2014年 09月 11日
アイ・フランケンシュタイン
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★ネタバレ注意★
久しぶりのアーロン・エッカート主演作☆
スチュアート・ビーティー監督のアメリカ映画です。
アメリカ映画なんだけど、主要キャストでアメリカ人はエッカートだけみたい。あとは、イギリス人のビル・ナイと、ほかはなぜかみんなオーストラリア人。
フランケンシュタインのお話ですが、アーロン・エッカートのイメージからしてフランケンシュタイン博士の役かと思ったら、フランケンシュタインのモンスターの方だったのでビックリです。誰だかわかんないくらい特殊メイクなんかされてたらどうしようと心配だったのですが、結果は大丈夫、ちょっと顔に傷のあるひと、というレベルです。ボルトが刺さってたりとかしません。そんなに顔色も悪くないし。普通にハンサムです。フランケンシュタイン博士、グッジョブです!
地上では何千年もの長きに渡り天使の化身ガーゴイルと悪魔とが覇権をかけて戦っていた。悪魔の王子ナベリアス(ビル・ナイ)は、来たるべき復活の時に備え、何万体もの人類の死体を保存していた。魂のない空っぽの人体を依代として地獄に堕ちた悪魔の魂を呼び戻すためである。そのためには死体を蘇らせる必要があったが、そこでナベリアスが目をつけたのが、フランケンシュタイン博士によって創り出されたモンスター(アーロン・エッカート)だった。悪魔によって拉致されようとしたモンスターは、たまたま気づいたガーゴイルに助け出される。ガーゴイルの女王リオノア(ミランダ・オットー)はモンスターにアダムという名を与えるが、結局アダムはガーゴイルの側について戦うことはせず、ひとりで生きていく選択をする。それから200年、密かに生き続けていたアダムの所在が、ついに悪魔に知られてしまう。かくて再び戦闘の火蓋が切って落とされた。
というお話は、ゴシックホラーではなくダークファンタジー。『アンダーワールド』シリーズのケヴィン・グレイヴォーによるグラフィック・ノベルが原作なんだそうです。ミランダ・オットー以外のオージー組は、死体を蘇生させるためにナベリアスが雇った生化学者のテラ・ウェイドを演じたイヴォンヌ・ストラホフスキーと、リオノアの腹心の部下ギデオンを演じたジェイ・コートニー。
お話が面白いかというと、まあ、面白くはないんですが(身も蓋もない)、アーロン・エッカートのプロモーションビデオだと思うと、大いにテンションが上がる仕上がりですので、ファンの方は劇場へGO!です。
だけど、ミランダ・オットーが残念なの。だいたいキャラクターが、おおいくさの一方を率いて戦うトップという割には、何の戦略も持たず、場当たり的で、頭が悪すぎる上に、悪魔の敵なら善人かと思えば、一概にそうとも言い切れず、結果、聡明でもなければ善良でもないという、あんまりオトモダチにはなりたくない人物造形になってしまっています。だったら天使っぽく外見だけでも神々しいならまだしも、ヘアメイクがださすぎ。ドレスが安っぽすぎ。場末のスナックのママみたい。それならせめて人間態を脱して本性を現した姿くらいステキであってほしいのに、ガーゴイルの造形は洗練からも独創からもほど遠く、グロテスクにもなりきれないチープな感じ。もしかしてスチュアート・ビーティー監督って美的センスがイマイチのひとなの?
