場合、リアルについて言えば、あまりのリアルに溺れそうになりました。頭と足首を掴まれて雑巾みたいにぎゅーっと絞られたような心地がしたのです。
ディテールが、匂いや手触りや湿り気を伴って、圧倒的に攻めてくる。
アツシ(篠原篤)のラインで印象的だったのは、アツシ自身もさることながら、ワンシーンだけ登場したアツシの義姉のシーンです。殺されたアツシの奥さんのお姉さんですね。この人は基本的に善良な人で、なかなか連絡がとれない義弟の身を案じて、手作りの料理を山のように抱えて訊ねて来てくれる。謂われもなく妹を殺されたというのに、義姉は不自然なほどのハイテンションで、料理教室に通っていることなどを明るくはしゃいだ口調で喋りまくります。しかし、妹の位牌を拝むために隣室に引っ込んだ後、義姉は密かに泣いていた。
婚約していたのに、妹が殺されたからって、婚約を破棄された。友だちもいたのに、妹が殺されたからって、みんな去って行ってしまった。どうして? わたしは妹を殺されたのに?
それは決して、婚約者や友人たちが冷酷な悪人だったからではなく、義姉が築いてきた人間関係が薄っぺらで実態のないものだったということでもない。
悲しみは誰かに話せばいい。何の助けにもならないとは思うけれど、話を聞くだけならできるから、話してごらんよ、誰かの悲しみに遭遇すると、普通ひとはそういう風に対処する。それは社会的動物としての処世の本能でもあるし、善良な人間としての基本でもある。それ自体は至って普通のことだけど、さて、どこまでその行為を継続することが可能だろうか? 誰かの悲しみごとその誰かの人生を背負うことが、果たしてどれほどのひとにできるだろうか?
話を聞いてほしい。それはいい。だけどなぜそれがわたしなのか?
婚約者も友人も、恐らくそのことで困惑した。そのことで困惑してしまえば、日常を共にすることはできない。
誰かが悲しみを癒すために、心の底からあふれてくる澱のような思いを、黙って全部受け止め続けることは、ただの友人にはできない。夫でもない婚約者にもできない。いやむしろ夫ですらできない。それどころか親兄弟ですらできない。恐らくそれができるのは、一時間幾らと金銭契約を交わした分析医ぐらいのものだ。
だけどアツシの場合、御しがたい悲しみと、その果てしのない吐露を、受け止めてくれた「他人」がいた。ただの職場の同僚であって、友だちですらない人間なのに。
アツシが働く橋梁点検の会社に勤める技師の黒田大輔(黒田大輔)は片腕がない。片方しかない不自由な腕で、きちんと仕事をこなし、器用に日用品を操り、淡々と日々の暮らしを営んでいる。いつも微笑んでいるような優しい顔をして、怒鳴り声など想像もつかないような優しい声で話す。この黒田が、アツシの義姉同様、引きこもりがちのアツシを気遣って、弁当の差し入れと共にアツシの下を訪れる(この弁当は、映画のもうひとりの主役、高橋瞳子のパート先で作ったものだ)。
この時もアツシは、被害者の立場なのに、世間からさんざん理不尽に扱われて爆発寸前になっていたのです。妻が殺されたショックで職を失い、健康保険料の支払いが滞って現在抱えている鬱病の治療が思うように受けられない。役所の窓口で助けてもらおうとしても木で鼻を括ったような対応をされる。妻を殺した犯人の判決が出れば、心神喪失の主張が通ってろくに罰せられることすらない。ならば民事で闘おうとしても弁護士は誠意のカケラも見せてくれない。(この弁護士が三番目の主役の四ノ宮)。
だけど不思議なことに、アツシはどんなに怒りを抱えても、決してその怒りを他人に向けようとはしないのですね。役所の窓口でも、嫌味な係員に掴みかかったりしないし、犯人が措置入院になったことを知っても、家具を蹴り飛ばしたりして周りにいる人を怯えさせたりもしない。それほどの怒りですら、かれの善良さを歪めることはできなかったのだと思う。
それなのに、弁当持参で慰めてくれる黒田の前で、アツシは犯人をこの手で殺してやりたいと慟哭する。すると黒田が言うのですね。
殺しちゃダメだよ、殺しちゃうとさ、こうやって話せないじゃん。オレはあなたともっと話したいと思うよ。
話がしたいと、こんな、ドロドロの悲しみに溺れて、シャブにまで手を出そうとして、自殺までしようとして、それでもなぜか転落できなくて、口を開けばとめどなく恨み節ばかり滝のようにほとばしってしまうのに、話がしたいと、あなたともっと話がしたいと、言ってくれる誰かがいた。
だったら、もしかしたら、できるのかもしれない、こうして生きていることを、少しでも、ほんの少しでも、肯定することが。
どんなに誰かが優しい言葉で慰めてくれたとしても、どんなに誰かが悲しみの受け皿になってくれたとしても、悲しみが消え去ることはない、決してない。それはいつだってそこにいて、不意打ちに襲い掛かってくる。今、喪失で苦しいアツシは、ずっとその苦しみと共に生きていくしかない。だけどそんな、苦痛と共にある人生でも、それでもよしと、思えれば、たとえほんの少しだけでも。
黒田の存在がアツシの人生で大きなパートを占めるというわけではないのです。かれらは一緒に暮らしているわけですらない。所詮は会社の同僚なんです。仮にアツシがあの会社をやめたら、それきり会うこともないかもしれない。だから、そこにあるのは絶対的な救いなんかじゃ決してない。ほんのささいなきっかけに過ぎない。
だけど、どうしようもなく絶望してしまっても、ほんのささいなきっかけがあれば、あるいは明日もまた、生きていくことができるのではないか?
ラストシーンはそれを暗示するどこまでも明るい空が、ビルの合間に覗いているのです。その穏やかさには、ほんとに胸が痛くなるのです。
というのがアツシのパート。瞳子のパートと四ノ宮のパートは、またそれぞれテーマが違うのです。四ノ宮のパートは、自身同性愛者であることをカミングアウトされている橋口監督にとっては普遍的なテーマを内包したものであると思うし、瞳子のパートで提示されている問題の面白さときたら他に類を見ないと思えるほどで、それはそれでまたじっくり考察したい気持ちもあるのだけれど、映画を観た素直な感想としては、これはアツシに関する映画であったなぁ、と思うのでした。
・恋人たち@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-12-06 22:29
| 邦画