2015年 07月 09日
アリスのままで
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★ネタバレ注意★
リチャード・グラツァー&ワッシュ・ウェストモアランド監督のアメリカ映画です。
さきのアカデミー賞でジュリアン・ムーアが主演女優賞を受賞したことで話題の映画ですが、共同監督のひとりであるリチャード・グラツァー監督は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と闘いながら撮影に臨み、ジュリアン・ムーアの受賞を見届けた後に逝去されたそうです。ご冥福をお祈り申し上げます。
コロンビア大学で言語学の教授を務めるアリス(ジュリアン・ムーア)は、50歳の若さでアルツハイマーの宣告を受ける。病気に立ち向かおうとするアリスだったが、症状は次第に進行し、仕事を辞めざるを得なくなってしまう。そのことを皮切りとして、日常生活の中で当たり前に行ってきたことが一つまた一つとできなくなる。
というドラマは、若年性アルツハイマーを発症してしまった女性の、その病気の進行を、過剰にセンチメンタルにならない冷静な視線で見つめる映画です。まず何よりも患者本人の精神のありようを、美化せず悲劇化せず淡々と描き続けていくことが骨幹となっていますが、演じたジュリアン・ムーアはその変化を見事に演じ切り、しっかりと映画を支えていたと思います。この映画はまず間違いなくムーアの「表情」を観る映画であったと思う。
病気の進行に伴い、アリスの短期記憶は次々と失われて行きます。最初は単語の度忘れといったレベルから、料理のレシピを忘れ、ひととの約束を覚えていられなくなり、ついさっき訊いたのと同じ質問を繰り返し訊ねてしまい、トイレの場所がわからなくなり、次女の舞台を観て「すばらしい演技だったわ、あなた、ほかのお芝居にも出ていらっしゃるの?」と尋ねてしまう。
一人の人間が一人の人間として成立しているのは、記憶の連続性があるからです。今日わたしがわたしでいられるのは昨日のわたしの礎があるから。殊にアリスというひとは、頑張って努力して色んなものを掴み、積み上げ、研磨してきた人。キャリアもそうだし、家庭もそう。夫との関係が良好であったことも、三人の子どもたちが真人間に育っていることも、彼女の努力なくしてはあり得なかったことで、彼女が彼女である限り、そうした努力は継続されていくべきものだった。その「継続」が理不尽に断たれる。一人の人間が人間としての連続性を断たれてしまう。
自分を自分たらしめている記憶が失われるというのは考えるだに恐ろしいことです。自分が誰だかわからなくなってしまったら、一体どうやって生きていけばいいのか。しかしこの病気が本当に怖いのは、単に記憶が失われるからではない。
病気によって奪われるものは単に記憶だけではない。尊厳が奪われてしまうのです。
病気の進行に傷ついたアリスが「癌だったらよかったのに」と思わずこぼすシーンは大変衝撃的ですが、あれは何も癌の方がマシだ、癌の方がイージーだ、などと言っているわけではありません。彼女が言わんとしたことは、癌だったら闘うことができるのに、ということだと思う。癌との闘いであるのなら、それがどんなに苦しくても、アリスというひとは決して闘うことを諦めなかったであろうことが、観客にもよくわかるし、何よりアリス自身が一番それを知っている。だけどこの病気は、闘うことすら許されない。困難を克服する意欲や勇気があっても、それらがあることすらわからなくなってしまったら、闘わずして困難の前に敗北するしかないのだとしたら、それはどれほどもどかしいことだろう。アリスの姿が痛ましいのは、それが彼女の尊厳の問題だからです。
この映画のもうひとつのテーマは、家族による介護という問題です。アリスは老人ではなく、働き盛りの年齢であるからこそ、問題は大きく痛ましくもあるのですが、しかしそうは言っても、生活の支援が必要となったひとの介護は、老人介護の問題とも直結します。そしてそれはほぼ、子と親との関わりの問題にもなっていきます。
アリスの夫ジョン(アレック・ボールドウィン)は、医師という忙しい立場でありながら、出来る限り真摯に妻の介護をしようと務めようとしました。かれがそうするにあたっては、今までの結婚生活での妻との良好な関係があった。夫婦の間には愛情と感謝とリスペクトが間違いなく存在していた。仕事さえしていればそれが免罪符になると思っている男性が多い中、「男でありながら」妻を介護しようとするボールドウィンは、明らかに「責任ある大人」に思われました。介護をする夫、というのは、病気と闘う妻、というテーマと対になるほど重要で興味深く、そこもまた映画のポイントとなっているのだろうと思ったのです。
