2015年 06月 05日
チャッピー
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★ネタバレ注意★
ニール・ブロンカンプ監督作品。
なにしろヒュー・ジャックマンの出演作でもあるので、テンションのジャージはいて マックスで劇場に繰り出したというのに、あんまりのれなくてしょんぼりでした。
■第9地区
■エリジウム
2016年、南アフリカのヨハネスブルグ。多発する凶悪犯罪に対抗して、南ア警察は軍事企業テトラバール社が開発した人型ロボットを多数採用し、劇的な成果をあげていた。犯罪率の低下に気をよくした警察から更に追加注文を受け、CEOのミシェル(シガーニー・ウィーヴァー)は笑いが止まらない。ところがテ社にはふたりのアンポンタン・エンジニアがいたために、とんでもない事態が勃発してしまう。
ひとりは、オーストラリアからやってきた軍人崩れのマッチョなエンジニア、ヴィンセント(ヒュー・ジャックマン)。この男、イノベーターというよりどうやら単なる軍事マニア。強力な火力を備えた自作のロボット"ムース"に固執してウザイことこの上なし。ロボットとは言うけれど、ムースにはパイロットの遠隔操作が必要で、しかも警察の仕事で使うには無駄に重装備。当然警察はほしがらない。そんなものにCEOがGOサインを出すわけもなく、コスト削減ばかりを要求されて、絶賛ふてくされ中。警察ロボットの開発者に粘着して足を引っ張ろうと必死。
そしていまひとりは、その警察ロボットの開発者であるディオン(デヴ・パテル)。会社の利益などまるっと度外視、自らの興味の赴くままに、よりによってロボットに自我を持たせる方向で開発を進めてしまった。これまた当然CEOがGOサインを出すわけがなく、あんたねー、軍事企業のCEOにポエムを読むロボットを売り込もうだなんて、頭沸いてんじゃないの?(意訳)とあえなく却下され、あろうことか会社の廃棄ロボットを盗み出すという暴挙に出る。そのあまりにも短絡的な行動には開いた口がふさがらないけど、それ以上にビックリなのは、なんでもかんでもあっさり持ち出されてしまう会社のセキュリティのゆるさです。腐っても軍事企業だというのに。おかげで企業秘密の塊であるロボットは、チンピラギャングに強奪されるはめになり……。
という物語の中で、とにかく一番困ってしまうのが、出てくる人間がバカばかり、ということです。知能が高いはずのエンジニアたちがまず上記のごとくボンクラですし、会社経営者としてはそこそこマトモな女性CEOにしたって、一旦問題が起きてしまえば的確な状況判断ひとつできない。そのほかの登場人物に至っては、知識も教養も品位のかけらもないチンピラギャングばっかだし。そんな中でギャングのひとり、ヨーランディ(ヨ=ランディ・ヴィッサー)だけは、学はなくても地頭はいいかも、と思わせてくれる展開もあったのですが、結局は所詮ギャング、という行動に帰着してしまった。
ディオンやヴィンセントに関しては、本人たちの頭が悪いというより、脚本があまりにもお粗末だったために行動に整合性がなく、賢いふるまいができなかった、という印象です。特にディオンの、自分が開発したロボットプログラムの受け入れを会社に拒否される→会社の備品を持ち逃げする→ギャングに捕まる→ギャングに言われるままにギャングのアジトでインストールする→インストールしたロボットをギャングのアジトに置き去りにして家に帰る、という一連の動きがとにかく信じられへん。(ギャングがディオンをあっさり帰してしまうのも、それはそれでまたわけがわからないのだけれども)。
