2015年 03月 08日
おみおくりの作法
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★ネタバレ注意★
ウベルト・パゾリーニ監督のイギリス・イタリア合作映画です。
監督は製作と脚本も兼ねています。
もうね、泣いた、というか哭いた、というかむしろ吼えた。
今年のコヨーテ泣き映画が、こんなダークホースとは。主演、エディ・マーサンだし。マーサンの役、民生委員だし。
ロンドンに暮らすジョン・メイ(エディ・マーサン)の仕事は、孤独死した人の身辺整理と葬儀の手配。その仕事に意義とやりがいを感じ、日々誠実に取り組んできたジョンだったが、予算削減のためオフィスが他地区と統合されることになり、余剰人員として解雇を言い渡されてしまう。そんなかれの最後の仕事は、死後数十日を経て発見されたビリー・ストークという名の老人だった。
ジョンにとってストークは、単に最後に巡り合わせた案件というのみならず、自分のアパートの真向いの住人であったにもかかわらず、生前も知らず、ひとり寂しく死んだことも知らず、腐敗臭が漂い始めるまでその死に気づかなかった、というどうしようもないわだかまりを感じる対象でした。そのため、よりいっそう心をこめてストークという見知らぬ男の人生と向き合うことになります。
死者を弔うということは、その人の生きた軌跡を振り返ることにほかならない。
ストークの事例に至るまでにも、映画は淡々とジョンの仕事ぶりを映し出していくのですが、ジョンは葬儀に参列する人すらいない身寄りのない孤独死した人々のために、かれらが信仰していた宗教を調べ、その宗教に従ったやり方で弔うべく誠心誠意努めています。
ジョンにリストラを言い渡した上司のプラチェット(アンドリュー・バカン)は、そんなジョンのやり方を非効率だと非難します。本来葬儀というものは生きている人のためにやるもので、死んでしまえばあとは本人の与り知るところではないのだし、もっと効率よく処理するべき、なにしろ予算には限りがあるのだから、と。事実、ジョンの後任者である女性は、自分の「担当分」を次々と火葬に処し、かれらの遺灰を生ごみでも捨てるかのように一つの墓穴にまとめて処分してはばかりません。だってそれは別に悪いことではないから。
確かに、少ない市の予算は、苦労して小さな子供を育てている母親にまわすべきだし、将来すばらしいイノベーションを実現するかもしれない若者の教育に割くべきだし、街灯や橋や駅を整備するために使うべきです。どこのだれとも知らない男の(女の、老人の、若者の)たったひとりの参列者も来ないような葬儀に使う余裕なんてない。それは贅沢だし、自己満足に他ならない。
のみならず、「葬儀は生きている人のため」というプラチェットの言い分は、映画の主人公から大事な仕事を奪おうとしている男が、予算削減という本来の目的を糊塗する言い訳として、ペラペラと浅薄に主張するから嘘くさいのであって、たとえばモーガン・フリーマンか誰かが、しみじみと含蓄を込めて語れば、それはそれでひとつの哲学となります。
そうです。葬儀は死者のためのものではなく、残された人のためである。
ある部族の戦士は、戦に出る前に顔にペイントして戦の踊りを踊ります。これから直面する厳しい事態に立ち向かうための儀式です。葬儀もそれと同じかもしれない。愛する人がいなくなってしまったこの恐ろしいほど空っぽの世界で、これからも何とか生きていくために、生き続けるという大変な仕事に立ち向かうために、人は儀式を必要とするのかもしれない。
あるいは、死者に対する後ろめたさを軽減するためのものであるのかもしれない。生前もっと、もっと何か、もっとどうにか、できたことがあったはず。言うべき言葉があったはず。それは死者に対して、どれだけ心を砕き身を粉にして尽くしたとしても、決して避けることのできない悔い。むしろ砕いた心が多ければ多いほど、もっと何か、もっとどうにか、できたことがあったはず、自分は十全ではなかったと、残された者の心を苛む。たったひとつの意地悪、たったひとつの怠慢、たったひとつの我儘、たったひとつの身勝手。相手が生きてさえいれば、いつかは語る言葉もあるが、もう二度と告げる言葉が届かないなら、心に刺さった小さな棘は、決して抜かれることがない。告げる前に、償う前に別れが訪れてしまったら、せめて残された者は、とむらいの儀式を行うことくらいしかできることがない。
