2015年 06月 18日
海街diary
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★ネタバレ注意★
是枝裕和監督最新作。
ほどよく淹れたお茶のように、すんなり喉を通り、難なく胃の腑に収まり、飲み終えた後もほっこりとぬくもりが持続するような、そんな映画。よいです☆
以下、あらすじをallcinemaさんから。
鎌倉の古い家に暮らす幸、佳乃、千佳の香田三姉妹。父は不倫の末に15年前に家を出て行き、その後、母も再婚してしまい、今この家に住むのは3人だけ。ある日、その父の訃報が3人のもとに届く。父の不倫相手も既に他界しており、今は3人目の結婚相手と山形で暮らしていた。葬儀に参加した三姉妹は、そこで腹違いの妹すずと出会う。父が亡くなった今、中学生のすずにとってこの山形で身寄りと呼べるのは血のつながりのない義母だけ。気丈に振る舞うすずだったが、肩身の狭い思いをしているのははた目にも明らか。すずの今後を心配した幸は、別れ際に“鎌倉で一緒に暮らさない?”と提案する。こうして鎌倉へとやって来たすずだったが、最初は自分の母が幸たちの父を奪ったことへの負い目を拭えずにいた。それでも、異母姉たちと毎日の食卓を囲み、日常を重ねていく中で、少しずつ凝り固まった心が解きほぐされていく。また、入部した地元のサッカーチームでも仲間に恵まれ、中学生らしい元気さも取り戻していくすずだったが…。(/引用これまで)。
この四姉妹、幸、佳乃、千佳、そしてすずを演じるのがそれぞれ、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずなんですけれども、もうほんとこのキャスティングで成功は決まったという感じです。全くなんといふ美しい四姉妹でありませうか。
四姉妹と言えば細雪、と言いたいところですが、わたしが真っ先に思い浮かべたのはポッキー四姉妹でしたねぇ、ええ、かなり残念ですけどねぇ。ポッキー四姉妹って、わたし的には清水美砂、牧瀬里穂、中江有里、今村雅美の四人なんですけど、2004年に更新された二代目ポッキー四姉妹というのもあるのですね(っていうか、世間的に認識されているのはむしろソッチ?)。ちなみに二代目の方は、松浦亜弥、仲間由紀恵、石原さとみ、柴咲コウなんだそうです。こちらもまた目に眩い限りですね。
この映画の最大の成功要因はキャスティングだとしても、ロケーションや撮影の美しさも忘れることはできますまい。殊にやはり、末娘のすずが、サッカーのチームメイト風太(前田旺志郎)の漕ぐ自転車で、散り収めの桜のトンネルを走るシーンの瑞々しさは、忘れがたい余韻を残すものです。それのみならず、鎌倉という町そのもののしっとりとしたたたずまい、路地や電車、庭木や坂、踏切や石段、降れば降ったで、晴れれば晴れたで、それぞれに趣きがあって愛おしい。そして何より鎌倉は海を擁する町。坂を下り、緑を潜りぬけ、街並みを過ぎると、そこには茫洋と広がる海がある。
あとはもう、印象に残ったポイントをただ覚書のように書いておきたいと思います。
最初に見事だなぁ、と思ったのはやはり、父親の葬儀のシーンですね。泣き崩れるばかりで喪主挨拶を務めることができないと主張する父親の後妻(キムラ緑子)が、夫の連れ子であって自分とは血が繋がらないすずにそれを押し付けようとすると、仕事の都合で遅れて参加した長女の幸が毅然と間に入る。これは大人の仕事です、と。その時後妻が本当に悲しみで飽和状態にあったのであれば、なんならわたしが代わって挨拶を、という幸の申し出を素直に受け入れるはずのところ、あからさまにムッとした態度でそれを退けてしまう。わたしは妻ですもの、わたしがやります、と。
これだけのシーンで実に様々なことが示唆されるわけです。まずは何と言っても幸のキャラクターがわかるし、すずの置かれてきた環境が言葉を弄さずともダイレクトに伝わってくる。「これは大人の仕事です」とすずを庇った幸こそが、両親が離婚し、母親が出奔してのちは、長女である自分がしっかりしなければ、と、大人の仕事を担わされ子ども時代を持ちえなかった子どもだったこと。だからこそすずが、その身に何の責任があるわけでもない「罪」によって、謂れのない罪悪感を抱き、周り中に遠慮し、子ども時代を奪われつつあることに敏感に反応しての、「これは大人の仕事です」という台詞だったということ。