だけど結局、最後の最後で、夫は逃げ出してしまう。
他の家族のメンバーからみて大変都合のいい立ち位置にいた次女に何もかも押し付け、おまえはわたしよりずっといい人間だよ、なんて白々しい台詞と共にヨヨと泣いてみせたあと、妻を置いて、よりよいポストを提示された飛行機の距離にある街にとっとと旅立ってしまうのです。
次女は、謂わばこのファミリーの黒い羊だったのかもしれない。
医師である父、大学教授である母、ロースクールに行った姉、医師になった兄、そんな家族の中で、次女のリディア(クリステン・スチュワート)は女優になりたかった。
そんな海のものとも山のものともつかない博打みたいな仕事、到底キャリアとは認められない。お姉さんもお兄さんも立派なキャリアに就いたでしょう、あなたもせめて大学に行きなさい、そしたら舞台に立てなくても教師になる道があるわ。
母親はもちろん、娘が路頭に迷うことを心配してそう言うのだけど、娘からしたらそれは自分に対する全否定にしか思えない。この人は一体なぜこんなことを言うのだろう。自分だって言語学者なんて道を選んだくせに。理系ならともかく、文系のアカポスがどれだけ狭き門であることか。あなたがあなたの母親に高校の国語の先生を目指せばいいじゃないと言われたら、あなたは素直にそれが聞けたのか。
当然のことながら母と娘の関係は緊張を孕んだものになる。
それにもかかわらず、母親に24時間体制の介護が必要になった時、それを担うことになったのは「女であり」「成功したキャリアを持っていない」次女だったのです。お父さんは仕事があるから無理よ、お姉さんは子どもが生まれるから無理よ、お兄さんも仕事が忙しいから無理よ、でもリディアなら、どうせ演劇で稼げているわけじゃなし。かくて、西海岸で女優として足場を固めつつあったリディアは、仕事もそこでの人間関係も清算して、ニューヨークの母親のもとに帰って来る。
この映画で一番不満に感じるのは、リディアを巡るこの展開を、あたかも母と娘の和解が成立したかのごとき綺麗ごとで描いている点です。西海岸を引き払うについてのリディアの葛藤は描かれないし、西海岸を引き払ったことでリディアのキャリアがどれほど後退してしまうのかも描かれないし、そのことをリディアがどう感じているのかも描かれないし、何より、リディアにそうさせたことを家族の他の成員がどう感じているのかが全く描かれていないのです。
そういう、親子の和解などという珍しくもないテーマをお座なりに描くのであれば、観客としてはそれよりもっと興味のあるイシューがある。長女アナ(ケイト・ボスワース)の選択です。
アナというキャラクターについては、文句のつけようのない優等生であること、従ってブラックシープである妹とは折り合いが悪いこと、せいぜいその程度の描写しかなく、ほんとのところでどういう人間なのかは伺い知れないのですが、アリスの発症という事態で、一番大きな影響を受けたのは実はこのアナであったと思う。
なぜなら、アリスの病気は遺伝性のものであり、遺伝因子を持って生まれてくるかどうかは五分五分の確立だが、持って生まれてきてしまった場合100%発症する、という性質のものだったからです。長男のトム(ハンター・パリッシュ)には遺伝していませんでしたが、アナにはそれが遺伝していたのです。つまり、未来のある日、アナもまたアリスと同じ道を歩むことが避けられないのです。
それだけでも大変な衝撃ですが、しかもその上アナは(不妊治療の末に)子供を身ごもり、出産する道を選びました。子どもたち(アナは双子を妊娠した)にも遺伝するかもしれないのに。その選択は、果たしてどのような葛藤を経てなされたのか。今まで自分の人生を望み通りにデザインしてきた、ある意味母親と相似形の優等生であるアナの、ある種の傲慢だったのか、それとも凄まじい苦悩のその果てに、ギリギリの希望を繋いだ選択だったのか。アナという人物描写がやはり綺麗ごとに感じられるものであったために、そのあたりのところがよく伝わってこないのです。
これだけのテーマを内包した話でありながら、家族の物語としては若干弱かったのかもしれない。とは言え、アリスという一人の人間に関しては、やはりこれは素晴らしく力強い、訴えかけるものを持った映画であったと思うのです。