精一杯死者を見送ること。それはまさに生きている人のためのもの。
ならばやはり、見送る人のない人のために敢えてとむらいの儀式をすることは、ジョンの上司が言うように、無駄なことでしかないのかもしれない。
だけど、と思うのですね。
映画の冒頭で淡々とただ見せられただけのジョンの仕事ぶり、死者の生前を(手探りで、勝手に)辿り、見当違いの自己満足かもしれないけれど、ジョンにできる精一杯のやり方で、葬儀を執り行うということ、それはその人が、友もなく家族もなく親もなく子もなく、誰一人悲しむ人がない人であったとしても、死ぬまでの日々、その人が生きていた以上、その人にはその人の人生があり、その人生の中で、ささやかな喜びや小さな達成や苦い悔恨や日々の恐怖や絶望や、何よりも(孤独な)生活の営みがあったはず、ということを思い起こさせる。
傍目にはそれは、滑稽だったりみみっちかったり無価値だったりするはずのもので、その人が大事にしていたものも、その人が死んでしまえばゴミでしかなかったりするのだけれど、それでもなお、そこに誰かの手が触れて、そこに誰かの思いが至り、それを誰かが尊重し、そして送ってくれるなら、たとえそれが死者とは何の関係もない、仕事でそれをしているに過ぎない小役人であったとしても、それはやはり、無意味なこととは思えない。
あなたの死を、少なくともジョン・メイは、悲しんでいた。
人にとって死が悲しいのは、死を悲しむ人がいるからです。嘆きの主体の悲しみが死の悲しみに他なりません。だけどこの物語の死の悲しさは、嘆く人がいないという悲しさです。
ほんとうに悲しいのは、深く誰かを悲しませる死だろうか、だれひとり悲しむ人のない死だろうか。
観客は、ジョンの悲しみを手掛かりに、孤独死をとげた人々の死の悲しさを追体験することになる。
冒頭の、まだドラマが始まってすらいない段階で、観客の気持ちはここまで引き込まれてしまう。そんな状態で、観客はジョンの最後の仕事を目撃することになるのです。ただでさえ丹念に心をこめて行われてきた死者の弔いが、より一層真摯に誠実に行われるさまを見守ることになるのです。
ビリー・ストークという、有態に言って箸にも棒にも掛からぬロクデナシの男。軍人としてフォークランドで戦ったこともあるが、つまらない罪で服役したり、ホームレスに身を落としたり。共に暮らした女もいたし、結婚した女だっていたのに、どの女とも生涯を共にすることはできなかった。
だけど、かつて働いていたパン工場の同僚は、ストークの小さな武勇伝を楽しげに語り、ジョンに小さな手土産を持たせる(それは工場の製品である小さなポークパイで、ジョンはありがたく列車の中で空き腹を満たす)。
かつて同棲していたフィッシュ・アンド・チップス屋を営むメアリー(カレン・ドルーリー)は、悪い人じゃなかったの、と懐かしみ、やはりジョンに小さな手土産を持たせる(フィッシュ・アンド・チップスをくれたんだな、と予測したジョンが列車の中で包みを開くと、なんとそれはまるまる一匹の生魚で、料理のできないジョンは自分のキッチンでグリルにしようと試みるが、結局焦がして、いつものツナ缶を食べる)。
かつて兵役を共にした盲目の退役軍人は、フォークランドの戦場でストークが逃げずに踏みとどまってくれたことに感謝し、ジョンにささやかな食事をふるまう(どんな御馳走が、と期待してクロスを取り去れば、そこにあったのはジョンのいつもの食事と同じ、ツナ缶と食パン)。
ストークを収監していた刑務官も、思い出話の代わりにジョンに酒をねだったホームレス仲間の男たちも、自慢にもならないストークの他愛のないエピソードを、やはり楽しげに懐かしげに語って聞かせる。
それだけの男だったが、それなりの男だった。
たいした人生じゃなかったが、何もない人生でもなかった。
