2015年 10月 15日
バクマン。
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★ネタバレ注意★
大根仁監督最新作。
原作は大場つぐみ・小畑健コンビによる同名大ヒット・マンガ(未読)。
日頃邦画をあまり観ないわたくし。せっかく映画を観るなら日常からできるだけかけ離れた空気に触れたい、知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、という願望がそうさせるのでしょう。従ってわざわざスクリーンで観るのは年間恐らく2、3本程度なんだけど、今回は、個人的に大変な傑作だと思う、テレビドラマ版『まほろ駅前』の監督である大根監督の作品ということで、非常に乗り気で劇場に足を運びました。
漫画を描くという、本来どうしようもなく地味なはずの作業を、こんなにもダイナミックで楽しい映像に仕立てあげたセンスには脱帽です。ペンが走る音すらが画面の躍動感を高めていく。やっぱり大根監督はすごい監督だと思います。目を離しちゃダメだ。
高校生の真城最高(佐藤健)は、漫画家の川口たろう(宮藤官九郎)を叔父に持ち、叔父の薫陶と漫画まみれの環境によって、こよなく漫画を愛する漫画少年として育った。しかし、なまじ身近で叔父の転落と挫折、そして若すぎる死を目撃してしまったがために、漫画家という職業に夢を持つことができない。ところがそんな最高の高い画力に目をつけた同級生の高木秋人(神木隆之介)から、「俺と組んで漫画家になろう」と誘われる。秋人もまた漫画少年だったが、致命的に絵がヘタで、漫画を描きたいという情熱ばかりが空回りしていたのだ。かくて、原作秋人、作画最高というユニットで、漫画界の頂点を極める週刊少年ジャンプの連載枠獲得を目指し、高校生の戦いが始まった。
という物語はまず何と言っても、「週刊少年ジャンプ」がいかに特別な存在であるか、という点を鮮やかに手際よく見せてくれます。週刊少年ジャンプは、日本が誇る最先端文化である漫画の頂点を極める存在。それは謂わば漫画少年たちの甲子園、花園、オリンピック、アカデミー賞、ノーベル賞。とにかく頂点。てっぺん!
ジャンプ漫画を一作も読んだことのないわたくしのような観客にも、ジャンプで連載を持つということがどれほど凄いことなのかが如実に伝わってくる。そして、自分たちが目指す世界に、そのような形でそびえ立つ明らかな目標があるということが如何にすばらしいことであるか、幸福なことであるかが文句なく実感できる。そりゃこれを目指すしかない。なにしろてっぺんだ!
そのてっぺんを目指す少年たちの奮闘努力は全くもってスポ根もののそれと同じで、謂わばこれは熱血青春映画。主人公最高の淡い恋愛描写などもないではないけど、それはあくまでかれが漫画家になろうと決意するきっかけに過ぎず、かれが恋する少女、亜豆美保(小松菜奈)には、敢えて人格や個性といったものが与えられていません。そのため、(亜豆美保というキャラクターではなく)小松菜奈という女優の容姿が好きか嫌いかで、彼女の存在や描かれ方が「アリ」かどうかの評価が分かれている印象がある。
一方、最高やパートナーの秋人をはじめ、かれらを取り巻く新人漫画家たち、同時に手塚賞を受賞し、ほぼ同じ時期にジャンプ連載という第一目標をクリアした仲間たち、福田真太(桐谷健太)、平丸一也(新井浩文)、中井巧朗(皆川猿時)や、そんなかれらの前に「天才」として立ちはだかるライバルの新妻エイジ(染谷将太)といった若手の漫画家たち、あるいは、担当編集者の服部哲(山田孝之)、この業界では神にも等しい週刊ジャンプ編集長・佐々木(リリー・フランキー)といった人々は、きっちりとキャラを立て、短い描写の中から血肉のある人間としての存在が伝わってくる演出です。
それは、漫画原作の映画化にありがちな、漫画だから成り立つ表現をそのまま実写に持ち込んでしまったがために生じる寒々しさや、所詮漫画キャラのコスプレレベルの単なる再現に堕することなく、劇映画に要求されるリアリティレベルをきっちりとクリアした堂々たる映画であったと思います。