・アリスのままで@ぴあ映画生活
リチャード・グラツァー&ワッシュ・ウェストモアランド監督のアメリカ映画です。
さきのアカデミー賞でジュリアン・ムーアが主演女優賞を受賞したことで話題の映画ですが、共同監督のひとりであるリチャード・グラツァー監督は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と闘いながら撮影に臨み、ジュリアン・ムーアの受賞を見届けた後に逝去されたそうです。ご冥福をお祈り申し上げます。
コロンビア大学で言語学の教授を務めるアリス(ジュリアン・ムーア)は、50歳の若さでアルツハイマーの宣告を受ける。病気に立ち向かおうとするアリスだったが、症状は次第に進行し、仕事を辞めざるを得なくなってしまう。そのことを皮切りとして、日常生活の中で当たり前に行ってきたことが一つまた一つとできなくなる。
というドラマは、若年性アルツハイマーを発症してしまった女性の、その病気の進行を、過剰にセンチメンタルにならない冷静な視線で見つめる映画です。まず何よりも患者本人の精神のありようを、美化せず悲劇化せず淡々と描き続けていくことが骨幹となっていますが、演じたジュリアン・ムーアはその変化を見事に演じ切り、しっかりと映画を支えていたと思います。この映画はまず間違いなくムーアの「表情」を観る映画であったと思う。
病気の進行に伴い、アリスの短期記憶は次々と失われて行きます。最初は単語の度忘れといったレベルから、料理のレシピを忘れ、ひととの約束を覚えていられなくなり、ついさっき訊いたのと同じ質問を繰り返し訊ねてしまい、トイレの場所がわからなくなり、次女の舞台を観て「すばらしい演技だったわ、あなた、ほかのお芝居にも出ていらっしゃるの?」と尋ねてしまう。
一人の人間が一人の人間として成立しているのは、記憶の連続性があるからです。今日わたしがわたしでいられるのは昨日のわたしの礎があるから。殊にアリスというひとは、頑張って努力して色んなものを掴み、積み上げ、研磨してきた人。キャリアもそうだし、家庭もそう。夫との関係が良好であったことも、三人の子どもたちが真人間に育っていることも、彼女の努力なくしてはあり得なかったことで、彼女が彼女である限り、そうした努力は継続されていくべきものだった。その「継続」が理不尽に断たれる。一人の人間が人間としての連続性を断たれてしまう。
自分を自分たらしめている記憶が失われるというのは考えるだに恐ろしいことです。自分が誰だかわからなくなってしまったら、一体どうやって生きていけばいいのか。しかしこの病気が本当に怖いのは、単に記憶が失われるからではない。
病気によって奪われるものは単に記憶だけではない。尊厳が奪われてしまうのです。
病気の進行に傷ついたアリスが「癌だったらよかったのに」と思わずこぼすシーンは大変衝撃的ですが、あれは何も癌の方がマシだ、癌の方がイージーだ、などと言っているわけではありません。彼女が言わんとしたことは、癌だったら闘うことができるのに、ということだと思う。癌との闘いであるのなら、それがどんなに苦しくても、アリスというひとは決して闘うことを諦めなかったであろうことが、観客にもよくわかるし、何よりアリス自身が一番それを知っている。だけどこの病気は、闘うことすら許されない。困難を克服する意欲や勇気があっても、それらがあることすらわからなくなってしまったら、闘わずして困難の前に敗北するしかないのだとしたら、それはどれほどもどかしいことだろう。アリスの姿が痛ましいのは、それが彼女の尊厳の問題だからです。
この映画のもうひとつのテーマは、家族による介護という問題です。アリスは老人ではなく、働き盛りの年齢であるからこそ、問題は大きく痛ましくもあるのですが、しかしそうは言っても、生活の支援が必要となったひとの介護は、老人介護の問題とも直結します。そしてそれはほぼ、子と親との関わりの問題にもなっていきます。
アリスの夫ジョン(アレック・ボールドウィン)は、医師という忙しい立場でありながら、出来る限り真摯に妻の介護をしようと務めようとしました。かれがそうするにあたっては、今までの結婚生活での妻との良好な関係があった。夫婦の間には愛情と感謝とリスペクトが間違いなく存在していた。仕事さえしていればそれが免罪符になると思っている男性が多い中、「男でありながら」妻を介護しようとするボールドウィンは、明らかに「責任ある大人」に思われました。介護をする夫、というのは、病気と闘う妻、というテーマと対になるほど重要で興味深く、そこもまた映画のポイントとなっているのだろうと思ったのです。