そうしてようやく探し当てたストークの娘ケリー(ジョアンヌ・フロガット)は、美しく成長し、引き取り手のない犬たちの世話をしている。きちんと生活している心の優しい娘は、ジョンの誠意を理解し、素直に感謝の気持ちを抱き、もしかしたらそれは好意にすら発展していく感情かもしれないと、観客を、そしてもちろんジョン自身を、大いに期待させてほんのり幸せな気持ちにさせてくれる。ジョンは次にケリーが訪れてくれる時のために、犬の絵がついたマグカップを買う。寂しいかれの部屋には、客用の食器なんてただのひとつもなかったから。
イギリス中を経めぐるストークの人生の軌跡を探る巡礼の旅を終え、ジョンはストークを見送るのに、どんな儀式がふさわしいか考え、それを執り行うために、自分のために買っていた墓所を譲り、丹念に選んだ墓石に銘を刻む。見晴らしのいい墓地の一等地で執り行われた気持ちのいい葬儀には、訃報を伝えられた時は戸惑いを隠せなかった人たちが、なんと大勢参列してくれた。もちろん、メアリーも来た。ケリーも来た。メアリーには娘がいた。それはケリーの腹違いの姉妹だった。その娘も来た、自分の子どもを連れて。それはストークの孫にあたる子どもだ。思いもかけない美しい優しいよい葬儀。
だけどそこに、ジョン・メイの姿はなかった。
ほんとうに悲しいのは、深く誰かを悲しませる死だろうか、だれひとり悲しむ人のない死だろうか。
観客は映画を通して、ジョン・メイの存在を知ってしまった。かれがどんな風に生きてきた人か、それを知ってしまった。われわれはすでに、ジョンの死に対する嘆きの主体になってしまった。葬儀が生きている人のためのものであるのなら、あまりにも孤独なジョンの死と、あまりにも寂しいジョンの葬儀は、辛くてたまらないものになっていたかもしれないけれど、監督はちゃんと、ジョンにも美しいセレモニーを用意してくれた、生きている我々のために。ジョンの葬儀に訪れ、ジョンを見送った、というよりこの場合、ジョンを迎えに来てくれた大勢の人々は、ジョンの人生の軌跡そのものに違いない。
死者を弔うということは、その人の生きた軌跡を振り返ることにほかならない。
・おみおくりの作法@ぴあ映画生活
ウベルト・パゾリーニ監督のイギリス・イタリア合作映画です。
監督は製作と脚本も兼ねています。
もうね、泣いた、というか哭いた、というかむしろ吼えた。
今年のコヨーテ泣き映画が、こんなダークホースとは。主演、エディ・マーサンだし。マーサンの役、民生委員だし。
ロンドンに暮らすジョン・メイ(エディ・マーサン)の仕事は、孤独死した人の身辺整理と葬儀の手配。その仕事に意義とやりがいを感じ、日々誠実に取り組んできたジョンだったが、予算削減のためオフィスが他地区と統合されることになり、余剰人員として解雇を言い渡されてしまう。そんなかれの最後の仕事は、死後数十日を経て発見されたビリー・ストークという名の老人だった。
ジョンにとってストークは、単に最後に巡り合わせた案件というのみならず、自分のアパートの真向いの住人であったにもかかわらず、生前も知らず、ひとり寂しく死んだことも知らず、腐敗臭が漂い始めるまでその死に気づかなかった、というどうしようもないわだかまりを感じる対象でした。そのため、よりいっそう心をこめてストークという見知らぬ男の人生と向き合うことになります。
死者を弔うということは、その人の生きた軌跡を振り返ることにほかならない。
ストークの事例に至るまでにも、映画は淡々とジョンの仕事ぶりを映し出していくのですが、ジョンは葬儀に参列する人すらいない身寄りのない孤独死した人々のために、かれらが信仰していた宗教を調べ、その宗教に従ったやり方で弔うべく誠心誠意努めています。
ジョンにリストラを言い渡した上司のプラチェット(アンドリュー・バカン)は、そんなジョンのやり方を非効率だと非難します。本来葬儀というものは生きている人のためにやるもので、死んでしまえばあとは本人の与り知るところではないのだし、もっと効率よく処理するべき、なにしろ予算には限りがあるのだから、と。事実、ジョンの後任者である女性は、自分の「担当分」を次々と火葬に処し、かれらの遺灰を生ごみでも捨てるかのように一つの墓穴にまとめて処分してはばかりません。だってそれは別に悪いことではないから。