ディオンの行動に対する苛立ちは、単にそれが愚かだったからということだけではなく、プログラムの開発→実機にインストール→インストールしたロボットの「教育」という流れは、ストーリー上最も重要な意味を持つポイントであるはずなのに、それがないがしろにされてしまった、という苛立ちです。
そして二つめは、ロボットそれ自体に魅力を感じなかったということ。
デザインに独自性がなくてつまらない、というのも大きかったのですが、全体的にその動きがね、ロボットの動きじゃないよのさ。
や、ひょんなことからギャングに育てられることになってしまった自我を持つロボット・チャッピーが、ギャングパパの薫陶よろしく、さまざまなギャングサインをマスターし、上体を大きく揺らしてガニマタで歩いたりするのはよいのです。っていうか、むしろそれは面白い。ここで言っている「ロボットの動きじゃない」っていうのは、そういう意図して狙って作った動きや、(チャッピーに限るけれど)人格を表現しようとした動きじゃなくてですね。
この映画のロボットの動きもパフォーマンス・キャプチャーで俳優の動きをトレースして作ったものだと思うのだけど、だからロボットの動きにまんま人間の動きの特徴が出てしまう。出てしまう、というより、コミカルな要素を取り入れるためか、むしろ意図的に人間の仕草を模した動作が多見されるのだけど、人間の仕草を模したからってロボットとして魅力的な動きにはならない。人間のかわいい仕草はロボットのかわいい仕草ではないし、人間として自然な動きはロボットとして自然な動きではない。
端的な例が、警察ロボットが着弾で吹き飛ばされるシーンです。ほんの一瞬のことだけど、爆風を嫌がってわずかに顔をそむけるのね、ロボットなのに。あれは、ロボットだったら絶対にしない動き、必要のない動き、ロボットという架空のリアリティに明らかな嘘が交じってしまった残念な一瞬で、そんな一瞬が積み重ねられれば、観客の心は冷める。全く七面倒くさい観客だなぁ。
三つめは、ビジュアルデザインに見るべきものがほとんどなかったこと。チャッピーやムースのデザインも凡庸だったけれど、テトラバール社の社屋のインテリアとか、ディオンの部屋の設えとかもね。特にディオンの部屋は手抜きというか描写放棄感が半端なかった。あれだけのものを発明したユニークな天才の部屋なのに、部屋自体には個性のカケラもない。
ただ、全部が全部味気ないデザインだったわけでもなくて、ギャングのアジトの落書きとかファッションとか銃器をパステルカラーに塗装しちゃうセンスとかは大変面白いと思いました。どうして全体をこのセンスで統一できなかったのかなぁ。できていたら『ブレードランナー』になれていたかもしれないのにねぇ。
そして四つめは、テーマに関わる本質的な問題についてです。
チャッピーは自由意思を持ったロボットです。
本来、人間の利便のために、その命令には盲従することが定められていたロボットが、自らの意思を獲得し、自らの判断で行動するようになった時、その存在は人類の幸福に寄与するものになるのか、人類の利益に敵対するものになるのか? 要するに、人知を凌駕する存在となった人工知能は、人類の敵か味方か、という問題。
果たしてテーマはそれなんでしょうか?