だけど結局、最後の最後で、夫は逃げ出してしまう。
他の家族のメンバーからみて大変都合のいい立ち位置にいた次女に何もかも押し付け、おまえはわたしよりずっといい人間だよ、なんて白々しい台詞と共にヨヨと泣いてみせたあと、妻を置いて、よりよいポストを提示された飛行機の距離にある街にとっとと旅立ってしまうのです。
次女は、謂わばこのファミリーの黒い羊だったのかもしれない。
医師である父、大学教授である母、ロースクールに行った姉、医師になった兄、そんな家族の中で、次女のリディア(クリステン・スチュワート)は女優になりたかった。
そんな海のものとも山のものともつかない博打みたいな仕事、到底キャリアとは認められない。お姉さんもお兄さんも立派なキャリアに就いたでしょう、あなたもせめて大学に行きなさい、そしたら舞台に立てなくても教師になる道があるわ。
母親はもちろん、娘が路頭に迷うことを心配してそう言うのだけど、娘からしたらそれは自分に対する全否定にしか思えない。この人は一体なぜこんなことを言うのだろう。自分だって言語学者なんて道を選んだくせに。理系ならともかく、文系のアカポスがどれだけ狭き門であることか。あなたがあなたの母親に高校の国語の先生を目指せばいいじゃないと言われたら、あなたは素直にそれが聞けたのか。
当然のことながら母と娘の関係は緊張を孕んだものになる。
それにもかかわらず、母親に24時間体制の介護が必要になった時、それを担うことになったのは「女であり」「成功したキャリアを持っていない」次女だったのです。お父さんは仕事があるから無理よ、お姉さんは子どもが生まれるから無理よ、お兄さんも仕事が忙しいから無理よ、でもリディアなら、どうせ演劇で稼げているわけじゃなし。かくて、西海岸で女優として足場を固めつつあったリディアは、仕事もそこでの人間関係も清算して、ニューヨークの母親のもとに帰って来る。
この映画で一番不満に感じるのは、リディアを巡るこの展開を、あたかも母と娘の和解が成立したかのごとき綺麗ごとで描いている点です。西海岸を引き払うについてのリディアの葛藤は描かれないし、西海岸を引き払ったことでリディアのキャリアがどれほど後退してしまうのかも描かれないし、そのことをリディアがどう感じているのかも描かれないし、何より、リディアにそうさせたことを家族の他の成員がどう感じているのかが全く描かれていないのです。
そういう、親子の和解などという珍しくもないテーマをお座なりに描くのであれば、観客としてはそれよりもっと興味のあるイシューがある。長女アナ(ケイト・ボスワース)の選択です。
アナというキャラクターについては、文句のつけようのない優等生であること、従ってブラックシープである妹とは折り合いが悪いこと、せいぜいその程度の描写しかなく、ほんとのところでどういう人間なのかは伺い知れないのですが、アリスの発症という事態で、一番大きな影響を受けたのは実はこのアナであったと思う。
なぜなら、アリスの病気は遺伝性のものであり、遺伝因子を持って生まれてくるかどうかは五分五分の確立だが、持って生まれてきてしまった場合100%発症する、という性質のものだったからです。長男のトム(ハンター・パリッシュ)には遺伝していませんでしたが、アナにはそれが遺伝していたのです。つまり、未来のある日、アナもまたアリスと同じ道を歩むことが避けられないのです。
それだけでも大変な衝撃ですが、しかもその上アナは(不妊治療の末に)子供を身ごもり、出産する道を選びました。子どもたち(アナは双子を妊娠した)にも遺伝するかもしれないのに。その選択は、果たしてどのような葛藤を経てなされたのか。今まで自分の人生を望み通りにデザインしてきた、ある意味母親と相似形の優等生であるアナの、ある種の傲慢だったのか、それとも凄まじい苦悩のその果てに、ギリギリの希望を繋いだ選択だったのか。アナという人物描写がやはり綺麗ごとに感じられるものであったために、そのあたりのところがよく伝わってこないのです。
これだけのテーマを内包した話でありながら、家族の物語としては若干弱かったのかもしれない。とは言え、アリスという一人の人間に関しては、やはりこれは素晴らしく力強い、訴えかけるものを持った映画であったと思うのです。
・アリスのままで@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-07-09 11:55
| 映画あ行