確かに、少ない市の予算は、苦労して小さな子供を育てている母親にまわすべきだし、将来すばらしいイノベーションを実現するかもしれない若者の教育に割くべきだし、街灯や橋や駅を整備するために使うべきです。どこのだれとも知らない男の(女の、老人の、若者の)たったひとりの参列者も来ないような葬儀に使う余裕なんてない。それは贅沢だし、自己満足に他ならない。
のみならず、「葬儀は生きている人のため」というプラチェットの言い分は、映画の主人公から大事な仕事を奪おうとしている男が、予算削減という本来の目的を糊塗する言い訳として、ペラペラと浅薄に主張するから嘘くさいのであって、たとえばモーガン・フリーマンか誰かが、しみじみと含蓄を込めて語れば、それはそれでひとつの哲学となります。
そうです。葬儀は死者のためのものではなく、残された人のためである。
ある部族の戦士は、戦に出る前に顔にペイントして戦の踊りを踊ります。これから直面する厳しい事態に立ち向かうための儀式です。葬儀もそれと同じかもしれない。愛する人がいなくなってしまったこの恐ろしいほど空っぽの世界で、これからも何とか生きていくために、生き続けるという大変な仕事に立ち向かうために、人は儀式を必要とするのかもしれない。
あるいは、死者に対する後ろめたさを軽減するためのものであるのかもしれない。生前もっと、もっと何か、もっとどうにか、できたことがあったはず。言うべき言葉があったはず。それは死者に対して、どれだけ心を砕き身を粉にして尽くしたとしても、決して避けることのできない悔い。むしろ砕いた心が多ければ多いほど、もっと何か、もっとどうにか、できたことがあったはず、自分は十全ではなかったと、残された者の心を苛む。たったひとつの意地悪、たったひとつの怠慢、たったひとつの我儘、たったひとつの身勝手。相手が生きてさえいれば、いつかは語る言葉もあるが、もう二度と告げる言葉が届かないなら、心に刺さった小さな棘は、決して抜かれることがない。告げる前に、償う前に別れが訪れてしまったら、せめて残された者は、とむらいの儀式を行うことくらいしかできることがない。
精一杯死者を見送ること。それはまさに生きている人のためのもの。
ならばやはり、見送る人のない人のために敢えてとむらいの儀式をすることは、ジョンの上司が言うように、無駄なことでしかないのかもしれない。
だけど、と思うのですね。
映画の冒頭で淡々とただ見せられただけのジョンの仕事ぶり、死者の生前を(手探りで、勝手に)辿り、見当違いの自己満足かもしれないけれど、ジョンにできる精一杯のやり方で、葬儀を執り行うということ、それはその人が、友もなく家族もなく親もなく子もなく、誰一人悲しむ人がない人であったとしても、死ぬまでの日々、その人が生きていた以上、その人にはその人の人生があり、その人生の中で、ささやかな喜びや小さな達成や苦い悔恨や日々の恐怖や絶望や、何よりも(孤独な)生活の営みがあったはず、ということを思い起こさせる。
傍目にはそれは、滑稽だったりみみっちかったり無価値だったりするはずのもので、その人が大事にしていたものも、その人が死んでしまえばゴミでしかなかったりするのだけれど、それでもなお、そこに誰かの手が触れて、そこに誰かの思いが至り、それを誰かが尊重し、そして送ってくれるなら、たとえそれが死者とは何の関係もない、仕事でそれをしているに過ぎない小役人であったとしても、それはやはり、無意味なこととは思えない。
あなたの死を、少なくともジョン・メイは、悲しんでいた。
人にとって死が悲しいのは、死を悲しむ人がいるからです。嘆きの主体の悲しみが死の悲しみに他なりません。だけどこの物語の死の悲しさは、嘆く人がいないという悲しさです。
ほんとうに悲しいのは、深く誰かを悲しませる死だろうか、だれひとり悲しむ人のない死だろうか。
観客は、ジョンの悲しみを手掛かりに、孤独死をとげた人々の死の悲しさを追体験することになる。
冒頭の、まだドラマが始まってすらいない段階で、観客の気持ちはここまで引き込まれてしまう。そんな状態で、観客はジョンの最後の仕事を目撃することになるのです。ただでさえ丹念に心をこめて行われてきた死者の弔いが、より一層真摯に誠実に行われるさまを見守ることになるのです。