この物語の独自性というのはやはり、ヒーローがフランケンシュタインのモンスターであるということだろうと思います。ともすれば、これって別にフランケンシュタインのモンスターでなくてもいいんじゃない? という疑問を感じるストーリーではあるんだけれど、いやいやコアになる部分でその必然性はちゃんとあるわけで、ダメなのはその必然性をもっとしっかり前面に押し出さなかったことです。
結局、この話のキモは、人工的に創られたクリーチャーには「魂」がないということです。魂がないというそのことで、モンスター・アダムは深い悲しみと圧倒的な孤独の中、どうしようもない劣等感と自己嫌悪と憎しみの泥沼でもがき苦しまなければならなかった。ほんとうは、フランケンシュタイン博士のことが好きだった。だから愛してほしかった。博士の奥さんを殺したりなどしたくなかった。憎みたくなどなかったのに、憎まれるから憎まざるを得なくなった。誰かを愛したかった。愛されたかった。話しかけたかった。答えてほしかった。手をとりたかった。触れてほしかった。抱きしめたかった。抱きしめられていたかった。だけど魂のないモンスターは、ITと呼ばれ、クリーチャーと呼ばれ、恐れられ、忌み嫌われ、ひっそりと生きていくしかなかった。
その悲しみは、想像するに難くないです。ひとつにはやはり、演じたのがアーロン・エッカートであったということが大きいと思います。アダムは己の感情を吐露するような台詞を口にするわけではありませんが、それでもかれの存在からは、かれの悲しみが伝わってくる。魂のないクリーチャーの、だったら何がそれを悲しんでいるのだろう。魂のないクリーチャーが、悲しみという感情を持ち得るのはなぜだろう。
なぜならば、魂がないと思われていたアダムは、実は魂を持っていたからです。
それこそが本当のキモなんだと思います。ナベリアスは魂のないアダムの身体を器として悪魔の魂を入れこもうとして失敗します。すでに魂を持っている器の中にほかの魂を入れることはできないからです。映画ではそこんとこ単に、サプラァ~イズ! タラ~♪ 的な描かれ方しかされていない印象なんだけど、たぶんそここそもっとみっちり描くべきところだったんじゃないのかな。
そもそもアダムは「いつ」魂を獲得したのか?
「なぜ」魂を持つことができたのか?
作劇上、アダムに「魂込め」がなされた瞬間として、4つのポイントが考えられます。
流れとして一番自然なのは、リオノアとの出会いです。
ひとがひととして存在する基本である名前、そもそもモンスターはそれを持っていなかった、その名無しのモンスターにアダムという名を与えたのがリオノアです。『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンとミリエル司教の出会いのように、己を卑しい存在と貶めて生きてきた者が、より高次の魂に触れた瞬間、何かがスパークするように奇跡が起きる。アダムがアダムという名を得た瞬間は、アダムが魂を獲得した瞬間としてふさわしかったのではないかと思います。だけど実際は残念ながら、先述した通り、リオノアのキャラクターとしての力量はミリエル司教には及びもつきません。だれかの生きざまを変えられるほどの強さも叡智も気高さもなかった。せっかく名前が与えられたというのに、そこで感動が生まれることはありませんでした。
ふたつめは、ギデオンとの相克です。
ギデオンは最初からアダムの存在を疎ましがり、見下し、決して「彼」とは言わなかった。頑なにクリーチャーと言い、ITと呼び続けた。しかしアダムとギデオンは、共に同じサイドに立ち悪魔と戦う盟友になることだってできたはずなのです。ギデオンさえアダムの存在を認めることができれば、孤独なアダムはギデオンのために命を賭けて戦うことだって厭わなかったかもしれない。しかしこれまた残念なことに、ギデオンは最後までアダムを認めようとはせず、それどころかアダムを抹殺しようとして逆に返り討ちにあってしまうという展開となりました。
三つめはテラ・ウェイドとの交流です。
ナベリアスに騙されて実験に加担させられていたテラは、アダムの証言から悪魔の正体を知り、アダムに傾倒していきます。これぞハリウッド映画の王道展開。美しい科学者が(傷はあるけど)美しいモンスターと出会い、逃避行を共にするうち、やがて触れあって、美しい夜が明けると、なんとアダムには美しい魂が宿っていたのです! というのはわかりやすいです。ただここもまた残念なことに、アダムとテラとの交流は、強いて言えば「今後の健闘に期待」というあたりで終わってしまった印象です。何かを変えられるほどの深みには達しなかった。
では四つ目。ほんとうはこれこそが唯一正しい解なんだと思うのだけど、フランケンシュタインのモンスターに魂を込めることができるのは、フランケンシュタイン以外にいなかったのでは? 生みの親であるフランケンシュタイン本人が、子であるアダムを恐れず愛することができていたら、アダムは孤独ではなく、憎むこともなく、憎まれることもなかったのではないか? 普通に生まれた子供が、親の愛情の下で、人間として形成されていくことを思えば、アダムとてフランケンシュタインの愛情の下で人格を育んでいくことができていたら、いつかは魂だって手に入れていたかもしれない。