だとしたらそんな話、僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう、さんざんやり尽されてしまったものだと思う。しかも、アシモフが『われはロボット』を発表した1950年といえば、人工知能を巡る状況は今日とは比較にならないほど原始的なものであり、そんな条件から展開する大胆なIFだからこそ意味があったはずなのに、今さらそれをやられても。
事の本質がソレではないとしたら、だったらここで実際に描かれていたのは、一体どういうことだったんだろう。それが「如何に」起こったかはとりあえず置いておいて、端的に「何が」起こったかにフォーカスして俯瞰するとこんな感じ。
天才エンジニアが自我を持つ人工知能をプログラミングする。
人工知能を実践に投入することを却下されたエンジニアは、とりあえず試してみたい一心で、バッテリー寿命が来ていることは承知の廃棄品にプログラムをインストールしてしまう。
かくて人工知能は覚醒するが、バッテリーの関係で自分の「余命」は5日間しかないことを知る。
そこで人工知能は「生き延びる」ために、自らの「意識」を別の躯体に移行させることを試みる。
その結果、わずか5日という短期間で意識の本質を解明してしまう。
エンジニアはギャングとムースとの抗争の最中、銃撃され瀕死の重傷を負うが、人工知能の功績により、自らの意識をロボットのボディに移行させることに成功する。
人工知能もまた、同じ技術により、寿命が尽きる前に自らの意識を別のロボットのボディに移行することに成功する。
とりあえずはこれ。とすると、です。この中でほんとに重要な要素って、「人工知能の開発」でしょうか、それとも「意識の本質の解明」でしょうか? どう考えても後者だよね。そもそもエンジニアは意識の解明なんて目指していなかった、というか、そんなことが可能だなんて思っていなかったのに、自らの開発した人工知能が自主的に思考した結果、人間にもできなかった難関を突破してしまった。それはやっぱり人工知能だけの手柄ではなく、人間と人工知能のコラボレーションによる勝利の瞬間だったということになります。
そしてその結果、何がもたらされたかというと、単にエンジニアと人工知能がそれぞれの「死」を免れた、というに留まらず、意識を無限にコピーし、移行させることが可能になったということですから、すなわちそれは不老不死であり、それどころか生命の創造ですらある。なんと人類は、ここで一歩新たな階梯を踏み出したことになる。踏み出したその先には何が待っているのか。それは人類に幸福と繁栄を約束するものであるのか。ものすごく壮大なテーマだったわけです。
だけど、実際この映画を観て、ダイレクトにそんな壮大なテーマ性を感じることができたかというと、如何にももどかしいです。だから、テーマは「自我を持った人工知能は、人類の敵か味方か」みたいなところに矮小化されてしまう。
人間が人工知能とコラボすることにより、未だかつて想定すらされていなかった課題をクリアしてしまう、という流れを際立たせるためには、人工知能は文字通り知的な存在でなければならなかったはずで、わずか5日で真に知的な存在として成長するためには、その成長の過程に必然性のある描写が必須だったはずなのに、どう考えてもこの映画には決定的にそれが欠けていたと思う。
だいたい、知性体として白紙であるということと、生命として幼稚であるということは決してイクオルではないはずなのに、起動後のチャッピーの行動を幼児のそれとして描いてみせるのは、単に間違っている以上にあざとくて底が浅い。
逆に、チャッピーを幼児として描くのであれば、本来的には人類を一段階進歩させ得るほどのポテンシャルを持った素材であっても、劣悪な環境や間違った教育の結果、その才能の芽は潰れてしまう、ギャングに「育てられた」人工知能はギャングにしかなれない、という因縁話に落とし込み、チャッピーが持っていたはずの「可能性」と対比させる、というドラマ造りもアリだったかもしれない。なんか、すごく悲しい話になるけど。