ビリー・ストークという、有態に言って箸にも棒にも掛からぬロクデナシの男。軍人としてフォークランドで戦ったこともあるが、つまらない罪で服役したり、ホームレスに身を落としたり。共に暮らした女もいたし、結婚した女だっていたのに、どの女とも生涯を共にすることはできなかった。
だけど、かつて働いていたパン工場の同僚は、ストークの小さな武勇伝を楽しげに語り、ジョンに小さな手土産を持たせる(それは工場の製品である小さなポークパイで、ジョンはありがたく列車の中で空き腹を満たす)。
かつて同棲していたフィッシュ・アンド・チップス屋を営むメアリー(カレン・ドルーリー)は、悪い人じゃなかったの、と懐かしみ、やはりジョンに小さな手土産を持たせる(フィッシュ・アンド・チップスをくれたんだな、と予測したジョンが列車の中で包みを開くと、なんとそれはまるまる一匹の生魚で、料理のできないジョンは自分のキッチンでグリルにしようと試みるが、結局焦がして、いつものツナ缶を食べる)。
かつて兵役を共にした盲目の退役軍人は、フォークランドの戦場でストークが逃げずに踏みとどまってくれたことに感謝し、ジョンにささやかな食事をふるまう(どんな御馳走が、と期待してクロスを取り去れば、そこにあったのはジョンのいつもの食事と同じ、ツナ缶と食パン)。
ストークを収監していた刑務官も、思い出話の代わりにジョンに酒をねだったホームレス仲間の男たちも、自慢にもならないストークの他愛のないエピソードを、やはり楽しげに懐かしげに語って聞かせる。
それだけの男だったが、それなりの男だった。
たいした人生じゃなかったが、何もない人生でもなかった。
そうしてようやく探し当てたストークの娘ケリー(ジョアンヌ・フロガット)は、美しく成長し、引き取り手のない犬たちの世話をしている。きちんと生活している心の優しい娘は、ジョンの誠意を理解し、素直に感謝の気持ちを抱き、もしかしたらそれは好意にすら発展していく感情かもしれないと、観客を、そしてもちろんジョン自身を、大いに期待させてほんのり幸せな気持ちにさせてくれる。ジョンは次にケリーが訪れてくれる時のために、犬の絵がついたマグカップを買う。寂しいかれの部屋には、客用の食器なんてただのひとつもなかったから。
イギリス中を経めぐるストークの人生の軌跡を探る巡礼の旅を終え、ジョンはストークを見送るのに、どんな儀式がふさわしいか考え、それを執り行うために、自分のために買っていた墓所を譲り、丹念に選んだ墓石に銘を刻む。見晴らしのいい墓地の一等地で執り行われた気持ちのいい葬儀には、訃報を伝えられた時は戸惑いを隠せなかった人たちが、なんと大勢参列してくれた。もちろん、メアリーも来た。ケリーも来た。メアリーには娘がいた。それはケリーの腹違いの姉妹だった。その娘も来た、自分の子どもを連れて。それはストークの孫にあたる子どもだ。思いもかけない美しい優しいよい葬儀。
だけどそこに、ジョン・メイの姿はなかった。
ほんとうに悲しいのは、深く誰かを悲しませる死だろうか、だれひとり悲しむ人のない死だろうか。
観客は映画を通して、ジョン・メイの存在を知ってしまった。かれがどんな風に生きてきた人か、それを知ってしまった。われわれはすでに、ジョンの死に対する嘆きの主体になってしまった。葬儀が生きている人のためのものであるのなら、あまりにも孤独なジョンの死と、あまりにも寂しいジョンの葬儀は、辛くてたまらないものになっていたかもしれないけれど、監督はちゃんと、ジョンにも美しいセレモニーを用意してくれた、生きている我々のために。ジョンの葬儀に訪れ、ジョンを見送った、というよりこの場合、ジョンを迎えに来てくれた大勢の人々は、ジョンの人生の軌跡そのものに違いない。
死者を弔うということは、その人の生きた軌跡を振り返ることにほかならない。
・おみおくりの作法@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2015-03-08 17:52
| 映画あ行