すずは幸に庇われ、「子ども」として鎌倉に迎え入れられたわけですが、だったら幸の子ども時代はどう償われたのだろう。一方で、そんな幸と対比するかのように登場する幸ら姉妹の母親(大竹しのぶ)は、自らの責任を放棄し、大人になることを拒否したひとであるかのように描かれてもいる。
純然たる被害者であることを主張できるのは子どもだけの特権で、大人は自己責任を問われなければならない。それはもう言うまでもなく全うで当然のことではあるのですが、一口に大人と言っても、幾つまでなら守られて然るべきで、幾つからはそれは甘えと糾弾されてしまうのか、法律で成人年齢を定めることはできますが、実のところ幾つから自らの足で立ち、自らの手で戦い、自らを守っていかなければならないのかは、それこそ状況によって様々に異なるとしか言いようがありません。しかもそれはある時点からきっぱり白黒が分かれるような問題ではなく、微妙なグラデーションによって区切られているのです。
人は徐々に大人になっていく。大人になれば誰も守ってはくれないい。それは決してアンフェアなことではない。
しかしそうは言っても、幾つになっても人間は、オバケに怯えればお母さんの名前を呼んでしまう。勇敢な兵士も戦場で命を落とす時、瞼に浮かぶのはお母さんの顔だ。
長女という立場に巡り合わせた幸の、凛として決して弱みを見せないその生き様を見れば、運命を己の身に引き受けることの潔さに自ずと頭を垂れる思いがすると同時に、それでもやはり、幸とて幼い少女にすぎなかったことを思うと、その姿はあまりにもいじらしく、切なく、憐憫を禁じ得ないものでもあります。だけどだからと言って、幸ばかりが割を食ったのかというと、必ずしもそうとは言い切れない部分もある。
三女の千佳は、両親が離婚した時、まだほんとに幼かったので、当時のゴタゴタをほとんど覚えていないと言います。それ故に千佳には、父親に対しても母親に対しても幸の内部で燻っているような、怒りや苛立ちや憎しみの種がない。傷づいた記憶がないのだから、憎む理由もないのです。自身が憎むことから自由であったのと同時に、姉たちの存在が盾になって、自身への脅威とも戦わずに済んだ。だからと言うかやはり、千佳という娘は無神経というのではないけれど、屈託がない。人懐っこく優しく感情を尖らせることがなくいつも楽しげに笑っている。
でも、憎しみを知らない千佳は、愛情も知らない子どもだったとも言える。
もちろん、まず祖母がいたし、姉たちがいたし、彼女たちが小さかった末っ子を心から愛したことに間違いはないけれど、それでも千佳には親との思い出がない。親から愛された記憶がない。幸の子ども時代と、そこから派生する人生が峻烈なものであったのと同じく、千佳の子ども時代と、そこから派生する人生の欠落感も、看過できないものがある。
この映画ではその点への目配りもきちんとあり、それが表現されていたのがちくわカレーのシーンです。たまたま二人の姉がいない昼食に、千佳は「お姉ちゃんたちには不評だけど、たまに無性に食べたくなる」というおばあちゃんのメニュー、ちくわカレーを作ってすずに振る舞うのです。おいしいおいしいともりもり食べるすずと、いつものようにフワフワ笑う千佳。
すずと千佳のふたりだけ、という珍しい組み合わせのその場で、何気なく話題は父親のことになる。すずは千佳より年少だけど、生まれた時から15歳になるまで、父親は常に彼女の身近にいた。父親に関する思い出は、千佳よりすずの方がよほどたくさん持っている。だからこの時ばかりは、普段は聞かされることの多いすずが、お父さんの思い出を語る立場になる。
そっか、お父さん、釣りが好きだったんだ。