だけどまあ、それより何より、そもそも「意識」とは何なのか、記憶や感情や人格との違いは何なのか、それともそれらは同じものであるのか違うのか、いずれにしてもそれらがなぜコンピュータの記憶媒体に保存することが可能なのか、あるいは人間の意識と人工知能の記憶媒体に刻まれたデータとは同じものであるのか違うのか、人間と物質との、天然と人為との境界線は果たしてどこにあるのか、一介の人工知能が如何にしてそれらを解き明かすことができたのか、それらに関する描写がないというより、そもそもそれらについて真面目に考察したのかどうかすらよくわからんという感じがですね、一番モヤッとするのですけど。
あとこれは本質的なことではないけれど、意識をデータ化するための装置っていうのが、チャッピーが独自に製作したものでも改良したものでもなく、ムースを操縦するための脳波感知装置をそのまま使った、っていうのも釈然としなかったです。もしかしたらこれって、実はヴィンセントって単なる軍事オタクなんかじゃなく、物凄いマシンを開発していたんだよ、っていうヒュー・ジャックマンに対する最終フォローだったりするのかしら。
・チャッピー@ぴあ映画生活
ニール・ブロンカンプ監督作品。
なにしろヒュー・ジャックマンの出演作でもあるので、テンション
■第9地区
■エリジウム
2016年、南アフリカのヨハネスブルグ。多発する凶悪犯罪に対抗して、南ア警察は軍事企業テトラバール社が開発した人型ロボットを多数採用し、劇的な成果をあげていた。犯罪率の低下に気をよくした警察から更に追加注文を受け、CEOのミシェル(シガーニー・ウィーヴァー)は笑いが止まらない。ところがテ社にはふたりのアンポンタン・エンジニアがいたために、とんでもない事態が勃発してしまう。
ひとりは、オーストラリアからやってきた軍人崩れのマッチョなエンジニア、ヴィンセント(ヒュー・ジャックマン)。この男、イノベーターというよりどうやら単なる軍事マニア。強力な火力を備えた自作のロボット"ムース"に固執してウザイことこの上なし。ロボットとは言うけれど、ムースにはパイロットの遠隔操作が必要で、しかも警察の仕事で使うには無駄に重装備。当然警察はほしがらない。そんなものにCEOがGOサインを出すわけもなく、コスト削減ばかりを要求されて、絶賛ふてくされ中。警察ロボットの開発者に粘着して足を引っ張ろうと必死。
そしていまひとりは、その警察ロボットの開発者であるディオン(デヴ・パテル)。会社の利益などまるっと度外視、自らの興味の赴くままに、よりによってロボットに自我を持たせる方向で開発を進めてしまった。これまた当然CEOがGOサインを出すわけがなく、あんたねー、軍事企業のCEOにポエムを読むロボットを売り込もうだなんて、頭沸いてんじゃないの?(意訳)とあえなく却下され、あろうことか会社の廃棄ロボットを盗み出すという暴挙に出る。そのあまりにも短絡的な行動には開いた口がふさがらないけど、それ以上にビックリなのは、なんでもかんでもあっさり持ち出されてしまう会社のセキュリティのゆるさです。腐っても軍事企業だというのに。おかげで企業秘密の塊であるロボットは、チンピラギャングに強奪されるはめになり……。
という物語の中で、とにかく一番困ってしまうのが、出てくる人間がバカばかり、ということです。知能が高いはずのエンジニアたちがまず上記のごとくボンクラですし、会社経営者としてはそこそこマトモな女性CEOにしたって、一旦問題が起きてしまえば的確な状況判断ひとつできない。そのほかの登場人物に至っては、知識も教養も品位のかけらもないチンピラギャングばっかだし。そんな中でギャングのひとり、ヨーランディ(ヨ=ランディ・ヴィッサー)だけは、学はなくても地頭はいいかも、と思わせてくれる展開もあったのですが、結局は所詮ギャング、という行動に帰着してしまった。