特にやはり素晴らしいのは、最高&秋人組と新妻エイジとのライバル描写で、これぞ高校生スポ根ものの王道やなぁ、と思うのですが、中でも、せっかく得られた巻頭カラーというチャンスを前に病気で倒れてしまい、原稿を落としそうになった最高の仕事場にエイジが訪れるシーンがいい。エイジは最高を挑発するような言辞を吐き、最高が諦めそうになっていた原稿にペンを入れてみせる。その原稿は、最高の原動力であるあこがれの亜豆をモデルにしたキャラクターのアップで、敢えてその絵にエイジは手を入れた。ああ、この絵は全然ダメですねえ、目に力がない、ほらね、ぼくの方がよっぽどうまく描けますよ、と言いながら。その瞬間、最高がホロリと涙を流す。そして奮起して、エイジの手から原稿を取り戻し、なんとか完成に持ち込む。
このホロリとこぼれ落ちた涙が、最高の万感の思いを語り尽しているわけで、これはほんとに凄い演出だなと思う瞬間です。そしてもちろん、こんな繊細な演技ができる佐藤健という役者さんもすばらしい。
このシーンは、自分の仕事で手一杯のはずの福田や平丸、そして夢破れて故郷に帰っていた中井が集結し、最高たちの仕事を手伝うというクライマックスシーンで、ジャンプ的価値観が凝集された非常に熱いシーンなんだけど、しかしここでエイジまでもが最高の仕事を「手伝って」しまったら、仮にその作品で最高が評価されたとしても、それでは最高がエイジというライバルに勝ったことにはならない。やっぱりここは是が非でも最高が自分の手で仕上げなければならないところで、最高がそうするよう奮起させたエイジのムーブは大変うまいと思うのです。
その一方で、観客は否応なく新妻エイジという、天才かもしれないけれど、それでも高校生にすぎない一人の少年の深い孤独に直面することになる。常に相棒の秋人と苦楽を共にしている最高には、いざとなったら駆けつけて助けてくれる仲間だっている。それに引き換え、エイジは常にひとりです。ひとりでも何も困らないだけのとびぬけた実力があるからこそなんだけど、それにしてもかれの孤独は突き刺さる。
秋人が最高に「6歳から漫画ばかり描いてきたエイジには長いキャリアはあっても漫画の世界しかないけれど、ただの高校生だったぼくたちには普通の高校生としての生活や体験がある、だからその体験を武器にしよう!」と語るシーンがある。それはつまり、エイジにはそんな普通の体験すらない、ということを意味している。一心不乱に漫画を描いているエイジの姿は、天才に憧れ、天才を羨む視点からすれば、あんな絵が、あんなストーリーが、あんなに楽々と描けるなんて羨ましい、とも見えるけれど、一方でまたその姿は、あまりにも鬼気迫るもので、あまりにも孤独。新妻エイジのそんなキャラクターを表現するのに、染谷将太という役者さんがまたいい。
や、ほんとはたぶん、新妻エイジだって仕事場でひとりきり、ってことはなかったと思うのね。週刊誌でストーリー漫画を連載する漫画家がひとりもアシスタントをつけないというのは考えにくい。だけどこの映画は、意図的に「アシスタント」という存在が封印されているっぽい。福田真太にだけはヤンキー仲間みたいなアシスタントがいたけれど、ほかの漫画家についてはそれがない。それはたぶん、アシスタントの存在があると、クライマックスで現役漫画家が手伝いにくる、という描写ができなくなるからだと思うのだけど。
アシスタントの存在を排除したことは、この映画独自のリアリティということで全然問題ないと思うんだけど、そうはいってもやはり、高校生の少年に病気を押して仕事を完成させることを達成というか、一種の美談として描く描写には違和感がありました。
ただでさえ、毎週示されるアンケートの結果によって存在価値が決定される残酷なシステムの下、過酷な労働環境で、一切何の保証もなく、身体を痛めて働く(その挙句、最高の叔父のように死に至る者すらある)漫画家という存在は、編集者たち、あるいは集英社という大きな「企業」にとって「消耗品に過ぎない」という問題提起を、この映画は否定しきれていません(というか、もしかしたら否定する気なんか最初からない)。