すずの話に、なんとも言えない顔で笑う千佳。実は千佳の趣味はヘラブナ釣りだったりする。周りから変人扱いされることの多いマイペースな千佳だけど、自分のルーツはそんなところにあったのかと感慨深い。その感慨は、純粋に発見の感慨であり、嬉しさの感慨であり、親しみの感慨であると同時に、そんな大事なことを、この年になるまで知らずに来てしまったことへの感慨でもある。
ほんとはずっと、寂しかったんだね。
いつも笑っているけどね。
一口に家族と言うけれど、その同じ家族の中でのイベントは、構成員の一人一人にとって持つ意味が違う。その家族の中で、当人がどんな地位を占め、どんな力関係にあり、年齢は幾つだったかによって、受け止め方はそれぞれに異なる。同じ喜びを喜ぶことはできないし、同じ悲しみを悲しむこともまたできない。できるのはただ寄り添うことだけだ。
この映画は、客観的に劇的な展開があるわけではない以上、語られる重要なものは全て、登場人物の心の中の物語ということになります。であるにもかかわらず、ストイックに台詞による説明をカットし、出来うる限り日々の営みの中で交わされる自然な会話や、さりげない表情の変化でそれらを表現しようとする潔い脚本が際立っていました。そうして説明を排除することにより、逆にそれだからこそ膨らみを持つシーンもたくさんあったのです。
たとえば、幸が付き合っていた和也(堤真一)は妻帯者だった。幸と付き合いながらも、心を病んでしまった妻を見捨てることができず、ずるずると不倫関係を続けていたのだった。正義感の強い幸、何よりも自分自身が父親の不倫のために家庭が崩壊した経験を持つ幸、そんな彼女に似つかわしくない恋愛関係。それでもそうなってしまった。それでもやめることはできなかった。人生はままならない。
そんな幸は時折和也のアパートに赴き、食事を作って振る舞う。そんな一コマで、幸は和也の箸が噛み跡だらけであることに気づく。買い換えた方がいいんだけどな。そう言えばこないだお店でよさげな箸を見かけた。それを言うと和也は、だったら買って来てくれればよかったのに、と不思議がるけれど、それに対して幸は応える。
女のひとは色々あるんですよ。
色々ってなんだろう? 台詞で語られてしまえば答えは一つだけど、色々あると俯く幸の顔を見て、彼女の心情を慮るのも趣き深い。
たとえばそれは、幸の優しさの表明で、不倫相手に箸なんか買われたら、奥さんは一番嫌だろう、と思いやる気持ち。たかが箸、されど箸、直接口につける生活用品に対する思いは、とてもデリケートだ。和也の妻に対する後ろめたさ、気後れ、そして思いやり。幸はそういう女性だ。
だけどもしかしたらそれだけではないのかもしれない。箸を買うという行為は夫婦箸という言葉に繋がる。夫婦茶碗、夫婦湯呑、夫婦箸。食器には夫婦単位で揃えたいものがある。それらは、祝福され、公認された関係性を具現化したものだ。妻がするように買い物をし、妻がするように料理をし、妻がするように食卓を整えるのであれば、妻がされるように祝福され、公認された存在でありたい。同じ箸を二組買って来ることはできる、ペアになった箸を買って来ることすらできる、だけどそれらは夫婦箸ではない。安易には買えなかった気持ちの中に、そんな要素はなかったか。人の気持ちは一面だけでは語れない。語らないことから敢えて語り掛けてくる心情というものもある。
最後に、やはり印象深かったのは、ラストの近く、すずを伴った幸が、かつて父親が愛した海が見える崖の上のスポットに赴くシーンです。その場所は、映画冒頭ですずが姉たちを案内した山形のスポットによく似ている。というより、鎌倉のそのスポットに似ていたからこそ、父親はその場所にすずを伴って出かけていたのです。
誰もいないその場所で、幸はすずに、大声で叫ぶと気持ちいいよ、と促す。意味もなくわーっ、と叫ぶ幸、おずおずとそれに倣うすず。続いて幸は、「お父さんのばか!」と叫ぶ。色々色々出来事があって、幸の中でわだかまっていた思いは結句、そこに帰結する。お父さんのばか。お父さんが身勝手なダメ人間だから、みんなみんな悲しい思いをした。それはすずも同じはずだ。そこで当然すずもまた、幸に倣って「お父さんのばか」と叫ぶのかと思いきや、すずは叫ぶ。
お母さんのばか!