ディオンやヴィンセントに関しては、本人たちの頭が悪いというより、脚本があまりにもお粗末だったために行動に整合性がなく、賢いふるまいができなかった、という印象です。特にディオンの、自分が開発したロボットプログラムの受け入れを会社に拒否される→会社の備品を持ち逃げする→ギャングに捕まる→ギャングに言われるままにギャングのアジトでインストールする→インストールしたロボットをギャングのアジトに置き去りにして家に帰る、という一連の動きがとにかく信じられへん。(ギャングがディオンをあっさり帰してしまうのも、それはそれでまたわけがわからないのだけれども)。
ディオンの行動に対する苛立ちは、単にそれが愚かだったからということだけではなく、プログラムの開発→実機にインストール→インストールしたロボットの「教育」という流れは、ストーリー上最も重要な意味を持つポイントであるはずなのに、それがないがしろにされてしまった、という苛立ちです。
そして二つめは、ロボットそれ自体に魅力を感じなかったということ。
デザインに独自性がなくてつまらない、というのも大きかったのですが、全体的にその動きがね、ロボットの動きじゃないよのさ。
や、ひょんなことからギャングに育てられることになってしまった自我を持つロボット・チャッピーが、ギャングパパの薫陶よろしく、さまざまなギャングサインをマスターし、上体を大きく揺らしてガニマタで歩いたりするのはよいのです。っていうか、むしろそれは面白い。ここで言っている「ロボットの動きじゃない」っていうのは、そういう意図して狙って作った動きや、(チャッピーに限るけれど)人格を表現しようとした動きじゃなくてですね。
この映画のロボットの動きもパフォーマンス・キャプチャーで俳優の動きをトレースして作ったものだと思うのだけど、だからロボットの動きにまんま人間の動きの特徴が出てしまう。出てしまう、というより、コミカルな要素を取り入れるためか、むしろ意図的に人間の仕草を模した動作が多見されるのだけど、人間の仕草を模したからってロボットとして魅力的な動きにはならない。人間のかわいい仕草はロボットのかわいい仕草ではないし、人間として自然な動きはロボットとして自然な動きではない。
端的な例が、警察ロボットが着弾で吹き飛ばされるシーンです。ほんの一瞬のことだけど、爆風を嫌がってわずかに顔をそむけるのね、ロボットなのに。あれは、ロボットだったら絶対にしない動き、必要のない動き、ロボットという架空のリアリティに明らかな嘘が交じってしまった残念な一瞬で、そんな一瞬が積み重ねられれば、観客の心は冷める。全く七面倒くさい観客だなぁ。
三つめは、ビジュアルデザインに見るべきものがほとんどなかったこと。チャッピーやムースのデザインも凡庸だったけれど、テトラバール社の社屋のインテリアとか、ディオンの部屋の設えとかもね。特にディオンの部屋は手抜きというか描写放棄感が半端なかった。あれだけのものを発明したユニークな天才の部屋なのに、部屋自体には個性のカケラもない。
ただ、全部が全部味気ないデザインだったわけでもなくて、ギャングのアジトの落書きとかファッションとか銃器をパステルカラーに塗装しちゃうセンスとかは大変面白いと思いました。どうして全体をこのセンスで統一できなかったのかなぁ。できていたら『ブレードランナー』になれていたかもしれないのにねぇ。
そして四つめは、テーマに関わる本質的な問題についてです。
チャッピーは自由意思を持ったロボットです。
本来、人間の利便のために、その命令には盲従することが定められていたロボットが、自らの意思を獲得し、自らの判断で行動するようになった時、その存在は人類の幸福に寄与するものになるのか、人類の利益に敵対するものになるのか? 要するに、人知を凌駕する存在となった人工知能は、人類の敵か味方か、という問題。
果たしてテーマはそれなんでしょうか?