そんな中で、未成年の最高たちが病気の身に鞭うって作品を仕上げることは、最高たちにとっては挑戦であり、達成であったかもしれないけれど、それを黙認した大人たちにとっては、何ら痛みを感じることもない「美味しい」展開だったわけで、これはまさに社畜と経営者の関係。しかも相手はまだ子ども。これを美談にしてしまっていいのかと、観客としては戸惑わざるを得ない。
百歩譲って、最高たちが追い詰められて死に物狂いで作品を仕上げる、という展開はよしとするにしても、その原因が最高の病気というのは「ナシ」なんじゃないかな。仕上げた原稿を不注意で紛失してしまった、とかなんとか、ほかに色々理由は作れたはずなのに。一体どこの女工哀史だよ、野麦峠だよ、って思うよ、これじゃ。
観客がそう思うについては、漫画家たちが消耗品であるのみならず、かれらによって生み出される作品もまた消耗品なんじゃないか、という疑惑が消しきれないという面もある。実のところ、(最高の絵はともかく)秋人の作った物語が、どんな必然を持って描かれたもので、どんな風に読者に支持されていたのかが皆目わからないのです。読者のリアクションとしてはただひたすらアンケートの結果しかなく、その結果も、「主人公を一旦死なせるというサプライズ演出と、新しい美少女キャラの投入」というマーケティング的対応で左右されている。
ほんとに愛されている漫画なら、読者がその漫画のキャラクターになりきったり、その漫画のキャラクターに恋をしたり、その漫画を模写したり、その漫画の台詞を引用したり、その漫画について熱く語ったりするものだと思うのだけど、そういう描写が一切ないのでただ娯楽として消耗されている、という印象しか持てない。
それというのも、それに先立ち、そもそも秋人自身の、一体どんな物語を物語りたいのか、というビジョンが描けていないからで、だから最初の作品では、受けを狙ったいいとこどりの印象がある、とか言われてしまうし、せっかく勝ち取った連載作にしても、作家性ではなくマーケティング的な処理で対応しているように見える。
自分では絵が描けない少年が、それでも漫画を描きたいと思うのであれば、かれなりの絶対的に描きたい何か、がないといけないと思うのに、要するに全くそれがないのね。秋人って一体どういう少年なのか、この映画からはほとんど読み取れない。たとえば、歴史が好きで好きで、戦国武将について語らせたら一晩中でも語り続けることができるとか、古今東西日本語で読めるミステリは全て読破したミステリファンであるとか、何かひとつ、物語作者としての原点、原動力、かれにしか書けない物語を持っているという証左がほしいところなのに、ジャンプだけを読んでジャンプ漫画を描くなら、それじゃ劣化コピーにしかならない。そこが如何にも物足りないと思ったのでした。
幸か不幸か、神木隆之介という役者さんにとても存在感があるので、映画を観ている間は描写の薄さがさほど気にならないどころか、こんな過酷で巨大な挑戦を、たったひとりでするのではなく、友達とタッグを組んでやれるなんて、すばらしい! とワクワクして観ていたのだけれど。
好きだったシーンは、亜豆をモデルにした少女キャラの絵を描いていた最高が、思わず乳首を描きそうになって、寸でのところで踏みとどまるシーン。いかにも男子高校生っぽいなんともかわいらしい煩悩シーンであると同時に、大根仁監督らしさが横溢しているシーンだと思った。
あと、どうでもいいことですが、最高の叔父さんの宮藤官九郎がしょっちゅううんこに行くのが印象的でした。今際の台詞まで「うんこ」だったしな。『まほろ駅前』で 長身細身の清潔感あふれるイケメンな瑛太演じる多田が、トイレに籠ってうんこばっかりしてたのを思い出したわ。大根監督ってうんこの描写が好きなのかしら。