すずの母親は、幸たちの父親と不倫した挙句略奪して結婚してすずをもうけた人で、幸たちの悲しみの源泉にはこの女性の存在がある。すずがここで父親ではなく母親を罵る気持ちは、ダイレクトに幸たちへの贖罪の思いがある。お母さんのばか、お姉ちゃんたちにあんな悲しい思いをさせて。とことん健気でまっすぐなすずという少女。だけどその叫びもまた、ただそれだけの思いではなかった。すずが母親をなじるのは、母親があまりにも早く死んでしまったからだった。幼い自分を残して死んでしまったからだった。
ほんとはずっと、寂しかったんだね。
いつも健気に振る舞っているのにね。
思わずすずを抱きしめる幸。その気持ちは、素直に観客全員のものでもある。
ロックスターでもなく天才的イノベーターでもなくカリスマ宗教家でもないそのひとが、好きだったことや習慣にしていたこと、思想信条や何気ない癖、ふとしたつぶやきやしでかしたしくじり、それらのつまらない事どもがこんなにも大事に思えるのは、そのひと自身に客観的価値があるからではなく、そのひととの断ち切れない繋がりがあるからです。場を共有し、時を共有し、戸籍を共有し、DNAを共有した、そのひととの関係性が、そのひとを特別な存在にしているのです。四姉妹の父親は、つまらないひとりの男に過ぎなかったが、それでも四人の姉妹の父親だった。その関係性が育む感情は、理屈ではない。
・海街diary@ぴあ映画生活
是枝裕和監督最新作。
ほどよく淹れたお茶のように、すんなり喉を通り、難なく胃の腑に収まり、飲み終えた後もほっこりとぬくもりが持続するような、そんな映画。よいです☆
以下、あらすじをallcinemaさんから。
鎌倉の古い家に暮らす幸、佳乃、千佳の香田三姉妹。父は不倫の末に15年前に家を出て行き、その後、母も再婚してしまい、今この家に住むのは3人だけ。ある日、その父の訃報が3人のもとに届く。父の不倫相手も既に他界しており、今は3人目の結婚相手と山形で暮らしていた。葬儀に参加した三姉妹は、そこで腹違いの妹すずと出会う。父が亡くなった今、中学生のすずにとってこの山形で身寄りと呼べるのは血のつながりのない義母だけ。気丈に振る舞うすずだったが、肩身の狭い思いをしているのははた目にも明らか。すずの今後を心配した幸は、別れ際に“鎌倉で一緒に暮らさない?”と提案する。こうして鎌倉へとやって来たすずだったが、最初は自分の母が幸たちの父を奪ったことへの負い目を拭えずにいた。それでも、異母姉たちと毎日の食卓を囲み、日常を重ねていく中で、少しずつ凝り固まった心が解きほぐされていく。また、入部した地元のサッカーチームでも仲間に恵まれ、中学生らしい元気さも取り戻していくすずだったが…。(/引用これまで)。
この四姉妹、幸、佳乃、千佳、そしてすずを演じるのがそれぞれ、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずなんですけれども、もうほんとこのキャスティングで成功は決まったという感じです。全くなんといふ美しい四姉妹でありませうか。
四姉妹と言えば細雪、と言いたいところですが、わたしが真っ先に思い浮かべたのはポッキー四姉妹でしたねぇ、ええ、かなり残念ですけどねぇ。ポッキー四姉妹って、わたし的には清水美砂、牧瀬里穂、中江有里、今村雅美の四人なんですけど、2004年に更新された二代目ポッキー四姉妹というのもあるのですね(っていうか、世間的に認識されているのはむしろソッチ?)。ちなみに二代目の方は、松浦亜弥、仲間由紀恵、石原さとみ、柴咲コウなんだそうです。こちらもまた目に眩い限りですね。