だとしたらそんな話、僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう、さんざんやり尽されてしまったものだと思う。しかも、アシモフが『われはロボット』を発表した1950年といえば、人工知能を巡る状況は今日とは比較にならないほど原始的なものであり、そんな条件から展開する大胆なIFだからこそ意味があったはずなのに、今さらそれをやられても。
事の本質がソレではないとしたら、だったらここで実際に描かれていたのは、一体どういうことだったんだろう。それが「如何に」起こったかはとりあえず置いておいて、端的に「何が」起こったかにフォーカスして俯瞰するとこんな感じ。
天才エンジニアが自我を持つ人工知能をプログラミングする。
人工知能を実践に投入することを却下されたエンジニアは、とりあえず試してみたい一心で、バッテリー寿命が来ていることは承知の廃棄品にプログラムをインストールしてしまう。
かくて人工知能は覚醒するが、バッテリーの関係で自分の「余命」は5日間しかないことを知る。
そこで人工知能は「生き延びる」ために、自らの「意識」を別の躯体に移行させることを試みる。
その結果、わずか5日という短期間で意識の本質を解明してしまう。
エンジニアはギャングとムースとの抗争の最中、銃撃され瀕死の重傷を負うが、人工知能の功績により、自らの意識をロボットのボディに移行させることに成功する。
人工知能もまた、同じ技術により、寿命が尽きる前に自らの意識を別のロボットのボディに移行することに成功する。
とりあえずはこれ。とすると、です。この中でほんとに重要な要素って、「人工知能の開発」でしょうか、それとも「意識の本質の解明」でしょうか? どう考えても後者だよね。そもそもエンジニアは意識の解明なんて目指していなかった、というか、そんなことが可能だなんて思っていなかったのに、自らの開発した人工知能が自主的に思考した結果、人間にもできなかった難関を突破してしまった。それはやっぱり人工知能だけの手柄ではなく、人間と人工知能のコラボレーションによる勝利の瞬間だったということになります。
そしてその結果、何がもたらされたかというと、単にエンジニアと人工知能がそれぞれの「死」を免れた、というに留まらず、意識を無限にコピーし、移行させることが可能になったということですから、すなわちそれは不老不死であり、それどころか生命の創造ですらある。なんと人類は、ここで一歩新たな階梯を踏み出したことになる。踏み出したその先には何が待っているのか。それは人類に幸福と繁栄を約束するものであるのか。ものすごく壮大なテーマだったわけです。
だけど、実際この映画を観て、ダイレクトにそんな壮大なテーマ性を感じることができたかというと、如何にももどかしいです。だから、テーマは「自我を持った人工知能は、人類の敵か味方か」みたいなところに矮小化されてしまう。
人間が人工知能とコラボすることにより、未だかつて想定すらされていなかった課題をクリアしてしまう、という流れを際立たせるためには、人工知能は文字通り知的な存在でなければならなかったはずで、わずか5日で真に知的な存在として成長するためには、その成長の過程に必然性のある描写が必須だったはずなのに、どう考えてもこの映画には決定的にそれが欠けていたと思う。
だいたい、知性体として白紙であるということと、生命として幼稚であるということは決してイクオルではないはずなのに、起動後のチャッピーの行動を幼児のそれとして描いてみせるのは、単に間違っている以上にあざとくて底が浅い。
逆に、チャッピーを幼児として描くのであれば、本来的には人類を一段階進歩させ得るほどのポテンシャルを持った素材であっても、劣悪な環境や間違った教育の結果、その才能の芽は潰れてしまう、ギャングに「育てられた」人工知能はギャングにしかなれない、という因縁話に落とし込み、チャッピーが持っていたはずの「可能性」と対比させる、というドラマ造りもアリだったかもしれない。なんか、すごく悲しい話になるけど。
だけどまあ、それより何より、そもそも「意識」とは何なのか、記憶や感情や人格との違いは何なのか、それともそれらは同じものであるのか違うのか、いずれにしてもそれらがなぜコンピュータの記憶媒体に保存することが可能なのか、あるいは人間の意識と人工知能の記憶媒体に刻まれたデータとは同じものであるのか違うのか、人間と物質との、天然と人為との境界線は果たしてどこにあるのか、一介の人工知能が如何にしてそれらを解き明かすことができたのか、それらに関する描写がないというより、そもそもそれらについて真面目に考察したのかどうかすらよくわからんという感じがですね、一番モヤッとするのですけど。
あとこれは本質的なことではないけれど、意識をデータ化するための装置っていうのが、チャッピーが独自に製作したものでも改良したものでもなく、ムースを操縦するための脳波感知装置をそのまま使った、っていうのも釈然としなかったです。もしかしたらこれって、実はヴィンセントって単なる軍事オタクなんかじゃなく、物凄いマシンを開発していたんだよ、っていうヒュー・ジャックマンに対する最終フォローだったりするのかしら。
・チャッピー@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-06-05 19:20
| 映画た行