・バクマン。@ぴあ映画生活
大根仁監督最新作。
原作は大場つぐみ・小畑健コンビによる同名大ヒット・マンガ(未読)。
日頃邦画をあまり観ないわたくし。せっかく映画を観るなら日常からできるだけかけ離れた空気に触れたい、知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、という願望がそうさせるのでしょう。従ってわざわざスクリーンで観るのは年間恐らく2、3本程度なんだけど、今回は、個人的に大変な傑作だと思う、テレビドラマ版『まほろ駅前』の監督である大根監督の作品ということで、非常に乗り気で劇場に足を運びました。
漫画を描くという、本来どうしようもなく地味なはずの作業を、こんなにもダイナミックで楽しい映像に仕立てあげたセンスには脱帽です。ペンが走る音すらが画面の躍動感を高めていく。やっぱり大根監督はすごい監督だと思います。目を離しちゃダメだ。
高校生の真城最高(佐藤健)は、漫画家の川口たろう(宮藤官九郎)を叔父に持ち、叔父の薫陶と漫画まみれの環境によって、こよなく漫画を愛する漫画少年として育った。しかし、なまじ身近で叔父の転落と挫折、そして若すぎる死を目撃してしまったがために、漫画家という職業に夢を持つことができない。ところがそんな最高の高い画力に目をつけた同級生の高木秋人(神木隆之介)から、「俺と組んで漫画家になろう」と誘われる。秋人もまた漫画少年だったが、致命的に絵がヘタで、漫画を描きたいという情熱ばかりが空回りしていたのだ。かくて、原作秋人、作画最高というユニットで、漫画界の頂点を極める週刊少年ジャンプの連載枠獲得を目指し、高校生の戦いが始まった。
という物語はまず何と言っても、「週刊少年ジャンプ」がいかに特別な存在であるか、という点を鮮やかに手際よく見せてくれます。週刊少年ジャンプは、日本が誇る最先端文化である漫画の頂点を極める存在。それは謂わば漫画少年たちの甲子園、花園、オリンピック、アカデミー賞、ノーベル賞。とにかく頂点。てっぺん!
ジャンプ漫画を一作も読んだことのないわたくしのような観客にも、ジャンプで連載を持つということがどれほど凄いことなのかが如実に伝わってくる。そして、自分たちが目指す世界に、そのような形でそびえ立つ明らかな目標があるということが如何にすばらしいことであるか、幸福なことであるかが文句なく実感できる。そりゃこれを目指すしかない。なにしろてっぺんだ!
そのてっぺんを目指す少年たちの奮闘努力は全くもってスポ根もののそれと同じで、謂わばこれは熱血青春映画。主人公最高の淡い恋愛描写などもないではないけど、それはあくまでかれが漫画家になろうと決意するきっかけに過ぎず、かれが恋する少女、亜豆美保(小松菜奈)には、敢えて人格や個性といったものが与えられていません。そのため、(亜豆美保というキャラクターではなく)小松菜奈という女優の容姿が好きか嫌いかで、彼女の存在や描かれ方が「アリ」かどうかの評価が分かれている印象がある。
一方、最高やパートナーの秋人をはじめ、かれらを取り巻く新人漫画家たち、同時に手塚賞を受賞し、ほぼ同じ時期にジャンプ連載という第一目標をクリアした仲間たち、福田真太(桐谷健太)、平丸一也(新井浩文)、中井巧朗(皆川猿時)や、そんなかれらの前に「天才」として立ちはだかるライバルの新妻エイジ(染谷将太)といった若手の漫画家たち、あるいは、担当編集者の服部哲(山田孝之)、この業界では神にも等しい週刊ジャンプ編集長・佐々木(リリー・フランキー)といった人々は、きっちりとキャラを立て、短い描写の中から血肉のある人間としての存在が伝わってくる演出です。
それは、漫画原作の映画化にありがちな、漫画だから成り立つ表現をそのまま実写に持ち込んでしまったがために生じる寒々しさや、所詮漫画キャラのコスプレレベルの単なる再現に堕することなく、劇映画に要求されるリアリティレベルをきっちりとクリアした堂々たる映画であったと思います。