この映画の最大の成功要因はキャスティングだとしても、ロケーションや撮影の美しさも忘れることはできますまい。殊にやはり、末娘のすずが、サッカーのチームメイト風太(前田旺志郎)の漕ぐ自転車で、散り収めの桜のトンネルを走るシーンの瑞々しさは、忘れがたい余韻を残すものです。それのみならず、鎌倉という町そのもののしっとりとしたたたずまい、路地や電車、庭木や坂、踏切や石段、降れば降ったで、晴れれば晴れたで、それぞれに趣きがあって愛おしい。そして何より鎌倉は海を擁する町。坂を下り、緑を潜りぬけ、街並みを過ぎると、そこには茫洋と広がる海がある。
あとはもう、印象に残ったポイントをただ覚書のように書いておきたいと思います。
最初に見事だなぁ、と思ったのはやはり、父親の葬儀のシーンですね。泣き崩れるばかりで喪主挨拶を務めることができないと主張する父親の後妻(キムラ緑子)が、夫の連れ子であって自分とは血が繋がらないすずにそれを押し付けようとすると、仕事の都合で遅れて参加した長女の幸が毅然と間に入る。これは大人の仕事です、と。その時後妻が本当に悲しみで飽和状態にあったのであれば、なんならわたしが代わって挨拶を、という幸の申し出を素直に受け入れるはずのところ、あからさまにムッとした態度でそれを退けてしまう。わたしは妻ですもの、わたしがやります、と。
これだけのシーンで実に様々なことが示唆されるわけです。まずは何と言っても幸のキャラクターがわかるし、すずの置かれてきた環境が言葉を弄さずともダイレクトに伝わってくる。「これは大人の仕事です」とすずを庇った幸こそが、両親が離婚し、母親が出奔してのちは、長女である自分がしっかりしなければ、と、大人の仕事を担わされ子ども時代を持ちえなかった子どもだったこと。だからこそすずが、その身に何の責任があるわけでもない「罪」によって、謂れのない罪悪感を抱き、周り中に遠慮し、子ども時代を奪われつつあることに敏感に反応しての、「これは大人の仕事です」という台詞だったということ。
すずは幸に庇われ、「子ども」として鎌倉に迎え入れられたわけですが、だったら幸の子ども時代はどう償われたのだろう。一方で、そんな幸と対比するかのように登場する幸ら姉妹の母親(大竹しのぶ)は、自らの責任を放棄し、大人になることを拒否したひとであるかのように描かれてもいる。
純然たる被害者であることを主張できるのは子どもだけの特権で、大人は自己責任を問われなければならない。それはもう言うまでもなく全うで当然のことではあるのですが、一口に大人と言っても、幾つまでなら守られて然るべきで、幾つからはそれは甘えと糾弾されてしまうのか、法律で成人年齢を定めることはできますが、実のところ幾つから自らの足で立ち、自らの手で戦い、自らを守っていかなければならないのかは、それこそ状況によって様々に異なるとしか言いようがありません。しかもそれはある時点からきっぱり白黒が分かれるような問題ではなく、微妙なグラデーションによって区切られているのです。
人は徐々に大人になっていく。大人になれば誰も守ってはくれないい。それは決してアンフェアなことではない。
しかしそうは言っても、幾つになっても人間は、オバケに怯えればお母さんの名前を呼んでしまう。勇敢な兵士も戦場で命を落とす時、瞼に浮かぶのはお母さんの顔だ。
長女という立場に巡り合わせた幸の、凛として決して弱みを見せないその生き様を見れば、運命を己の身に引き受けることの潔さに自ずと頭を垂れる思いがすると同時に、それでもやはり、幸とて幼い少女にすぎなかったことを思うと、その姿はあまりにもいじらしく、切なく、憐憫を禁じ得ないものでもあります。だけどだからと言って、幸ばかりが割を食ったのかというと、必ずしもそうとは言い切れない部分もある。