この物語って何も時代背景を現代に拘る必要があるとは思えないので(なにしろモノが天使VS悪魔ですもん、いつの時代も変わらず同じようなことやってたと思うのよ)、フランケンシュタインの時代のお話ということにしておけば、ナベリアスの計画に必要なのは、アダムではなく博士本人だったかもしれないし、そうすると、アダムは全身全霊でもって父である博士を守るために戦ったでしょう。熱い物語になったはずだよ。
ただ、そうすると、この映画の博士ではちょっと役者不足かなぁ、というか、や、役者さんのスキルを云々するほどこの映画では出番がありませんのでわかりませんが、役割の割には知名度が物足りないかなぁ、とは思います。ヴィクター・フランケンシュタインを演じたのはエイデン・ヤングというひとで、フィルモグラフィーを見ると『ハーモニー』とか『クロコダイル・ハンター ザ・ムービー』なんかにも出演していらっしゃるようですが、カナダの役者さんらしいです。この人もまたアメリカ人じゃないのね。どうせアメリカ人じゃない役者を起用するなら、ここはやはり、すでにフランケンシュタイン博士を演じた実績のあるトーマス・クレッチマンでしょう! や、完全にわたしのシュミの話ですけれども。
ええと、しかし実際の物語は、4つのポイントのどの時点でも魂が込められたわけではありません。だとすると考えられるのは、アダムは最初から魂を持っていた、ということです。フランケンシュタイン博士、半端ねぇ! 魂のある人間を創り出すとはもはや神の領域。神の領域に挑んだ人間となると、神話のスケール。プロメテウス! うーん、やっぱりエイデン・ヤングじゃ物足りないかも。
この映画ではナベリアスの試みは失敗に終わりますが、ナベリアスの下で働いていたカジモドみたいな科学者(?)がフランケンシュタイン博士が残した実験データを入れたコンピュータメモリを持ち逃げしていたり、ナベリアスに相当する悪魔の王子って実は72人もいるとかいう話(ソロモン72柱)だったり、なによりアダムが、これからは人類のために戦うぜ! とか決意表明していたりするので、もしかしたら続編の製作が予定されてたりするのかしら。
・アイ・フランケンシュタイン@ぴあ映画生活
久しぶりのアーロン・エッカート主演作☆
スチュアート・ビーティー監督のアメリカ映画です。
アメリカ映画なんだけど、主要キャストでアメリカ人はエッカートだけみたい。あとは、イギリス人のビル・ナイと、ほかはなぜかみんなオーストラリア人。
フランケンシュタインのお話ですが、アーロン・エッカートのイメージからしてフランケンシュタイン博士の役かと思ったら、フランケンシュタインのモンスターの方だったのでビックリです。誰だかわかんないくらい特殊メイクなんかされてたらどうしようと心配だったのですが、結果は大丈夫、ちょっと顔に傷のあるひと、というレベルです。ボルトが刺さってたりとかしません。そんなに顔色も悪くないし。普通にハンサムです。フランケンシュタイン博士、グッジョブです!
地上では何千年もの長きに渡り天使の化身ガーゴイルと悪魔とが覇権をかけて戦っていた。悪魔の王子ナベリアス(ビル・ナイ)は、来たるべき復活の時に備え、何万体もの人類の死体を保存していた。魂のない空っぽの人体を依代として地獄に堕ちた悪魔の魂を呼び戻すためである。そのためには死体を蘇らせる必要があったが、そこでナベリアスが目をつけたのが、フランケンシュタイン博士によって創り出されたモンスター(アーロン・エッカート)だった。悪魔によって拉致されようとしたモンスターは、たまたま気づいたガーゴイルに助け出される。ガーゴイルの女王リオノア(ミランダ・オットー)はモンスターにアダムという名を与えるが、結局アダムはガーゴイルの側について戦うことはせず、ひとりで生きていく選択をする。それから200年、密かに生き続けていたアダムの所在が、ついに悪魔に知られてしまう。かくて再び戦闘の火蓋が切って落とされた。
というお話は、ゴシックホラーではなくダークファンタジー。『アンダーワールド』シリーズのケヴィン・グレイヴォーによるグラフィック・ノベルが原作なんだそうです。ミランダ・オットー以外のオージー組は、死体を蘇生させるためにナベリアスが雇った生化学者のテラ・ウェイドを演じたイヴォンヌ・ストラホフスキーと、リオノアの腹心の部下ギデオンを演じたジェイ・コートニー。
お話が面白いかというと、まあ、面白くはないんですが(身も蓋もない)、アーロン・エッカートのプロモーションビデオだと思うと、大いにテンションが上がる仕上がりですので、ファンの方は劇場へGO!です。
だけど、ミランダ・オットーが残念なの。だいたいキャラクターが、おおいくさの一方を率いて戦うトップという割には、何の戦略も持たず、場当たり的で、頭が悪すぎる上に、悪魔の敵なら善人かと思えば、一概にそうとも言い切れず、結果、聡明でもなければ善良でもないという、あんまりオトモダチにはなりたくない人物造形になってしまっています。だったら天使っぽく外見だけでも神々しいならまだしも、ヘアメイクがださすぎ。ドレスが安っぽすぎ。場末のスナックのママみたい。それならせめて人間態を脱して本性を現した姿くらいステキであってほしいのに、ガーゴイルの造形は洗練からも独創からもほど遠く、グロテスクにもなりきれないチープな感じ。もしかしてスチュアート・ビーティー監督って美的センスがイマイチのひとなの?