特にやはり素晴らしいのは、最高&秋人組と新妻エイジとのライバル描写で、これぞ高校生スポ根ものの王道やなぁ、と思うのですが、中でも、せっかく得られた巻頭カラーというチャンスを前に病気で倒れてしまい、原稿を落としそうになった最高の仕事場にエイジが訪れるシーンがいい。エイジは最高を挑発するような言辞を吐き、最高が諦めそうになっていた原稿にペンを入れてみせる。その原稿は、最高の原動力であるあこがれの亜豆をモデルにしたキャラクターのアップで、敢えてその絵にエイジは手を入れた。ああ、この絵は全然ダメですねえ、目に力がない、ほらね、ぼくの方がよっぽどうまく描けますよ、と言いながら。その瞬間、最高がホロリと涙を流す。そして奮起して、エイジの手から原稿を取り戻し、なんとか完成に持ち込む。
このホロリとこぼれ落ちた涙が、最高の万感の思いを語り尽しているわけで、これはほんとに凄い演出だなと思う瞬間です。そしてもちろん、こんな繊細な演技ができる佐藤健という役者さんもすばらしい。
このシーンは、自分の仕事で手一杯のはずの福田や平丸、そして夢破れて故郷に帰っていた中井が集結し、最高たちの仕事を手伝うというクライマックスシーンで、ジャンプ的価値観が凝集された非常に熱いシーンなんだけど、しかしここでエイジまでもが最高の仕事を「手伝って」しまったら、仮にその作品で最高が評価されたとしても、それでは最高がエイジというライバルに勝ったことにはならない。やっぱりここは是が非でも最高が自分の手で仕上げなければならないところで、最高がそうするよう奮起させたエイジのムーブは大変うまいと思うのです。
その一方で、観客は否応なく新妻エイジという、天才かもしれないけれど、それでも高校生にすぎない一人の少年の深い孤独に直面することになる。常に相棒の秋人と苦楽を共にしている最高には、いざとなったら駆けつけて助けてくれる仲間だっている。それに引き換え、エイジは常にひとりです。ひとりでも何も困らないだけのとびぬけた実力があるからこそなんだけど、それにしてもかれの孤独は突き刺さる。
秋人が最高に「6歳から漫画ばかり描いてきたエイジには長いキャリアはあっても漫画の世界しかないけれど、ただの高校生だったぼくたちには普通の高校生としての生活や体験がある、だからその体験を武器にしよう!」と語るシーンがある。それはつまり、エイジにはそんな普通の体験すらない、ということを意味している。一心不乱に漫画を描いているエイジの姿は、天才に憧れ、天才を羨む視点からすれば、あんな絵が、あんなストーリーが、あんなに楽々と描けるなんて羨ましい、とも見えるけれど、一方でまたその姿は、あまりにも鬼気迫るもので、あまりにも孤独。新妻エイジのそんなキャラクターを表現するのに、染谷将太という役者さんがまたいい。
や、ほんとはたぶん、新妻エイジだって仕事場でひとりきり、ってことはなかったと思うのね。週刊誌でストーリー漫画を連載する漫画家がひとりもアシスタントをつけないというのは考えにくい。だけどこの映画は、意図的に「アシスタント」という存在が封印されているっぽい。福田真太にだけはヤンキー仲間みたいなアシスタントがいたけれど、ほかの漫画家についてはそれがない。それはたぶん、アシスタントの存在があると、クライマックスで現役漫画家が手伝いにくる、という描写ができなくなるからだと思うのだけど。
アシスタントの存在を排除したことは、この映画独自のリアリティということで全然問題ないと思うんだけど、そうはいってもやはり、高校生の少年に病気を押して仕事を完成させることを達成というか、一種の美談として描く描写には違和感がありました。
ただでさえ、毎週示されるアンケートの結果によって存在価値が決定される残酷なシステムの下、過酷な労働環境で、一切何の保証もなく、身体を痛めて働く(その挙句、最高の叔父のように死に至る者すらある)漫画家という存在は、編集者たち、あるいは集英社という大きな「企業」にとって「消耗品に過ぎない」という問題提起を、この映画は否定しきれていません(というか、もしかしたら否定する気なんか最初からない)。