三女の千佳は、両親が離婚した時、まだほんとに幼かったので、当時のゴタゴタをほとんど覚えていないと言います。それ故に千佳には、父親に対しても母親に対しても幸の内部で燻っているような、怒りや苛立ちや憎しみの種がない。傷づいた記憶がないのだから、憎む理由もないのです。自身が憎むことから自由であったのと同時に、姉たちの存在が盾になって、自身への脅威とも戦わずに済んだ。だからと言うかやはり、千佳という娘は無神経というのではないけれど、屈託がない。人懐っこく優しく感情を尖らせることがなくいつも楽しげに笑っている。
でも、憎しみを知らない千佳は、愛情も知らない子どもだったとも言える。
もちろん、まず祖母がいたし、姉たちがいたし、彼女たちが小さかった末っ子を心から愛したことに間違いはないけれど、それでも千佳には親との思い出がない。親から愛された記憶がない。幸の子ども時代と、そこから派生する人生が峻烈なものであったのと同じく、千佳の子ども時代と、そこから派生する人生の欠落感も、看過できないものがある。
この映画ではその点への目配りもきちんとあり、それが表現されていたのがちくわカレーのシーンです。たまたま二人の姉がいない昼食に、千佳は「お姉ちゃんたちには不評だけど、たまに無性に食べたくなる」というおばあちゃんのメニュー、ちくわカレーを作ってすずに振る舞うのです。おいしいおいしいともりもり食べるすずと、いつものようにフワフワ笑う千佳。
すずと千佳のふたりだけ、という珍しい組み合わせのその場で、何気なく話題は父親のことになる。すずは千佳より年少だけど、生まれた時から15歳になるまで、父親は常に彼女の身近にいた。父親に関する思い出は、千佳よりすずの方がよほどたくさん持っている。だからこの時ばかりは、普段は聞かされることの多いすずが、お父さんの思い出を語る立場になる。
そっか、お父さん、釣りが好きだったんだ。
すずの話に、なんとも言えない顔で笑う千佳。実は千佳の趣味はヘラブナ釣りだったりする。周りから変人扱いされることの多いマイペースな千佳だけど、自分のルーツはそんなところにあったのかと感慨深い。その感慨は、純粋に発見の感慨であり、嬉しさの感慨であり、親しみの感慨であると同時に、そんな大事なことを、この年になるまで知らずに来てしまったことへの感慨でもある。
ほんとはずっと、寂しかったんだね。
いつも笑っているけどね。
一口に家族と言うけれど、その同じ家族の中でのイベントは、構成員の一人一人にとって持つ意味が違う。その家族の中で、当人がどんな地位を占め、どんな力関係にあり、年齢は幾つだったかによって、受け止め方はそれぞれに異なる。同じ喜びを喜ぶことはできないし、同じ悲しみを悲しむこともまたできない。できるのはただ寄り添うことだけだ。
この映画は、客観的に劇的な展開があるわけではない以上、語られる重要なものは全て、登場人物の心の中の物語ということになります。であるにもかかわらず、ストイックに台詞による説明をカットし、出来うる限り日々の営みの中で交わされる自然な会話や、さりげない表情の変化でそれらを表現しようとする潔い脚本が際立っていました。そうして説明を排除することにより、逆にそれだからこそ膨らみを持つシーンもたくさんあったのです。
たとえば、幸が付き合っていた和也(堤真一)は妻帯者だった。幸と付き合いながらも、心を病んでしまった妻を見捨てることができず、ずるずると不倫関係を続けていたのだった。正義感の強い幸、何よりも自分自身が父親の不倫のために家庭が崩壊した経験を持つ幸、そんな彼女に似つかわしくない恋愛関係。それでもそうなってしまった。それでもやめることはできなかった。人生はままならない。
そんな幸は時折和也のアパートに赴き、食事を作って振る舞う。そんな一コマで、幸は和也の箸が噛み跡だらけであることに気づく。買い換えた方がいいんだけどな。そう言えばこないだお店でよさげな箸を見かけた。それを言うと和也は、だったら買って来てくれればよかったのに、と不思議がるけれど、それに対して幸は応える。