この物語の独自性というのはやはり、ヒーローがフランケンシュタインのモンスターであるということだろうと思います。ともすれば、これって別にフランケンシュタインのモンスターでなくてもいいんじゃない? という疑問を感じるストーリーではあるんだけれど、いやいやコアになる部分でその必然性はちゃんとあるわけで、ダメなのはその必然性をもっとしっかり前面に押し出さなかったことです。
結局、この話のキモは、人工的に創られたクリーチャーには「魂」がないということです。魂がないというそのことで、モンスター・アダムは深い悲しみと圧倒的な孤独の中、どうしようもない劣等感と自己嫌悪と憎しみの泥沼でもがき苦しまなければならなかった。ほんとうは、フランケンシュタイン博士のことが好きだった。だから愛してほしかった。博士の奥さんを殺したりなどしたくなかった。憎みたくなどなかったのに、憎まれるから憎まざるを得なくなった。誰かを愛したかった。愛されたかった。話しかけたかった。答えてほしかった。手をとりたかった。触れてほしかった。抱きしめたかった。抱きしめられていたかった。だけど魂のないモンスターは、ITと呼ばれ、クリーチャーと呼ばれ、恐れられ、忌み嫌われ、ひっそりと生きていくしかなかった。
その悲しみは、想像するに難くないです。ひとつにはやはり、演じたのがアーロン・エッカートであったということが大きいと思います。アダムは己の感情を吐露するような台詞を口にするわけではありませんが、それでもかれの存在からは、かれの悲しみが伝わってくる。魂のないクリーチャーの、だったら何がそれを悲しんでいるのだろう。魂のないクリーチャーが、悲しみという感情を持ち得るのはなぜだろう。
なぜならば、魂がないと思われていたアダムは、実は魂を持っていたからです。
それこそが本当のキモなんだと思います。ナベリアスは魂のないアダムの身体を器として悪魔の魂を入れこもうとして失敗します。すでに魂を持っている器の中にほかの魂を入れることはできないからです。映画ではそこんとこ単に、サプラァ~イズ! タラ~♪ 的な描かれ方しかされていない印象なんだけど、たぶんそここそもっとみっちり描くべきところだったんじゃないのかな。
そもそもアダムは「いつ」魂を獲得したのか?
「なぜ」魂を持つことができたのか?