そんな中で、未成年の最高たちが病気の身に鞭うって作品を仕上げることは、最高たちにとっては挑戦であり、達成であったかもしれないけれど、それを黙認した大人たちにとっては、何ら痛みを感じることもない「美味しい」展開だったわけで、これはまさに社畜と経営者の関係。しかも相手はまだ子ども。これを美談にしてしまっていいのかと、観客としては戸惑わざるを得ない。
百歩譲って、最高たちが追い詰められて死に物狂いで作品を仕上げる、という展開はよしとするにしても、その原因が最高の病気というのは「ナシ」なんじゃないかな。仕上げた原稿を不注意で紛失してしまった、とかなんとか、ほかに色々理由は作れたはずなのに。一体どこの女工哀史だよ、野麦峠だよ、って思うよ、これじゃ。
観客がそう思うについては、漫画家たちが消耗品であるのみならず、かれらによって生み出される作品もまた消耗品なんじゃないか、という疑惑が消しきれないという面もある。実のところ、(最高の絵はともかく)秋人の作った物語が、どんな必然を持って描かれたもので、どんな風に読者に支持されていたのかが皆目わからないのです。読者のリアクションとしてはただひたすらアンケートの結果しかなく、その結果も、「主人公を一旦死なせるというサプライズ演出と、新しい美少女キャラの投入」というマーケティング的対応で左右されている。
ほんとに愛されている漫画なら、読者がその漫画のキャラクターになりきったり、その漫画のキャラクターに恋をしたり、その漫画を模写したり、その漫画の台詞を引用したり、その漫画について熱く語ったりするものだと思うのだけど、そういう描写が一切ないのでただ娯楽として消耗されている、という印象しか持てない。
それというのも、それに先立ち、そもそも秋人自身の、一体どんな物語を物語りたいのか、というビジョンが描けていないからで、だから最初の作品では、受けを狙ったいいとこどりの印象がある、とか言われてしまうし、せっかく勝ち取った連載作にしても、作家性ではなくマーケティング的な処理で対応しているように見える。
自分では絵が描けない少年が、それでも漫画を描きたいと思うのであれば、かれなりの絶対的に描きたい何か、がないといけないと思うのに、要するに全くそれがないのね。秋人って一体どういう少年なのか、この映画からはほとんど読み取れない。たとえば、歴史が好きで好きで、戦国武将について語らせたら一晩中でも語り続けることができるとか、古今東西日本語で読めるミステリは全て読破したミステリファンであるとか、何かひとつ、物語作者としての原点、原動力、かれにしか書けない物語を持っているという証左がほしいところなのに、ジャンプだけを読んでジャンプ漫画を描くなら、それじゃ劣化コピーにしかならない。そこが如何にも物足りないと思ったのでした。
幸か不幸か、神木隆之介という役者さんにとても存在感があるので、映画を観ている間は描写の薄さがさほど気にならないどころか、こんな過酷で巨大な挑戦を、たったひとりでするのではなく、友達とタッグを組んでやれるなんて、すばらしい! とワクワクして観ていたのだけれど。
好きだったシーンは、亜豆をモデルにした少女キャラの絵を描いていた最高が、思わず乳首を描きそうになって、寸でのところで踏みとどまるシーン。いかにも男子高校生っぽいなんともかわいらしい煩悩シーンであると同時に、大根仁監督らしさが横溢しているシーンだと思った。
あと、どうでもいいことですが、最高の叔父さんの宮藤官九郎がしょっちゅううんこに行くのが印象的でした。今際の台詞まで「うんこ」だったしな。『まほろ駅前』で 長身細身の清潔感あふれるイケメンな瑛太演じる多田が、トイレに籠ってうんこばっかりしてたのを思い出したわ。大根監督ってうんこの描写が好きなのかしら。
・バクマン。@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-10-15 18:00
| 邦画