女のひとは色々あるんですよ。
色々ってなんだろう? 台詞で語られてしまえば答えは一つだけど、色々あると俯く幸の顔を見て、彼女の心情を慮るのも趣き深い。
たとえばそれは、幸の優しさの表明で、不倫相手に箸なんか買われたら、奥さんは一番嫌だろう、と思いやる気持ち。たかが箸、されど箸、直接口につける生活用品に対する思いは、とてもデリケートだ。和也の妻に対する後ろめたさ、気後れ、そして思いやり。幸はそういう女性だ。
だけどもしかしたらそれだけではないのかもしれない。箸を買うという行為は夫婦箸という言葉に繋がる。夫婦茶碗、夫婦湯呑、夫婦箸。食器には夫婦単位で揃えたいものがある。それらは、祝福され、公認された関係性を具現化したものだ。妻がするように買い物をし、妻がするように料理をし、妻がするように食卓を整えるのであれば、妻がされるように祝福され、公認された存在でありたい。同じ箸を二組買って来ることはできる、ペアになった箸を買って来ることすらできる、だけどそれらは夫婦箸ではない。安易には買えなかった気持ちの中に、そんな要素はなかったか。人の気持ちは一面だけでは語れない。語らないことから敢えて語り掛けてくる心情というものもある。
最後に、やはり印象深かったのは、ラストの近く、すずを伴った幸が、かつて父親が愛した海が見える崖の上のスポットに赴くシーンです。その場所は、映画冒頭ですずが姉たちを案内した山形のスポットによく似ている。というより、鎌倉のそのスポットに似ていたからこそ、父親はその場所にすずを伴って出かけていたのです。
誰もいないその場所で、幸はすずに、大声で叫ぶと気持ちいいよ、と促す。意味もなくわーっ、と叫ぶ幸、おずおずとそれに倣うすず。続いて幸は、「お父さんのばか!」と叫ぶ。色々色々出来事があって、幸の中でわだかまっていた思いは結句、そこに帰結する。お父さんのばか。お父さんが身勝手なダメ人間だから、みんなみんな悲しい思いをした。それはすずも同じはずだ。そこで当然すずもまた、幸に倣って「お父さんのばか」と叫ぶのかと思いきや、すずは叫ぶ。
お母さんのばか!
すずの母親は、幸たちの父親と不倫した挙句略奪して結婚してすずをもうけた人で、幸たちの悲しみの源泉にはこの女性の存在がある。すずがここで父親ではなく母親を罵る気持ちは、ダイレクトに幸たちへの贖罪の思いがある。お母さんのばか、お姉ちゃんたちにあんな悲しい思いをさせて。とことん健気でまっすぐなすずという少女。だけどその叫びもまた、ただそれだけの思いではなかった。すずが母親をなじるのは、母親があまりにも早く死んでしまったからだった。幼い自分を残して死んでしまったからだった。
ほんとはずっと、寂しかったんだね。
いつも健気に振る舞っているのにね。
思わずすずを抱きしめる幸。その気持ちは、素直に観客全員のものでもある。
ロックスターでもなく天才的イノベーターでもなくカリスマ宗教家でもないそのひとが、好きだったことや習慣にしていたこと、思想信条や何気ない癖、ふとしたつぶやきやしでかしたしくじり、それらのつまらない事どもがこんなにも大事に思えるのは、そのひと自身に客観的価値があるからではなく、そのひととの断ち切れない繋がりがあるからです。場を共有し、時を共有し、戸籍を共有し、DNAを共有した、そのひととの関係性が、そのひとを特別な存在にしているのです。四姉妹の父親は、つまらないひとりの男に過ぎなかったが、それでも四人の姉妹の父親だった。その関係性が育む感情は、理屈ではない。
・海街diary@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-06-18 16:41
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