作劇上、アダムに「魂込め」がなされた瞬間として、4つのポイントが考えられます。
流れとして一番自然なのは、リオノアとの出会いです。
ひとがひととして存在する基本である名前、そもそもモンスターはそれを持っていなかった、その名無しのモンスターにアダムという名を与えたのがリオノアです。『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンとミリエル司教の出会いのように、己を卑しい存在と貶めて生きてきた者が、より高次の魂に触れた瞬間、何かがスパークするように奇跡が起きる。アダムがアダムという名を得た瞬間は、アダムが魂を獲得した瞬間としてふさわしかったのではないかと思います。だけど実際は残念ながら、先述した通り、リオノアのキャラクターとしての力量はミリエル司教には及びもつきません。だれかの生きざまを変えられるほどの強さも叡智も気高さもなかった。せっかく名前が与えられたというのに、そこで感動が生まれることはありませんでした。
ふたつめは、ギデオンとの相克です。
ギデオンは最初からアダムの存在を疎ましがり、見下し、決して「彼」とは言わなかった。頑なにクリーチャーと言い、ITと呼び続けた。しかしアダムとギデオンは、共に同じサイドに立ち悪魔と戦う盟友になることだってできたはずなのです。ギデオンさえアダムの存在を認めることができれば、孤独なアダムはギデオンのために命を賭けて戦うことだって厭わなかったかもしれない。しかしこれまた残念なことに、ギデオンは最後までアダムを認めようとはせず、それどころかアダムを抹殺しようとして逆に返り討ちにあってしまうという展開となりました。
三つめはテラ・ウェイドとの交流です。
ナベリアスに騙されて実験に加担させられていたテラは、アダムの証言から悪魔の正体を知り、アダムに傾倒していきます。これぞハリウッド映画の王道展開。美しい科学者が(傷はあるけど)美しいモンスターと出会い、逃避行を共にするうち、やがて触れあって、美しい夜が明けると、なんとアダムには美しい魂が宿っていたのです! というのはわかりやすいです。ただここもまた残念なことに、アダムとテラとの交流は、強いて言えば「今後の健闘に期待」というあたりで終わってしまった印象です。何かを変えられるほどの深みには達しなかった。
では四つ目。ほんとうはこれこそが唯一正しい解なんだと思うのだけど、フランケンシュタインのモンスターに魂を込めることができるのは、フランケンシュタイン以外にいなかったのでは? 生みの親であるフランケンシュタイン本人が、子であるアダムを恐れず愛することができていたら、アダムは孤独ではなく、憎むこともなく、憎まれることもなかったのではないか? 普通に生まれた子供が、親の愛情の下で、人間として形成されていくことを思えば、アダムとてフランケンシュタインの愛情の下で人格を育んでいくことができていたら、いつかは魂だって手に入れていたかもしれない。
この物語って何も時代背景を現代に拘る必要があるとは思えないので(なにしろモノが天使VS悪魔ですもん、いつの時代も変わらず同じようなことやってたと思うのよ)、フランケンシュタインの時代のお話ということにしておけば、ナベリアスの計画に必要なのは、アダムではなく博士本人だったかもしれないし、そうすると、アダムは全身全霊でもって父である博士を守るために戦ったでしょう。熱い物語になったはずだよ。
ただ、そうすると、この映画の博士ではちょっと役者不足かなぁ、というか、や、役者さんのスキルを云々するほどこの映画では出番がありませんのでわかりませんが、役割の割には知名度が物足りないかなぁ、とは思います。ヴィクター・フランケンシュタインを演じたのはエイデン・ヤングというひとで、フィルモグラフィーを見ると『ハーモニー』とか『クロコダイル・ハンター ザ・ムービー』なんかにも出演していらっしゃるようですが、カナダの役者さんらしいです。この人もまたアメリカ人じゃないのね。どうせアメリカ人じゃない役者を起用するなら、ここはやはり、すでにフランケンシュタイン博士を演じた実績のあるトーマス・クレッチマンでしょう! や、完全にわたしのシュミの話ですけれども。
ええと、しかし実際の物語は、4つのポイントのどの時点でも魂が込められたわけではありません。だとすると考えられるのは、アダムは最初から魂を持っていた、ということです。フランケンシュタイン博士、半端ねぇ! 魂のある人間を創り出すとはもはや神の領域。神の領域に挑んだ人間となると、神話のスケール。プロメテウス! うーん、やっぱりエイデン・ヤングじゃ物足りないかも。
この映画ではナベリアスの試みは失敗に終わりますが、ナベリアスの下で働いていたカジモドみたいな科学者(?)がフランケンシュタイン博士が残した実験データを入れたコンピュータメモリを持ち逃げしていたり、ナベリアスに相当する悪魔の王子って実は72人もいるとかいう話(ソロモン72柱)だったり、なによりアダムが、これからは人類のために戦うぜ! とか決意表明していたりするので、もしかしたら続編の製作が予定されてたりするのかしら。
・アイ・フランケンシュタイン@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-09-11 21:08
| 映画あ行